自由意思はどこから来た?

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悪の秘儀―アーリマンとルシファー (シュタイナー天使学シリーズ)悪の秘儀―アーリマンとルシファー (シュタイナー天使学シリーズ)
(1995/11)
ルドルフ シュタイナー

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の、「解説とあとがき(P227)」に、こうあります。

太古の昔に、悪の霊ルシファーが人間に自由を与えた。この自由によって人間は神から離反し、悪を働く可能性を開いた。その人類がいま、自由意志に基づいてキリストとつながり、再び霊界に到る道を見出すならば、かつて人間を悪へと誘った堕天使たちの行為そのものも善へと変容する、とシュタイナーは明らかにしている。このことに気付けば、さまざまな悪もすべて大いなる善を生むために必要な前段階であったことが理解されるはずである。一度ルシファーによって授けられた自由意志によって神から離反した人類が、こんどはその自由意志によって再び神への道を見出そうとするのである。そのとき悪は善に一変する。シュタイナーの言葉を借りるなら、このときルシファーは光輝く聖霊に変化するのである。

堕天使を救済できるのは、自由意志を獲得した人間だけなのである。

(渋沢 賛/松浦 賢)~1995年~


もはや昔話でしょうかね(遠い目)。

あ、ちなみにシュタイナーの著作を読むとき、キリストという言葉は特殊な意味合いで使われるので一般的なキリスト(人名)と混同しないようご注意あれ。



シュタイナーの説を忠実に踏まえるというわけでもなく、この世の成り立ちの流れで、人間にとっての自由意志がどんなふうに生まれたか、ざっとおさらいしましょう。

もともと(今の肉体とも異なる在り方をしていたわけですが)人間とされる位置づけの魂たちは、神の摂理——宇宙が運行する本来の法則、とでも呼んだほうがいいか。創造主(源)が人格をもって意見として摂理を構築してるわけじゃないから——に忠実に動いていた、あるいは動こうというための在り方をしていたわけですな(わかりにくい)。

例えるなら夜空の星のように、一定の規則に従って動く存在だったわけです。そこには逸脱や異常状態といった概念の入り込む余地はなくて。

でもそれだけだと、進化がないというか、進化の方向性や在り方が、単調でバリエーションのないものになっていってしまうわけです。

そこで、いろいろ思う所あって&この時空間ではなんだかんだいってみんなそれを受け入れて、ルシファーが人間に、自由意志を授けた。

それにより、宇宙の法則どおりにロボットのように?動くだけのはずだった人間たちが、個々人の自由意志によって動くようになった。

そこから先はご存知のとおり。

エゴイスティックに個々人が自分だけを優先しようとする動きが生まれ、常に万全だった人類間の協調体制が崩壊。意見の対立が生じ、敵味方に分かれて争い、たとえ仲間同士で力を合わせて1つのことを成し遂げようとしても個々人の自由意志が完全に1つになることを困難にし、理想とのズレが生じる……。

そんなこんなの、私たちが知覚している「人類の歴史」が刻まれてきたわけです。

私たち人間が、自由意志を持てるようになったのは、そもそもルシファーのおかげなんですよ、ってことをちゃんと自覚してるのかなぁ?一方的にルシファーを「理由もなく悪いことをした愚かな、憎むべき敵」みたいに悪く言う人たちは。

ルシファーが人間に自由意志を与えたことによって自分が力を失って、「コキュートス(≒寒冷地獄)に幽閉され身動きをとれなくなった」という比喩表現であらわされる状態になったのは有名かもですが、そのルシファーが「悪いことをした堕天使」から「光輝く聖霊」に戻れるかどうかが実は人間にかかっていた、というのは知らない人も多そう。
(で、『ミカエルがルシファー救出のために立ち回っていた』ことはわりと有名らしいけど、そもそもなぜミカエルがちゃっちゃと救出しないで『立ち回っていた』かを考える人はあまりいないぽい。いわゆる聖霊とされるような存在が、その凄いパワーで魔法みたいにボーンとなんでもやっちゃえるような状態にはルシファーはいなかったのです。つまりミカエルは、ルシファーの諸行を悪で終わらせることのないよう、人間を啓蒙啓発して、自由意志を持ちながらもエゴに呑まれるのではなく、『べつにどうしてもそうしなきゃいけないわけじゃないんだけど、自分で主体的に、神の摂理のとおりに生きることを“選択する”』という、自由意志をルシファーが授けたばかりの頃には到底、不可能ではなかろうかという目標に向けて、動いていたわけですな。自分の力でチャチャッとやっちゃうのだと意味ないわけ。人間の力によって条件を満たして、ルシファーを救出するというのがミカエルの目的だったのね←絵に描いたような管理職ミカちゃん乙!)

まぁそれももう、済んだ話。随分と昔のことのように感じるわぁ……。

ここから先は、

自由意志を獲得したうえで神の摂理を知る(≒超感覚的に霊的な真実に目覚める)ことができた人間が、果たしてこの物理現実社会で何をするか

が、まるっと人間の自由意思に委ねられているわけですな。

あいかわらず「人間たちを私こそが導こう」と名乗りを上げる霊体の皆様方がおられるようで、まぁ頑張ってくださいなという感じなのですが(ほんともうそういうの全部どうでもいい)、そういう霊体に付き従って忠実なパシリとして生きるという選択肢さえもが「人間の自由」に委ねられているという状態。

それが、今の時代。

自分でなんでも決めて動くのは不安?
誰かに承認されたい?「あなたはそれで合ってる、正しい」って認めてもらえないと怖くて身動きとれない?
物事にはなんだかんだいってすべて正解があるとまだ信じ続ける?その正解に辿り着くことだけが唯一の「いいこと」だと信じてる?そこに辿り着けるかどうか自信が無い?間違いをおかしてしまいそうであと一歩を踏み出せない?っていうか誰の採点を待ってるわけ?
答えがない世界で自由に生きろなんて言われても、どうしたらいいかわからない?たとえそれが仮のでもインチキでもただの妄想でも、「確固たる何か」「人が生きるべき指針」「人類がこれから目指すべき世界の在り方」を誰かに示してもらいたい?

わかるよ。その不安と怖れ。だって、人類がここまで来たのは初めてだもんね。
これまでのどの人類をとってみても、この段階に到達する前に(以下略

これまで幾度となく繰り返された人類の歴史のなかで、今回の私たちが、初めてなの。ここまで来たのは。

そして、初めてなの。ここから先にまだ進んでいけるのは。

そりゃあ、不安だよね。攻略本なしでドラクエやるようなものだもんね(←急にスケールが卑小になった感w)。

でもさ。

だからこそ、さ。

どこかの誰かに正解を示してもらおうとしたりしないで、自分たちで「答えを創る」こと、始めてみるってのはどうよ?

現実社会でも、ちょっと前みたいに権威ある会社に勤めていればOKとかじゃないふうに変わってきてるでしょ。国家資格を持ってればセンセと慕われて良い暮らしができた時代はとっくに終わってるでしょ。こういう諸々の社会現象すべてが、霊的な人類の進化とリンクしてるの。偶然じゃないの。

べつに作家の肩書きや立場、権威がなくたって、たとえばインターネットで情報を大勢に発信できるようになった。なにも学歴や大企業に勤めるといったステータスがなくたって、一個人でたいそうなことが普通にできるようになってきた。
やりようによっては、ニートでもフリーターでも、それまでこれといった取り柄を培ってこなかった人でも、大成功できるルートが無数に整備されてきてる。

ひと昔前なら大金をはたいて1つ1つ、ステレオやらカメラやらを揃えなきゃいけなかったでしょ?でも今、スマホ1台で事足りるじゃない。そのスマホも、学生や子供でもなんとかすれば買える額なわけでしょ。

LCCの航空会社もメジャーになりつつあるし、以前のような大金がなくとも、なんでも庶民ができるようになってきてる。
それに伴って、人生の時間の大半を犠牲にして働いてなんとしてもお金を稼がなきゃいけない時代でもなくなってきつつある。

そして拝金という病から人々が解放されるにつれて、カネで買えるステータスの箔も剥がれ落ち、見栄のために高い家や車を買う愚かな人間も少なくなってきた。

なんだかんだいって、自由意志がエゴに乗っ取られてる人の割合が減ってきてる。自由意志を持ちつつも神聖さを忘れず、かといって縛られるでもなく、悠々と聖と俗を行き来してなお理性を失わない霊的な強さを持つ人間が増えてきている。

これらすべて、霊的な人間の進化に伴って生じた現実なんだってば。たまたまでもなければ、「起きるべきでない異常事態」なんかでもないの。

旧態依然とした社会の在り方に名残やら固執やら依存やらをしてる人は、今の時代の進化を嘆かわしいと悪く言うかもしれないけど、人類はもう、善と悪が分離しててそれを統合するには、というフェーズを事実上、終えてる。
(もちろん個々人の自由意志は健在だし、個々人レベルでは今回の人間としての人生をどんなものにするかによって、わざと善と悪を分離させたものとして捉える、ひと昔前のものの考え方を抱いて、そういう生き方を選ぶ人たちもいる。だからいまだに世の中では、局所的にそこかしこで、それこそ『泥棒を警察がつかまえる』みたいな事態もあるっちゃある。し、今後も完全にはすぐにはなくならないでしょう)

今の時代は、生けとし生きるすべての人間1人1人が、パイオニア(=開拓者)


なんですよ。

本人が望もうと、望まざると、否応なく、事実上。

もちろん、ほんっとに潜在意識の底から「えー?そんな時代に生きるのは、ちょっと……」と思った人は、ちゃんと離脱(=人間の肉体としての死、それによる魂の霊界への帰還)という選択肢も用意されてるから、心配しないで♪

って、何の話だったっけ?w
ああそうそう、本文冒頭で紹介した本のP107に、こういう記述もあります。

ルシファーとは、人間の中にあらゆる熱狂的な力や、あらゆる誤った神秘主義的な力を呼び起こす能力を備えた存在です。ルシファーが呼び起こすものはすべて、人間に自分自身の限界を超えて上昇させようとし、人間に我を忘れさせるために、いわば生理的に人間の血液を混乱させようとします。


「覚醒する」だの「アセンションする」だの、いろんな言葉やら概念やらで霊的に進化だか成長だかをしようとするその熱狂的な動機、ルシファーにやられちゃってません?なーんてね。
(人間とは、を追求する演劇というジャンルが紀元前という古い年代から発達してきたのと、ルシファーが受肉して人間界に働きかけた紀元前3000年頃とがわりかし近いのも、偶然ではないような……。演劇も相当、冷静な常識からしたらおかしく映る熱狂で成り立ってますもんねw)

ある意味、

右脳的(な側面を過剰にして人間のバランスを狂わせるエネルギー)

といってもいいかもしれません。

それに続いて、こうあります。

一方アーリマンの力は人間を無味乾燥で、散文的で、俗物的な存在にします。アーリマン的存在は人間を頑なにし、唯物論という迷信へと導きます。


そう、西暦3000年頃に受肉するといわれるアーリマン。西暦2000年代を生きる私たちにとっては、ルシファー的なエネルギーの影響よりも、アーリマン的なエネルギーの影響こそ、強まってきています。

なんでもかんでも理屈で説明して、一般庶民でも栄養物質や病気の名前などに詳しくなり、ビジネスでも健康でも理論にあてはめようとし、直観に頼った動物的な動き方を「アテにならないバカな行動」と断じ、もっと知識を、論理的思考力を、と煽る。

まさに近年、急速に浸透しつつある考え方だと思いませんか。ヤル気だの精神論(←ルシファー的エネルギー)はもう古い。ここから先はスマートに無理無駄を省いて効率的に……という時代の流れ。

こちらはルシファーと対極にあり、

左脳的(な側面を過剰にして人間のバランスを狂わせるエネルギー)

と呼べそう。

この流れによって、たとえば一般庶民レベルの知性が底上げされたり、情報でも物流でもなんでも便利になっていくという恩恵も生じます。それはそれで、人類の歴史に新たな恩恵の形が生まれた&それを享受する喜びとはどんなものかを知ること(という新しい体験)ができた、というメリットふうな側面もあるにはあります。なにもテクノロジーを捨て、せっかくみんなで培って来た知識やノウハウといった情報をすべて否定して封印して、原始人のようにシンプルに頭を使わず生きるように先祖返りをするのがいいわけでもなさそうです。

しかし同時に、こうした流れの霊的な進化という面でいえばデメリットふうに見える側面として、しらける・冷めた目線・結局すべてはデータであり、物質社会での現実こそすべて(人の心なんてものは単なる幼稚な妄想に過ぎない、感情は冷静な判断を狂わせる邪魔なものでしかないetc)という、それこそ「唯物論」的な思想を真実だと思い込み、霊性に目を向けなくなるということが生じてくる可能性が高まります。

自分がやりたいことといった内的な動機には目もくれず、なんとなくボーッとして冷めた視点でただひたすら「今の時代、凡人でもうまいこと金を稼げて社会的にも人から馬鹿にされずに済む(=余計な煩わしさに苛まれずに済む)地位を得やすい職業はなんだろう?」みたいなことを考えて仕事を選ぶ。給料がいいとかカッコいいイメージというだけで(それがどういう意味かもよく考えず)外資系企業に勤める……みたいな。

ね?今の若者に顕著な傾向だと思いません?
若者どころか、中高年以上の人たちも「昔のバカな在り方じゃもうダメ。これからの時代は……」といって、どんどんアーリマン的エネルギーを「これからの時代を生き延びるのに必要な、良いもの」として“(ルシファー型からアーリマン型への生き方、生きる上での信条の)転身”をする人が増えてますよね?

アーリマン的エネルギーを強く帯びて、しかもそれを「人々に新しい良いもの(思想・視点etc)をもたらす、貢献」と捉えて意見を発信する著名人でいうと、

・某元IT企業の社長
・某女性経済評論家
・某元ハードル系運動選手

らへんが目立つかな。
(これらの人々の提唱することがすべて『よくない』と言っているわけではありません。アーリマン的なエネルギーを“帯びて”いるという度合いが高い感じというだけ。これらの人々の思うこと言うことのなかにも、もちろん、部分的には、霊的な真実に近い、望ましいとされる(≒シュタイナーでいう『キリスト的』な)人間の在り方に貢献しうるアドバイスも含まれていると感じます)

古くさい伝統や旧来の精神論、根性論に囚われず、また自分の「夢を叶える」といった固執にかかずらうこともせず、さくっとうまくいくことやればいいじゃん、それでいいわけでしょ?何が問題なの?うまくいかないことのために苦労するなんて馬鹿げてるじゃん、時間と労力の無駄だよ……という路線。

一部には熱烈な信者がいる一方、どちらかというと怪訝な顔をされ、否定的に受け止められがちなこれら著名人ですが、まさに人々はこれらの人が帯びている「アーリマン的エネルギー」に対してNOと感じているのではないでしょうか(←知らねえよ)。

さてここで

「えー?せっかくルシファーの影響が小さくなってきたと思ったら、今度はアーリマン?やだー。何も脅かす敵がいない平和な社会に生きたいわぁ」

と思う気持ちを抱く人っていそう。気持ちはわかる。

ただね。この時代に生まれたってことは、それらと向き合うことに同意してるってことなんですよ、頭では嫌がってても。
(ほんとに嫌なら死ねばいいだけの話←実際、これからの時代を生きることに同意してない人たちはバタバタ死んで行ってるでしょう?)

ルシファーにせよアーリマンにせよ、「倒すべき敵」というよりは、「自分のなかにある、堕落した状態の象徴」と捉えてるくらいのほうが、健全じゃないでしょうか。

たとえば何か日時を決めて約束をしたら、もうその時点で「遅刻する」という概念、可能性は生じますよね。でもだからといって、遅刻という概念をこの世から消し去ろうとするのって、違うでしょ。自分が遅刻しないようにいろいろ工夫して心がけて行動すればいいだけのことですよね?
それともどうしても、「金輪際、この世に生きるすべての人間が、遅刻をすることがないよう、遅刻という概念そのものをこの世から消し去る!」みたいなこと願います?そういう方向性に突っ走りますか?(魔法少女まどかかよ!)

それと同じなんですよ。アーリマンという概念・エネルギーを憎んでも、敵視しても、排除しようとしても、はっきりいって、ナンセンス。そっちじゃないでしょ。
自分がアーリマン的エネルギーに呑まれないように生きればいいだけ。というかむしろ、アーリマン的なエネルギーの働きかけを受けても、それに呑まれない能力・エネルギー状態の獲得(によるアーリマンの克服)のほうが霊的進化という面で有益じゃないっすかね?

何か誘惑があったら呑まれてしまう。呑まれた自分は悪くない。誘惑してきたほうが悪い。……これって幼稚だと思いません?

「そんなの言い訳でしょう!そんな誘惑に呑まれたアンタが悪い!どんな誘惑があってもそれに呑まれない人間に進化しなさいよ!!」

っていう叱り方、ありえるわけじゃないですか。

それがまさにシュタイナーでいう、キリスト的な人間の在り方なわけです。

ルシファー的なものにもアーリマン的なものにも呑まれず、

右脳と左脳のバランスがとれた状態を保つエネルギー

それこそがキリスト的在り方なわけです。
(注:これは、宗教でいうキリスト教を信奉するという意味合いではまったくないですし、歴史上の人物としてのキリストについて言及しているわけでもまったくありません。どうか誤読しないで!!)

今の時代に生きる人間はまさに、ルシファー的にせよアーリマン的にせよ、そうしたエネルギーからの干渉がどんだけあろうと動じず負けず呑まれず、しっかと両の足で地面に立ち、揺らがない在り方(←例えですよ)ができるようになるために、このトレーニングジムとしての世の中に人間として受肉して生きているのです。

なーんてね。

あえて、西暦3000年頃に西洋に人間として受肉するアーリマンに向けて今の時代に生きる人間ができうること、を指針的に挙げるならば、

いざ受肉したアーリマンに人類の手が落ちることのないよう、抵抗するだけの力を人間たちが身につけていること

でしょうね。

アーリマンは受肉前から、それこそ西暦15世紀以降の世界に、あらかじめエネルギーとして働きかけています。それにより急速にテクノロジーが発達し、人間の左脳的な論理的思考力がものを言う時代になり……という変化が実際に起きています。

あとは、そうしたテクノロジーが発達した社会においても、人間がキリスト的衝動を内包させ、またそれを衝動だけに終わらせず、受肉したアーリマンにさえ抵抗しうるだけの実務的能力として獲得できているか、ということなのです。

いま生きている人間の寿命は、あと1000年後に受肉するアーリマンと対峙するときまではもたないかもしれません。だから、次の世代に、対アーリマンに向けての「(キリスト的衝動を内在させた、バランスのとれた)在り方」を、教育や躾け、表現といった諸々の手段で、引き継ぐこと。バトンを磨いて渡すことではないでしょうかね。
(対アーリマンに向けてどんな点に注意したほうがいいのかについては、紹介した本のP110以降あたりで具体的に書いてあります)

あ、それから。

将来、アーリマンが受肉するとして、そのことが人類に大きな影響を与えるであろうことが予見されるとして。大事なのは、アーリマンが受肉しないようにすることではありません。それ自体を阻むことではないです。
(セーラーサターンの魂を宿した人間を肉体的に葬ろうとするセーラーウラヌスとセーラーネプチューンみたいにならないで!)

また、実際に受肉したアーリマンを殺せばめでたしめでたし、という問題でもありません。
(ちなみにアーリマンは、とある個人に宿ったり、1人の人間の赤ん坊として産まれてくるわけではありません。人が霊にとり憑かれるみたいに、一定数の人間たちの意識に一時的に忍び込むという手法を採ります。いわば集合意識的なもの。想念のウィルスのようなものです。そうしてアーリマンがその時代の人類を統治する、トップ権力者たちに憑依しさえすれば……w)

アーリマンが受肉するに至ってもなお、その力に呑まれないだけの在り方を他の人間たちがして、普通~な様子で世界が相変わらず動き続けるということの実現のほうが、大事です。
(実際、紀元前3000年頃にルシファーが中国に受肉した際も、べつにそれによって文明が終わりを迎えたとかじゃなく、歴史としては流れていってるでしょ?それと同じよ)

ゆめゆめ、アーリマンの受肉を災厄と捉えて排除しようとしたり、受肉したアーリマンを人類の敵と捉えて物理的に攻撃して傷つけ、命を奪うことで倒そうとする……という幼稚な勘違いに溺れないでください。
そんな方法でアーリマンを排除しても、何の意味もないんだよ。むしろ、そんな愚行に陥っちゃうようじゃ、そのほうが人類はオシマイだよ。終わってるよ。軽蔑の極みだよ。

ルシファーにせよアーリマンにせよ、ようするに人類を進化させ、発達させるためのお膳立てというか、「学力を伸ばすために教師が生徒に課す定期テスト」みたいなものなのよ。それ自体を消し去ろうとか避けようとか、よくないものとして嫌悪・憎悪するなんて愚の骨頂。
うんざりしてもなんでも、定期テストがあるんだからお勉強しなさい!って感じ?そしてテストがきたらちゃんと準備したとおりの成果を出して、落第しないようにしんしゃい、って?
(ここでいう『教師』って誰、『落第』とは何を指すか……なんて、考えちゃダメよー?www)

って、これからは誰かによって決められた指針に向かって生きるのではなく、個々人が自由に生きていいなんて本文では言っておいて、追記でこんだけおせっかいオバさん的に方向を示すんだから、私も見下げた説教ババァよねぇ。厭だ厭だ。
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