なんちゃって、と言わない勇気

個人メモ的な。

自分は幼少の頃に、父親が気に食わないことをうっかり言ってしまうとボコボコに殴られて酷い目に遭うので、うっかり自分の本音を言って父親が「ピキン」となったら即座に

「なんちゃって!」

とおどけるクセがつきました。すると父親が笑い出し、その場に居合わせた家族とみんなで

「バッカでー。こいつ可っ笑しいんでやんの」
「父親に怒られるのが怖いからそうやってふざけてごまかして。とんだ臆病者だ、どうしようもねえ」
「このトシでそういうこと覚えたら、将来はロクな人間になれねえな」

の、ゲラゲラ笑いながらのけちょんけちょん大会。自分はとりあえず危機を脱したことで精一杯で、笑顔でものすごく屈辱的な言葉をよりによって家族から投げかけられて自尊心はズタズタに傷ついていっているのだけれど、とりあえず肉体は傷つかなければ他人(というか幼稚園&学校の先生や友達)にバレないから、恥ずかしくないからいいや。心はどれだけ傷ついても、目に見えないから恥ずかしくない、との思いで耐えていました。
(小学生の3〜4年生くらいになり、他人の家の事情もそれとなくわかるようになってくると、家族は普通、自分の子供や孫に寄ってたかって年中こういう貶し言葉を総攻撃的にしたり、笑い者にしたりはしない……と気づきました。そこらへんからかな。うちの家族は、どうやら変わった人揃いらしいと気づいたのは)
(あと、自分にとって、こうした下品で粗野な家族の実態は『恥』以外の何者でもなく、自分が幸せというプラスの方向性に向かう余裕は持てず、せめて『家族がこんな酷いことをする人間である、という恥』を他人に知られないようにという『マイナスにならない』ことを考えるほうが優先順位が高かったです)


自分のこうした反応はもう、動物的な生存本能そのもので、「だってそうしないと五体満足に生き延びられないから」という切実なものでした。

切実なもの……では、あったのだけれど!!

家族が嘲笑しながら言ってたことはあながち嘘ではなく(ある意味、その発言をした家族本人の言葉が現実にマニフェストされたという図式かw)、私は他人に否定されたり、他人が怒ったりして気分を害するのを感じ取ると、即座に

「なんちゃって!」

とごまかすクセが抜けなくなってしまったのでした。
(これ、映画『嫌われ松子の一生』で、松子が父親を喜ばせようと反射的に変顔をしてしまうクセが大人になっても抜けない、のとすごくカブるんですよね。クセの内容や、そのクセがなぜついたかの経緯は違うにせよ)

冷静に考えて、自分が目の前の相手に対してビビっているわけではない。べつに相手のことが怖いわけではない。

自分の意見が完璧とも思わないけれど、あまりに自信がないとか、けちょんけちょんに言われても仕方ないほどダメなものとも思えない。

また世の中の常として、人間は何がベストか絶対の答えがわからないし、自分の意見に固執しようとする傾向がわりとよくある。だからこそ何かを決めたりするときに意見が対立したり、それをぶつけあって争うなり話し合うなり譲歩しあうなりしてどうにかこうにかする事態なんかいくらでも起きてアタリマエ、ということもわかっている。
まさにそういう事態にどう対処できるかが、能力でもありスキルでもあり、ようするに腕の見せ所なのだ(そしてうまくそういう事態に対処できればできるほど、人生は望み通りの良いものになっていくのだ)ということも。

それでも。

クセとして、反射的に、「なんちゃって!」でごまかし、それはつまり(自分の主張を撤回して相手の言うことに無条件降伏するという形をとって)やりすごしてしまう。
そしてその、自分の意見を撤回するハメになった悶々は、「ま、俺のほうが寛大に受け止めれば済むことか。なんたって俺のほうが人間の器がでかいから」みたいな妙な納得をさせようとしてしまう(が納得いかない)。

これは完全に「逃げ」だし、ぜんぜん正当化すべきことじゃないよなぁ、と。

しかもそれが雑誌編集者として企画を出したり、作家としてモノを書いたりするとなると、致命的。

ちょっと何か言われると、ホイホイ変えちゃうんですね。どんだけ信念がねえんだよ、的な。

それで「じゃあ自分を変えよう」と、本気で全力で率直にやってみて、それで玉砕したり、他人を信頼して裏切られたりすることが続くと、さすがに心が折れてしまったりして。

いまだにそのクセを克服しきれていないけれど、それでも少しずつはマシになってきてるような気も。あいかわらず全然変わってないような気も。

まぁ、気長に、希望的観測として、逃げの意味で「なんちゃって」と言わずにいられる人間になっていけたらいいなぁ、ということでこの記事は〆。



P.S
ヒーリング、特にシータヒーリングを始めてから、「なぜ自分は、信じた人に裏切られるというような、自分にとって裏目になるような出来事を創り出すのか(そのメリットは何か)」がわかってきました。

それは、一言でいうと

「この世は、必ずしも善いものが善いとされるわけではない。悪というユニークな概念がモノをいう場所なんだ。だから、善と悪が入り交じった複雑な在り方に則した形でやらないと、うまくいかないんだよ」ということを、自分の人生をうまくいかない側代表という体裁で創り上げて証明し、キャンペーンタレントよろしくその姿をできるだけ多くの人に晒すことによって、人々に印象づけ、啓発しようとする
(≒『悪・ネガティブといったエネルギーがどのようにこの世に作用するかをコミコミで動くように、考えを改めよ』と人々に説く)


というものでした。

すげえお人好し。
(私が今でも、いわゆる『善だけしか念頭にない、綺麗事』ふうなことを言う人に対して眉をひそめて警鐘を鳴らすのも、このためです)

この想い(Belief)は、単純に消してしまえというものではなく、むしろ自分がまさに生きて人々に伝えるとしたらわかってもらいたい重要なものだったので、対処には困りました。

ただ、やり方として、

「べつに自分が滑稽なまでに、(善という側面だけを視点として持って動いた結果)何もかもがうまくいっていないという図式を演出してみせたところで、ほとんどの人は自分の意図に気づかないし、もし仮に気づいたとしても『あぁ、そう……だよね』と薄い反応しか返さないぽい(=ほとんど功を奏してない)ぞ?」

と思い、伝え方というか、出し方を変えようかなと思うところで今のところは落ち着いています。

とりあえず、なんとしても自分の行動が裏目に出るようにと意図しているBeliefは置き換えて、ここ1〜2年は特にですが、それまで自分の人生では考えられなかったほど、ちゃんと誠実で、真剣な人(もっといえば、ちゃんと熱い人)が現実にこぞって現れてくれるようになりました。

で、太字にしたらへんのBeliefはどう実現するの、というところでは、いまのところ、劇作なり小説なり、フィクションという形に託して表現するのがいいんじゃねえか、という点に落ち着いています。今後、どんだけできるかどうかはわかりませんが。
(また、改めてこの視点から世の中で認められている文芸作品、または音楽や美術その他にも目を向けた芸術作品群を見ると、結局のところ、作家自身も意図していたかどうかは別として、ちゃんとこの世の、善と悪・ポジティブとネガティブが入り交じった様相をきちんと描き出していることにどんどん気づいてきました。となると、善と悪が混ざって動いていることをちゃんと把握してないのは人々のほうじゃなくて、自分自身だけなんじゃねえかとの思いもあって……。果たして創作というものを考えたときに、ここで太字にしたようなことをわざわざモチーフにする意義ってあるのかなぁ、とも思って弱気になってきたりしてw)

だってもう、魔法少女まどか☆マギカが出ちゃってるわけだしさぁ。

俺がいまさら何か新しいものなんか書かなくても、「まどマギを観ろ」で事足りるんじゃねえの?的な。
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