言葉に固執しない

うわー、タイトルからして、ちゃんと内容かけるかな的なテーマ。

スピリチュアルな内容を論じるって、もうそれ自体が危険というか、まるで絵を描くような行為で、1人1人、同じモチーフを描いても違いが出てきちゃいやすいですよね。

たとえばよくいわれる、

「すべては愛なのです」

この文字面、どういう受け止め方をしたうえでそう言ってるかは、千差万別でしょう。

言葉というのはそういうふうに、想念や感情の周波数、目に見えないスピリチュアルなエネルギーの組成、あるいは目に見える物質にせよそのエネルギー的な本質的在り方を述べるには、あまりに拙く、不完全ともいえる表現技法なわけです。

言葉であらわせないからこそ、「いわく言葉にしがたいもの」を「感じ取る」ために、スピリチュアルな超感覚とかサイキック能力というものを育むメリットを感じて、学んでるわけじゃないですか。目に見えないスピリチュアルなものをどうにかこうにかつかみ取ろう、把握しようという試行錯誤の1つの方策として。

その基本姿勢というか、言葉には限界があるのだということを、スピリチュアルな学びをするうえでは、よくよく気をつけたほうがいいんじゃないかなぁ、というご提言。

「私、ありとあらゆるスピ本を読みました。内容も全部、頭に入ってます。いろんな有名なヒーラーのセミナーにも参加して、話を聴きました。だからスピリチュアルのことを、誰よりもちゃんとわかっています」

と豪語する人ってわりといますけど、個人的にはそれだけだとマユツバなんだよなぁ……。

なかには、意地悪なのか凝り性なのかその両方なのか、スピ本や誰かのスピーチを細かく検証して、

「ここで○○という単語を使っているから、この人の説は誤りだ」

というふうに、まちがい探しに躍起になる人もいます。

言葉のこまかいニュアンスをネチネチあげつらったところで、スピリチュアルな本質には辿り着けるはずもないだろうに、と、見ていて呆れる心地がしてしまうんですわ。

他人の文章は、きちんと文法などの規則に則って読解すべし、ということは私自身、信条として持っており、それはスピ本を読むときも例外ではないのですが、それと同時にエネルギー的な本質も感じ取るということは相反するものではなく、両立するものだとの実感があります。

「あ、この人、本のなかで『○○は~~できない』と書いてるけど、ここにはどうやら『もし○○を▲▲であって■■のなかには含まれないと捉えるならば』という前提が省略されているな。だから『(もし○○を■■のなかに含めるという捉え方をするならば)○○は~~できる』と述べているスピ本と、実は同じことを言っているんだ。どちらかが間違っているわけじゃないんだ」

というふうに、言葉の文法的規則を尊重しつつも、それを超えたイメージ、ポエジー、もしくは形而上学的捉え方といったものも折り込んで、本質を掴むことは可能だと信じています。
(こう書いてる私自身、言葉で表明しているわけで、この文章がはたして、書き手である私と、読み手である人たちとの間でどのくらいイメージどおりに『伝言ゲームの歪み』が起きずに伝わるかとなると、もう期待するほうがどうかしている、というレベルで『無理だろうな(しかももし無理でもべつにいいや)』という捉え方でいるわけですが)



言葉の定義云々でいえば、いわゆるスピリチュアルな事象、理論についてだけでなく、カウンセリング形式のヒーリングセッションでの会話でも、その伝わりにくさの難しさをよく感じることがあります。

たとえば、ありがちなのは、親を怨んでいるという人に向かって

「あなたの親は、あなたのことを愛する気持ちは持っていたみたいですよ?」

と言った場合。

もうね、ものすごい反論が来るわけですよ。

「まさかあんな酷い人たちが私のことを愛していたはずがない。だってこんな酷いことをしたこともあるし、こんな暴言を吐かれたこともある。だから私の親は、私のことを愛していない!」

といったふうに。

つまり、自分が想定する定義に沿ったことしか「愛している」とは認めず、それ以外の行動や言動、在り方をしていたら問答無用に「愛していない」判断を下すわけです。

「自分のイメージするものとは違うけれど、彼らなりに愛していて、彼らなりの表し方をしていたということか」

という捉え方ができないんですね。そういうふうに認識を変えることを、断固として拒むんです。

同様に、たとえば「頑張る」とか「努力している」という言葉。

「私は努力している。頑張っている」

と豪語する人、多いんですよね。

でもそれは、単に自分なりに精神的苦痛に耐えたという意味だけだったりして、「どれだけ成果に結びつけたか」を考慮する視点が抜けてたりする。

なのでこちらが

「それは努力したとは言わないみたいですね。現実にその目標を達成することを目指すならば」

みたいなことを言うと、これまた大変。さんざん反論して、こちらに謝らせようとしてくる。

「私が悪うございました。間違っていたのは私のほうでした。あなた様は努力しておられます。大変、頑張っていらっしゃいます」

と言わせようとしてくるわけです。

これ、他のどんな単語でも起きます。

職場のみんながあなたのことを心配してるみたいですね、と告げると、

「はい?あの人たちが私のことを心配している?そんなのありえません。だって私が仕事で大変だったとき、なにも手伝ってくれなかったんですよ?『大丈夫?』と声をかけたりして気にかけてくれることもなく、私がちゃんと回復するまで責任をもって癒してくれたりも、一切ありませんでした」

などと否定する。

その人の定義する「○○するとは、こういうことだ」という論を、これでもかとぶちまけるんですね。
そして、その論に合う在り方をしていないので、「(私の認識に照らして言うなら)この人たちは、○○をしていることにはならない」と断言する。

それってようするに、ワガママなだけなんです。

上に述べた心配の例でいえば、内心はなんとなくその人のことを心配しつつも自分の仕事があるからそこまで面倒見られないとか、直接関わるほど親密でもないから声をかけていいものかと戸惑ったり、あるいはその人が会社内で嫌われ者扱いされていて自分がうっかりその人の肩を持つと今度は自分の社内イメージが危ういとか、いろーんな事情がありうるじゃないですか。
だから、かすかに心配しつつも行動としてはシレッと無関心を装って何もしない、ということは、普通にありえることですよね。

なのに、自分が白と言ったら、黒色だろうとなんだろうと白なんだ!という傲慢。認識の支配的押しつけ。
傷ついた被害者のようでいて、実は世界を自分の認識どおりに染めて、他人のありのままの感性や言葉の定義、価値観をすべて消し去ろうとするファシストなんですわ。



言葉は、考えていることが違う者同士の橋渡しをするために編み出された(ようなところが多分にある)わけですが、人にはエゴがある。

大事なのは自分の意見。他人の意見なんて、よほど自分のほうからエゴ的に「この人の意見を聞きたい」と思うような特殊なシチュエーションでもなきゃ、聴きたくないんですわ。みんな、自分だけが可愛いのね(エゴに呑まれた在り方から脱却できてない限り)。

でもさ、そこからどう脱却できるかが鍵なわけで。

そして、エゴの支配から脱却するかどうかは、道徳的にすごいからとか、それが(意識の?魂の?)覚醒につながるからみたいな小難しいことをぬきにしても、単純に

他人とこの社会でうまくやるのに便利

なんだよね。

相手の言っていることを、自分のエゴが拒絶して自分だけが正しい!と主張しようとするのをなだめすかして、受け入れる。

これができて初めて、自分1人で考えているだけでは永遠に思いつかなかったような情報や発想、考え方に、他人との関わりとコミュニケーションを通じて気づける。

そこに気づけないで永遠にグルグルと「私が正しいはず!(なのにどうしてそれがあたかも間違っているかのような出来事に苛まれて苦しむんだ!いつになったら『完全に、私の思い通りの現実』があらわれてくるんだ!)」とループして身動きとれずにいるのと比べて、はたしてどちらがいいのかを、自分なりに考えてみる価値はあるのでは。
(もちろん、永遠に自分だけの考えに固執して他人の考えを完全に拒み続け、変わらない自分の認識ゆえに抜け出せない迷路のなかを彷徨い続けるのもアリだと思います♪)

なーんて。
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