2020年06月

「なんにもしてない時間=修練」にできてると強い

「なんにもしてない」
「ただボーッとしてるだけ」
「ぐうたらぐうたら、食っちゃ寝生活」

悪い見本のように言われますが。

自分は病弱だったこともあり、今も年相応に(←これ、悪しき集合意識やんな)ガタがきまくりなわけですが。

なんにもしないでボケーッとしていられるって、すごいですよ。
食っちゃ寝の繰り返し、無事に穏便にできてるのって最強じゃないですか。

食べることができない、寝ることができない(ほどにいろいろ健康でない状態である)、ただそこにいてボーッとすることができないほどに痛みや苦しみが湧き上がる(ほどに身体の調子、場合によっては心の調子が悪い)。

可能性として、あるわけです。

この数ヶ月、自粛で家にいる時間が長くなった、外出(時の運動量)が減ったというだけで「自粛太り」という言葉をよく聞くようになりました。
つまり、それまでと違う何か生活スタイルをちょっと変えただけで、体重や体型、筋力など体力全般が変わってしまうわけですよね、数週間のうちに。

それくらい「なんでもない」「当たり前の」状態は、綱渡りのような危ういバランスの上に成立している奇跡(だということを人は往々にして、健康で心身の状態や生活環境、社会情勢が安定しているときは忘れがち)。

さて。

ここで言いたいのは、「これといって努力していると感じているわけじゃない何気ないボケーッとしたつもりの生活時間」は、それはそれでいろんな運動なり、脳での神経的な処理をしているということ。
その継続によって実は、「普通」と感じる状態(立ったり歩いたり、物を食べたり)各種が成立しキープできるわけです。

宇宙飛行士は重力のない宇宙空間での任務を終えた後は、地球に帰ってくると脚の筋肉が衰えて、歩けるようになるまで数週間?のリハビリが必要だそうです。
ただ地球にいるだけで、重力という重量を絶え間なく持ち上げる筋トレをしているようなものなのですね。
そしてそれが数日〜数週間、断たれるだけで、(宇宙飛行士に選ばれるほど)健康で頑強な心身をもった人間でさえ、歩くことすらままならなくなる。

で。

よく、意識高い系とか自己啓発系、今のままなんとなく日々を過ごすんじゃなくてより上を目指して云々ということを念頭において生きている人は、今という現状維持に留まることなく成長したいと思うわけじゃないですか。
そのために、心身に負担がかかる「修練」的な行動をルーチン化しようと目標を立てます。
勉強、運動、仕事、食事、睡眠、人付き合いetc。
目標により異なりますが、何かを「普段の、自然に、何気なく」しているときより負荷がかかる目標値にセットするわけです。
普段より多くしたり、少なくしたり(←ダイエットで食事制限をしたり、禁酒禁煙など『やめる』系の目標はこれが大きな課題になりますよね)。

当然ながら無意識に自然にしているのとは違う行動を強制されると、人は違和感や不快感を感じ、ストレスを感じ、その状態から回復するべく反発します。
目標達成のためにはこの、コンフォートゾーンに留まろうとする現状維持至上主義な自分との戦いといえそうです。

そして。

20世紀型と21世紀型に努力のパターンをあえて大別してみましょう。

20世紀型はいわば、「重いコンダラ」型。スパルタですわ。「歯ぁ食いしばれぇ!」でぶん殴られるのを覚悟する系。つらいのに耐えて耐えて耐えて。初舞台で生理が始まっちゃっても「あたし、演ったわよ?」。「ドジでノロマな亀です」と泣きながら反省して頑張る。どこまでもどこまでもどこまでも!!!!!!!!!!!

翻(ひるがえ)って。

21世紀型はいわば、「余計な苦労は百害あって一利なし。人は怒られると&嫌な思いをすると萎縮して能力を発揮できなくなる。スパルタで精神的虐待をするような『努力』できてるつもりの暴力は、実を結ばない」ふうな路線。

雑に分類すると、ネガティブからポジティブへ、みたいな。

そして、一見「そんなラクしてどうする!」と、20世紀に青春をエンジョイ!して、重いコンダラ型の努力をして……というわりにそれも結局は大人になるまで限定で就職したらのんべんだらりと会社を家みたいにして今さらこれからの自己研鑽なんてべつにもう、で胡座かいて何周回遅れだよ?で、そんな自分に内心ヒヤリとするからこそ、自分をあえて肯定したくて古き良き美しさをあくまでも持ち上げて理想化して、変わりゆく時代や若者をなぜか上から目線で非難する、みたいな中高年以上よりも。

楽しく成果が出て、やりがいを感じつつ、「俺様スゲー」と良い意味でうぬぼれて自分を甘やかして肯定して褒めて、うまいこと根拠のない自信や図に乗る浅はかさを利用して上昇気流に乗り、学生のうちから起業や個人事業でとりあえず月収100万円以上は稼げてますけど何か?で愚かな大人の言いなりになったり騙されないように免疫と自信を「ちゃんと実績コミ」でつけて、この人生を、世界を、遊び倒す!やりたいことはやりたいように全部やる!という路線がすごい時代です。

いかにラクに努力するか。

ストレスを感じるような無理を、自己虐待を、セルフSMを、どう避けるか。

あるいは、どうしても実質的に多少はツラい負荷をかけないとどうにもならないのは若かろうが何世紀だろうが普遍・不変でもあるのでやらなきゃいけないけど

それならそれで、楽しくキモチいいセルフSMプレイを満喫する(ような努力の在り方)

にして、修練自体さえもがキモチよくてラクで楽しく充実して幸せな時間にしてしまえるか。


ラクをするには、単に愚鈍に愚直に芸のない苦労をド根性でやるより、実は難易度は高かったりします。

何度も言いますが、腕力という意味での単純な力比べでいえば、野生動物各種のほうが強いです。
集団でとにかく攻める!なら、虫や細菌、ウィルスなど、一見ちいさくて弱いかのような存在たちの方が脅威です。

それでも、腕力がたいしたことなく、ひたすら単純作業を命がけで休まずに続ける虫やウィルスなどのような愚直さも持たずサボったりする人間が、地球上でこれだけ支配的な立ち位置を形成できたのは。

アタマ使ったからでしょう?

この記事でいう20世紀型の努力のカタチは、それはそれで、どうしてもそのやり方でないと人が(忍耐の美徳など霊的成長の上でも、一人の人間としてこの世を生きるうえでの知力・体力を形成する意味でも)どうしても学べないことは、あると思います。
それは21世紀だろうが、もっと先に文明が高度に進展した時代に生まれた人だろうが、どうしたって最小限度以上には必要になってくるでしょう。
私自身、20世紀型の努力がたりないが故に、21世紀型の努力は上手で高学歴→ハイキャリアの流れにせっかく乗ったのに、その後の社会の荒波と最低限にはどうしたって発生してくる波乱万丈の際に「無理ですぅ〜。嫌だったら逃げてもいいよね♪」でチャレンジをそこでやめて終了、となった若い人をたくさん見ています。

逆に、社会全体がナァナァで便利になってくるからこそ、20世紀型の努力は、頑張ってそれをしよう!と決める場とかがないと、励めないのかもしれませんね。

ただ。

まだまだ、21世紀型の努力ともいうべき「ストレスや虐待トラウマにならないカタチでの努力・修練のカタチ」はもっともっと普及させて浸透させていく余地があると感じています。


ここで冒頭に戻るのですが。

なんにもしていない、と見えて、実は人は、いろいろなことをしているわけですよね?
それを断たれると、それまでの「当たり前」が崩れる。自粛太りや宇宙飛行士の地球帰還後のように。

でもこの仕組み、うまく使えば、

ただの現状維持ではなく、能力を伸ばすことにも使える

ことがわかるでしょう。

通勤の徒歩が運動不足や肥満化を防ぐ現状維持の効果を持っているなら、今度は『最寄り駅の1つ手前の駅で降りて一駅分、歩く』は、現状維持の領域を超えて、心身の状態を改善・強化する……みたいな。


私の場合は、語学と音楽という、聴覚関連が(たぶん得意分野だから効果も出やすいのかもだけど)この路線の修練で伸びました。

あらかじめ、ちゃんと語学や音楽を学校に通って学ぶという20世紀型ふうの努力で下地を作っておくことは私の場合は重要だったのですが。

下地をちゃんと20世紀型の努力で整えてからは、テレビでも喫茶店で流れるBGMでも、聴こえてくる音楽を脳内で五線譜に書き留めたり、コード分析ができたりするようになったんです。

それも、はじめのうちは「お、せっかくだから今、聴こえてきている音楽を耳コピして分析してみるか」と、主体的な「今から努力を始めるぞスイッチ」が必要だったのですが、だんだん、無意識に無自覚に、自然とやっちゃう、できちゃうようになってきました。
逆にいうと、それをせずにいるのができなくなってきます(習慣化って良くも悪くも、自分をこんな無意識のクセレベルで変えてしまうんですね。仮面ライダーが改造手術をされるとき『やめろォ、ショッカー!』と絶叫していたのも納得です)。

これは語学にもいえることで、英語音声のドラマや映画を、字幕を観てると音はただの雑音なのですが「英語の方を聴き取るぞ!」とスイッチ入れたら、聴き取れるようになり。
それを過ぎると、べつに英語を聴き取ろうとスイッチなんか入れなくても「入(はい)りっぱなし」になり、否応なくわかるんですよね。脳内で文字起こしまでできる。無意識にやっている。

これはヒーラーとしての超感覚的な修練にもいえることです。

よく、霊視に始まり、念動力とか、いろいろ「練習しなきゃ」といって目標を立て、目標に縛られている義務感がストレスになり「もう嫌!なんで私がこんなことしなきゃいけないの」と挫折する人がいます。

それだけならまだしも、勝手に自分で20世紀型の努力を選び、しかも自分の至らなさで失敗してるのに、そこで抱えたストレスや虐待、トラウマだと感じたことへの恨みを「あのヒーリング!あのインストラクターめ!」と、八つ当たり式にぶつけます。
こんなヒーリングを知らなければ自分は傷つかず、もっと有効に楽しい人生を送れたのに……という後悔まで、ヒーリングモダリティ自体や、その創始者、習った講座のインストラクターにぶつけてくる(おめでたい)人もいます。

何しとんねん。だっさ。

うまいこと、21世紀型の努力を、しかるべき手順で軌道に乗せていけると(←それはそれで単純なことではないのですが)。

ただ、ぼーーーーーーーーーーーーーーーっと、寝っ転がってるだけで、(主体的に)宇宙のすべてと繋がり、チャネリングもし、エネルギーを感じ取り、分析もでき、影響を受けたり働きかけて与えたりといった交流もできるようになるわけです。

その、「なんにもしてない時間」が修練になってる人と、そうでない人の差は、ついていくばかり。

これ、俳優とか、他の仕事でもわりと、技能が絡むものならそうなんじゃないかな。

稽古場でひたすら、早朝から夜中まで発声練習をしたり、早口言葉を言ったり、柔軟運動で体をほぐして……というのはもちろん、それならではの培われていく強さもあるけど。

何気なく社会で生きて、周囲にいる人の仕草や表情、口調、会話のリアクションなどをトレースして、自分でできるようにボソボソ練習したり、稽古場では大声でやってみたり、そういう実践的・実戦的な稽古を、するでもなくやっちゃう人、できちゃう人。そっちが強かったりしない?
(俳優業については人に向かって言えるほど自分が何者やねん状態なんですが、いわゆる下手でセンスない系の人って、そういう目で日頃の生活では他人に関心も注意も払ってないっぽいんですよね。あるいは、十分に人と話す機会などはあるのに、トレースする精緻さでそれを捉えていない。よく、女性が男性の口調を真似すると『そんな喋り方する男性いねえだろ』というわざとらしさになる傾向ありますけど、あんな感じ。たぶん、下地ができてないと、経験だけ場数だけ踏んでも、せっかくその経験ナウな場で与えられる刺激や情報を、噛み砕けないから上達しないんじゃないかな。大人が外国語をテキストなどで何も学習せずに無知なままでその外国に行って、いくら現地ネイティブな発音でシャワーを浴びるように言葉を見聞きしても変わらないように)

まぁ、そんなご提言でごわす。
スポンサーサイト