「楽器習いプロジェクト」の折り返し地点を過ぎて

思うことを書いてみよう。

まず経緯を話すと、私は2011年の秋頃から、楽器をきちんと習うことを検討しはじめました。

理由はいろいろあります。

・子供の頃から、将来は音大進学や音楽のプロになることを見越して本格的に音楽系の習い事をしたかったのに(地理的に高名な先生がいるわけでもなく/お金もなく/親を説得することにも失敗し)できなかった……という悔しさ・無念を今からでも取り戻す

というのがあります。

あとは、

・子供の頃からなぜか、「どうしてもこの楽器(ハープ/フルート/チェロ)を自分ができるようになるべき」という使命感のような焦燥感?がずっとあり、それがただの勘違いなのかなんなのかを、ほんとに習って確かめてみようと思った

という、スピリチュアルというか霊能者っぽい動機もあり。

また同時に、

・マトモに人前で、宴会の余興レベルでもいいから披露できる芸や趣味(のスキル)が自分には何もない。なんかあってもいいんじゃねえか

という、一般人としての「プライベートを充実させる」的な意味合いもあり。

それから

・20代の頃まで、ふらふらとその場限りの浮ついた動機で何かをつまみ食いしてはそれっきり……ということを繰り返していた。楽器にしても、二胡を習ったものの、マトモに練習もせずテキトーに3年も習ってちっとも上達しなかったのが悔やまれる。(いろいろヒーリングを通じて以前と変わった)今の自分なら昔のような過ちを繰り返さず、ちゃんとやれるのではないか

という自己啓発?自分への挑戦?的なものもあり。

さらに

・声優/ナレーターのレッスンでダメ出しをされても、感覚的に腑に落ちない。自分が得意な音楽のレッスンでダメ出しをされてそれを直すことで、間接的に、声芸のほうもうまくなるんじゃねえか

という、声芸者(志望)としての職業的打算?向上心?のようなものもあり。

まぁ、いろいろですわ。




で、「やろう」と思ってから、姑息な私は「費用対効果」「労力対効果」のようなものを考えました。

つまり、楽器の修得に費やすお金や時間、労力をもし、もっと別のものに投下していたらもっといいことがあるかもしれないという可能性を考慮したのです。

果たして本当に、今、楽器を習うという選択は、自分の人生設計にとってプラスなのかマイナスなのかをいろんな観点から計算して、気持ちのうえでも納得がいくかどうか考えました。

まず、その楽器演奏者のプロとして、「それで食える」ところまで行きたいのか?という可能性は、さすがに削除w

となると楽器を習うという選択肢は、損得勘定だけで考えると「娯楽としての浪費」となります。

こうなるともう、「浪費して失う金・時間・労力に後悔しないだけの決意があるか」という話になりますw

もしこれが本当に、仕事としてプロになれて稼げるようになるかどうかだけだったら、まかり間違っても楽器を習うようなマネはしなかったでしょう。

だけど、私は

・30歳を過ぎて新しく物事を習うと、どこまで行けるのか行けないのか知りたい
 (若い頃より衰えるものなのか?感覚的にどう違うのか?etc)

・やりたいとずっと思っていたことを経験できずに死を迎えたら、人生に納得がいかない。べつにやってみて「あー、向いてないわ」でやめてしまってもいいから、やるだけやってみないと死ぬに死ねない

・「キャリア的な成功だけを追い求める人生なら、やらなくていいこと、必要ないこと」をあえてやるのは、金銭的にも時間的にも労力的にも負担が伴う。でも、人生の豊かさや彩りは、そういう負担をきちんと担ってこそ得られるもの。昔は「役に立たないから」「余計なことしてる(金・時間などの)余裕はないから」でなんでも済ませてきたけれど、独立して事業を軌道に乗せられた今だからこそ、あえてそういうことをやってみて、きちんとやってみせるというのもいいのではないか

などなど、ようするに「物好きな自己啓発意欲」みたいなものも手伝って、結局、やることにしました。

30代後半という、人間としてもしかしたらもっとも働き盛り、実績をどこまで出せるかの正念場……という時期に、悠長に習い事をするなんて自殺行為なのでは?という懸念はありましたが、私としては逆に

「(仕事のキャリアとか社会的地位といった点に固執することをやめて、あくまでも1人の人間としての自由意思で)こんなことができるようになっていたらいいなということができるようになっていないで迎える40歳」は嫌

というほうが勝ってしまったのでした。



いよいよ、「やる」と決めた後は、「いつまでにどこまでやるのか」を考えました。

どこまで、という到達レベルでいうと、

「趣味にしては上手いな!ずいぶんしっかりやったんだなぁ」と言ってもらえるくらいまで、いっぱしに「素人目(耳?)」をごまかせる程度にはまっとうな演奏ができるレベル

を据えました。

もう少し具体的に言うと、

学校の音楽の先生が式典や授業で歌の伴奏をピアノでするレベル
(べつに世界一流のプロとかでなくとも、『きちんと問題ない感じで弾いて、伴奏者としての役目を果たす』レベル)


です。

あからさまにたどたどしい感じや、どことなく下手な雰囲気が出たりしないところまでいけたら御の字、と。
(我ながら妥当な目標だったと思います)

で、次に考えたのは、いつまでにやるか。

これは、

3年

と決めました。

どうしてかというと、(これもいろんな意見があるので絶対の真実とは言い難いのでしょうが)大人がゼロから始めて何かの楽器を、それこそ素人目をごまかす程度にいっぱしに弾けるようになるには、みっちり3年あればOKという通説?を信じてみることにしたからです。

つまり、このプロジェクトには3年という期限があるのです、私のなかで。

そして、3年経ってみて、「ざっと聴く分には問題ない(特段、べつに下手だと感じさせない演奏ができる)」ところまで行けたら成功。行けなかったら失敗ということです。

3年経ってみて失敗でも成功でも、そのあとその楽器とどう付き合っていくかは、その後で考えよう、という気持ちでいました。
幸い、継続するならするで、楽器の演奏はありがたいことに限界がないので、なんなら一生かけて突き詰めることもできるわけですから。やめるならやめるで、「いい(or苦い)思い出」で済ませればいいや、とも覚悟しました。
(もちろん、苦い思い出にはしたくないからこそ頑張るわけですが)



ここまで決まると、費用も目処が立ちます。

1つの楽器につき3年という期限があるので、

月謝×12ヶ月×3年=レッスン料として先生への支払いにかかる総額

が算出できます。

(月謝の目安は1万5千円と決めていました。だいたい世間の相場がそのくらいだったからです。高名な先生のレッスンを受けるとなると30分でン万円、というレベルの人もいますが、未経験者がいきなりそのレベルの人に師事しても、費用を回収するだけの学びを受け取りきれないだろうとの算段です)

同様に、レッスン時間も計算できますね。

実際には楽器自体の購入代やメンテナンス費用(弦が切れたときの替えを買う費用や、何かあったとき業者にメンテを頼む分)、それに自主練の分の時間がかかるわけですが、こちらはやってみないとなんともいえないところが大きすぎたため、

「どんだけ費用がかかるとしても、問題なく出せる、払える」という思考を成立させる

という、スピリチュアルヒーラーらしい(笑)構え方で、どうにか乗り切ろうとしました。

楽器としては、フルートは自前のものを継続して使い、チェロとハープははじめのうちは購入せず、レッスン時に教室にあるものだけを使う(つまり自宅での自主練はできない)ことにしました。

初心者すぎる段階では、練習しようにも「練習をできるだけの実力がまだ自分にない」「はじめに下手げに自主練に力を入れてしまうと、変なクセがついてかえってよくない」こともあると考慮したためです。



そこからは先生探し。

私の場合は、シータヒーリングのコマンドで一発!でした。

これ以上、いまの自分に素晴らしい先生などこの世にいるだろうか、という方々と知り合い、門下生として受け入れてもらえました。
(皆さん経歴も実力もゴージャスで、教え方も見事で含蓄があり、かつ私と相性が合い、それでいてリーズナブルな金額で教えてくださることに合意してくださったという、砂漠でダイヤモンドを探すような確率の出会い×3人!)

ちなみに2011年11月にフルート、2012年1月にチェロとハープのレッスンをスタートさせました。



いよいよレッスンが始まると、まったくの未経験だったハープとチェロは、思った以上に苦戦しました。

正直、

加齢による衰え(脳の物覚えの低下)を感じました。

もちろんチェロやハープを習ったのは初めてですが、子供の頃や少なくとも20代の半ばくらいまでは、まったく新しいことを覚えるとなっても、もう少しスムーズだった感覚があります。

それが、脳が思うように動かない。手足が、まるでバネか何かで邪魔されているように、動いてくれないんです。

また、ある程度練習をすると、体も脳も「ギブアップ」状態になってしまい、いくら気力と精神力が残っていても、もう練習の効果が出得ないという状態が来ることを実感しました。
(そういうときは『そういうもの』とすっぱり諦めて、休養したり練習を切り上げることにしました。なんたって、『生まれてから一度も経験したことがないこと』を新しく始めたわけですから、脳神経にそういう動きをする回路ができてないんですね。自転車に乗ったり水泳を覚えるのと同じ。『今これ以上やっても意味ナシ』という状態があるんです。そういうときに無理しない、ということも覚えました。限界だろうとなんだろうとがむしゃらに突き進むしか能がなかった若い頃より、そういう意味では成熟して賢くも強くもなってるのではと思います)

老化を実感した瞬間でしたが、それを嘆いていてもしょうがないとさっさと割り切り、「この物覚えの悪さでも成功できる方法を見出して採択して実行すればいい」と考えを切り替えました。

ハープは、教室にあるハープ練習室をタダで借りられることがわかったので、重宝しました。
どちらかというと感覚的には「はじめからちゃんと弾ける」ほうで上達も早かったのですが、ブルワーカー(←知ってます?)で筋トレをしたみたいな疲労がものすごく(教室からの帰りに路上で座り込んだり吐き気を催すレベルでほんとに参った)、また練習しすぎると指の皮が剥けたりして、長時間のゴリ押し練習はできず、もどかしく思いました。
(うまい脱力ができていない下手な初心者だからこそ陥った事態なのでしょうが、コツを掴むまではどうしようもないので耐えるしかなかった)
やればやるほど上手くなるのはわかっているのに、やるわけにいかない、的な足踏み感。

もっとも苦戦したのはチェロで、いくらやっても一向にまともな音が出ず、「(ドラえもんの)しずかちゃんのヴァイオリン」状態。
これは加齢ともまた別に、私が個人的に弦楽器が得意でないことが要因としてあるのでしょう。
(遺伝レベルで見ても、琵琶だろうとギターだろうと、何らかの弦楽器をまともに弾けたことのある先祖がどうやら1人もいないっぽい。現に、私が知りうる家族や親戚のなかにも、弦楽器が弾ける人間は1人もいないのです)

ちょうど習い始めの頃、チェリストの古川展生さんがコンサート中のトークで

「(自分がチェロを習い始めたときは)まともに音が出るようになるまでが一番苦労しました。簡単な曲でも、人前でカタチになる演奏ができるところまで3年以上かかりました」

と言っていたのを聞き、ホッとしました。
当代随一のプロのチェリストでさえはじめはそうだったんなら、自分ごときが焦る必要もないか、と。
なので上達を焦らず、あえて意識を低くして、ぼーっと淡々とレッスンの課題曲をこなすようにしました。
(ここで焦ったら、あまりの上達のなさに怒りやらが爆発して、衝動的にやめてしまうことが懸念されるほどだったからです)



それでも継続は力なり、で、一向に上達の見られないように思えたチェロも、数ヶ月単位で振り返ると、着実にそれまでよりは上達できていると実感できました。

そんなこんなで1年が経過した頃、

ガシガシ練習しまくって伸びられるだけ伸びて行ける段階に到達した

のを感じました。
脳神経なりが整備されたということなんでしょうかね。自転車でいうなら、遂によろけずに乗れるようになったところでしょうか。

ひととおり初歩的なことができるようになり、変なクセなどもなく自主練ができるところまで来たのです。

楽器は、この「激伸び可能期」にガシガシしっかりやれるかどうかで差がつく

と感じています(ピアノをやった経験から)。

たとえば「ド→レ」というシンプルな音の移行。

これを、

ドもレもちゃんとした音程で安定した音色で弾ける
 ↓
ド→レに移行するとき音色が崩れたりよろけたりしない
 ↓
ド→レの「→」部分を、スラーやスタッカートなど様々な表現技法で移行できる
 ↓
「ド→レ」と弾くスピードを速くor遅くしてみる(速度を変えても音色が崩れないように!)
(脳が出す『これ以上、速く(or遅く)弾くのは無理』という限界信号に気づいて、
 『いいや、そんなことねえだろ』と、限界を超えるよう脳を再教育できるかが鍵)
 ↓
「ド→レ」のリズムをいろいろ変えてみる(例:四分音符+四分音符→付点四分音符+八分音符)
 ↓
「レ→ド」と、逆のパターンで上記の練習を繰り返す
 ↓
「ド→レ→ド」と、音を繋げてみる。それで上記の練習を繰り返す
 ↓
「ド→レ→ド→レ(×∞回)」と、音を繋げる。それで上記の練習を繰り返す

というふうに、あえて自分に厳しく、妥協しないで、めっちゃオタッキーに細部にこだわって、練習する。
(このヲタクっぽさは、どんな分野でも上達するうえでは必須ぽいです。もしもともとヲタク気質がなくて『なんでもフツーでテキトーでいいじゃん、そんなこだわるのはキモいし性に合わないよ』という人は、何かで上達しようと思うなら不利なのでは。そのままだとどんな分野でも専門職になれないので総合職的な生き方をするか、後天的にヲタク要素を植え付けるかしたほうがよいかと←何を偉そうに)

それができたら「ド→レ→ミ」とか「ド→ド♯→レ→レ♯……」と音を増やして同じことを繰り返し、「ド→ミ→ソ→ミ→ド(アルペジオ)」などとバリエーションを加えて、最終的にはどんな音から音への移行だろうとどんなに速かろうと遅かろうとスタッカートだろうとレガートだろうとニュアンス自在に表現できまっせというところを目指す。

この、気の遠くなるような作業を、妥協せず、継続して、修得する……かどうかが、物事の上手い下手に繋がってくる実感があります。

自分のことを棚に上げてあえて言うと、楽器でも歌でもナレーションでも、下手な人というのは、上に挙げたような最小単位の正確さ・精確さをおざなりにして、「なんとなく全体をやって、できたつもりになる」という共通項がある気がします。

雑でもなんでもいいから、1曲をなぞって、それっぽかったら自分で自分に「合格、よくできました」としてしまう。
本当の意味で上達したいなら、この感性だとダメなんですよね。

逆にいうと、上手い人というのはどの分野でも、こういう細かいところに妥協してない印象があります。

で、こういうこまかいところをしっかりやると、今度は脳のほうが自分の寝ている間などに働いてくれていて、気がついたら「以前は絶対に無理だと思った動きや速さでの演奏」が、嘘のように簡単にできてしまう瞬間が訪れます。
(もうね、『こんな簡単なことをできなかった時点の自分がいるということが信じられない』感じになるんです)

とにかくこの時期は、自主練に関して言えば、テクニックの向上を何よりも念頭に置いたほうがいいと思います。
(フルートの先生が言っておられたのですが、『楽器演奏の世界では、表現力の才能みたいなものは、“テクニックを完璧にした”そのあとで初めて必要になるんだよ。テクニックがないのに表現力だかに才能があっても、弾けないんだから発揮のしようがない』とのことです。げに、と感じます)

そしてできればレッスンでは、課題曲を技術的には完璧に弾けるようにしておいて、その先の「情感の込め方、曲の解釈、表現のヒント」という高度なアドバイスを貰えるようにしておくとベストかと。
(技巧的なところでつまづいたままレッスンに臨み、せっかく先生がいるのに『じゃあゆっくり弾いてみましょうか。ド~、レ~、あら、つまづいちゃった。じゃあもう1回。ド~、レ~』という、子供の音楽教室的な実技指導でレッスン時間が消費されてしまうのは本当にもったいないです)

私の場合は、このブログでこれまで書いてきたような思い入れと計画があって習い始めたということは、先生方には言いませんでした。

言っても実力が伴わなければかっこ悪いというか説得力がないし、言わなくてもやることやってれば先生のほうで「あ、コイツは『いかにも大人がヒマつぶしに楽器を習いはじめました~』みたいなフリしてるけど、ほんとはめっちゃヤル気あるんだ。本気なんだ?」と気づいてくれるだろうと思ったからです。

自主練をちゃんとやって短期間で非常に上達していることを、レッスン時の演奏で証明して先生から一目おかれるようになったあたりで初めて、もし希望があるなら、「もっと専門的にみっちりやりたい」などと意向を伝えるのもアリかと思います。
(私は恥ずかしくて、自分がマトモにできるようになる前から『いっぱしになりたい』と言うなんてできず、この方法を採りました)

はじめにフルート、それにハープ、そしてチェロと、先生のほうから、私が最初にやっていたいわゆる「超・初心者向けの教本」を閉じて、

「もう、この本はこれで終わりにしましょう。次からは、これ(=中級者向けの教本)をやりましょうか」

となったんです。

習っている楽器のなかでもっとも得意なフルートに関しては中級者どころか、いわゆるクラシックの名曲(難曲)を次々と指定されるようになり、嬉しい悲鳴を上げる始末。
(そして、難しい課題でも上記のような練習をみっちりやることで、どんどん上手くなれる快感!)

さらに私の場合、期限を3年と決めているため、いま1年半という折り返し地点に来てこのザマというのは、(一般的に大人が趣味で楽器を習い始めたペースでいえば相当、速いほうなのでしょうが)

いまから1年半後に、いっぱしの演奏ができるところまで行けているだろうか?

という自問が良い意味でプレッシャーになり、妥協したりサボろうなんて意識には繋がらないんですね。



ここまで自主練をやるのは、それこそ音大などプロを目指す学生みたいじゃないか!と思われるかもしれないし、自分でもそう思うし、そんなにまでして仕事にできるアテもないことのために大人が時間も金も労力も注ぎ込むのは本当に馬鹿げている、と感じる人もいるのでしょうが、自分としては人間修養的に役に立った部分もあります。

それは、

・「やる!」と決めたことを、ちゃんとやる

・先生の助言に、変に意地を張ったりせず耳を傾ける謙虚さを持つ

・現時点でできないことや、自分の悪いクセ(←大人になったら治らないと世間で言われやすいような人格的特徴も含めて)を治すのを諦めない。そしてほんとに治す。

・自分の性格的なクセや心理状態、思考パターンなどを、先生から演奏やレッスン時の振る舞いへのアドバイスをもらうことで気づく

など。

私の場合、自営業でしかもメンターや上司がいないため、性格的な部分も含めて、誰かからクセやよくないところを指摘してもらうというのは有益というか、ある意味では「命綱」でもあるんです。
ヒーラーとしていつも誰かに上から目線で教えを諭すようなことをしているうちに、いつのまにか鼻高々の傲慢高飛車人間になって裸の王様化し、プライドが邪魔して他人からの言葉に耳を傾けられなくなってしまう……という同業者を反面教師的に何人も見ているためです。

演奏技巧を上げて現時点の限界を破る、というのは運動やダイエットなど、精神力と実行力、それに継続が必要な他のことにも良い影響を及ぼしました。

「なんとなく、つらいから、サボっちゃったー」
「予定は立てたけど、こなせてないやー。ま、いっかー」
「痩せるぞって目標たてたけど、体重減ってないー。しゃあないなぁ」

というような弱さを克服するのに役立っています。

(さらに私のなかには、『うちの家族があまりにも世間一般の人と比べて全員、怠け者すぎる』ことにうんざりしているという悩み?気にしていること?があるんですね。何かをきっちりやる、ということをするマインドが、これまた一族でまるっと抜けているんです。ひたすらダラーッとしていて、向上心やプロ意識というものが感じられませんでした。なにも仕事でなくとも、本を読んだり音楽を聴いたりとプライベートを充実させるアクションは起こしてもよさそうなのに、夕食を食べたら全員がコタツやらでとにかくダラーッとして何時間もテレビがつけっぱなし。まるで一家全員、一酸化炭素中毒か何かで死んだみたいな状態でいるんです。そして『○○、風呂はいりなよ』『うん』みたいな最小限の会話でのそのそと順番に風呂に入り、寝る。……これが毎日毎晩、繰り返されるんです。私が勝手に悪印象を抱いただけなのかもしれませんが、『こんなダラけた連中と一緒に、生きたまま心も体も腐って行くような日々はうんざりだ!』と思っていました。大人になってから、『あ、この子はちゃんと躾けられて、何かをきちんとやるということを習慣づけてこられたんだな』と感じる人と出会うと、途端に劣等感に苛まれ、『ちゃんとやるということが子供の頃からの教育で身にしみてない自分が、性に合わないのにちゃんとやるのがどんだけ大変かわかる?理性で無理して抑圧して矯正して社会に適合できてるフリしてるんだよ?アンタはいいよね、そんだけちゃんとやるのがアタリマエだと思えてるわけでしょう?そりゃ生きやすいわ。羨ましい』とつらくなったりしました。ちゃんとした教育、というものを受ける境遇が、喉から手が出るほど欲しかったんです)



……例によって長々と綴ってきましたが、今振り返ってみても、この楽器修得プロジェクトに取り組んでみてよかったな、と思っています。

一番つらかったのは、習いはじめて「丸1年が経った頃~残す所あと1年半」となった、ここ数ヶ月でしょうか。

まだ「激伸び可能期」に到達せず、いくらやってもうまくならない、なのにもう習い始めて1年が経過してしまった……というときが、まるで時間も金も労力もドブに捨ててわざわざ失敗を買ったような皮肉な心地でした。

焦燥感がMAXになり

「ねえ!? もう習い始めて1年半が経とうとしてるよ?3年でどうにかしようとしてるんだよねぇ?こんなんで、どうすんの?1年半後に、これでどうにかなれるとでも思ってんの?」

と、スイッチが入ったというか、なにかがプチンと切れたというか、とにかく決定的なエネルギーシフトが起きたんです。

それからは、ある意味では狂ったように、毎日毎日、楽器の練習をするためだけに生きているような状態になりました。

練習のさなかにも、脳裏で

「馬鹿じゃないの?他のみんなは仕事でバリバリ活躍して、40代以降のために着々と進めているんだよ?なのにお前は、こぉんなヘタクソのくせに、しかももし上手くなっても仕事にできるわけでもない習い事のために本気を出して、膨大な時間と金と労力を注ぎ込んで。完全に計算ミスだね。そもそも音楽の素養は、幼いころにやらないと伸びないんだよ。お前は取り返しのつかないヘマをやらかしているんだ。なのにそれを認めず、延々と続けている。なんて無様なの?なんて愚かなの?惨めだね?蛙の子は蛙。怠け者の貧乏な馬鹿の子は、やっぱり怠け者の貧乏な馬鹿なんだよ。そもそも生まれも育ちも、ちゃんとした人たちとは決定的に違う。その差を埋めようなんて無駄。第一、30も後半になったアラフォーオヤジが、せめて今からでもちゃんとした人間になろうだって?子供の頃にちゃんとした教育と躾けを受けられなかった人間が、あとからいくらあがいたって、ダメなものはダメなんだよ。お前は一生、どんなに努力しようとも、怠け者で貧乏な馬鹿のまんまだよ。お前の遺伝子が、生まれながらに『負け犬』だってことを証明してるんだからさ!」

というような自分の皮肉が響くわけです。

自分にできることは無心になるというか、わぁわぁ茶々を入れる自分の声を無視して、ただただ機械のように弾く。弾くことをやめないということだけでした。

それで、あるとき1~2週間ほどでメキメキ上達して、「激伸び可能期」に入ったと確信できて、俄然、見通しが明るくなった形です。



突如、しっかり弾けるようになったことで、周りを冷静に見る余裕が出て、気づきました。

「俺、『なんとなく何年も趣味でやってます』って人たちを、急に追い抜いちゃったんだな」

と。

もちろん今でも、市民オーケストラで活躍しているようなベテランのアマチュアや、プロの人たちと比較したら、お話にならない腕前です。

でもそれでも、「趣味はフルートです」と言っているような一般の人の平均?と比較すると、1年半という短期間の間に、はるかに抜き去ってしまえたかなぁという自覚は、ようやくできてきました。

歌でもなんでもそうですが、ほんのワンフレーズ聴けば、うまいかどうか、わかるじゃないですか。
何か速い曲を曲芸みたいに弾いてみせるというようなことではなくて、「ド~」と吹いたその音だけで、

「あ、この人、うまい」

と音楽の素人でもすぐわかる、あの違い。(←伝わるかなァ)

そういう意味で、確実に以前の私より、別次元のうまさには到達できた自負があります。

あと、これを言うと本当におこがましく聞こえてごめんなさいなのですが、私が弾く楽器の音には、いわゆる他の人には出せない、エネルギー的な魅力?美徳?があるなぁと感じます。音を通じてエネルギーヒーリングをしているというか……。
(これは私が勝手に1人で思っているというのではなくて、先生方から驚きの表情で言われることがあるので、おそらく独りよがりな勘違いではないのでしょう←そうであってくれなくては困る)
となると、なぜか楽器を弾けるようになるべきだと直観していたのも、あながち間違いではないのかもしれない、、、と思えます。

そして、(ここに到達するまではさんざん、『仮にうまくなれたからって、どんな意味があるの?』と思っていたのですが)自分が手に入れた楽器演奏能力というものが、

お金じゃ買えない、プライスレスな価値を持つ財産
(マスターカード、なんちゃって)

だと気づきました。

そしてその能力が、(世間で価値を持たなくても、金を稼ぐ手段となりえなくても、いまさら自分がプロの楽器奏者としての肩書きをもたらしえないとしても、そんなことお構いなしに)自分が子供の頃から、本当に、本当~~~~~に、手に入れたかった能力なんだなと確信できました。

なんとなく忘れていたけれど、小学校の下校の途中で、まだ実物を見たことも触ったこともないハープというものに憧れて、なんとなく弾いてみるフリをして同級生から「なにやってんの?」と笑われて、「俺なんか一生ハープを弾けるようになったりはしないんだろうな。うちみたいな貧乏で、こんな田舎じゃ、習うアテもないし。ていうか、本物のハープをこの目で見ることなんか、この一生の間にあるんだろうか」と溜め息をついていたことも、思い出したんです。

これはものすごく独りよがりでスケールの小さい、優秀でお金持ちの人たちからしたら失笑ものなのかもしれませんが、このプロジェクトを通じて少なくとも、私は間違いなく、昔の自分が感じていた限界の壁を打ち破っているんです。
(もともとある程度、恵まれた境遇で生まれ育った人には、私のような田舎の貧乏人生まれの人間が、些細な贅沢やら望みやらのためにどれだけ憧れて、どれだけ『無理なんだろうな』と思ってしまいやすいか、想像もつかないのかもしれませんし)

自分の望み(楽器を習うこと、質の高い教育を受けること、暴力をふるわない家族に自分を受け入れてもらって日々を過ごすことetc)を全部、憧れて頑張ろうとはしつつも内心ゆるやかにあきらめて

「どうせ俺なんて、中学を出たら高校にも行かせてもらえず、○○さん(←父親の知り合いで、中卒で私を雇い入れてくれるとなんとなく言ってくれていた人)の自動車整備工場で働いて終わるんだ。それか、国鉄に就職するからと頼めば、日高(←うちの地元にあった、当時とても偏差値が低かった高校)くらいには進学させてくれるかもしれない。そしたら定年まで俺は日光駅で切符を切り続ける日々を送るのか。給料はいくらもらえるんだろう。一人暮らしはできるかな。結婚適齢期になったら周囲の言われるがままに、たいして好きでもない女の人と、なんとなく結婚するハメになるのか。それでカミさんと子供を養うために給料ぜんぶ持ってかれてるうちに、ジジィになって人生ほとんど終わっちゃうんだ。それで死んだら、世界で一番嫌悪して軽蔑する、あの暴力アル中オヤジと同じ墓に入れられるのか。……こんな人生なら、どうして生まれてきちゃったんだろう」

と静かに絶望して作り笑顔に徹していた少年時代の自分を、すくなくとも今の私は確実に救ったんだな、と。

誰にも助けてもらえないから、未来の自分が過去の自分を助けた、なんてもしかしたら所詮は「ぼっちの非リア充」ってことなのかもしれませんが、それでも以前よりはマシなんですよ。

また同時に、これもまた独りよがり度がハンパないかもしれませんが、

「なにかと大人になると金やら社会的地位やらを、周りの風潮に呑まれて気にするようになり、気がつけばそれを手に入れるために振り回されるような人生を送りそうなもんなのに、よくもまぁ、世間的なオイシサが何1つない(かもしれない)自分の願いを叶えるなんてことのために、一生を棒に振るようなことをやってのけられたもんだなオイ」

という点を誇らしく思うこともあります。

年齢相応の社会的地位がないんじゃね?的な話でいうと、私は確かに、一流企業で出世するというようなわかりやすい成功の形は選びませんでしたが(選んだところで叶ったものかどうかあやしいですがw)、

自分の意識が拡大して、現実の創造力は格段に上がった


実感はあります。

これもまた、証明するデータを出せと言われたらないんですが、世間的に言えば私なんかよりはるかに能力なり地位なりが高いとされる人と会ってお話させていただいたときに、

うわ、この人、ぜんっぜん意識ちいさいわ。霊的な真実にもほぼまったく気づけてなくて、まるで目隠しをされて生きてるようだな……大変そう。

と感じてしまうことがあるんです。
(言っときますが相手を馬鹿にするつもりはまったくありません。ないんだけど、思わずギョッとして驚いてしまうという感じ)

社会的な出世でどこまで行けるかを競う若い時代を、霊的な探求やら自己鍛錬(ヒーリング能力の訓練含む)やらのために費やしてしまった私は、他人と比較するなら出遅れているというか社会の底辺側にいるというかなわけですが、ものすごく大失敗しちまった、という自覚は、ないんだよなぁ……。

(社会的な基盤を築いてこずにアラフォーを迎えてしまっただけに、『そういうもの(=カイシャであらかじめ築いたポジションなど)なしでも自分なりに満足のいく立ち位置&動けるだけの権利?領域?を、今さらこれから確立する』のができるかどうかが、私が俗世間で生きるうえでの課題になってくるわけですが……。←でもこれも、自分が霊的な真実に目覚めて現実創造能力などサイキックなエネルギーをちゃんと使えるなら、べつに無理じゃないと楽観視してる。下手げに出世の鬼になったわりにある時点でリストラされるとか何かしちゃったら、それこそ立ち直れないし、立ち直るだけの力が自分になくて大変だと思う……んだけどみなさんどう思いますか)

プロジェクト折り返し地点に来てあらためて思うのは(←うわ、ここでようやく、タイトルの答え?前置き長いなー)、

(世間の価値観とは関係なく)人はそれぞれ、人生に何を望むかが異なっていてよい。だから自分の望みがどれだけ他人と比べて突飛なものに思えても、恥じる必要はない。そして、それを手に入れるかわりに他の何かが手に入らなくて誰かから笑われても、気にするかどうかは考えたほうがいい。他人やら世間やらとなにも対立する必要はないけれど、顔色を伺って自分に嘘をついて生きるほうが精神衛生上、不健全。それよりは、たとえ世間からみてどんなに変だとか駄目だとかおかしいとか言われようとも、自分が納得のいく生き方をできたほうが、なにより自分で自分のことを頼もしく誇らしく思える

ということかなぁ。。。

人生で何が正解か不正解かなんて周囲をキョロキョロ探しまわって自分を肯定してくれる誰かを探すのも大変けっこうだと思うんだけど、それやっても見つからないことのほうが多いわけでしょう?
もしくは、見つかって肯定してもらえても、自分のなかにモヤモヤが残って消えないとかさ。

これ書くとまた刹那的とか言い訳にしてるとも捉えられそうだけど、ある日突然、地震が起きたり津波に呑まれたり、そこまでじゃなくても交通事故とかまさかの事態で死んじゃったりするわけじゃない?人間って。
(もちろん厳密にいえばそれも潜在意識下では自分のほうで意図してるっちゃしてるんだけど、よほどじゃないと自分では気づけないよね)

だから、自分が気持ちいいかどうかを拠り所にするってのは、原始的だけど、一番信用できる基準なんだよね。
(注:自分の感覚自体が、何かへの依存症ぎみになってたりして本来の健全な在り方をしてないと、信頼しえないから厄介なんだけどね……。自分の場合は、創造主を介した霊視によって自分の『内なる神の声』がOKを出してるかどうか的なところで判断してます)

私の在り方は、アリとキリギリスでいえばキリギリス側に見えるんだろうけど、単なるエゴ的な願望達成とか刹那的享楽のために将来設計もなく遊んでるというんじゃなくて、アリとは違う「働き方、将来への備え方」を、リスクも承知のうえで必死こいてやってるという図式なんだよね。……世間的にみたら、ものすごく理解されにくい努力のしかたなんだろうけどw
P.S
音楽関連の話が出たので、いつか言おう書こうと思っていてついに言えなかった愚痴のようなことをおまけがてらに。

ミクシィが流行り始めた頃、20代半ばで会社員生活をこのまま続けることに真剣に悩んでた自分は、いまからでも音大に進学するのはどうだろうと考えてました。

それで、ミクシィのコミュニティなどで質問を書いたりしてたんですね。

そこで、プロフィール欄にさんざん美辞麗句を並べ立てて「なによりも心の癒しを」みたいなことを謳う、とある音楽教室のピアノの先生だという女性とやりとりが生まれたんです。

自分は耳年増的に、悪気があったわけではないのですが

「音楽家としてプロになるなら、東京藝大か桐朋学園、最低でも東京音大あたりに行かないと、という情報をきいたのですが、本当でしょうか」

というメッセージをその人に投げたんです。

そしたら、どうやらその方が出た音大は私が挙げたなかになかったらしく、そして拡大解釈して「なんだてめえ、アタシが出た音大はプロになれないってか?言ってくれるじゃないの」的な憤りを覚えたようで、ものすごい敵意むき出しの返信がきました。

うわ、しくじった。そんなつもりじゃなかったのに……と謝りの返信をしたものの、取りつく島も無い有様。

仕方ないか……と、気まずくはあったけどもうその人とはやりとりをしなくなったのですが、時々、忘れた頃に

「○○音大のピアノ科は、年齢制限が30歳までだそうです。世の中そんなものですよね。いいトシして音大に行こうなんて都合のいいことを考えてる人間を歓迎するほど甘くない。どこの音大じゃなきゃ駄目だなんて贅沢、よくも言えたものです」

などと、ものすごいイヤミなメッセが届くんです。

相変わらずその人のプロフィール欄は、美辞麗句のまま。

その人の逆鱗に触れていないのであろう知人などとの日記のコメントのやりとりでは、本当に朗らかで善い人のような言葉が綴られていて、とても私にあんな悪意の塊みたいなメッセージを送りつける本性を持った人には見えないんです。

その時点では私はまだスピリチュアルなことを学んだり、ヒーラーとされる人たちと会ったりはしていなかったのですが、

「人間、表に出してる綺麗な笑顔を鵜呑みにすると全然ちがうこともあるみたいだなァ」

ということを教えてくれた、印象深い出来事となりました。

(ある意味、これがあったからこそ、そのあとで『表面上はとても優秀で人格的にもちゃんとした、愛情深いヒーラー』のように演出している人のナマの凄まじい一面を見たりしても、そこまで動揺せず、『あぁ、このタイプか』と処理できたのかもしれません。なんでも役に立ちますな、人生経験ってのは)
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