密林の語り部

読みました。
    ↓
密林の語り部 (岩波文庫)密林の語り部 (岩波文庫)
(2011/10/15)
バルガス=リョサ

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バルガス=リョサ初体験だったんですが、ストーリーから文体から正直いって難解で、さらっと読めるものでは到底ないですね……。

あえて、さらーっと、あらすじをなぞってみましょう。

主人公である「私」の大学時代の同級生が、(誰にも決意を告げることなく、法律家や学者になるとか就職するといった一般的な進路・社会生活まるごとを捨てて)密林の部族たち(マチゲンガ族)の「語り部」として生きるようになっていた……ということを後から知る。


というものです。
(これだけだと全然わからないですよね……)

この本のなかで出てくるマチゲンガ族は、世界規模で広がる「いわゆる西洋文明」にまだ影響を受けていない、もっといえば「西洋文明に汚染されていない」社会という意味合いで描かれます。

そこへ、マチゲンガ族の人々がわかる言葉に聖書を翻訳して読ませてどうにかしてキリスト教を普及させ(その思想を刷り込み)、さらに貨幣経済や私的財産といった西洋の文化スタイルを定着させようとする人々が現れます。あくまでも、善かれと思って、彼らをより幸せに豊かにするお手伝いをしてあげるというつもりで。

しかし後に語り部となる「“私”の友人」は、そのことを、部族のルーツを穢して彼らの文化を失わせる行為だと憤慨します。
そして部族に伝わる神話などを学問研究のニュアンスで現地に赴いてインタビューなどを通じて調べはじめたら、いつしか自分のほうが知識が豊富になり、部族たちから「語り部」と呼ばれ、請われるままに話をするようになる。そのなかで、本当にその部族の語り部になっていった。もっといえば、「自分が(DNA的にいえばその部族の生まれではないのに、魂のルーツとして)その部族の語り部だったのだということを“思い出して”、本来の自分のアイデンティティに沿って生きるようになった」という流れ。

この友人に起きた一大変化を後から知って「私」は、

語り部が話すように話すことは、その文化のもっとも深奥のものを感じ、生きることであり、その底部にあるものを捉え、歴史と神話の真髄をきわめて、先祖からのタブーや、言い伝えや、味覚や、恐怖の感覚を自分のものとすることだからだ。(そんなことを、その部族の生まれでもない友人がやろうと思うなんて。やっているなんて)」

と訝しがるような、感心するようなことを思います。

つまりここでいう「語り部」とは、「演じる」に近いというか、

語りを通じて、その民族ならではの喜怒哀楽や思想や感性といったものを、表現する俳優

といったニュアンスまで含む存在のようでした。

まさに部族は語り部の語りを聞くことで、自分たちが何者であるのかを再確認し、自分たちの部族としての軸がブレないようにしているというわけです。

語る、というのは、それほどまでに大きな力を持ちうるわけですね。



私はこのブログでも以前、「『日本語なんて子供に覚えさせるだけ無駄!』と聞いて。」に書きましたが、日本人が自分の国の文化やルーツ、他のどの国・民族も真似のできない独自の感性といったようなものにあまりに無関心な様子に嘆いていることを書きました。

密林の語り部を読んで、そのことをさらに痛感させられた感じです。

どの国や民族にも神話がありますが、それは単なるお伽話・むかし話というだけではないんですよね。

この国(の民族)は、これこれこういうモノの考え方をする連中なのだよ。こんなふうな美意識・価値観・倫理観・信条を抱いてきたのだよ。

……ということを描いている
んです。

それをなくしたとき(≒その民族が持つ神話や音楽、踊り、言語、風習といったものすべてが失われたとき)、もうその民族はその民族としてのアイデンティティを維持できないのではないでしょうか。

いわゆる「グローバルスタンダード」な今の貨幣経済の仕組みに則り、無限に利潤を追求することに追われる国際ビジネス競争で闘って勝つことは、日本にとって・日本人にとって本当にそこまで大切なことなのでしょうかね。
また、グローバル社会で先進国という勝ち組でい続けるために、それこそ
「日本語なんて覚えるだけムダだ!子供には英語だけ先に教え込めば世界で有利に闘える!」
となってしまったとして、日本という国は、日本人という民族ははたしてほんとうに、日本のままでいられるのでしょうか。日本人のままでいられると言えますかね?(大丈夫、というならべつにいいっちゃいいんですけど)

もしくは
「日本人らしさを失ったって、いいじゃないの。そんなのどうでもいいよ。問題ないよ。それよりも国際競争で勝って金持ちになって豊かで幸せになるほうが大事でしょう?」
という考え方?

いきなり話が飛ぶかもしれませんが、女優の浅野温子さんが古事記を読むというプロジェクトを以前から続けておられますよね。そういうのって、存外に大事なんじゃねえの?……と私は思ったわけですわ。

私個人としても、(まだ作家としてプロデビューしたわけでも今後する目処があるわけでもないのに大それたこと言ってて恐縮ですが)日本人として、これが日本人なんだなぁと受け手に伝わるようなモノが書けたらなぁと思いました。
(これは何も、わざとらしく『日本人とは、こういうものだ!』というテーマの作品を描くということでなくともよいと思っています。テーマとしてはどんなものを描こうと、そこに『ああもう!これってどうしようもなく、“日本人ー!日本〜っ!!”て感じだよねぇ』というのが滲み出ててくれたら嬉しいよなー、という)

それと同時に、いわゆる物語の創作というのは、「社会にとって何の役にもたたないムダなこと」ではないんだなぁ、とも思いました。
(私はわりと、作家や俳優になることは、いわゆるビジネスの世界でみんなが頑張っているのに『すいません、なんの役にも立たないことのために時間や労力を費やして国民の1人として何の貢献もせずに生きてて』という罪悪感から逃れられなくなることなのではと若い頃かなり悩んでいました。←ほんと、お門違いな悩みだったけどw)

私が日本人であるために&日本らしさを体現する作家/俳優であるために、具体的に何をどうすればいいか、が見えてるわけじゃないんですが、少なくとも、自分のルーツに多少以上のこだわり・関心を持ちながら生きるって、自分の頭で考える以上に大切なことみたいだなぁ、とは思いました。

頑固になるのも芸がないけど、なんの信条もなくただ目先の便利さだか快適さにつられて浮き草みたいに流行を追ってそれがイケてることだと思い込むのは、もっと芸がないよなぁ、というか。



P.S
2010年にバルガス=リョサ氏が来日して東京大学で講演を行った様子が、

⇒マリオ・バルガス=リョサ講演会(東大.TV)

で視聴できます。
(※リョサ氏の講演はスペイン語で字幕翻訳もナシなので、根性でスペイン語を勉強して理解できるようになってくださいw←内容としては、半分以上?をまさにこのエントリーで紹介した『密林の語り部』について費やしています)
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