美徳と煩悩の補完関係

私は今回の人生での「生き甲斐(というか、この世界への存在のし甲斐)」を、

・美徳ハンター

・ネガティブエネルギーへのワクチン開発

に見出しているようなところがあります。

汚らしい土壌をザルですくって宝石の原石を探す人のように、俗世・浮き世を生きるなかで、キラリと光る美徳の原石を(自分や他人のなかに)見つけ、自分にそれが許されるならば磨いて輝かせるというか。
(輝かせてどうするんだ、という理由としては『この世にまだない状態を創出する』としか答えが見当たらないのですが。この世自体が進化するというか、少なくとも以前と違った様相を呈する(ことで、この世というものがとったことがあるカタチのバリエーションを増やす)ために貢献するのが、生き物としての人間の役割として王道なんじゃねえかなー、という消極性←だって、そうでもないと生きてる価値を見出すの大変じゃん、こんな世界)

で。

日々の生活を通じて、見つけた美徳を磨くというか鍛えるというかをします。

刀鍛冶のように、いったん成型してキレイな刀の形になったとしても、それだと強度が弱くてすぐにポキンと折れてしまう。だから何度も熱して叩いて、と鍛えて行く。

具体的にどうやるかというと、その美徳と相反する(というか、太極図的にみた場合の対となる)煩悩に浸すんですね。

自分が美徳を見つけ、それをなめして磨いて成型したら、煩悩渦巻く境遇に飛び込んでいって、その美徳を浸す。

当然、はじめは美徳を凌駕するかのように、煩悩が美徳を否定し、攻撃します。

そこで揉まれるなかで、その煩悩をさらりとはねのけられるようになる。つまり美徳が強化されたというか、ホンモノになっていくというか。

ここでも「塩梅」が大事で、あまりに強大な煩悩にいきなり美徳を浸すと、美徳のほうが負けて、砕けたりエネルギーが煩悩化したり(まるで魔法少女の魔女化のように)します。

同等の美徳や癒しの高波動エネルギーで美徳エネルギーを回復させるのも、適度にはさまないと×。

まさに刀鍛冶。

美徳をこうして鍛えて行くためにも、いわゆる俗世で、波動が低い有様でうごめく人たちと接するのは意義があるなぁと感じます。

うまくすれば、煩悩のほうが美徳に感化されて、美徳化する(というか、元の美徳としてのエネルギー性に転換される)恩恵もあって。

ある集団で自分が認められたら、はじめは自分の意見に懐疑的だったり(その人の煩悩、ブロックゆえに美徳に反発して)対立していた人たちが別人のように素晴らしくなり(←これは、本来どの人も持っている神の一部としての素晴らしさを『取り戻した』というのが実際のところです)、味方として動いてくれるようになってくれて、自分1人では実現不可能なことまでできるようになったりする。

そう、あたかも「サウンド・オブ・ミュージック」のマリア先生のやうに!!

現実に存在する煩悩やネガティブエネルギーは、真実を否定し、真実に根ざした美徳などのエネルギーに反発して攻撃してきますが、根本のところでは、浄化され自らが本来の美徳としてのエネルギー属性を取り戻すことを願っている

んです。

だからよく、

「いいことをしようとしたのに、周りの人が意地悪でギスギスしていて、自分の善意・好意を受け入れてくれない。だから世の中はやっぱり汚いところだ」

みたいな主張をする人いますけど、それって、現実に負けてるだけなんですね。

いま現状としてそうなっていることに対して、引き下がってしまったんです。
(本来なら、エネルギー的に干渉してそれらネガティブエネルギーをいかに浄化して美徳としての属性を取り戻させるか、が人として生きるうえでの課題なのに)

また同様に、ネガティブエネルギーを遠ざけて、美徳エネルギーだけを獲得し、いわば刀鍛冶でいえば最初の1回の成型だけで「できた」としてしまうおめでたい人なんかは、そのままだと俗世で通用せず刀が折れてしまうわけです。だからこそ俗世をより遠ざけて、チャレンジングな出来事をなにかと理屈をこねて回避することを正当化し、見かけだけキレイな弱い美徳の刀をうっとり鑑賞してご満悦……という状態でいたりもします。
(自分だけが、世間で通用しないような弱い美徳を持って『私は洗練された。世間の不浄なものとはそぐわない』とかなんとかいって、世間(←すべて、自分と底のところではつながってるエネルギーなのに。他人事じゃないのに)から距離を置き、ひたすらネガティブなものを避け続けるだけの人生は、『この世に貢献できているか?』という観点からすれば全然なので、私は良いと思いません)

ありのままを認める、他人の自由意思を尊重するという言葉をあまりに一般化して捉えすぎて、

周囲を変えるよう、働きかける

ことまで忘れてしまっている。

人は誰でも究極的には、自分を今より良くしてくれる何かに働きかけてもらい、影響を受けて良くなって行くことを望んでいます。(何がどう『良くなること』なのかの定義は人それぞれなわけですが)
でも、そうなれないのではないか、そうなった結果、周囲から浮いたり攻撃されたりして、嫌な想いをするのではないかという怖れがあるだけなんです。それで諦めたフリをしてみたり、不良ぶってみたり、良い物に懐疑的になりdisってみたりしてるだけ。

他人の自由意思を尊重するというのはそれはそれで大事なので、どこの誰に向かって何を働きかけるかは考えるべきかと思いますが(←この見極めが難しいんだよね)、100%拒否されてるわけでもなく、ただなんとなく「消極的に、言うことをきいて動いてくれない。自分のことをよく言ってくれない」程度の状態だったら、プッシュしてみてもいいのでは。

あ、論旨がずれた。

べつに誰かに何かを働きかける生き方をしようよ、ということがいいたくてこのブログを書いたんじゃなくて、

美徳と煩悩は互いに、お互いを必要としている&うまい関わり方をすれば、互いにメリットがある

というエネルギー的なこの世の仕組みが述べたかっただけなのでした。

ちゃんちゃん。


P.S

本文では美徳を刀や宝石に例えましたが、私のサロン名は石の名前。石のショップもやっていたりはしますが、ほんとに扱っているのは、美徳という見えない宝石なのか知ら、なーんて。
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