穴に落ちたとき助けてもらえますか?

いろんな人が、いろんな価値観で、いろんな要素を切り出して優劣をつけたり、優越感に浸ったり劣等感に苛まれたりしてますよね。

子供の頃、ド田舎の貧乏人の家で生まれ育って普通〜にその地域の子供が進学する公立学校に進学したクチなので、べつにそこまで家柄や金持ち度合い、勤め先の立派さや学歴といったものの差を感じることはありませんでした。

でも、というかだからこそ、大学に進学して東京に出てきて、まさに格差演出とステータスによる差別化こそが生き甲斐!というノリの人たちと出会って、ある意味、面食らいました。
(またその前段階として、ド田舎の公立学校なのに、高校受験など能力差がいよいよ表面化してくる時期になると、成績のいい面々がエリート面して成績の悪い同級生たちを見下すようになったりするのも経験し、衝撃的でした)

で。

私がそういうことに振り回されそうになったとき、いつも思うことがあります。

それがこのブログ記事のタイトル。

見知らぬ土地で、一人で道を歩いていて、穴に落ちてしまった場合。
(べつに穴に落ちるでなくとも、怪我をして他人の助けが必要とかならなんでもいいんですけど)

周りに知り合いもいない。携帯電話のような通信機器もお金も、身分証すら持ってないとする。
自力ではどうやっても助かりようがないと仮定する。必ず、他人の助けを借りなければいけないとする。

となれば、たまに偶然通りかかる見知らぬ人にどうにかこうにかアピールして、自分を助けるよう協力することに合意してもらわなきゃいけないわけですよね。
また、いつ通りかかるかわからない人を死なずに発狂せずに待つだけの体力と精神力も必要になる。

いざ人が通りかかったとしても、自分のコミュニケーション能力や外見の印象、もっといえば霊的に放っているオーラと呼ばれるようなエネルギー次第で、その人からそっぽ向かれるかもしれない。

その人が善人なら助けてもらえるけど、悪人……とまでいくかどうかは別として、そこまで恩情に厚い人じゃなかったら説得できない可能性もある。

言葉が通じない場合だってある。でもそれでも、言葉は通じなくても気持ちが通じて助けてもらえる人もいれば、言葉が通じたところで相手を振り向かせることができずに放っておかれる人もいる。

そういう状況では、自分の家柄だの、持っている資産だの、学歴だの、社会的な肩書きだのは、すべて役に立たなくなるわけです。

もし「俺を助けてくれたら後で金をやる、お前を良い待遇で雇ってやるetc」と相手を説得しようと試みたところで、穴に落ちているその現場ではそれが嘘か本当かも証明できないわけで。

持っているのは、自分の肉体を含めたエネルギー体そのものだけ。
(服は着てるかもしれないけど)実質的に、裸一貫の自分しか、そこにはないわけです。

そのとき自分は、見知らぬ、言葉が通じるかどうかわからない、優しい親切な人かどうかもわからない誰かが通りかかったとき、助けてくれるよう相手を説得できるだろうか、と考えるんです。

実際、どんな人が通りかかるか、あるいは誰も通りかからないか、自分の体力精神力がどこまで持つかで助かるかどうか確実はことは言えませんが、少なくとも、

・人として本能的に、会った瞬間に「あ、コイツは信頼に値するな」「できれば助けてやりたいな」と相手に思ってもらえるエネルギーの有様かどうか

・「つかみはOK」とばかりに、自分に興味のない相手をいかに振り向かせるかの引き出しをいくつ持っているか&すぐ使えるだけのパフォーマンス能力を備えているか

・相手の反応をみて即座に、相手が何に興味がありどんな価値観で物事を判断する人間かがピンとくるか。ピンときたら、相手が興味を持つようなネタを瞬時に繰り出せるか

・相手が自分に注意を向けてくれたら、いかに愛想をつかせずに「よし、助けてやろう」と思わせるところまでアピールできるか、コミュニケーション能力(言葉が通じない場合はボディランゲージ能力)、交渉能力があるか(そのための持ちネタをどれくらい仕込めているか)

そういったことを考えます。

そしてこれらは、なにも見知らぬ土地で穴に落ちたときだけ発揮するものではなくて、日頃、何気ない毎日のなかで「いつそうなっても大丈夫かどうか」チェックし続けるものだと捉えています。

つまり、必要が生じたときだけ慌てて営業スマイルでニコニコして表面を取り繕うのではなくて、常に常にいつもいつも、身構えるでもなく普通にそれらを満たす有様で生きていられるか、を考えるわけです。

というか、そう肝に銘じて生きてるようなところがあります。

もちろん、肩書きやステータス、お金の資産といったものの価値を全くないと言ったり、貶めるつもりはありません。
それらにはそれ相応の、使い勝手というかが、ちゃんとあると認識しています。必要であればそういう項目を満たせるようにしておくというのも、人間として生きるうえで大事なことだという捉え方でいます。

ただ、それらが全然なくても、世の中をどうにかして渡っていけるという自信は、ないよりは持っていたほうがいいだろうし、それはどれだけ家柄やら資産やら学歴やらのステータス各種がある人でも同じことだと思うのです。

さて、長くなりましたが。

あなたは穴に落ちたとき、見知らぬ人から助けてもらえるだけの人間であることができていますか?

なんちって!なんちって!!

P.S

自画自賛というわけでもないのだけれど私、ある程度は助けてもらえる自信があります。

現に先日、(自分がヒーリングをかけても『しかし不思議な力でかきけされた』扱いで効かない)足首に蜂窩織炎を煩い、骨折より痛い痛風よりもさらに激痛という状態で病院に行ったことがありました。
杖(松葉杖じゃなくて普通のステッキで1本だったのでそこまでラクに歩けない)をついて片足でケンケンしながらどうにか病院の入り口まで来たとき、杖が滑って思い切り転倒してしまいました。

出産時の妊婦にも負けない断末魔の絶叫と共にうずくまり、心のなかで「助けて」と念じる(≒他人に助けてもらうことを自分に許可する)と、人通りがあったわけでもないのに偶然、どこからともなく1人の女性が駆け寄ってきて

「大丈夫ですか?病院に行くところですか?ではここで待っていてください。今すぐ受付の人に事情を話してなんとかしてもらいます」

と親切な対応をしてくれました。

すぐに病院の看護士さんが車椅子を持って駆けつけてくださり、ある意味、特別待遇のようにして病院へご案内。
(でも待合室では、たかだか足首が骨折以上に痛いくらいであとはなんともない若造が何を車椅子なんて横着してんだ、というくらい、凄絶な症状のお年寄りが多くて情けなくも恥ずかしくもなりましたが)

それで、自分はなんだかんだいって、まだ、窮地に陥ったとき、助けてもらえる余地のある命なんだな、と腹を括るしかなかったという次第。

(まぁ、出来事としてはその程度なのですが、実は私は地味に、もうこれ以上生きていくことについてほとんど絶望していて、なんならこの病気を機にポックリ逝っちゃってもいいやくらいに思っていたのです。

が、助けてもらった以上、『これ以上、生きるつもりがないんです』とは言いづらくなってしまい。

おまけに病院で受けた血液検査では、健康診断で検査する項目は一通り調べてもらったのですが、どこも異常なし。ヒーラーで独立してから数年来、健康診断なんて受けずにほったらかして『俺もトシだから、どうせあちこちガタがきてんだろ。でももういいよ、そろそろ死ぬ身だから』と投げやりな気持ちでいたのですが、『まさか健康診断でどこか引っかかるなんて考えもしない』20代くらいまでの若者と遜色ない結果が出てしまうと、現実から目をそらしてやさぐれるのも無理があるよなァ、とw)

自分はまだ、世の中のすべてから見放された必要のない人間だ、なんてうそぶいて、勝手に人生の店じまいをし始めるには若すぎるのかもしれない。早すぎるのかもしれない。……そう思いました。

また同時に、私がここまで刹那的な感慨に至ったのも、「自分が望む幸せしか欲しくない(望んでいない形の幸せや豊かさが手元にあると、かえって鬱陶しくてイライラする)」という子供じみたワガママさ故。

だから、もうあんまり、幸せの偏食をやめることにしました。
そして、「自分が望む豊かさや幸せが今すぐ充分に手に入らないなら生きてる価値ない!」と、これまた幼稚なヒステリックさで生きるのもやめにしました。

あんまりなんでもかんでも欲しがってハードルを上げると、すべてが満たされるといった奇跡的な状態でなければすぐ、自分を惨めに思ってしまう。

ちょっとしたことで自分を卑下して惨めに思い、人生を呪い、まだ生きているこの時間のことを「服役」と捉えるなんて、あんまりだなぁ……と。

人生に打ち負かされて大人しく丸くなった、というのともまた違う気がするんですが、とにかくこれからは、「こうじゃなきゃ嫌!それ以外は一切、認めない!」という偏狭さを持たないようにして生きていくつもり。

望みどおりの人生を実現するのも素敵だけど、なんとしても望んだことどおりじゃなきゃ許せない!とまでなってしまうと、今度は自分自身が自分の願望に振り回されて、冷静で客観的な視点を見失ってしまう。

お兄ちゃんなんだから、オトナなんだから、という自制でこれからは、常に頭で考える(だけで潜在意識その他もろもろと整合性がとれていない、頭でっかちで本当に願ってるわけじゃない)第一希望が叶うかどうかに固執するのは、やめにする予定。

かえって、いい側面もあるのかもね。

馬鹿な自分の頭では理解できない恩恵がせっかく今、人生に実際に訪れているというのに、それがいかにどんな恩恵かを自分が把握できないから、味わえずにスルーしてしまうなんて。

自分の頭でっかちの願望に固執してそうやっていろんな形の恩恵やら豊かさやら幸せを見逃してしまうくらいなら、そんなワガママはもうやめにして、

「べつに自分が頭で望んだわけでもないし、好きな味ってわけでもないけど、これはこれである意味、人生経験というか社会勉強というかになったわぁ〜」

みたいに日々を味わって生きていこうっと。

もしかしたらいつか後になって、まさに今の自分が味わえてることを恋しくなったところで、もうその時点では味わい得ないかもしれないわけだからね。

なんでも好き嫌いなく食べる。自分なりの意見や願望、主義主張は持ちつつ、しっかりアピールしつつ、でも固執しない。

そこらへんのバランス、もっととっていきたい。

となると、死にたがってる場合じゃありませんわな。

ようやく、「これ以上、もう生きていたいと思わない」と思わなくなってきた。

案外この調子だと、いやもう死ねよジジィ、って頃合いになって、めちゃくちゃ生きることに固執しちゃうようになってたりして!?

それもどうよ……。ま、でもとりあえず今は、ずっと続いてた困った状況から脱却できてよかった、と。

まぁ、なんて独りよがりなP.Sなんでしょう!!
とても他人様にお見せするような代物でもないと言うのに。恥知らずねぇ。
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