良いものが選ばれるとは限らない

真面目な人に多いのですが、「コツコツ努力をして、ひたむきに、善に生きてエゴを払拭し、清純な在り方で質の高い能力を手に入れれば、いつか評価される。なぜなら、世の中は、必ず、最善のことが起きるようにできているのだから」と信じて、そうなっていない人いますよね。

これね。ポイントは「最善のものが選ばれる」という言葉のニュアンスが、現実とズレてることが多いんです。

どういうことかというと、そういう真面目な人、理想主義者というのは、ひとつも欠けたところのない完璧な何かに到達すれば、そこではじめて世間で認めてもらえる、と思い込んでるんですよ。

でも、周りを見渡したら全然そうじゃない、って気づきませんか?
(たいてい上に挙げた真面目寄りな人は同時に頑固でもあり、自分の信念は正しいはずだとの想いに過剰に囚われ、認識を修正することができなくなっていることがほとんどです)

この世でいう「最善とは何か」というのは、太極図のように光と闇、善と悪といったものが互いに分離しようとし対立しつつも互いを必要とし1つでいる、完全に切り離されることはないという在り方で決まってきます。

つまり、二元性でいう善ばかりに寄った波動の在り方だけだと、うまくいかないんですね。

べつに悪いことをしろとか、悪のテイストを無理矢理にでも取り入れろということではないんですが、悪というよりは真面目な人は

理性によって抑圧されていない、人間のなかの動物的な本音を無視(or軽視)している

ことが多いぽい。

なにか尊いことを、完璧なものを、と突き詰めすぎて、

「息が詰まる。堅苦しい。生理的に楽しくない」

という価値判断基準をおざなりにしがちなんです。

自分の理想にばかり囚われ、自分とは異なる価値観で生きてる人たちから見て自分の在り方なり作品なり仕事への取り組み姿勢なりがどう映るものなのか、的確に判断できない。

もし、勇気を出して「ここがよくないよ」と指摘してくれる人がせっかく現れても、

「いや、それはあなたがそう思っただけで、私としては〜」

といってまた自分の考えに固執してしまう。これじゃ、せっかくの指摘が無駄になるだけ。

ちゃらんぽらんなことや、善悪や常識からいったら「よろしくないこと、悪いこと」とされるかもしれないけど人間の本音としてはそう思うよね〜的なことを、どれだけ心を寛くして受け止められるか。考慮できるか。

なんじゃないかなぁ〜、と。

「私は善い人。真面目に仕事してる。我ながら質のいい動き方&作品づくりができてる。なのに、なぜ評価されない?なぜ人に好かれない?」

みたいなところでうだうだしてる人は、まさに「善いこと、真面目なこと、質が高いこと至上主義」から離れてみることができるかどうか、なんじゃないのォ〜?

なーんてね。
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