「やりたくないこと」の効用

「やりたいことがやりたい」と言う人は多いですよね。

でも、

・やりたいことが何なのか、そもそもわからない
・やりたいことをやろうにも、状況がそれを許さない
 (やりたいことをやれない境遇を改善できてない)

みたいなところで止まっちゃう人も多いような。

で。

そういう価値観からすると、「やりたくないこと」ってのは悪者扱いされて嫌われるわけですが、やりたくないことなのに現実に出現してくるってことは、

・頭ではやりたくないという価値観で捉えているが、事実上、自分にとって経験することが「必要」と看做しているので引き寄せて現実化している



・「やりたくないこと、をしなければならない」という思考で、とにかくなんでもいいからやりたくないことを引き寄せて具現化している

かのどちらか。

後者の場合、それが厭なら、思考のワークしろって話ですわな。

で、前者の場合なら、しかるべき学びを得るまではやるにこしたことはないわけですから、忍耐力を培うとか、それを厭じゃなく感じるような思考のワークをするとか、すればいい。

やりたくないことにも、それなりの効用はあるってことですわな。



で、私がここで書きたいのは実はここから。

ある程度以上に現実の創造がうまくいくようになると、ほんとに思い通りの現実を(自分の手の届く範囲では)創造できるようになるんですね。好きなことして、好きなように生きてられる。

でも、ここが落とし穴。

あくまでも自分の意思だけで創造できる物事に対する現実のマニフェストだけで満足できるならいいんですけど、

他人の自由意思が現実化に絡むことについての願いは、ただ単に自分が思考の現実化力を高めたところですぐ確実には手に入らない

んです。

つまり、

現実化に影響を与える「他者」の自由意思で、自分の願うことを創造することに同意してもらうことが必要

になるんです。

でね。

あんまりにも自分のやりたいように生きることができちゃって時間が経つと、よくも悪くもその人のマイワールドが確固たるものとして盤石になっていっちゃうんです。

それは、その人自身が望む現実化をする上ではこのうえなく有利な武器となるんですけど、

他人とのコミュニケーションという観点から見たら、不利な弱点

ともなりうるんですよ。

だって、想像してみてください。マイワールド全開な人。めっちゃ自分の意思が固くて揺るぎない人。100%、自分の価値観に則して生きてる人。頼もしいかもしれないし、自分がその人の価値観に似たところが多ければそれはそれで仲良しになれるかもしれませんが、もしそうでなかったとしたら。その人が、自分と価値観の違う人とのコミュニケーション能力を磨いていないとしたら。自分と違う価値観を受け入れることに抵抗を持ってしまっているとしたら。

……ってまわりくどい言い方しちゃいましたけど、ようするに自分の信念や価値観を揺るぎなく確立していくことと、それらの信念体系が硬直化して柔軟性を失って「他人(の意見・価値観)を受け入れる)」ことができなくなってしまうことが比例すると、厄介なんですわ(そうはならないようにする方法も、あるとは思いますけど。あくまで1つの起こりうる傾向として、ね)。

だから、もし上記のようなよろしくない傾向が高まっていっちゃうと、

複数人の自由意思が現実創造に必要となる状況においては、何一つ現実をうまく創造できない

人になっていっちゃうんです。

あくまで自分1人の自由意思で創造できる範囲内で動き回るしかなくなるんですね。
(もちろん本人がそれでいいというならいいんですけど)

また、自分1人の自由意思で創造できることにしても、

お得意のワンパターンな現実しか創造できない

ことにつながっていきます。
これは料理や折り紙などなんでもいいんですけど、本来なら無数のバリエーションがある作業のうち、自分のお気に入りのものばっかりやったためにそれ以外がうまくつくれない、というイメージを持つとしっくりくるのでは。

で、それを予防したり改善したりするうえで、

必ずしも自分がすごくやりたいとか、興味があるわけではないことを、やる

のが大きな効果を持ってくるわけですな。

閉塞した自分の思考に、新しい風をもたらしてくれるんです。

なので、やりたくないこと、、、とまではいかなくとも、

少しだけ自分のやりたいこと・興味から「はずれた」ことをやる

のは、有益に働くこともあるんじゃないかなというご提案。
やりたいことだけやってられる環境が整った人なら尚更、ね。



そういう意味では、

(べつにプロを目指すわけではない)趣味の習い事・お稽古ごと

の価値も高まってくるのではないでしょうかね。

私の場合、劇作セミナーで自分の書いたものを講師や同級生にみてもらって批評しあったり、楽器を習って演奏(≒自分の心身魂の在り方を端的に示す指標)を聴いてもらってアドバイスを貰うことを欠かしていません。
どうだ俺様は謙虚で偉いだろう、という意味ではなくて、むしろそれが

自分が独りよがりに狂っていかないための、命綱

なんです。

個人で自営で独立してしまうと、良くも悪くも、

「良心的なダメ出し」をしてくれる人がいなくなる

んですよ。

だからともすれば、

傍からみたらちゃんちゃらおかしいことを、そうとは気づかずに堂々とやってしまう滑稽な「裸の王様」化していってしまう

危険が無限大にあるんですね。

まだ裸の王様なら可愛いもんですが、もっと酷くなると、

自分がカルト宗教の教祖化する危険

があるとさえいえます。

まだ意図的に「よし、バカを騙して自分が教祖になってやろう」と思ってしてるなら、救いがあるんです。わざとなわけで、自分が何をやってるかを自覚できてるわけですから。問題なのは倫理観なだけで。

救いようがないのは、

自分に自覚がないのに、事実上、カルトの教祖化していく

ことです。

スピリチュアルカウンセラーなりヒーラーなり霊能者なりをやってるとわりとみんなすぐ気づくと思いますが、

本物の能力を培った霊能者・ヒーラーにとって、人を騙すのはとても簡単

なんです。

ただでさえ心や魂の問題という、人間にとって繊細な領域に入り込んでいくわけだし、人は霊能者やヒーラーに心を開いたとき、驚くほど無防備になります。その状態の人を騙そうと思えば、ものすごくちょろいです。

さらに、他人の思考や感情を操作するサイキックな術を本当に修得できると、

自由自在に他人を洗脳できる

んですね。

べつに洗脳テープを何度も繰り返し聞かせる必要なんて、ないんです。

洗脳するようなエネルギープログラムのコマンドを相手にかけるだけで、一発です。

他人を自分の下僕として「生きた操り人形」に変えるなんて、雑作もないこと

です。

本人がそういう呪術師としてやっていきたいならそれでもいいですが(実際、ごまんといますしね。プロのヒーラーや霊能者はもとより、企業の経営者やフリーランスで何かの分野でプロとしてやってる人でうまくいっている人はみんな、少なからずそういう術を使ってます。まったくそういう術を使わずにうまくやれてる人なんて、まずもって見た事がありませんw)。

でも、自分はそうすることになんのメリットも見出していないのでやりません。
(理由はわかりますよね?この世で人を自由に操って金や権力を欲しいままにしてエゴを満足させて気持ちよく生きたからといって、それが『ほかならぬ、今回、この世に生まれてきて遂行するのが最高最善と決めた、神聖な計画の遂行』につながらない場合は、生きる目的としてなんにも達成できてないのと同じことだからです。また、他人の自由意思の侵害をするのがどういうことか、するとどういうことになるのかの学びをその人が魂の深いところで望んでいる場合は、その望みに呼応してカルマシステムが働き、いつかその人が誰かから操られ自由意思を奪われる体験をする(ことで、学びの機会となる)事態が訪れます)

知らず知らずのうちにそうなってしまっている(≒現実化能力が鈍る・自分が無自覚なままにカルトの教祖化する)のを避けたいからこそ、あえて、自分の専門分野以外の、「あえて自分の興味の対象そのものから少しはずれたこと」をやるようにしています。

嗚呼、なんかテーマがだいぶ逸れた&話がデカくなった、けどまあいいや。
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