クリアリング中毒にご注意。

目に見えないものって、言ったもん勝ちなところがありますよね。

裸の王様みたいに、実は素っ裸なのに

「どうだ、これは正直者で心の綺麗な人間にしか見えない服だぞ」

と言い張るのは、誰にでもできるんです。その言っていることが嘘かどうか、現時点での現実的/科学的根拠が提示しえないからこそ余計に。

でね。

シータヒーリングの受講者で、

「私は自分のなかにあるブロックの半分をクリアリングできた!」

とか、

「○○さんと比較して5000倍もクリアリングが進んだ」

というような捉え方をしてる人が、いるみたいなんですよね。
(幸いなことに?自分の間近には、そういう『お~い、どこに行っちゃってるんだい?』系のシータヒーラーは1人もいないのですが)

それって、

・「万人にとって共通の『これがブロックである』と定義されるエネルギーのカタマリがある」という幻想を持っている

 ⇒実際は、「これがブロック」と誰からみてもそう言えるものなんて、ない。
 ⇒どんな想念もすべて「その人が、どんな生き方をしたいか」次第で見え方は変わる。

・上記にいうブロックをとにかく排除して自分のなかに「ブロックが0」になった時点が“完全クリアリング達成”だと思い込んでいる

 ⇒典型的な、修行系の思い込みによる勘違い


から、そうなるわけですよね。

そういう人は、ちょっと、以下の点についてご自身のなかで再確認してほしいです。

・人間をその人ならではの唯一無二な存在にしているのは、根本的に魂に刻まれた性質から由来する、『信念』である。信念こそが、人間にとって、もっとも重要。

 ⇒信念=ブロック、ではない。

 ⇒創造主の観点からの最高の真実ではない信念(ある意味では、『思い込み』)も、
  ある時点のその人の人生においては、生きる原動力となり有益に働くこともある。
  →要らなくなった時点(その信念が人生に貢献しえなくなったタイミング)で
   適切に置き換えればよい。


つまり、

そもそも何を「ブロック」と呼ぶかは、客観的な定義が存在するわけでなく、
「その人のいまの状況からいえば、この想念エネルギーはブロック(障害)
 として働きうるといえる」
という便宜上の定義にすぎない


ということです。

これは、部屋の内装について考えてみると、イメージしやすいです。

家具の1つ1つが人間の「想い(信念でも思い込みでもどっちでも)」だとして、じゃあ全部、家具をとっぱらって、がら~んとした状態にすればそれは、クリアリングが完全に済んだ状態だと言えるのでしょうかね。
そういう部屋で、快適に暮らせるでしょうか。
そういう部屋で、何一つ、家具を持たずに暮らすのが、自分にとってベストだといえますか?
(人によっては『そうです』と思えるかもしれないし、それならそれでいいと思います)

この例でいうと、ある1つの家具が「邪魔なゴミ」か、「有用な家具」かは、持ち主が決めることですよね。
そうして、自分ならではの基準で、自分が素敵だと思う、暮らしやすい家具を配置すればいいだけのことです。

そうやって生活していて、たとえば赤ちゃんが生まれたからベビーベッドが必要になるとか、いざそれを購入して子育てをしてたら子供が大きくなってきてもうベビーベッドは要らなくなるから撤去するとか。
そういう、時期によるニーズの変化が訪れるわけですよね。
そして、その変化に都度、合わせていけばいいんです。臨機応変に、柔軟に。

どんな部屋に住みたいか、どんな美意識や価値観を持って、内装を素敵だと思うかダサいと思うかも、個々人の自由。

だから、2つの部屋を安直に比べて、「どっちの部屋のほうがキレイ」とは、客観的には言えないはずです。
人と比べてクリアリング度合いを競うなんて、ナンセンスそのもの。

シータヒーリングにいう、

Beliefの置き換えは、部屋の家具の置き換えと同じ


と捉えると、イメージしやすいのではないでしょうか。

その意味でいうと、クリアリングが「全体の75%進んだ」というような表現は、自分の現時点で理想とする信念体系の形があり、そこを目指してワークをしたうえで、達成率が75%、と捉えるなら、まだわかります。

しかもその「100%のクリアリングが達成されたときの完成予想図」を自分で決めてるなら、それでいいと思います。

が、とあるヒーラーから(なんの根拠も定義の説明もなく)
「あなたはクリアリングが全体の○%、到達してますね」
と言われたのを鵜呑みにするとか、ただ漠然と創造主や守護天使、ハイヤーセルフなどに
「私はいま、クリアリングが何%、進んでいるか」
を尋ねて得た答えをそのまま参考にするというのだと、かなりその数値というか、そもそもの「尋ねた内容の確実さ」のようなものが曖昧になります。

そして、これが一番、大事だと思うのですが、

現状を阻む思考のブロックが、完全にではなくてもあらかた取っ払われたら、微細なブロックには気を取られずに現実的に人生を歩んで楽しさなり充実感なりを掴み、夢を1つでも多く(もしくは最大限に)現実化する

ように生きることです。

これは、病気や怪我と似ていますね。
まともに生活できないほどのダメージがあるなら、入院するなりしてガッツリ、療養が必要でしょうが、松葉杖をつけば歩けるとか、まだ本調子じゃないけどぶっ倒れるほどでもないとなったら、社会生活に復帰することもできます。
信念の置き換えによるクリアリングも、ぜんぜん現実を歩めなくなるほどであればガッツリやってもいいでしょうけれど、そこまで酷い状況でなくなったら、多少の(現実を生きるうえでの)抵抗感なりがあったとしても、歩いてみてもいいと思います。で、あとの細かい点は、日々の入浴や爪切りみたいに、メンテナンス的にやればいいことです。

いずれにせよ、時間の経過や、自分の神聖な計画(ディバインタイミング)の進行度合いによって、最適とされる信念体系の在り方も変わってきます。

どの時点でどんな在り方がその人にとってベストかも変わるので、繰り返しますが他人と比較するのはナンセンスです。

だから

クリアリングの完璧主義に囚われない

ことと、

クリアリングが進んだ人間が、そうでない人間よりも
何か優れている、素晴らしいといった優劣の幻想に
呑まれた故の優越感or劣等感を抱かない(思考の獲得)


が重要です。



さらに言うと、

「ラクになりたいからクリアリングをする」

「クリアリングが進むとラクになるから、ラクになりたくてクリアリングを進める」

というのは、ちょっと違う気がします。

たしかに、現状を阻むブロックを解消するというクリアリングをすれば、その分だけ、ラクにはなります。

が、ラクになるのは福次的効果というか、クリアリングの主目的でない場合が往々にしてあります。

苦しみから逃れたいからクリアリングをする、という姿勢には、注意が必要だと感じています。

たしかに、言いたいことはわかるんです。

誰だって、ラクなほうがいいし、余計な苦悩を背負い込み続けるのは嫌ですよね。

ただ、だからといって、今、感じている苦しみが、やみくもになんでもいいから信念の置き換えをしてクリアリングしていけば軽くなるだろう、というのは、残念ながら異なります。

理屈としては、いまの苦しみを生み出しているブロックをクリアリングすれば、ラクになりますよね。

その図式にあてはまるケースなら、「クリアリングをした結果、ラクになる」し、「ラクになりたくて、クリアリングをする」のは正当なことです。

が、いま感じている苦しみが、必ずしも単一の信念ブロックによるものではなくて、現実にいま起きている状況に対して感じる、まっとうな人間としての感情的ストレスだとすれば、ただ信念の置き換えをやりまくっても、苦しさは変わらないでしょう。

たとえば何かの試験が控えていて、その試験に合格できるかどうかが不安なとき。

いくら信念の置き換えをしてみても、その試験に懸ける想い自体が変わらなければ、不安を完全に消すのは現実的ではありません。結果を見るまで安心できないというのは、道理です。

またこの場合、「試験に懸ける想い」そのものを置き換えて、試験の結果なんてどうでもいいという信念体系にしてしまって不安を消すことは可能ですが、はたしてそんな置き換えをやって手に入れる安堵が、その人の人生にとって望ましいかどうかは疑問です。

もしくは、そういう置き換えを頻繁にやって、一切の緊張状態と向き合うことを忘れてしまった人間がいたとして、その人は、人としてどうなんでしょうね。
一切、他人の目を気にせず他人と交わろうともせず、自分だけの世界に生きるなら、それでもいいでしょう。
が、そうやって、禁断ともいえる信念の置き換えをしまくっていちいち、人生の折々に訪れる、チャレンジングな事態をスルーしまくるだけの人が、他人から尊敬されるかどうかとなると、また疑問です。

べつに他人からどう思われるかは重要じゃない、というのは1つの側面でいえば真実ですが、問題なのは、

「神聖な計画において、この世で、(自分がある程度以上に相手からみて魅力的なり信頼に値するなりの評価を受けたうえで)好意的な関係を築く人がいる。にもかかわらず、生き方がアレなので人としてだらしない感じになった結果、いざ相手が現実に現れたのに、その人から幻滅され、計画が遂行されない」

という事態って、あるんじゃないでしょうか?ということなんです。

(これも究極的にはケースバイケースで、『あらゆる苦難を、どんな手を使ってでもいいから回避する』のを意図する人たちからは尊敬されるかもしれませんが。そういう人たちと人生を送るのが、本人の望みなら、それでもかまわないのでしょうが)

クリアリング行為は、麻酔でも麻薬でもありません。

これは私の信条ですが、一切のクリアリング行為は、

その人が神聖な計画として決めてきたことを、
なるべくスムーズに、最高最善・最大限に
この世で実現するための補助的手段の1つ


だと捉えています。

ラクになった結果、何をするかがもっとも重要

だと考えています。

これはつまり、

なんのためにラクになりたいか

にもかかってきます。

あらかじめやりたいこと、生きたい方向性があって、それを実現しようとあらゆる努力をしているのに、自分ではアプローチしえない「思考のブロック」が原因で、夢が叶わずに地団駄を踏んでいる人。
(そして、その人が意図している『やりたいこと』が、その人の神聖な計画と一致している人)

そんな人のためなら、私は喜んで力になりたいと思います。
その人がラクになりたい理由が成立しているし、ラクになった結果、その人がより輝き、より活発に動いてこの世を素晴らしくすることに貢献するであろうことが予見できるからです。

今が苦しいです大変ですラクになりたいですと、「そりゃ誰だってそうだよ」系のことを言ってきて、

「じゃあ、完全にラクになったら何がしたいですか」

といったときに、家でゴロゴロしてやすらかに暮らしたいですというような答えが返ってくるとしたら(そしてその回答が、その人の神聖な計画で決めてきていることと乖離していたら)、ヒーラーとしては、げんなりしてしまうんですよね。

ラクになることで、それまで苦悩に対処する
ことに充ててきた分のエネルギーを、
別のこと(≒神聖な計画の遂行)に発揮する


なら素晴らしいと思うんです。

ところがラクになった分だけ、それまで苦悩と闘ってきた分のエネルギーを「引っ込めて」、結果的にその人が以前よりもエネルギー的に収縮した状態、停滞した状態になってしまうのであれば、元も子もないわけですわ。

ただ、ラクになりたい。そう思う人は、「ただ、ラクになることを、自分は本当に意図しているか。それがこの世に生まれてきた理由か」を探ってみても良いと思います。

私の経験則ですが、

ただ単にラクになるためだけにこの世に生まれてきた人は、1人もいない

実感があります。



長くなってしまったので、さらに続けるのは憚られるのですが、

「信念の置き換えによるクリアリングが進む」という概念と、
「波動が高くなる、上がる」という概念がごっちゃになっている


人も少なくないみたいです。

たしかに、「信念の置き換えによるクリアリングをした結果、自分のエネルギー体が放つ波動の総合的な平均値(標準値?)が上がる」ことはありますが。

そして、

「波動が高いことは、低いよりも良いことだ」という考えが、漠然とした「憧れ」と化している

場合もわりとあって、

波動を上げて起こる「良いこと」って何?

という点が、ぜんぜんわかってない人がいます。
(あるいは、『きっといいことがある!』と妄信している、地に足がついてないアブない状態になってしまっている人もいます)

この、「波動を上げる」については、今度またここでいつか述べようと思います(いつかは未定w)。

まあそんなわけで、

「なんかよくわかんないけど、クリアリング?ってのをたくさんやれば、苦しみが消えてラクになって、良いことがいっぱい起こるんでしょー?だったらやらなきゃ!」
という、宗教めいた妄信


を抱えてクリアリングの本質から逸れたところでガシガシとクリアリング(的なこと)にいそしむのは、どうなんでしょうねという提言でした。
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