質問タイムのお国柄

セミナーや講演会で、質問タイムってありますよね。

日本だと、

「質問をするからには、この場の全体が『たしかにその質問なら全員の時間を割いてでも今、質問してもらってよかったと思うし、講師が答える意義がある』と思えるものでなければいけない」

系の思い込み(というか教育による刷り込み)があるみたいです。

(ちなみに私、不思議とないんですよねそれ。そのために周囲の人から『テメエそういうことは休み時間に個人的に講師に聞きに行けよ。なにか質問ありますかってのはマナー的に言ってるだけで、そういうときにほんとに手を挙げるようなKYはお呼びじゃねえんだよ』という顰蹙をかったり、非難の目線を浴びたりすることも子供のころからありました。が、ぜんぜん気まずいと思ったことないし、そういう無言のプレッシャーかけてくる人に怖れをいだいたり悪びれたりしたことすら一度もないんだよなー。←そういうネガティブな感情を感じ取る受容体が閉じてるらしいw)

そのため、誰も質問タイムに手が挙らずシーンとして講師が「ないようなら、終わりにします」みたいなのが一般的だよね。

ほんとに質問が思いついてないとか、全体の場で質問するにはあまりに的確でないので自粛(あとで個人的に聞きに行こう)……という理由でしてないならいいけど、質問したい気満々なのに、気後れして手が挙げられないというのなら、さすがに残念な気が。

個人的には、日本だと質問するにしても

講師にすべき質問を、たまたま隣に座った人とか、一緒にセミナー・講演を受講した友達にしてしまう

人が多い気がする。

そのほうが気楽というのもあるのかもしんない。あとスピリチュアルなセミナーでは特によくあることだけど、

もし講師に質問してしまった場合、自分にとって不都合な答えが返ってきてしまうことが想定される

ので、それが厭だからわざと、イエスマン的に自分の質問に「うーん、たぶん、、、そうなんじゃない?」と相槌を打ってくれる友達に質問(のフリした、自己主張)するケースが目立つんだよなァ(しかも女性に多い)。

これはとても残念です。

友達への質問ならいつでもいくらでもできるでしょ。
それに、もしその友達が、自分と同様にその分野に詳しくなくて初心者として参加してるなら、初心者に質問したところで、得られる答えが的確である可能性ってどんだけよ、、、ってことですわ。

逆に欧米(っつっても国や地域、個々人の性格ごとに若干の違いはあるんだろうが)では、子供の頃から

「あなたは世界にたった1人しかいない、かけがえのない存在。だから、あなたが思い浮かべたことはこの世に1つしかない素敵な宝物。それは是非、他人にシェアする価値がある」

系の教育をされるケースが多いようで。

で、講師が何か質問は?と言うや否や、クラスにいるほぼ全員の手が一斉に上がる、と。

(でもこれは必ずしも講義にとってプラスという意味にはなりえないらしく、世にもくだらない一個人の感想を延々と述べるだけの人もいたりするらしい←欧米に留学した人たちの談なので俺はよくわからない)
※ちなみに私はアメリカのTHiNKに短期留学らしきことをしたことがありますが、世界各国からいろんな人が集ってはいたけど、そんなに質問タイムのときに手が挙がらなかったんですよね。だから欧米人なら絶対質問しまくり、と決めつけるのも違うようです

こういう違いって面白いね。
異文化交流の良い点としては、互いのこういう文化の良い所を取り入れることができる(かもしれない)ってことだったりもすんのかしら。

ちなみに自分は霊視能力を活かして、その場の集合意識を読み取り、

「わりとこの場の大多数が知りたくて質問したいと思っている……が勇気がなくて手を挙げられずにいる」

質問内容を、代表といわんばかりに手を挙げてすることが多いです。
(そうすると、『ハァ?てめえ何わけのわかんない質問してんだよ馬鹿じゃねーの?』という顰蹙も買うことなく、むしろ『よくぞその質問をしてくれた!』という無言の称賛を感じ取ることができて素敵です←ちゃっかり、ポジティブに自分が褒められる想念への受容体はビンビンという都合の良さ←悪いと思ってません、誇らしいです俺)


で、ここからは私個人の勝手な意見なんですけど、質問する人というのは(自分自身がする場合も含め)

「質問するからには、『なぜいまこのタイミングで、この人に質問をするのか(何が知りたくて自分は質問するのか)』について自覚できていたほうが望ましい」

とは思っています。

質問にも質があるし、一定以下の質の質問をするというのは、実際、他の人たちに対して失礼になることもありうると感じます。

それこそ講演やセミナーだったら、その人の経歴がWikipediaにあるなら2〜3秒でもいいからざっと目を通しておきさえすればしなくても済んだであろうカンタンな質問(例:出身地はどこですか)や、そうした前提知識がないからしてしまうトンチンカンな質問(例:(舞台演出経験のない小説家に対して)舞台の演出をたくさん手がけてこられたと思いますけど、いつもどんな点に気をつけて演出していますか?)というのは、やっぱり、避ける努力はしたうえで受講に臨むのが望ましいと思います。

「ごめんなさい、私、頭が悪いから……」

を免罪符にする人って、けっこういるみたいですけど、いくら頭が悪いといったって、たとえばネットにつながるパソコンや携帯電話を持っていて、それらを『単語を検索サイトに打ち込んで結果を見る』程度には使えるなら、話し手のおおまかな経歴くらい調べておくというのは、もう頭の良し悪しの問題ではないと感じます。それはもう、講演やセミナーで会う講師・講演者に対する礼儀と誠実さ、そして他の受講者・聴講者たちへの礼儀の問題だと感じます。

それに加えて(これは『それはシビアな要求やろー』と思う人もいるかと思いますが)

「なぜ、この質問を、この人にするのか」

が見えない質問というのは、もし自分が受講生として参加したセミナーや講演で、他の人がしていたらしらけますね。

スピリチュアルなセミナーで顕著なんですが、たとえば天使とのチャネリングをウリにした講演者に向かって、

「ブッダは現代の仏教の普及状況を、どう思っているでしょうか?」

という質問をするのって、私にはどうしても解せないんですよ。
(注:これは例として出しただけで、ほんとにそういう場面に遭遇したわけではありません)

だって講演者は天使の専門家(少なくともそう称して人前に出てきている)なわけで、ブッダとか仏教についてのエキスパートじゃないわけですよね。

だとしたら、その質問をこの講演者に向けてする意義ってどこだろう……と思ってしまうんです。
いったいどれだけ信憑性のある、信頼できる答えが返って来ると期待してるんだろう……と、質問者の常識を疑います。
(そしてさらに、講演者が苦しそうにどうにか回答すると(その回答の内容がぶっちゃけ、参考にならないようなものであっても)必死に真面目にノートに得られた回答をメモするんですよね、そういう質問者って。なにそれ?と思います。その道の専門家でもない人間がどうにかこうにかひねり出した、正しいかどうかもわからない答えを、あっさり信じ込んでノートにうつしてしまうって、どんだけ自分の信条がないの?判断力が欠如してるの?情報弱者なの?騙されやすい馬鹿なの?……と思ってしまいます)

上の例でいうなら、“あえて”天使の専門家に仏教やブッダのことを聞くという狙いがあるなら別ですけど、

「いや私、個人的にブッダと仏教についてすごく興味があって」

というだけでしているなら、正直いってその場にそぐわないナンセンスな質問をしていることになると思うんですよね……。

過剰に「自分がこれからしようとしている質問は、全体の場でするに値するだろうか」と気にしてビクビクするのも能がないとは思うのですが、気にしなさすぎなのもどうよ、と個人的には思います。
(あえて『いいじゃない!手を挙げない奴は臆病者の弱虫なんだから。手を挙げた人間がどんな質問をしたって、それに文句を言う権利なんかないの!だから私は、他人がどれだけ眉をひそめようとも、私がしたいと思う質問を講演者にぶつける!』というスタンスの人は、それはそれで潔いとも思いますが←私自身、こうすることも場合によってはありますし)

……って、上にある罫線から下については「追記」に書いたわけですが、これをなんで本文に書かなかったかというと、

「じゃあどうすればいいのか(どうすれば質問力が上がるのか)」

についての答えなり個人的な考えなりを書けてない(=ただ単に愚痴っぽく書いてるだけで解決策を提示できてない)からです。

これを読んで

「えぇー、じゃあ私は、とてもじゃないけど自分の質問が素晴らしいかどうかなんて判断がつかない。やっぱり、質問したいことがあっても黙っていよう……」

みたいになられても困るんですが、問題提起の意味合いで、あえて書いてみることにしました。

だって、あまりにもその場にそぐわないトンチンカンな独りよがりの、「いったいその質問をその講演者にぶつけてどうなるっていうんだ」的な質問を好き勝手にする人が、スピリチュアルなセミナーだと多すぎるんだもん!!

(と、独りよがりな個人ブログぽい説得力のなさで、よりによってこの記事の追記は終わる)
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