本気を出せない理由(セルフワークメモ)

私は人前で本音を言わずテキトーにお茶を濁したり、自分の能力をちゃんと表に出すことをせず馬鹿で無能なフリをして他人から侮られると安心するようなところがありました。

自分で望んだ資格試験や仕事などでも、頭では頑張ろうとしているのに、体が頑固に抵抗して、なんとしても全力を出すまいとする反応をするのに困らされました。

嫌われるのが怖いのかなとか、もし全力を出してそれでもうまくいかないことがあったら立ち直れないから手を抜いて自分に言い訳をしているのかなとか、いろいろ頭では考えつきましたがどれも(霊視して思考パターンを紐解くと)違ったんです。
自分で自分にそうさせる契約や誓い、呪いなども解消できているように観えていて、じゃあ何が?という点が疑問でした。
この場合、(他の要因が消去法でなくなったので)自分のBeliefの何かが土台になっているのは明らかでした。

で、辿り着いたのが、本当〜〜〜〜〜に何気ない、小学生(2〜3年?)の、とある日のとある瞬間。

当時の自分は、できることはやり、思ったことを率直に言える、欲しいものは欲しいと言ってそれを求める行動をとるタイプだったのですが、「出来の悪い子たち」と自分が同じ扱いを受けていることが解せず、努力が報われていないような不満が募っていっていました。

わかりやすくいえば、勉強も運動もぜんぜんできず、性格的にも暗くて意地悪でそれでいてすぐ人のせいにしたり他人の足手まといにしかならないようなクラスメイト、弟が、自分と同じように扱われることに納得がいきませんでした。
(特に、学級会などで全体の進行の妨げになるようなことをした同級生と、必死にあれこれ動き回ってその事態を回復させた自分が、同じ給食を食べるのが解せませんでした)

それどころかむしろ、能力が劣っていたりするのに人から愛されたり、護ってもらえるのがずるいような、賢いような気がして、憧れました。

(もっというと、常にトラブルメーカーとして『どうしようもない』人間と私には思えるように生きている弟のほうが、私よりも家族や世間の人たちから愛されているように感じて不満が募っていったんです。『誠意を尽くして全力で努力して周囲を喜ばせようと接している自分よりも、しょっちゅう迷惑をかけて危害を加える弟のほうをみんなが愛するなら、もう自分は二度と誰に対しても誠実に接したり、努力したり、喜んでもらおうとなどするもんか』と感じたんです)

「この世にとってマイナスになるようなパフォーマンスの人間と、プラスになるようなパフォーマンスの人間が同じ扱いをされてしまうのだったら、なにも無理して真面目に努力して頑張るなんて、馬鹿げている。とことん人に迷惑をかけっぱなしで何一つ恩返しをしないような、人間のクズみたいに生きたほうが、どう考えたって良いのではないか」

という結論に、行き着いたのが、その瞬間でした。
行き着いた、というか、何か張りつめていた糸がプツンと決定的に切れた瞬間でした。

「真面目に頑張るのなんか、金輪際もう、やーめた」

という思いが静かに、しかし確固に頑強に成立した瞬間でした。

そのときから私は意図的に、確固たる信念をもって、何事にもテキトーに手を抜くようになりました。

がんばって褒められても何一つ良いことなどない。むしろ、面倒を背負わされ、他人の尻拭いをさせられ、ただただ不利益を被って終わり。
一方、周りに迷惑をかけるだけかけてなんの責任もとらない人間のほうが、なぜか許され、罪悪感を感じることもなくケロッといいとこ取りをする。それどころか、自分の要求を満たさない他人や社会を被害者意識むき出しで正々堂々と責めたりする。相手に謝れと言ってくることすらある。

私はその不満を、わざと自分の能力を発揮しないことで、この世界に対して復讐しているつもりになっていました。

「オマエらが俺をグレさせた。俺が力を発揮しないことで、オマエらは『もし俺が本気を出したら得られたであろう恩恵』を得ることができない。ざまあみろ」

「あ、オマエは今、俺が馬鹿なフリをしているのを鵜呑みにしたな?信じたな?……馬鹿な奴め、演技に決まってんだろうが。あーあ、ほんとに愚かだな、クズが」

という、とんでもなく上からの何様な思想を、日常生活のいちいちで発揮していました。

この復讐は終わることがなく、常に常に「本当はできることをできないと言ってやらないことで、他人を見殺しにする。事態が悪化していくのを、『うわぁどうしよう!僕は無能だからどうすることもできないよォー』とオロオロするフリをしては、内心ニヤリとほくそ笑む」という行動パターンを繰り返していました。

すべてはかつての自分の絶望(からの反動)だったのですね。

で、そう思い込んでしまった要因に

・「こう行動した人にはこういう反応を返すべきだ、これだけの報酬が支払われてしかるべきだ」と決めつけている
 (が、それはただの思い込みであって真実ではない。世の中には、そう思わない人もいる。なのに自分の勝手な決めつけどおりにならないと不満を抱くのはナンセンス)

・他人の承認や評価、具体的な報酬で「自分の(存在、行動実績などの)価値」を測ろうとする
 (価値を他人の判断に委ねてしまうと、誰かに媚びる奴隷になってしまう。また他人の価値判断基準が自分の価値を正確に測れるものだとは限らない←むしろ、人は客観的な判断基準を持ち合わせないものだから、もし認めてもらいたければ、自分から『これは良いものなんだ』とアピールして、相手の判断基準を『自分が提唱するものを良いと判断する』ように変えていく必要がある。どこまでいっても人間の判断は、それこそ神が定義したとおりの『真実の価値』とでもいうべきものを正確に体現することはまずない)

があるなぁと気づき、しかるべくBeliefを置き換え。

そのうえで、

・「なんとなくみんなから好かれたい、評価されたい」ために生きるのではなくて、自分が大事だと思えたことを体現するために生きる。

・価値は自分で決める。他人がゴチャゴチャ言って嫌ってきたとして、それが絶対に正しいわけでもない(つまり、誰かから自分に向けられる批判や嫌悪を、相手にする価値が常にあるとは限らない)。

・他人からの評価を得たいなら、ただなんとなく自分が正しいと思うことをやっていてもうまくいかない。面倒でも、評価するその人ごとの判断基準をこちらが汲み取り、それに合わせてパフォーマンスをするとか、相手がわかる形で表現して伝える努力をするとかが必要。相手の判断基準が自分を良いと評価しないものになっていたら、「いや、これは良いものなんだよ。なぜなら〜」と、相手に判断基準そのものを変えてもらえるように説得するというアクションが必要。そのプロセスを省いて「なんで自分は評価されないんだ!」と嘆いたところで、自業自得

……というような思考を成立させました。

あらためて、

自己アピールって大事

だなと思いました。

特に、個々人で判断基準が違うから、「自分を信じていさえすれば、いつか人はついてくる。いつかみんなが認めてくれる」という綺麗事は万能ではないことも、(このトシになって今更ですが)わかってきました。

また、自分の有様ややっていることを「評価しない、嫌う」価値判断基準を持っている他人に対して、これまでの私は

「あ、そう。じゃあ、しょうがないですね」

と(よかれと思って)引き下がっていました。
が、もし、そう思う人にも好かれたい・評価されたい場合には、自己アピールやプレゼンテーションを通じて、相手が自分をプラスに評価するように、その人の価値判断基準を変えてもらえるよう働きかけるアクションが大事なんだと気づきました。
(私はかつて、『人間の有様を操作するような働きかけを、天界の某マスターの生まれ変わりである自分がすべきではない。人間界にマスターの化身が介入するのはよくない。それは人間同士にやらせるべきであり、マスターの化身は一歩ひいたところから人間たちを見守るに留めるべきである』という思いが強固でした。が、それも1つの思い込みにすぎないなーと今は思えたところです。もっとガシガシと人間界に手を入れていってもいいんだーと思えるようになりました)

ここまで成立してようやく、自分が本気を出さないと、自分が損するだけなんだというシンプルな仕組みに合点がいったという……。
どんだけ生き方不器用やねん!って感じですわ。

P.S
スピ系の人は、アピールとかプレゼンテーションとか、他人を説得してついてこさせるというのがそもそも苦手だったり、「それをするのは悪いことだ」と思い込んで後ろ向きなスタンスの人が多いと思います。

あと、「いまあるものを変えるのはよくない。自分は、目の前に現れる現実がどんなものであっても、それに『自分のほうを合わせる』のを善しとする。自分が周囲に手を出して、周りを変えるなどもってのほか」という考えを持ってる人も多いですよね。

が、その思いが本当に本当に、これからの自分が抱え続けることが有用なものかどうかは、考えてみてほしいなぁ。なーんて。
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