大天使ウサギの死に寄せて

4/11未明、うちで同居していたウサギが死去しました。

このウサギは「なぜウサギに大天使の魂が宿るのか」でも登場したウサギで、マルチプルソウル的にウサギの魂と某大天使が1つのウサギという肉体に同居している状態で生きていました。

このウサギとは不思議な縁で出会ったのですが、はじめから何か特別なものを感じてはいたんですよね。
ウサギをもらってくるとき、自転車で取りに行ったのですが、後ろの台にウサギが入った木箱をゴムひもをまきつけて固定し、初夏の早朝をペダルこぎながら

「お前のことは俺が最期まで大事に護るからなー!!」

とハイテンションで家に連れて帰ってきたのを覚えています。

で、このウサギが来てからは、うまいこと会社員をやめてヒーラーとして独立できたり、築60年超のオンボロアパートからどうしても離れられなかった自分が(自分からはどうしても引っ越す決心がつかないので?大家が建物自体を取り壊すから立ち退いてくれと70万円を立退料として持ってきた上でお願いしてきてw、自腹では1円も使わずに)遂に引っ越しをする(そして今の、ヒーリングサロンとしてうってつけの物件が一発で見つかる)、ヒーリング業が軌道に乗り、パラオやオーストラリア、アイダホなど外国で滞在する経験もできた……など、もろもろミラクルなことが起きておりました。

まさにあげまんならぬ、

あげウサ

です。

ウサギに某大天使の魂が宿っていることがわかったのは、シータヒーリングのセミナーでおまけ実習としてこのウサギと話すということをよくやったため。

30人近い(あれ?以上だったかな?)受講生のほとんどが、このウサギを通じて某大天使とチャネリングしてたんですね。その受講生たちのコメントから、私も「へぇ、そうなんだ」と知った次第。

コメントの多くが

「usamimiを見守ってもいるし、監視してもいる」

という内容でした。

どちらかというと、監視しているという点を強調する人が多かったなぁ。で、みんな「何をしないように監視してるんだろう?」という点がバラバラだったりあやふやだったり。でもまぁとにかく、やばくならないようにとか、おかしい方向に行かないようにとか、そんなような内容でした。

そういうコメントを聞いて、「えー、何のために監視してるんだろうねー」とセミナー中の人前ではすっとぼけてましたが、内心は心当たりありまくりだったんですよね。
自分は(人前での温和な態度とは裏腹に←というか、素の自分が粗野で荒々しいからカモフラージュする意味でぽわーんとした雰囲気を演じてるといったほうがいいかも)短気ですぐヤケを起こすし、自分を際限なく追い詰めるところがあるし、自暴自棄になって何もかも積み上げたものを破壊しようとする自虐的なところもある。そういった危なっかしいことをしまくって、人生を台無しにしないように監視してるんだろうなぁ、と。

どれもこれもハズレではなかったのでしょうが、でも一番の見守り&監視目的としては、

自分が価値ある人間で、天職がスピリチュアルヒーラーであるということを心の底から認める

ということだったのかなぁと思います。

このブログ、、、というか、ツイッターのほうが顕著かな。私の書いたものを見てきた方は、私が「I am スピリチュアルヒーラー」と全面的に認めることから逃げようとしていたというか、はぐらかそうとしていたというか、否定しようとしていたというか、スピリチュアルヒーラーであることはよくない、あるいは「I am」で表現するような確固たる在り方ではないと言おうと躍起になっているような姿勢を見てとった方もいると思います。

どうにかして自分がスピリチュアルヒーラーであることを否定して、あくまでも拒否し続けていました。
その理由はそんなに特異なものではなく、やっぱりなんだかんだいって世間からみて認められにくいとか、差別されやすい?誤解されやすい?社会の一員として職業名に掲げるにはあんまりにも信用に欠ける……とか、せいぜいそのへん。
エゴ的に、自分を俳優だとか、音楽家だとか、作家だと言いたい気持ち(見栄?意地?)もありました。
特に自分の場合、会社員時代にも希望する会社や職種になれなかったり、華々しい出世街道を歩むスター社員のような動き方ができなかったこともあり、ヒーラーに転向したことを自虐的に

「現実社会で通用しなかった落ちこぼれが、同じように落ちこぼれの変人だらけの『スピリチュアル業界』なんてインチキな領域で詐欺まがいのことをやってどうにか貧乏暮らしをしてるってわけか。哀れだね!社会の底辺を這いずり回る負け犬くんよ!」

と惨めに感じたりもしていたのです。

スピリチュアルヒーラーなんてダサい、カッコ悪い、うそっぱちだ……という世間の偏見のほうに同調して、スピリチュアルヒーラーである自分がまるで被差別カテゴリーの人間であるかのように感じてつらくなることもありました。

ようするに、自己否定しまくりだったんですね。
大雑把に列挙すると、

・自分の人生は失敗だった(←『これまで現実に起きた人生のほうが最高最善である』という真実の否定)。

・自分の天職がスピリチュアルヒーラーなんて屈辱的なものであってたまるか(←スピリチュアルヒーラーであるということがどういうことかの認識が歪んでる)。

・自分が本当になりたいものは、声優・俳優に違いない(←これはもともと、『どうやら演劇に命をかける人たちと自分は違うなぁ』とうすうす感じていたのに、気づかないフリをしたり『そんなことはない!』と否定してやりすごしてきてしまった。でも去年~今年にかけてあらためて劇作や舞台俳優を本格的に経験してみて『やればできなくはないし、やりようによっては価値ある自己表現の場として活躍することもできるのは間違いないけれど、天職としての俳優さんと自分はやはり、決定的に違うなぁ。上手い下手の問題ともまた別に、“これ!(≒I am 俳優)”という確信が魂に刻まれているかどうか、みたいなレベルで真の俳優と自分は、人種が違うや』と痛感した)

あたりかなぁ。こういう想いが複雑に?絡み合って、自分という人間など、自分という魂など存在するに値しない、くだらないものだという無価値感、無意味感が人生の根底に流れていました。

でもそれが、(なぜかは自分でも理由を把握しきれていないけれど)ここにきて根本的に、変わった。

ブログやツイッターで今年4月上旬の投稿をみると、これまで自分が一度も肯定したことがなかった(肯定することができずにいた、肯定することを自分に許可していなかった)らへんをいきなり肯定できるようになってるんですよね。

ウサギが死ぬ2~3日前に、なんとなく

「これからあとどれくらい、このウサギと一緒にいられるんだろう」

とも

「このウサギが危なっかしい自分を見守ったり監視したりしているというなら、いよいよその必要がないくらいに、自分は大丈夫になってきた気がする」

とも

「ウサギのなかの某大天使とは、こうして生き物という物体として目の前にいてくれなくなるとしても、いつも普遍的に繋がっていて、いつでもどこでも超感覚を通してコンタクトをとることは可能なんだよな」

とも思うようになってたんです。

うちのウサギは特段、どこか体調が悪いという様子もなく、また病気で弱っているというわけでもありませんでした。

だから4/10~11に日付が変わる夜も、ウサギはべつにどこも具合は悪くなさそうでした。
(ただ、だらーんと人間が寝るときみたいに四肢を伸ばしていることが急に多くなってきたなとは思っていました。でもそれは気候が暖かくなってきたからリラックスしてるのかなと思っていました。もしかしたら老衰の兆候だったのでしょうか……)

そしてこの夜、なぜか真夜中にウサギをケージから出して、ケージを徹底的に掃除し、ウサギの爪を切り、毛並みをブラッシングして、胡座をかいた自分の脚の間にウサギを埋めたような状態でなでながら、話しかけていました。

生まれて物心ついてすぐ自尊心その他もろもろを粉々に砕かれて以来、30年以上もずっと自分を否定して生きてきたが、ここにきてようやく自分をありのままに肯定することができるようになった。
その底知れぬ喜びに、どちらかというと浮かれて、上機嫌でウサギをかまったのです。

「俺、もうお前がいなくてもやっていけるかもしれない」

と、誇らしい気持ちで、声に出してウサギに話したりしていました。

抱っこして持ち上げるとなんだかやけに軽いなぁ、とは思いましたが、餌は与えているし、それをちゃんとモリモリ食べてくれているし、ウンチやオシッコも健康そのものだし、体格も肉付きもしっかりしているから、そこまで気にすることもなく、珍しく長いことウサギをかまっていました。

ウサギをケージに戻して寝ようとするとき、

「たぶん、このまま朝が来てウサギが死んでいるとしても、自分は取り乱さず道を誤ることもなく、ちゃんとしっかり生きていけるはずだ」

とふと思いました。
やだなぁ、なんて不謹慎な、と心の中で苦笑して床に就いたのですが、まさか本当になるなんて。

その夜は全身麻酔でも打ったみたいに深い眠りにつき、翌日は昼近くまでまったく目が覚めませんでした。

目が覚めたときは、「さぁ、しっかりしなきゃ!」と妙に意気込んで起きたのを覚えています。

ウサギのケージを見ると、いつものようにトイレ兼ソファーになっているポットに寝そべったポーズで、こちらを見ていました。

「あはは、まさか死んでるわけないよね」

と安心して近寄ると、やっぱり死んでいるのがわかりました。

これまでにウサギを飼ったこともありますが、どの子も死ぬときは頭を上向きにのけぞらせて、四肢をピーンと張りつめて「気をつけ!」のような姿勢になって硬くなっていました。ウサギの飼育書をみても、死ぬときはそういう格好になると書いてありました。

が、このウサギは、普通~に、毎朝顔を合わせるときにとっているのとまったく同じ寛いだポーズのまま、冷たく硬くなっていました。こんなことは初めてでした。

ウサギが死んでいるのを見ても、まったく驚かなかった自分に驚きました。

そして、まったく悲しくない自分にも驚きました。
とても不謹慎なことかもしれませんが、最期まで納得のいく飼い方ができたし、この子の見守り&監視の要件をすべてクリアしてお別れできたことが誇らしく、達成感のような喜びさえ感じました。

死後の処理手続きもろもろを淡々とこなし、昼にふと、この間銭湯で見たワハハ本舗のラスト公演のポスターを思い出しました。
何気なくネットで調べてみると、チケットは完売しているが当日券が出るとあり、ゲストは山本リンダとのこと。
ワハハ本舗の公演は観たことがないのにこれが最期の全体公演らしいし、山本リンダもまだ生で観たことがなかったので、とるものもとりあえず家を出て劇場に行き、どうにか当日券を手に入れて14:30に開演。
そしたら、ウサギではなかったけれど、犬のペットを拾ってきて死ぬまでの一生がスライドで映し出されたり、生と死、それによる別れをモチーフにしたコントがやたら多く、いまの自分にとってタイムリーすぎて苦笑してよいやら泣いてよいものやら。
(これはおそらく、この公演が『ラスト』と題したワハハ本舗最期の全体公演だったからでしょう)

人間の勝手な言い分かもしれませんが、ひたすら明るいバカ騒ぎを観ながら、

「ほんとに素敵なお葬式だね!これは俺の気持ち。いままでありがとう。そして次のステップに進めておめでとう!お祝いするから、心おきなく旅立ってね!!」

と、心のなかでウサギを見送ったつもりになりました。

俺とお前の間に、湿っぽさなんか似合わないよね!俺とお前の関係は、始まりから終わりまでずっと陽気に明るいまんまなんだぜ!!

少し強がってそう思いながら、同時に、自分の死についても、何かビジョンというか、見通しが立った気がしました。

このウサギは他のウサギと違って白目をむいて四肢を突っ張らせてのけぞった姿勢になったりせず、すごく自然に、リラックスした様子で、おそらく安らかに息を引き取った。この上なく優雅に温和に、見苦しさを微塵も見せずにこの世を去った。そして悲しさや湿っぽさのかけらもない、この上なく陽気な葬式で見送られた。

このウサギにできたということは、きっと自分にも可能だということ。
見苦しくなく自然に優雅に安らかに死ねるはず。そして自分にとっての死は、次への旅立ちのためのお祝い事。
葬式で誰かが泣くとか、湿っぽく気難しい顔をして真面目にしていなきゃいけないような雰囲気が醸し出されるなんてまっぴらごめんだ。むしろ、ひたすら明るくばか騒ぎして、陽気に送り出してもらいたい。来た人には、「こんな楽しい葬式は初めてだ!」と嬉々として帰っていってもらいたい……。

そう思いながら、いま自分は人生で初めて、自分の葬式に誰かが来てもらえることを想定できていることに驚きました。
子供の頃から、馬鹿みたいだと思われるかもしれませんが、自分の葬式のことを考えると憂鬱でした。いったい誰が来てくれるんだろう。というかそもそも、葬式なんて開いてくれる人がいるんだろうか。もし開かれたとして、義務や義理で来た人がいるとして、「あー、なんでこんな奴の葬式に出なきゃいけないの。早く帰りたい。ほんっと、死んでまで迷惑な人ね。貴重な私の時間を奪いやがって!」と憎々しく思われるくらいならいっそ葬式なんか挙げなくていいと真剣に考えていました。
先祖代々の墓にあの家族と一緒に葬られるなんてまっぴら御免だから無縁仏として葬ってほしいとか、火葬されるのが嫌だからフリーズドライ葬で粉々にして海でも山でもどこでもいいから撒いて自然に還してほしいとか、自分なりの死に方の希望はありましたが、とにかく自分の死によって他人の手を煩わせ、そのことによって自分がより一層他人から疎まれ、恨まれるのはもっと嫌でした。
(心から自分のことを偲んでもらえるという想像はとてもじゃないけどできませんでした。自分は誰かにとって、覚えていたいと思ってもらう価値などまったくない人間だと思っていました。世界中のどんな嫌われ者であっても誰かしっかからはほんの少しくらいは愛情をかけてもらえるだろうけれども、自分にはその資格すらないと思っていました)

自分は生きるに値するし、死ぬにも値する人間だ。

生きるに値する~系の想いは、ヒーリング各種でそこそこ以上に呼び覚まされてた感はありましたが、死ぬに値すると思えたのは、これが生まれて初めてでした。
(死ぬに値する、葬式を挙げてもらうのに値する、他人から偲んでもらうに値する……って信念チェック、シータヒーリングのどんなセミナーでも実践会でも、よく考えたら見たことありませんでした。灯台下暗し的な盲点だな)

なんていうか、このウサギとの出会いそして共に歩んだ日々、さらに今回の別れ。この一連の経験が、私という人間の原初の歪み——自分の根源的な存在価値の否定—ーまでもを、矯正していったのだと気づきました。

ときには思うようにならないことがあると、八つ当たり的に

「おい!お前、大天使のくせになんにもしてくれてねえじゃん。思ったようにならなかったじゃねえかよ。この役立たずが!」

と愚痴ってみたことも(たびたび)ありましたが、そういう目先の(実はどうでもいい)願望が叶う叶わないということを大きく超えた、もっともっと深いところでこのウサギは自分のことを見守り、監視し、導いてくれたんだなぁと今ならわかります。

今これからの自分にできるのは、このウサギに恥じない生き方、死に方をすること。

ようやっと、真人間(まにんげん)になれたような気がします。これまでありがとね!!

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