2020年11月

「やればできる!」の証明のために頑張る時代は終わった

なァ、と感じます。

インターネットが当たり前のインフラとなり、スマホの普及で誰もがネットの情報にアクセスできる(というか、依存症なまでに、アクセスしっぱなしになる)ところまで来て。

中でも、SNSの普及、とりわけツイッターの隆盛は、赤裸々に人々がそれぞれの成功体験や失敗談を綴るため、(すべての書き込みへの真偽を詳細に確認するのはできないとはいえ)

人間、誰でも、本気でやれば、相当すごいことができる
 &
旧来(ネットがここまで普及する以前の、情報が閉ざされてた時代)の「才能ある一握りの人だけができる」は嘘


だと、知っちゃいましたよね。

それに加え、人の言い訳や見栄などのパターン一覧、なぜそういう言い訳や見栄といった嘘やごまかし、逃げに走ってしまうのかの心理についても、以前よりもはるかに集合知が蓄積して、みんな、心理学のちょっとした専門家みたいに見透かしてしまいます。

なので、

「普通ならこんな不幸に遭ったら人は参っちゃって、何もできなくなりますよね? だから私は〜〜ができないんです。でもそれは仕方ないことでしょ? 私は悪くない。実際にその不幸に遭った人間じゃないと、このつらさはわかりませんよ」

みたいな、卑怯な言い訳などで出来の悪い自分を正当化したりも以前ならできていたし、そういう話を聞かされた側もおとなしく「そっか、だよね……」と信じたり、親身になったり、してあげていた気がします。

でも今は、人々が冷たくなったというよりは、誰もが陥る状態、そういうときに使いがちな手、そういう手を使うことのナンセンスさ(何も悩みが解消せず現実が改善も進展もせず、自分も成長しない)などを知ってしまっているのです。
そういう手を使ってくる人への対処法まで集合知みたいに、みんな知り尽くしており

優しい笑顔で曖昧に相槌を打って(積極的な肯定も否定もわざわざは表明せず、心理的にせめて冷たく突き放してはいませんよという心理操作としての愛想笑いで相手の恨みを買うことを避けつつ)穏便に距離をとる

とか、しますもんね。
実にスムーズに、鮮やかに。


もう、「〜〜だから、できない」「本気でやれば、できる(というのは本当だろうか?)」といった、20〜30年くらい前まではみんな、興味はあるけど確証がもてずにいた命題が、証明され済みになってきているんです。

それどころか今は、たとえ本人が自分の人生で何かを本気でやってできたという証明をしたわけでもないのに、情報だけ耳年増的にゲットして

「あー、はいはい。そんなすごいこと、やった奴がいるんか。へぇ〜、じゃあそいつは、本気を出したんやな。まぁ人間、誰でも本気さえ出せば、それくらいできるやろ」

と、できて当たり前だと「思い込む」のが問題なくらい。


「人は本当に、本気になってやれば、できるのか?」

の証明は、もう、旧来のマスメディア(テレビなど)が取り上げきれない大勢の、市井の無名の成功者たちによって、実例として示されまくり済みなんですよね。

昨今の、SNSのフォロワー数やいいねの数、YouTubeなどの再生回数なりチャンネル登録者数なり、(基本的には恣意的な操作がなされていない公正なカウントがなされているであろう)誰もが一目みてわかる実績を、子供や、意外な属性の人(歳をとったとか、顔など外見が醜いとされる、喋り方などがこなれていなくて素人くさくタレント性があるとは見做されないetcの、旧来の価値観でいう成功者らしからぬとされがちな属性)が叩き出し、突如としてバズったりするのも、見飽きています。

ツイッターをこまめに見る人にとっては、とあるバズツイなんて、せいぜい5〜6時間したらもう「古い」扱い。

「あぁ、昔そんなのあったね」

で終わりです。


だから。

ちょっと前までの

・何かどうしても「やりたいこと」が見つからない

・人は、(サボって何もせずにいるよりは)何かをがむしゃらに熱く全力で動いた方が、(金を稼ぐなど国益に寄与する、世のため人のためになるので?)望ましい

・自分ははたして、本気で何かをやったら、モノになるだけのことができる人間なのか

といった、もはやプロトタイプな(がら、いつの時代も、人間そうなるといえばそうなる)状態から脱却しよう!という意味での

「本気を出せば、すごいことができるんか?」

の証明のための頑張りや、

「とにかく行動しろ」

といった、昨今の(正直、あんまり知識もなく、考えも浅いのかなとおぼしい)にわかインフルーエンサーなんかが言いそうなことは、古いし、なにより

萌えない

んですよね……。


これから先はむしろ、

行動(指針も含め)の断捨離

が鍵になると思っています。

やること、増やすこと、伸ばすことばかり、追い求めて、資源がやばくなったり、(心理面で)飽和したり。

「やったからって、何?」

「(すごいとされるような実績を行動で叩き出したところで)だから?」

としらける世相。

このしらけは、エネルギーとして冷めているという意味では、(熱い方が良いに決まっているという幼稚な考え方からしたら)よくないのかもしれないけど、

「冷めている」は、「覚めている」

ことでもあったりして。



>すべてを手に入れる瞬間をごらん!
>すべてをものにした実感をごらん!

その結果、どうなりました?


もし、映画「キリクと魔女」

の主人公キリクが、「とにかく行動」して、村人みんなが言うように、
「魔女は、なんたって魔女なんだから、悪者。やっつけるのがいい」
という言葉を鵜呑みにして、そういう行動をしてしまったらどうでしょうか。
(『べつに?』なのかもですね。人によっては)

行動する内容の方向性、コンセプト、なぜそのコンセプトなのかについて煮詰めたかどうか、その結果としての行動の「質」。

そういう方じゃない?


どこかへ到達するために、1秒も惜しんですぐに走り出すのが、全力だして突っ走ってるから、良いことなんでしょうかね。
とにかく行動してるから。
自分は本気でやればできるのか?のために、とにかくなんでもいいから行動してみてる。
いいっちゃいいけど。
どこぞの社長さんも言ってましたが、「どうやったら早く着けるか」考えて、すぐ走り出した人に遅れをとってもいいからバイクつくって、それに乗った方が後からでも追い抜ける、みたいな。


あ、ただ。
子供時代から青年とされる年齢には、しかるべき成功体験の積み重ねにより「自分は、やれば、できる」ことを現実的に思える自信をつけるにこしたことはないと思います。
いつの時代も、生まれてくる人はいるわけで、時代全体のトレンドとはまた別に、幼児〜未成年の「教育」としての「やればできる!(感の獲得)」は大事っぽい。


でも大人なら。

「やればできる……のは本当か?」

を、(ほんとはアタリがついてるのに、自分を騙してしらばっくれて)

「それは嘘の気がする。他の人はそうなのかもしれないけど、私だけは人類で唯一、やってもできないかも」

と、それはそれでなんで自分が人類で唯一みたいな特別感でこじらせた優越感ドヤなんだよとツッコミたくなっちゃう。

やってできないとき恥ずかしい、プライドが傷つくとかいうのももはや、古いっつーか。
「まだそこ?」
みたいな。

そこでウダウダし続けて、時代錯誤なこと言い続けてるおっちゃんおばちゃん、べつに積極的に非難する気もないけど(だって、そこまでわざわざ労力を注ぐほどの価値を見出せないから)。

とりあえず、時代も、先進的なアップデートをちゃんとやってる大人たちも、若い人や子供ならなおさら、

どんどん進んでいく

からね。


それでいいんでしょ?

無理して時代についていく必要もないと思う。

古き良き、しみったれた低レベルで幼稚なブロックにつまずき続けるLow Guyの会

とか、主宰すれば、そこそこ人は集まってくると思う。
みんな貧乏でワガママでギスギスしてアタマ悪いことが想定されるので、会費の徴収とか会の運営は、相当難しいだろうけど。
(そして、その会を主宰し続けて、その会に寄ってくる面々と付き合い続けるメリットを、なにより自分自身が見失っていくと思うw)


まぁ、穏便にこの記事をしめくくる意味で(心にもないことを)言うけど、

「やればできる!と信じて頑張る姿って、古今東西、変わらずに美しいものですよね〜」

ほぉら!綺麗で美しい。

美しい美しい。

美しければ、それでよし♪
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