真実などに興味も意味もない

……というトレンドで成り立っているのが、今の時代なんですわ。

円環の理(えんかんのことわり)と呼ばれる概念では、この世界は、あたかも1日が朝〜夜にかけて彩りを変えるように、皆が真実に目覚めていきやがて眠りに落ちる時期が繰り返されるというサイクルが説明されますよね。

で、いま私たちは、カリ・ユガと呼ばれる、「皆の意識が眠った状態にあり、何が真実なのかを忘れて生きている時期」にいます。

このことは説明するまでもないでしょう。
みんなが真実をわかってたら、いまの世の中がこんなに争いや誤解、嘘やデタラメがまかり通ってるはずありませんからw

これは、霊的に目覚めよと啓発にいそしむスピリチュアルリーダーたちには、がっかりする事実のようです。
そりゃそうですよね、「みんな、目覚めよ!」と触れ回っているのに、みんなの意識が眠っている時期だと言われたら。
まるで真夜中の就寝時間にホテルじゅうを「みんな、起きてー!」と叫んで回ってる人みたいです。
迷惑がられて嫌われて、物を投げつけられても怒鳴られても殴られても文句がいえませんw
(事実、キリストなんかはまさにこの典型例だったし)

なかには、
「どうしてカリ・ユガのような、みんなが真実を忘れて意識が眠ってしまう時期がそもそも存在するの?そんな忌々しいものがなければいいのに」
と感じる人もいるでしょうね。
(私もそう思っていた時期があります)

が。

たとえば朝が好きな人がいて、その人は夜が嫌いだとします。どうして夜なんてものがあるんだろう、暗くて寒くて怖いだけなのに、と。
でもこの感慨は、言ってしまえばその人の「好き嫌い」にすぎません。
実際、夜には、一個人の頭では想像もつかないような普遍的な存在意義があり、人間の知恵が及ばなくとも、動物や植物などすべてのこの世界の生き物は、昼と夜が交互に訪れるサイクルに適合するようにできているわけです。
もし本当に夜がなくなって四六時中ずっと朝のままだったら、おそらく想定外の不都合がそこかしこで起きまくるのではないでしょうかね。

これと同じように、皆が真実を忘れて意識としては眠った状態でいるカリ・ユガのような時期にも、人智を超えたところで意義があります。

一言でいえば、「みんなが真実を忘れている時期にしかできない体験・そこから得られる学びや喜怒哀楽といった感慨(という気づき・霊的成長の源泉となる想念エネルギーの揺れによる活性化)」というものがあるから、カリ・ユガのような時期が存在し、その時期に生きる意味も意義も価値も私たちにはあるわけです。

もしそれを仮にどこかの誰かが嫌っていたりその意義に気づかないとしても、それはあくまで人間一個人のみみっちい価値観で見ればそう見えるだけ、に過ぎませんw

そう考えてみれば今の世の中は、みんなが真実を忘れているという状況で、いかにうまく立ち回れるかが問われているともいえます。
(厳密にいえば、『この時代に生まれて、真実を皆が忘れている状態でうまく立ち回れるようになりたい』と願った魂がちゃんとした神聖な計画の承認を受けられたら、この時代に生まれることができるという仕組みです)

それを端的に示すのが、裁判制度でしょう。
まず、みんなが真実をわかっていないという前提があるから裁判という制度自体が存在します。
しかもそれは、真実を明らかにするという建前ではありますが、実際は、法律という人間が勝手に決めた(真実と同一というわけでもない)ルールに沿って手続きを行うわけです。
わかりやすい例でいえば、無実と無罪は違います。
なんの犯罪を犯していなくとも、裁判で負ければ有罪という扱いになり、(ほんとはしでかしてもない)罪を償うはめになるという、この上なく理不尽な目に遭います(遭うことができます、という言い方のほうが適切かもしれません。こんな理不尽な目には、もしみんなが真実に目覚めている別の時期には、起きようもない・体験できうる可能性すらないわけですからw)。
逆にいえば、どんな極悪非道な犯罪を重ねようと、凄腕の弁護士をつけるなりコネやら権力やらを振りかざすなりして、無罪を勝ち取ることもできます。

「そんな酷い!」

と思う人もいるでしょうが(というか、ほとんどの人はそうですよね、普通w)、私たちはいまこの時代に生まれているという時点で、その「そんな酷い!」時代に生まれることをベストだと意図してきているわけです。

だから、今の時代に「悪どい」と言われるような、真実の欠片もないやり方を駆使して、うまいこと自分の望みを叶えまくることができている人というのは、

「まさに『理不尽』という設定のカリ・ユガに生まれて学ぶべきことを上手に学べている、優秀な人間」

ということになりそうです。

(本来は意識の覚醒を通じて霊的成長を実現し、神に近づいて最高の真実を悟る……ということを目指すはずのスピリチュアルな分野でも、『怒濤の真実味100%!!』というものよりは、どこかビジネス色がまざっていたり偽善ぽかったり、言ってることとやってることが部分的にちぐはぐだったりするもののほうが隆盛するのは、まさにカリ・ユガの時期に成功するにはそのほうが時代の情勢に則しているからといえそうです)

ようするに今の時代は、「ビバ!理不尽!」という価値観が圧倒的に優勢


なんですわ。
(しかも、『あ、そう?理不尽がいいの?じゃあ……』といって、わかりやすく理不尽なことをしてしまうとそれはそれで責められる、という理不尽w)

ほんとに真実100%のことをバリバリやりたい&やるのがその人にとってベストなのであれば、そもそもそれに適した時期に生まれるわけですし。

もしかしたらこの時代を選んで生まれておきながら、

「みんな!目覚めて!あなたたちは真実を忘れている!さぁ、今こそ意識を覚醒させましょう!神の声を聞き、最高の真実を知りましょう!!」

と、のべつまくなしに真実をまくしたてるわりに理解を得られずみんなから疎まれ、誤解されたり嫌われたり迫害されたりと“苦しい想いを繰り返してばかりで何も学ばずしたがって何も変わらない人生”を何年も何十年も続けてそのまま死んでいく……という人間のほうが、はるかに劣等生なのかもしれませんね。

なんだかんだいって、

現実で評価されて豊かさ(=お金はもとより、人望や名声、心身の健康、喜びや愛情といったポジティブな感情に満ちあふれていられてるかなどもろもろを含む)を得ているという事実そのものが、「その方向性でOK!」という宇宙からのメッセージ

なわけです。

裏を返せば、本人がどんなに自分のやってることは間違いない、正しいはずだと言っていようが、

「現実で評価されず(≒自分が意図したことが叶わず)、もろもろの豊かさを手にすることができておらず貧しくて体も心もどこかガタがきていて痛くて苦しんでいる」という事実そのものが、「その方向性は望ましくないよ」という宇宙からのメッセージ

でもあるわけです。

カリ・ユガにはカリ・ユガならではこそ成し遂げうる(&そうする価値があり望ましい)「真実でないデタラメを上手に使いこなす」生き方があるわけです。

「なんでいくらいっても人間は真実に目覚めないんだろう。あいかわらず愚かな過ちばかりを繰り返し続けて学びも成長もしないんだろう」

というような嘆きを抱えている人は、カリ・ユガの存在意義や、カリ・ユガに生きるからこそ得られる恩恵を知っているかどうか、考えてみてもいいのではないでしょうかね。

「私だけが真実にちゃんと目覚めている!なのに、いくらいってもみんなが私の言うことを聞かない!聞こうともしない!聞いたところでちゃんと理解できない!どうしてだ!!この世はおかしい!!!」

みたいなことをもし、ものすごい自信を持って言っちゃってるとしたら、はたしてそれってそんなに素晴らしい内容の発言なんでしょうかねー、ということを省みてもいいかも?

スピリチュアルは目に見えない分、自分の都合のいい妄想(≒現実では通用しないでっちあげの理想、思想etc)や愚痴を正当化するのに利用しやすいです。
自分の頭の中で、いまの自分の在り方・考え方こそ唯一の真実、という前提を勝手につくりあげ、その考え方にそぐわない思想や他人の在り方を「神の教えに従うことができていない愚か者」という大義名分のもとに貶したり馬鹿にしたり憎んだりするだけでいいのですから。
だからこそ、自分の抱いている思想や信条、真実だと思って把握していることが本当に真実なのかどうか、また

どんなシチュエーションでどのくらいの真実味を混ぜる(or抜いてデタラメ要素を混ぜる)のがちょうどいいのかを見極める

ことが大事になってくるのではないかなー、と最近私は思っています。

現実がうまく回っている人をみてると、いつも真実味100%をどんな場面でも貫き通す!というふうには行動してないですもんね。
そのときどきにあわせて、おどけておバカに振る舞ってみたり、厳しく真剣になってみたり、水面下で起きている根回しや裏工作にもシレッと関わっておきながら上手にとぼけてみせたり、という「(真実)度合いの切り替えをスムーズに柔軟に」行っているのがわかるのではないでしょうか。
(その意味でも、二元性に呑まれた『悪は滅びよ!ぜったいに悪を許さない!』と言っちゃうような状態を解消しておくのが前段階として重要になってきたりします。二元性の善と悪にいう『悪の有用性とかけがえのなさ、利用価値、活用するのが望ましいシチュエーション、どのくらいどのように混ぜるとよいか(どのくらい以上、混ぜすぎるとよくないか)etc』を熟知して迷わず使いこなせるのが、実は真のスピリチュアリストだったりするのです)

あるいは
「理不尽がつきまとうこの世で、どれだけ信念を曲げずに真実一筋を貫き通せるかどうか挑戦することこそ、私がこの世に生まれてきた理由!この世で立ち向かうべき試練!」
と思ってるとしたら、その信念こそ真実でもなんでもないただの思い込みなのかどうかを内観してみるとよいのでは。
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