善への固執を捨てる

乱暴な言い方はできない話なのですが、自分のなかの

「こうあるべき、こうあるべきではない」

という思い込みの枠を疑ってみるのは、時として有効なのではと。

現実が思うようにいかない人にわりと共通することとして、

「現実社会では有効に働いている『やり方、有様』を個人的な信念で『そんなものはあるまじきことだ』と否定・拒絶してしまい、『本来はこうあるべき、こうやるべき』と思い入れを持っている考えのほうが非現実的(なのにそれをあくまでも改めようとせず、自分の考えに固執する)」

というのがあります。

そして、現実で損をしたり、傷ついたり苦しんだりしている(≒自分のやってることがどこかおかしいよ、というサインが来ている)のに、

「こんなにつらい目にあっても安易にずるい悪行に引き込まれたりせず、善の道を歩み続けてる自分は偉い」

と誇りを持ったりしてしまう。

これが行き過ぎると、

「もし、善い生き方をしていたら、その人間は貧乏で損をして苦しむはずだ。金持ちで権力を手に入れて快楽に囲まれて生きているということは、つまり悪い生き方をしていることだ」

という(おかしな)判断基準になり、自分どころか他人の生き方までそういう偏った見方でジャッジするようになります。

それがさらに進むと、

「苦しむことこそ美徳! 善を実践できている証だ!!」

というような、究極にわけのわからない考え方に到達してしまったりします。
(これ、わりとよくある話なんですよね、特に現代の日本では)

ある意味、独りよがりな善に固執して、本来は悪でもなんでもない「現実で有効なやり方」を否定し、実行に移さないというのは、行き過ぎると周りに迷惑をかけることにもつながります。(迷惑をかけるのがいけないことだとは私は思わないのですが、こういうとき一番厄介なのは、周りから『あいつに迷惑をかけられた』という恨みを抱かれることで、人間関係がギクシャクするとか自分の評判が貶められるといった損害を自分自身が被ってしまうことでしょう。これまた時と場合によりますが、実質的に迷惑をかけたかかけられたかではなくて、『迷惑をかけた、かけられたと思っているか、思われているか』という、人間の受け止め方のほうが大事になることは往々にしてあるのでは)

よく、「何も悪いことしてません」といって自分を正当化する人いますが、自分の価値判断基準だけを考慮して何もしないことそのものが、周りからしたら最大の「悪いこと」に“映る”ことだってあるわけです。

もちろん、これらのことをまるまる受け止めたうえで、

「それでも自分は、自分の信じる善を実践し続ける!」

と言い張り続け、それを貫く生き方もアリだと思います。

ただ、自分では気づきにくいかもしれませんが、自分にとってはとても大切で正しいと思っている考え方が、他の人(たち)からしたら、ぜんぜんそうは受け止められないことはわりとあります。

そこでどこまで周りを気にするか。気にするべきだと思うか。
これまた時と場合によるので、塩梅が難しいところではあるのでしょうが。。。

あんまり現実がうまくいっておらず、また周りから思うような好評価をもらえていないと感じるならば、自分の在り方が「周りの人たちから見て」どう映るのかを、考えてみてもいいかもしれません。
(もちろん場合によっては、『私のこの在り方を否定する周りがよくない』といって環境を変えるなり、周りを完全無視して突っ走るほうが自分が納得できることもあるでしょう)


私自身の話でいうと、

「うまいことやらかす、要領よく立ち回る」
「なぜか好かれる」

みたいな、自分の頭で考えて理屈が通らないことのように思えること、または正当な努力をせずに棚からボタ餅的に何かを得てしまうことを全般的に「あるまじきこと」といって拒絶するところがありました。

なので、私がもともと持っている「人からの好かれやすさ」が自然と功を奏して誰かから好感をもって接してもらえるようなことがあっても、

「いや、自分はまだ、この人からこんなに好意的な接し方をしてもらうだけのことをしていない」

といって、わざと一度、その人に嫌われるような態度をとり、自分勝手にその人との(自分にとって有利に始まった)関係をリセットした気になる……というようなことを、よくしていたんです。
(しかも、自分では0地点までリセットした気になっているけれど、相手からしたら『せっかくこっちが好意的に接したのに、酷い態度をとられた』というマイナス評価が厳然と残っていたりするw)

努力:成果=1:1

でないと気が済まないようなところがありました。

いわゆるテコの原理、(某H氏の本じゃないですが)レバレッジを利かせるということを、自分に全面的に禁止していたんです。

お金にしても、投資で増やそうとか、貯金に利子がつくといったことを許せず、

「お金は、まっとうに稼いだ対価としてのみ、手にすることが許される」

という、一見よさそうだけど行き過ぎるとただの頑固、偏屈でしかないんじゃね?(しかも自分がそういう方針を貫くことで、自分と関係する周り全体が迷惑することもある)という在り方になっていました。

あとは、ツテとかコネを利用するとか、あらかじめ関係者に根回しをしておくというような方法を「ずるい」と捉え、そんなことは一切するべきじゃないと捉えていました(ある意味、ガキっぽすぎる)。

でもべつにツテとかコネで他の人より得しようとなんだろうと、何がどう悪いってもんでもないんですよね。
そもそも、ツテとかコネにあやかる、それらを築くということ自体、立派なスキルであり行動して得た成果なわけですから。使えるものはなんでも使えばいいんです。


個人的感覚としては、ここに述べたような頑固さがようやっと、とれてきた実感があります。
1~2年ほど前には、

「悪いことだろうと気にせず、やっちゃえばいいんだよ!」

という捉え方をしていて、頑固さや自分への禁止をなくせたような考え方にシフトしましたが、よく考えるとまだ「悪いこと」と捉えて、沸き上がる罪悪感を見て見ぬフリをして「やっちゃえ」と捉えている点が、不完全でした。

それが今は、

「そもそも、そういうことは悪でもなんでもない。1つのやり方だ。それについて個々人が善い悪いと勝手に判断を加えているだけだ」

というふうに捉えることができています。

今では、たとえば殺人や窃盗というような「犯罪」とされる行為でも、

「創造主の観点から見たら、本来は善も悪もない。たまたま自分に影響する周囲の社会制度や時代の情勢、世論とされるような集合意識によって勝手に善だの悪だの犯罪だのとレッテルが貼られるだけだ」

というドライな捉え方をしています。

皮肉みたいなこと言いますけど、戦争中に国から徴兵されて戦地で敵兵を殺しても、べつに犯罪とは見なされないわけじゃないですか。むしろ、よくやったと褒められる。
でもそうじゃないときに誰かを殺すと、人でなしの犯罪者として重い刑罰を科せられたりする。

そして、仮に犯罪とされる行為をしたとしても、人により見つからず罰せられず一生を送れる人もいる。もし警察に捕まったとしても、不起訴になるとか裁判でうまいことやらかして(実際はやっているのに)無罪を勝ち取る人もいる。いちばん重い刑罰を科せられる人もいるし、そもそも何もやっていないのに無実の罪で捉えられ、実刑を科せられてしまう人さえいる!

これらはすべて、(あくまでも本人は否定するのでしょうが)本人が潜在意識で第一希望に願って、自らの力で創り出し引き寄せた現実なんです。

そしてスピリチュアルな観点から見ると、人間として生まれて今回生きる人生で何を経験したいかは個々人によって異なり、どれも間違いではない。この世に生まれることができているという時点で、その人の(この世に生まれるにあたって願い出た)希望がすべて霊界その他もろもろの仕組みを完全にパスした(=合格した)という証拠です。

なかには、無差別テロに巻き込まれて死ぬ、というような、普通に考えたら不幸な理不尽の極み、としか思えないことを、第一希望に願って生まれてくる人もいます。
(そういう死に方をしている人がいることが、実は何よりの証拠なのです)

そして、そんな理不尽な生き方死に方をどうして願ったりするの、と他人からすれば訝しく思えて到底、納得などできないように見えるとしても、そして本人も顕在意識ではさっぱりわけがわからないと感じているとしても、それでも潜在意識などを含めてトータルにエネルギーを霊視すると、やっぱり、本人が第一希望に願っているのが見えるんです。どうしてその人の潜在意識がそんな生き方死に方をしようとしているのかは、ある意味では、その人の潜在意識にしかわからないし、人間界の一般的な価値観でどう考えてみても解せないことだったりします。

じゃあ、潜在意識が願っていたらどうしようもないのかというと、そうでもないんです。
シータヒーリングなど潜在意識を変える力のある方法は、存在します。
(なにもサイキックな能力を使わずとも、『強く思い続ける』というような、一般的な人間の採る方法でも潜在意識を変えて行くことは可能です)

何が言いたいかというと、「この世が良くも悪くも公正・公平ではないような動き方をしていて、それが実は個々人本人の潜在意識が何を願っているかで決まる」ということは、なんなら、

「極悪非道とされるようなことをやっても、何一つ、罪に問われることなく刑罰を科せられたりする不利益も被らずにこの人生を生き抜く」

ということも可能ですよということです。
(限りなく黒に近いグレーゾーンな醜聞のある大物政治家が、なぜかおとなしく監獄行きになったりせず、いつまでも我が物顔で世の中で好き放題、権力を振りかざし続けるということが、実際にありますよね?)

生まれたときに何か理不尽な目に遭おうと潜在意識が思っていて、もしそれを放置したらある時点で本当に現実化してしまう未来が待っているとしましょう。その場合であっても、現実化する前に意識的にワークして潜在意識を変えれば、理不尽な目に遭うという未来は現実化せずに済むわけです。未来は自分の手で変えられます。
(まさに私もそうして自分の力で自分の潜在意識が願っている、顕在意識からすればロクでもないことをいくつも変えて、変な事態に陥ることを免れてきました)

また、万人に共通な「公正公平に善悪が裁かれる仕組み」がこの世にあるわけではなく、個々人の意識でどんな現実を創造するか次第なのだということを受け入れるならば、

「これこれこういうことをするのが善。これをやったら悪。善行を積めばそれが報われ、悪行に手を染めた者は必ず罰せられる」

というような考えが、ぜんぜん真実じゃないことがわかるでしょう。

これは同時に、他人が自分と異なる考え方を持っていたり、自分の信条からして納得のいかないような有様をしているとしても、それを意固地になって否定したりせず、ありのままに受け止めるということでもあります。

どんなに自分では立派な考えだと思っていても、所詮は自分がそうあってほしいと願っている信念に過ぎない。
信念だから尊くないというわけではありませんし、むしろ自分の信念を確立してそれを体現して生きるのは素晴らしいことなのでしょう。が、どこまでいっても自分の信念は自分にとっての信念であって、万人にとっての絶対かつ普遍的な真実にはなり得ないということは納得しておいたほうがいいのかもしれません。

なーんて、今日は珍しく(?)自分の意見(というか、率直な感慨)を主張する内容になったなぁ。

あ、もちろん

「ハン!私はお前の言うことを、何ひとつ正しいと思えないね!!」

という受け止め方をする人がいようと、(私はそもそも誰にどう受け止められるかなんて気に留めてもいないので)べつにそれでいいと思います。

そんな感じー。
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