進学校の功罪

進学高校に在籍していた人たちと話すと、たいてい、鼻持ちならない特権階級意識と学力差別意識が見え隠れするんですよね。
見え隠れどころか、全開。

先日も、某県トップの進学校にいたという人が

「みんな、難関国立大のことしか考えてませんよね。最低でも○○大(←その地方で難関とされ人気があり尊敬されてる国立大)は行かないと人間じゃない、というノリ。100点満点のテストでも、東大選抜クラスなんかだと、平均点が93点とかなんですよ。だから92点以下の奴は人類の恥!みたいな扱いで。

進学校なんで、慶應とか早稲田みたいな“私立(←思いっきり侮蔑のニュアンスで言う)”でいいなら、指定校推薦枠なんていくらでもあるんです。だから受験から逃げたい奴はそっちに行く。でも指定校推薦で早稲田とか慶應みたいなバカ私立に逃げ込んだ奴のことは、『この臆病者!脱落者め!』といってみんなから非難される。

やっぱり国立大に行く人間は賢いです。私立はバカの吹きだまり」

ということを、酔った勢いもあってぶちまけていました。

自分はここでバカ私立として挙げられた大学を出ているわけですが(笑)、私立のなかでは偏差値が低くはないほうだったためか、進学校あがりの人は多かったんで似たような話は大学時代から何人からも聞いてきました。
(私、小〜中学校は地元の公立だし、高校も進学校とはお世辞にも言えないところだったので、この概念自体が初耳で、最初は『へぇ〜』と目を丸くして聞いていました)


ほか、大学時代に私、小〜中学生の全国模試で上位100位以内を取った児童・生徒しか入れない、特進クラスの某塾講師をしていたことがあるんですが、あるとき生徒から

「先生はもちろん東大を出てるんでしょ?」

と聞かれ、普通に「違うよ」と言ったところ、クラス中が一瞬、硬直した雰囲気に。

それ以降、一言も口をきいてくれなくなった生徒(←わりと仲良かったのに)が出て、理由を聞いたら

「先生、ごめんなさい。先生のこと好きだけど、お父さんが『東大を出てないような二流の人間と口をきいてはダメだ。バカがうつるから』と言ったので、もう先生とは会話できません」

とうつむいて言うとか、保護者が

「よりによってうちの子みたいな優秀な子を、東大も出てないような先生が教えるクラスに入れるなんて、どういうことですか!」

とクレームをつけにきて別のクラスに子供を編入させた……ということもありました。


なんかね、青くていいよね、そういう世知辛く殺伐とした狭量な価値観でギスギスするのってw



こういう、進学や学歴をめぐる問題はいろいろあるし、このブログは教育問題について語るものではないので、深掘りはしません(俺にはできないし)。

ただ、スピリチュアルヒーラーとして何か挙げよ、というなら、

こうして根付いた差別意識によって、自分自身が首を絞められることになってる人がいる

ということですかねー。

どういうことかというと、

「ほんの少しでもしくじってしまったら、不合格になってしまったら、勝ち組に入れない事態が起きたら、人生は地獄の苦しみだ」

というような思考が強固にできあがってしまうんですね。

(冒頭で上げた知人も、『東京は敗残者には厳しいところ。大きな会社で部長以上になれたら大手を振って道を歩けるけど、そうじゃないと近所のおばさんから“あの人はうだつがあがらずフラフラして”と陰口を叩かれ、この街では生きていけなくなる。東京じゃ二流な自分が一流になれる、田舎のバカばっかりが集まるところに転職して引っ越すなりして、トップに立つしか、生き残る術がない』と言ってました。べつにトップに立たなくても東京で生きてりゃいいじゃん、つか近所のおばさんの陰口ひとつでその街で生きていけなくなるような奴、どこいったって生きていけないんだろ……と、神経の図太くなったオジサンは思うのだよ)

そのために、

「もし自分が受験に失敗したり、良い会社に入れなかったり、入った会社で出世できずうだつの上がらない窓際族にでもなったらどうしよう」

という不安と恐怖に苛まれやすくなるんです。

そして実際に「自分がそうなってしまった」と感じてしまうと無限のストレス。不幸街道まっしぐら!ですわな。

また、学校のテストのように点数がついて順位が明らかになるもので競い合うマインドが社会に出てからも持ち越されて、

「共通のモノサシで優劣を測って上位になろう、上位でいようとする」

感覚が残ってしまうんです。

社会人として生活してみればわかるとおり、社会にはいろんな人や団体がいて、それぞれの動く分野もやってる内容も目指すものも違うので、一概に比べられないんですよね。
つまり、学校のテストのような点数での競い合いは、事実上、不可能なんです。

でも、比べたい。
(ある意味、点数がつくシンプルな競い合いで勝ててるという自負に安堵感を抱いてたほうが、ラクなんでしょう)

なので、共通のモノサシとして、年収の額や出身学校の偏差値ランキングをそのまま「優劣の基準」として、競い合おうとするみたいです。

結果、本来なら広い視点でみればいろんな素晴らしさを持っている多様な人をいくら見ても、

「はい、こいつの年収はこんだけ。出てる大学もこの程度」

というふうに、その人の持つ独自の素晴らしさに気づけず、自分の視野も広がらない(どころか狭くなる一方)、みたいな。

これはその人自身の人生を考えるときにもいえることで、ほんとうにこの人生で望むことを考えるなんて冗談じゃないとばかりに、しゃかりきに年収やステータスを上げて他人に自慢できる家やクルマを買い、「共通のモノサシ」で自分がいかに上位でいられるかだけに固執してしまう。(それが豊かで幸せな人生だと一生、思い込み続けることができればもちろん人生はバラ色なのですけど!)



ごちゃごちゃ書いちゃいましたが、わりとどこも進学校の持つ集合意識の歪みっぷりはハンパなく、あまりに偏ったせせこましい価値観に基づいているので、

「わりと自分にも入っちゃってるかも」

と思ったら、そこから抜け出すワークをやってみるといいんじゃないかなあ。

その学校、その会社、その村、など人が集まって単位を成すものならなんでも、多かれ少なかれそれ固有の集合意識は存在しますし、それに自分が無意識のうちに「洗脳」されていることもなきにしもあらずですので。

P.S
私が早稲田大学で入ってしまった、困った集合意識としての想念は

「勉強するのはダサい。でも成績が悪いのはバカ。ぜんぜん勉強しないのに要領の良さで満点をとって成績バツグンがカッコいい」

というものでした。

なんていうか、学校全体として、「社会で通用する要領の良さを持って発揮できてる奴が最強」というのがあった気がします。

それが若気の至りや極端すぎてねじまがって、「勉強しないでデキる奴がスゲエ」というのに昇華しちゃったんでしょうか。

なんにせよ、

「べつに勉強してもいいじゃん」

というほうに今は思考修正済みです。
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