見えないほどの遠くの空を

2011年に公開された映画。

<予告編>


原作本はこちら。
見えないほどの遠くの空を (小学館文庫)見えないほどの遠くの空を (小学館文庫)
(2011/03/04)
榎本 憲男

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自主制作映画ならではの荒さ?低クオリティさ?はあるかもしれないけど、「魂」というか、すごい気迫がなんともいえない。

映画なのに、脚本(セリフの内容とか)も、演じてる役者たちの醸し出す雰囲気も、どちらかというと濃い~い舞台演劇そのもの。

たとえば後半でヒロインが主人公に語るセリフなんか、あまりにも「このテの作品」にありがちだけど王道的にグッとくる的な。だって、

「幸せになりたい? 私、高橋くんに今は幸せになってほしくない!……酷いよね。でもね、長生きしてほしいの。厭な体験もいっぱいして、滅茶苦茶に泣いたり笑ったりして、最後に良かったな、って思ってから、私のところに来て。高橋くんにはね、さっきも言ったように、遠くを見てほしいんだ」

って。いかにも演劇~!って感じでしょ?

そこへ主人公の高橋くんが

「遠く、って……。あるのか? そんなところが」

と続けるから、いやもうアナタ、劇場の埃くさい空気までもが漂ってきそう!!

(ほんとに観て欲しい、、、というか、聞いてほしいのは、このやりとりの直後にヒロインが言うセリフなんですけどねw)
(そしてP.Sに書いた、このヒロインのセリフの直後に年月が流れて友人が言うセリフ。この流れ、ほんっとよくできてんなーと思いました)


役者さんたちは基本的に(申し訳ないけど実質的に)無名だし、ところどころ素人くさい棒読みもあるけど、対話してるときの緊迫した空気とかの生み出し方は、「桐島、部活やめるってよ」にも通じる瑞々しさとリアリティがある。
下手なんだけど、すごく惹き込まれる。

監督さんが、自主制作映画の世界でやってきて脱サラして1本目がこれ?的なエピソードもあり(←雑な紹介)、作品が監督自身の、映画というものに対するラブレターになっている……らしい?(←まさかのあやふや?)

蒼くさい感性がまだ残ってる人は胸キュンしちゃう鴨。しなかったらごめんなさい(←とか言っといて謝る気ゼロ)。
P.S
後半、会社を辞めた主人公に友人が語る、

「お前ほんとに仕事辞めたのか? またなんで? 旅にでも出んのかよ。インドでも行って、悟りでも開くか。けどなんも変わんないよ。そういう奴いっぱい知ってるけど、変わんないどころか、日本に戻ってきたら、一周遅れで走ってるぜ」

も秀逸。

なんとなく言い得て妙な感じもするし、でもその一方で

・実際インドに行って悟りを開いたわけでもないのに「なんも変わんない」となぜ言える?
・そういう奴いっぱい知ってる、というけど、その知ってる奴それぞれがどんだけどんな悟りを開いたか根拠ある?
・「一周遅れ」の「一周」って何?「遅れる」って何に?……日本の会社員の集合意識に呑まれすぎじゃね?

的に、ちゃんとツッコミどころある、いわば穴のあるセリフだってところが素晴らしいと感じた。
(その直前にヒロインが、霊的にみて完全に真実に則したセリフを言うから、その対比がすごい)



すげー下衆(げす)かもだけど、これちょっと解説してみよう。

この友人の思考パターンって、ものすごく典型的な、シュタイナーにいう「アーリマン的エネルギー」にやられて、霊的な真実から逸れた唯物論に陥っちゃってるイタい人の典型なんです。

世間一般の常識的にいえば
「夢を追う(≒ルシファー的エネルギーを帯びた在り方)とか、霊的な悟りを開く(≒キリスト的エネルギーを帯びた在り方)だなんて言っちゃってる奴は、終わってるw 人間の人生は生まれてから死ぬまで、この物質社会にしか存在しない。その前も後もない。霊界だの魂だのなんてすべては馬鹿げた迷信。しかるべき時期にスパートかけて、会社で頭角を顕しておかないとその後すべてがパァになるよ。出世のレールに乗り遅れたら地獄(だって、今回生きてる間にしか人生というものは存在せず、この世はすべて物質で成り立ってる。ならば、貨幣経済がメジャーな時代、貨幣を稼いでできるだけたくさんの物質を所有することこそ、人間の幸せといえるのだから。そして人間1人の力なんてしょせんはたいしたことがないからこそ、寄らば大樹の下、長いものには巻かれろとばかりに体制に迎合して、いかに自分を押し殺してでも権力を持った他人に気に入ってもらい、ご褒美なりおこぼれなりをもらうかが鍵だ)」
という考え方が「とても正しい」とされやすいんでしょうけどね。
(ただ、それすら最近はもうかなり怪しくなってきてるかなー)

「でも、本人がそれでいいっていうなら、それでいいんじゃない?だって創造主からみたらどれもアリなわけでしょ?」

という反論、思いつきいますよね。まっこと、その通りではあると思います。いきなり創造主「だけ」を考慮しちゃうと。

でもそれって、
「人を殺したければ殺せばいいじゃない。それも本人の自由」
「働きたくないなら、働かなきゃいいじゃない。それも本人の自由」
「風呂に入りたくなきゃ、入らなきゃいいじゃない。それも本人の自由」
などと一緒で、「対 創造主」だけを考えると、どれもOKという話。
創造主以外の、それこそこの世界での法律や経済、人付き合いでのマナー(およびそれを破った場合に被る悪影響)といったものを全無視した考えなわけです。
やるのは勝手だけど、それをした結果、つきまとうことになる、創造主以外の事象との関わりにおいて起こる状況には、すべて対処するってことだよね?……って話。

同様に、アーリマン的エネルギーの虜……どころか「アーリマン信奉者」になるのは、そりゃ「対 創造主」との関係だけを考えたらOKだけど、人類が霊界との関わりにおいてどういうために今回、存在し、自分という魂がなぜこの時代に受肉して人間として生まれたのか。そこにはどんな(自主的に望んで霊界も含めた世界全体から承認を得られた)使命・神聖な計画があるのかetcまでもを考慮に入れた場合、どうなの?って話だったりもして。

(個人的にはどちらかというと、アーリマンのエネルギーにすっかり骨抜きに洗脳された人がそのまま突っ走ったとき、どこまでどう行くものなのか&そのときどんな霊的な在り方でいるのか、を観察してみたいので、是非ともアーリマンにやられた状態で、しかもそんな自分を『他の馬鹿よりも賢くて正しい生き方・考え方ができてる』と100%の揺るぎない自信を持った状態で、どこまでも突き進んでほしいです♪)
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