メンタルヘルスを病んで回復した人が留意すべきこと

かもしれないものの1つに、

かつて自分が陥った状況に導く、ものの考え方&行動をしない

というのがあるなぁと感じます。

えてして鬱をはじめ、心理的に凹んでいってしまう人の共通項に

真面目すぎる

というのがあります。

自分を過剰に追い込んでしまう。

その要因の1つとして、自分をそういった状況に追い込むような、

他人からのプレッシャーを真に受けてしまう

というものがありますね。

人は往々にして、他人が自分の言葉や行動を受けてどれだけ傷つくかを正確には予見できないし、実際に誰かが傷ついたとしても、自分自身で悪いと思わなければ、謝ってもくれません。もし謝ってはくれたとしても、それだけで傷が癒えるかどうかは怪しいもの。

とりわけ仕事や人間的成長というような倫理規範が絡むと人は、どんなにつらくても苦しくても弱音を吐かず耐えるべし、と思ってアタリマエなところがあります。
心を鬼にして、相手のために善かれと思って、際限なく厳しくしてくるようなところが人間には、ある。
特にその人からみて「なっちゃいない。このままじゃコイツはダメだ」と見えると、どこまでも厳しくすることに躊躇しないw

また、仕事の同僚や取引先という関係の人にはよくありますが、べつに傷つけるという意図ではなくて、「プロとして仕事をするなら、これくらいやってほしい」という要求を突きつけてくるのがある意味、当然。

その他人からの要求(≒プレッシャー)に屈してしまうと、自分がつぶれていってしまう。

なまじプロという概念が絡むだけに、

「つぶれたらそれまで」

といってあまり容赦してもらえないようなところはあるし、もし「あ、傷ついちゃうならいいよ、無理しないで」と思いやってもらえるとしても、その代わりに仕事相手としては完全にNGと判断される、といったリスクがあるから難しい。

そんなこんなで病んで行ってしまったことがある人。いったん回復できたとして、二度とそうなりたくないと願う人。

ならば、かつて自分が病んでいってしまったのと同じ考え方、感じ方(の程度)を繰り返すと、ダメなんです。

相手の要求がキツキツなのを、真に受けない。
コツが要りますが(そしてそのコツを掴むのが、人によりすごく難しく感じるみたいですが)、心理的にプレッシャーとしての重みを全部、引き受けてしまうことなく、相手の要求内容だけを整理して情報として把握する。そして鵜呑みにしたり問答無用に従ってしまうのではなく、「この相手の要求に対して、どう反応すべきか」を自分で考える。これをできるように、自分の思考パターンを変えていけるといい印象。

なんでも完璧にできればそれにこしたことはないけれど、実際は現実面での損得もあるだろうし、主導権争いも絡むかもしれない。人間関係上の優位不利も絡む。また単純に、生き物としての自分の体力精神力の限界もある。

複雑な要因が絡むからこそ、全部を真に受けると混乱するし、重圧が苦しいし、冷静に対処できず、自分の頭でもう何も考えられないから、相手の言いなりになってしまい、心も体も折れてしまう。
……だからこそ、この悪循環に陥らない「技術」が必要になります。

じゃあどうすればいいの?

という答えは単純にはないかもしれませんが、1つの模索方法として

自分がやろうとする、いいと思うこと「以外」の行動をとる

のがあると思います。

よほど思考パターンをすっかり入れ替えられた場合を除き、人はまた、病んで行く方向性に動きます。
そこで、以前、自分がベストを尽くした結果、自分が病んでしまったことを思い出して、「ブレーキを踏む」のが大事になってくるわけです。同じ轍を踏まないのね。

つまり、

自分が考えるベストな案のとおりに動いてはいけない

ということですね。

これは

自分の固執との闘い

になります。

なんでかというと、かつて自分がベストだと思うように動いて自分が病んでしまったという失敗を経験してなお、それでも人は往々にして、自分が一番正しいと思うクセ(意地?)が抜けません。

前回はダメだったけど、今の自分は強くなったからイケるはず、という、何の根拠もない自信をなぜか持ち、でもやっぱりダメだったりします。
(このループにハマるとほんとに不毛です。しかも、その人1人の問題だったらいいのですが、誰か1人がこのループに陥ると、遠心力のような見えない力が周囲の人を巻き込み、無駄に混乱させる迷惑をかけることにもなりかねません)

自分には自信がないとか、うまくやれる気がしないとか言うくせに、自分の頭で考えるベスト案のとおりに相変わらず動こうとする。
自信がないならいっそ、「自分の考えなんて役立たずだ」くらいに割り切って、何かうまくいきそうな別のやり方や、うまくいってる他人のやり方をそっくりそのまま猿真似してみるとかすればいいのに。でも、しない。頑固だから。自分が正しいと相変わらず思ってるから。

まずはこの、

勇気をもって自分(の信条なり行動パターン、かつての価値観に基づく判断基準etc)を捨てる

という点があると思います。

自分の価値観からみて、どんなに欠点があるように見えても、嫌いでも、いけすかなくても、能力が低いと見えようが、同じ境遇で精神的につぶれてない人を見て、どこかお手本にできる点はないか、考える。

本を読むときも、自分の価値観で「どれどれ、この著者はどれだけ良いことを書いているかな?」と批評家気取りで採点するように読んだり、自分の価値観で共感できる点だけをピックアップしてあとはスルー、みたいな読み方をしてるとダメです。
自分からみて「ダメだこりゃ。こんなの全然よくないよ」と思うことこそ、あえて、実験的にでもいいから、実践してみる。
自分を変えるってそういうことでしょう。自分の幅を拡げるって、そういうことですよね。

これができるようになるためには

(偉人と呼ばれるような優れた人以外の、いわゆる『そのへんのフツーの人』に見えるような)他人を尊敬する


という視点が必要ですね。

もっというと、

世界で一番、自分が優れていて賢く、正しく、尊い……という考えを捨てる


ことが要求されます。

まずはここからじゃないかなー、と。

どんなに自分が立派だろうとこだわろうと、心を病んで日常生活なり仕事なりがうまく回らなくなったということは、自分のモノの考え方なりがどこか、人間の自然な生理からして無理があるということです。

「すげー馬鹿に見えるし、ぜんぜん優れたところがあるように見えないし、仕事もたいしてできないんだけど、コイツは少なくとも心身ともに健全だ。その秘訣はどこだろう?」

というふうに、周囲の人のことを見られるようになったら良い感じかも。

まぁ、なんとなく雑に書いた感じですが。戯言ですいまそん。
P.S

人間のなかには、(日本人には顕著ですが)

自分と同じくらい心理的に負担を感じていることをもってして「誠実、本気でやってる」とみなす


人がいます。

仕事のパフォーマンスが同じなら、手を抜いていようと自分がおかしくなるまで苦しく追い込もうと、本来はどちらでもいいはず。

でも、このドライな割り切りができない人がいる。

もっといえば、仕事のパフォーマンス(結果、成果物のクオリティ)なんかどうでもいいから、一緒に苦労して汗をかく「一体感」のほうを優先する人がいます。

こういう人と組むとか、上司がこういう人だと、大変なんですよね。

この場合は、

・環境を変える(異動なり退社なりしてしまう)

・相手と同じくらいに負担を感じていますという演技をものすごくうまくやる(相手を騙しきる)

の2択しかないんじゃないかな。

個人的には、2番目を推奨。

だってさー、相手の独りよがりな、独善的な信念によって、苦労させられちゃあ、たまったもんじゃないよねえ。

相手に(仕事の結果などに直結しない、単純な個人的満足のための)苦労を強いるなんて、完全に虐待であり脅迫じゃん。
そんな要求、マトモに受けちゃダメだって。

そういう奴は、騙すに限る。

そのために、演技力を磨いて、自然にできるようになっておいても、いいじゃない?

……でもそういう人と一緒に苦労を本当に共にして一体感を味わったからこそ得られる何か、は得られない。

もし、それを得たいなら、、、地獄の底まで、その人が求めるくらいの苦労に、応えればいいじゃん。
心身がボロボロになって、人生を棒に振ってでも、構わないという覚悟で、とことんその人たちと付き合えばいいじゃない。
(逆にいえば、その覚悟がないならやめとけば、という話)

結局、他人がどれだけ強く自分に何かを強要してこようと、それに応えるかどうかは自分次第なんだよねー。
関連記事
スポンサーサイト