ミンキーモモの死とヒーラーとしての自分

(注:この一連のツイートは、自分にとって子供の頃からずっと考えているテーマについて現時点での感慨を述べたもので、真実そのものというよりは葛藤の真っ最中といった内容になっています。そのため、何か明確なアドバイスを提供しうるものではないかもしれない点をご了承ください)

ミンキーモモの再放送の最初のほう観てるんだけど、怒濤の前向きさとボランティア精神で積極的に人助けを買ってでて、魔法の力で幸せになるお手伝いをしてるわけ。 でもこの後、「魔法で人は幸せになれない」と落胆してモモが死んでしまうのを知っているだけに、すごく痛々しい。

たしかにこの作品は空想の世界ではあるけれど、作り手は生きてる人間で、その作り手たちの主張なわけだよね、アニメ作品のなかで述べられてることっていうのは。 で、自分がいまヒーラーをやってるというのもあいまって、この視点はすごく考えちゃう。

魔法のような力を持っていて、ボランティア精神を発揮して落ち込んでいる人やうまくいってない人に声をかけて(それが無償の奉仕だとしても)、魔法のような力でその人の現実に介入することが、本当にベストな方法なのか、って点がさ。

せっかく自分が培ったサイキックな力を駆使して、人の幸せのために、人を助けるため・救うためと思ってその力を駆使して労力も費やして。その結果「自分がこの力を使っていくら何をやっても、この人は変わらない」と絶望したら、魔法少女まどかの「魔法少女→魔女」化そのものだ。
(これは、ヒーラー側に『こういうふうに癒えてほしい』とエゴ的な意図があると顕著ね)

小学生のときにモモが死んだ回を見て、
「どうすればミンキーモモは死なずに済んだんだろう?」
と考えて食事も喉を通らないくらいショックを受けたんだけど、いまあらためて、そのテーマが自分の現実に浮上してきてる。いわゆる「果物を分け与えるんじゃなくて、果物の栽培法を教える」アプローチ。

ヒーラーがサイキック能力を使って、他人の現実の目先の困った状況をパッと変えることそのものは、カンタンなんだよ。 でも、そうしてしまうことで、その人はより一層、他人任せの生き方をするようになりかねない。ヒーラーやサイキック能力の「ご利益」にすがる「信者」になる。

大事なのは、その人が自分自身でスキルを磨いて、自分の現実を創り変える能力を獲得するお手伝いをすることだと思ってる。ただ、その能力の獲得には地道な練習が必要で、人によっては「面倒くさい!もうやめた!」となってしまう。 そうなるともう、どうしたらいいかわからない。

そこでスポ根コーチよろしく相手をビンタして「弱音を吐くんじゃない!」とおせっかいを焼いて食い下がるべきなのか。 それとも、相手の意向を尊重して身を引くのか(←俺はどちらかというとこっち寄り)。

で、いちばん困るのが、自分で努力をやめたり正しく理解しないで歪曲してテクニックを捉えておきながら
「この技法は役に立たない。ダメだ」
とか、
「あの人のところで習ったけど全然、身に付かなかった」
みたいな被害者意識でいろいろ言うことね。

そうなると今度は、その、真実そのものとは到底言い難い発言や噂を聞いて「え?あの技法って、あのヒーラーって、ダメなの?じゃあ、習おうと思ったけどやめよう」と、その人にとっては非常に有効な技法やヒーラーとの出会いになるかもしれない可能性まで潰えかねない。

そういう現実を生み出す一翼というか発端というかを、自分の行動が担ってしまっている、、、と感じてしまうと、「だったら最初から何もしなければよかったのではないか」
と思ってしまうことがある。
(厳密にはこの思考には、どこか認識の歪みがあるわけだけどさ)

そんなこんなで、自分は目下、「どういう形で、どういう状態の人に、どんなアプローチでどこまで関わって行くことが望ましいのか」の形を練り直してる形。 やっぱり「正直厳しいな、スピをちゃんと理解するのは。しかもここまで理解歪んでると面倒みきれない」って人いるし。

(出典:2011/8/5のツイートより)
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