偏差値という病

長年に渡ってのマイテーマに、1つの終止符が打てた感じです。

大学進学を機に東京で生活するようになって、大人、特にいま30代より上の世代が信じられないくらい偏差値の虜になっており、偏差値でいうと「良い・高い」とされる大学を出た人ほど、人を偏差値(や卒業した大学)で判断する傾向があるなァと痛感するようになりました。

これはもう(田舎で受験戦争とは無縁の、『勉強なんてできたからって何?』という風土でのびのびと、そして同時にだらだらと育った)私からすれば異常と呼べるほどで、どうしてそこまで、今の(社会人としての能力や可能性を測るうえで適切とは到底言い難い)教育制度の範囲内でのペーパーテストの出来が、しかも若い頃のたまたまかもしれない合否が、その後ずっと一生つきまとうようなハメになるのかというのは理解の域を超えていました。
(学生の頃は真面目で勉強を頑張って、100点満点が取れる&存在する『安全に囲われた柵の中』では優秀でいられた人材でも、その後、社会に出て大人としてあいかわらず自律して勤勉に励み、人生のなかで遭遇するこれという正解のない問題にうまく対処できるかは甚だ怪しいと言わざるを得ません)

私はそれでいうとどちらかといえば馬鹿にされてしまう「私立文系、学部卒どまり」なのですが、自分がバカにされて悔しいというよりはむしろ、

「どう考えても妥当とは思えない偏差値(やそれに基づく大学ランキング)なんぞを気にして生きている人たちをみていると、そのあまりの思想の歪みっぷり&視野の狭さが傍から見ていて痛々しく、嘆かわしい」

という心地でした。

しかも会社勤めの身ですらなく、プライベートで人と会ったときでも、いま30代より上、もっといえば40代より上になると顕著に「お前はどこの大学を出た?」ということを暗に気にする人が多いんですよね。

で、あとはお決まりのパターン。
「なんだお前、東大卒じゃないのか」
に始まり、大学名を言うと
「じゃあせめて政治経済学部か?(それだったらギリギリセーフだぞ)」
の切り返し。違いますと答えると
「なんだ!『それ以外』か!」
で、相手のなかで何かがバッサリ、切られる。見限られる。

そんなのどうでもいいじゃん、とうんざりも腹立たしくも思うのですが、それをいちいち言われると、自分も弱気になり
「もし別の、難関国立大学とされるところを出ていさえすれば、この人生にも別のもっとパッとした展開があったのかな」
と思い始めてしまうから危なっかしい。

もっというと、

「あのさ、もうそんなみみっちいこと気にしてる場合じゃないんだよ?余裕ぶっこいて偉い年長者が贔屓の大学を出た年下に目をかけて役職を譲り与える(そしてその役職に就いた人間がどんなボンクラでも問題なく世の中は平和に流れていく)……みたいな牧歌的な時代じゃないじゃん?ほんとに現実に働きかけてどうにかできる力を培えたか、それを発揮できているかが問われてるわけでしょ?そうじゃないとほんとに国単位で沈没するようなヤバいことになっていくんだよ?箔自慢しあってる場合じゃないよ!」

とハラハラした気持ちになるのです。

で、自分でも何がどう問題の核として気になっているのかわからないままに、この「偏差値という病に(よりによって社会をまさにリードする30代以上の人間たち、とりわけ高学歴な男性たちが)冒された社会の現状」はなんなんだ、という気持ちになっていきました。

これが社会学者なら別のアプローチをとるのでしょうが、私は(学問的には認められていませんがw)超感覚ヒーラーなので、まず、偏差値至上主義病の人たちが感染している集合意識があることに目をつけました。
(それも1つではなくて、いろいろある)

それで無謀とも思えましたが、自分自身を実験台にしてその集合意識に感染させ、それらに感染した人間にとって物事がどう見えるものなのかを検証していきました。
(これが、ブログでいうと2012年の春頃に苦しんでいた、感染性の呪いとでもいうべきものとの格闘の日々でした)

ぜんぜん理屈には合わないのに、絶対にそれが正しいと思える、プライドが固執して異論を認めない……という、ありがちな「病状」と、なぜ人間がそうした集合意識への感染によってそうなっていってしまうのかの仕組みを解析していったわけです。

ようやく(我ながらよくやったなぁと思えるのですが)そうした集合意識群に対するワクチン(的な思考パターンの整備術、とでもいうもの)がちゃんとできた!となったのが2013年の後半くらい?でした。
(いったん、学歴エリートでは成果が出せると、今度はたとえば芸能界での先輩後輩・スターと端役など、いろんなバリエーションの偏った差別的思想にも視野を拡げました。ジャンルが異なっていても、多少の細かい違いはあっても、『人を偏見によって差別し、まやかしとしての優越感や劣等感に浸る、格付けをしてそれを真実だと信じ込む』という図式は共通なので、大変だったのは最初の1~2、3種類程度で、あとはコツを覚えてわりとサクサクいけた印象w)

そして、もうどんな偏見的集合意識にも呑まれないぜっ!となったあたりで、

「そもそもどうして、偏差値なんてものがこんなにも社会に普及し、浸透し、人々に影響を与えてしまったのだろう?」

という原因を探るフェーズに突入。

いろいろ難航しつつ、日本人(というかアジア人)が他者からの承認・評価・称賛・賛同をヨーロッパやアメリカなどの地域の人たちより重視する思考体系をDNA経由で遺伝的に持っていることなどをリサーチしていきました。

噛み砕いていうと、日本を含むアジア圏(インドとかにも地味に飛び火するけど)の人間が「何か絶対とされる(orその社会で生きていくうえで大きな影響力があると認識しうる)基準を用意されると、その基準でいい点数をとろうと躍起になる(≒火をつければ爆発する爆薬のような思考パターンを持っている)」気質を強く持っているぽいことが見えてきたんですね。

あとは、「火をつける」行為だけ。

この場合は「偏差値を導入する、そういう概念を社会に提起する」のがそれにあたりますが、なんと

偏差値は、国民が(学生運動や過激なデモなどで自分たちの力や可能性を信じて)問題を起こさないよう、「お前なんてしょせんこの程度なんだから、身の程を知れ。おとなしくしていろ」と意気消沈させるために政治家たちが仕組んで導入した

側面があるということに行き当たりました。
(これ、『稼ぐ力』に堂々と書いてあります)

おそらく当時の政治家たちが狙った以上に、それこそ爆発的なインパクトを与えたのは、間違いないようですね。もはや野心を持てとハッパをかけたところで、ゆとり世代・さとり世代は死んだ魚の目をしてぼーっとしている……というほどに。(皮肉な結果ですな)

そこそこ以上に野心的な人間は、実際に現実を動かしてその成果で自らの能力を実感するのではなく、肩書きとしての、ある意味ではバーチャルともいえる学歴で自らの能力を実感してそこでやめてしまうようになった(実際に現実を動かしてやるぜと思わなくなった)。
というよりむしろ、減点主義の要素が強い日本の学歴社会が確立した後、エリートとされる学歴→社歴で通ることができている人は、なんとしても実務で汚点・減点・失点をおかすまいと保守的になり、何もしない日和見主義にやすやすと収まって行く。

誰かがいいアイデアを出そうとも、その人間が学歴など偏差値的な基準でみて「?」な場合は、目もくれない(それによって、もしそのアイデアを即・実行に移した場合に獲得できたかもしれない成果をみすみす見逃す)。

誰もが空気を読むようになり、「何か言い出した奴がその責任を全部、背負わされて少しでも失敗を犯したら出世コースが断たれるから何もせず周りに追従するほうがラクで賢い」という判断基準で誰もが動くようになる……。

もちろん、日本国民全員が偏差値至上主義に染まったとも思わないですが、あえて悲観的に「みんながもし、偏差値という病に冒されたら」をシミュレーションしてみると、そら恐ろしい心地が……w (←なぜ笑う)


まあいろいろ書いてきたけど個人的には、そんなこんなで、子供の頃から地味~に自分の人生を通奏低音のように流れていた、不気味で正体の見極めにくい、偏差値・学歴ヒエラルキーというものの正体がある程度以上、くっきり見えたので、それだけで満足(←しちゃえるところが我ながら都合がいい)。

あなたがもし、偏差値という病に冒されているうちの1人なら、ワークしてみてもいいのではー?

(『あれ?ワクチンができたっていうなら、エネルギー的にダウンロードとかコマンドするとかして、何かできちゃうんじゃないの?』という質問を、誰も思いつきませんように……)
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