2020年03月

やりたいことをやる、と霊的成長できない

なんて煽情的なタイトル。
(いま3/31なんですが、これ4/1にアップしたらエイプリルフールネタだと思われそうで意地でもその日を避けてアップ)

シュタイナーのカルマ論集成1〜4のうち、1&2に相当する、こんな本があります。
 ↓


その、わりと冒頭すぐのところに

やりたくないと思っていたのに、やるハメになってしまった物事への捉え方を変えるイメージワーク

が出てきます。

ようするに、「現実に起こったことはすべて自分の第一希望である」ということを(否定している現時点の自分を変えて)理解していこうという1つの試みの形なのではないかと思います。

どんなワークかというと、説明はカンタン。

嫌だなぁと思っていたのに起きてしまった物事について、「ものすごくそれを望んでいた」という仮定で、役者の役作りのようにイメージを仮定し、そこに浸り切る

んです。

本当に頭で望んだことが起きた、というふうに、俳優のように演じてみるわけですね。

これは、その人のやり方というかの巧拙が影響すると本のなかで触れられるとおり、
「試しにちょっとやってみよう」
とだけしても、
「嫌!やっぱり嫌!こんな酷いことを自分が第一希望で望むなんてイメージプレイ、ごっこ遊びだとしても無理!」
となってしまうはず。

そこは慣れというか、習熟なんでしょうか。

大事なのは「これは自己洗脳ではない」というところかな。

洗脳という、記憶や感情の捉え方を強制的に嘘でもなんでも上書きしてしまうという意味でこのワークをやってしまうと、元も子もないと思います。

このワークはあくまでも、

「本当に現実に(頭では嫌だと思っていても)起きたことは、自分の第一希望だったんだ」

と気づくきっかけになるように行われるべきでしょう。
(それが具体的にどういうふうにできてたらいいのか、というのはおそらく文字での解説では難しいっぽいと思うので、しかるべき指導者のもとでワークショップ形式などで実践するのがいいんでしょうね)

で。

本の内容からはここからは離れますが、

((現実に起きたことがすべて自分の第一希望だったのだということが100%、腑に落ちて完全に理解しきっていない状態の)頭で思いつく好き嫌いという意味合いで『好き』という)やりたいこと、をやっても、それは必ずしも自分の本当にやりたいことだとは限らないし(←だって、現実に起きたことを第一希望だと思えてないという、いわば霊的な誤謬を含んだ判断基準なわけですよね? そんな誤謬での判断基準での『やりたいこと』なんて、ほんとのほんとの第一希望としてのやりたいことと合致してる可能性は低くて当然なんです)、したがって、その頭で考える「やりたいこと」なんかいくらやったところで、望ましい霊的成長はし得ない

というのが、このブログ記事の論旨です。

よく、中途半端にスピリチュアルをかじった人が、できているつもりで、「(自分の心の傷などを癒す)ワークをした」といって、

「親から冷たい態度をとられて育った(のが事実だ)けれど、私は本当は、親から大切にされ、優しく愛されたいと思っていたんだと気づいた。それによってすごく癒された」

と言ったとします。

はい、これ誤謬。

わかりますか?

深い意味合いで親としての愛があったかどうかという点は検証が難しいですが(おそらく月並みに人並みに、いろいろこじらせて未熟ながらもその親御さんなりの愛情はあり、その伝え方が必ずしも子供に100%伝わるものではなかった、というあるあるでしょう)、表層的な態度という点だけに限っていえば、この例の人は

現実に起きたこと:冷たくされた、と感じる接し方をされた

自分の本当の望み:(自分が思い描く)優しい接し方をしてほしい


と思っているわけです。

本当の望み(=第一希望)と、現実に起きたことが、ほんの少しでも乖離している結論を出している時点で、この人の見解・感慨は誤謬。霊的にいえば間違いです。

この人は、実際にされたとおりの、冷たくされると感じる接し方を親からしてもらいたかったのです。
それがこの人の第一希望であり、それが叶っているんです。


はい、わかりますよー。
ここまでの文章を読んだあなた。
一般的な物の見方というか常識感でいえば

「そんなはずない!」

ってことですよね。

「いいや絶対に違う!そんなのは屁理屈のでっち上げだ!」

と、怪しげなスピリチュアル論者を論破したつもりの気持ちいい正義の味方ポルノ満喫しまくりっスかぁ?

みたいな。

でもね、

現実に起きたことが第一希望だ、という霊的摂理の普遍的な大前提(絶対に例外がない)を100%信じることができていないような人間は、スピリチュアル実践者の入門すらできていない未熟者。てんでお話にならない頓珍漢

なんです。

もっといえば、無限に輪廻転生しまくってもいつまでもこの世を解脱して天界に魂がアセンションできない人というのは、たいてい、この大前提をいつまでも強固に受け入れることができない(という、ハナから誤謬まみれの間違った道を進んでいる)からなんです。

(ここで、『信じる』というスキルについても触れておきたいと思います。よく、『霊的摂理を信じる、神を信じる』なんでもいいですが、信じるという言葉は『信じるということにするぞ!』という意地を強く持って揺るがない、といった意味合いで捉えられがち。でもそれって、信じるスキル低すぎ。寿司職人の見習いが初めて握った寿司みたいに不格好で食感もよくない。そんなんじゃ客に出せません。信じるという点でいえば、『ちゃんと信じている状態というクオリティに達していない(から、信じているとはいえない)んです。

摂理が本当かどうかというのは『信じるぞ!』と念じることではありません。

たとえば、この世の霊的そして物理的な成立の基本原則を知ったうえで、『何によって現実は創造されるか』を構造的に観ていき、矛盾がないように把握できて初めて成立するといえます。

たとえば『思考が現実化する(かどうか)』という点について信じるならば、まず現実化したものは大元は何から生まれたか、まで遡って正確に把握する必要があります。そのうえで、何者かの意図を原材料としてしか、現実は創造され得ないという結論に至れるかがまず第一関門。それを踏まえて、『ある人が望んでいないのに具現化した現実』とやらがあるとしたら、『ではそれは誰が望んだから具現化したのか』を観ていきます。(ここでしかるべく前提を踏まえて思考の順序を辿ることができているならば『誰も望んでいないのに具現化した』現実は無いということがわかるはずです。し、もし『誰も望んでいないのにこの現実は具現化した』というなら、誰も望まない、つまり意図を原材料にしない現実は何からできているのかを説明できなければいけませんよね)

そこで可能性の1つとして登場するのが『(宗教的な意味合いでの)神』。人が望んでいないことでも、神様の思し召し(=意図)で現実化するものなのだ、という考え方です。
この時点では『現実は、何者かの意図を原材料として具現化する』という前提のみに立つならば、『(人ではない、人智を超えた、曖昧で定義不可能な)神(とやら)の意図で創造された』という可能性も、残るといえば残ります。
そうなると今度は、『(この文脈で述べてきたような定義でいう)神は実在するのか』になりますね。
そこから論理なりなんなりの破綻、穴が生じてるのに気づかないで主張しあうと、よくある宗教談義になりますw
で、ここは省略しますが、そういう(≒天界の神的存在と言う意味合いでの神霊という意味では、いるんですが。後述の自由意思の法則を超越して、ある人の生きる(その人本人だけが具現化の権限を持っている領域という意味での)現実に直接、影響を与えることができる意図の具現化能力を持ったという)意味合いでの神などいない、という結論に例えば私は至っています。

なので、消去法として『人間である何者かが意図したことでなければ現実には具現化しない』という結論が導かれます。

そうすると、『人間のうち、誰が望んだか』という問題になります。ここで、先ほどの神と人との関係のような意味合いで、人と人の間でも『より現実化する力の強い方の人間(自分ではない他人)が、自分を妨害する意図を持ったために、私の生きる現実に酷いことが起きたのだ』という可能性がこれまたでてきます。(し、それを信じている人たちもいます。霊能者は一般の人間よりも強い現実の具現化能力を持っているから怖いぞ、と脅すアレです)

で、そこに『自由意思の法則』が働きかけていることも観測できれば、その合わせ技としての論証で、

『自分の現実は、自分が思考というか意図とされる、何かしら『思う』エネルギーを原材料として具現化したものだ』

という結論が導かれることになります。

(そしてこのブログ記事で第一希望について述べていますが、意図といっても『世迷言、言ってみただけ、気の迷い』みたいな望みとしての意図は具現化せず、常に確実に、ある霊的な要件を満たした第一希望としての意図のみが常に100%具現化するという摂理でこの現実は成り立っています)

ここまでの流れを辿って初めて『信じる』ことができていることになります。

こういった流れを全然、経ていないのに、迷信を鵜呑みにする、思い込むといったニュアンスで何かを『信じる』といっている人、信じているつもりになっている人は、残念ながらヘッポコすぎて、ちゃんと何かを信じることができている状態とは言えません)



世の中には、驚くほど「やりたいこと」についての賛否両論の議論があります。

やりたいことを仕事にすべきだ、やるべきだ VS やりたいことなんて意味ないから重視すべきでない

の構図ね。

これって、実はこの構図にいうどっちが正解かを見ようとするとおそらく答えは永遠に出なくて、

「やりたいこと」という言葉をどう定義するかが問題

なんでしょうね。

いわば

本当の「やりたいこと」を見つけ、それをやるならOK牧場

ってことなんです。

その「本当の」というところが、なかなかクリアできない。

シュタイナー学校に学んだ小説家ミヒャエル・エンデはその作品「はてしない物語」や「魔法のカクテル」の中で、本当の望みとは何かを見つける難しさ、そのために必要な要件について、説教じみないように詩的に触れています(よね?)。

また、現実は自分の思考が行動を通じて具現化されていくものである、というのもスピリチュアルな真理としては(別段スピリチュアルに興味がない人たちにとっても)馴染みがあり、こちらもまた前述のバトル構図と同様に
「いいや!思考は現実化しない!」
と、反論する人との意見の対立がある意味、普遍的に生じています。

が、この点についてはまたミヒャエル・エンデの作品になりますが「ジム・ボタンの機関車大旅行」の絶体絶命シーンに象徴的に描かれています。
自分側の持ち駒が、手札が、まったくなくなってしまった。絶体絶命!という、とあるシーンで、よりによって
「完全にあきらめて、待つ」
ことで救済が訪れるというもの。
(これは基本を踏まえた人向けの応用的な叡智かも。、先ほどちらっと出てきた自由意思の法則(が現実の具現化権限を持つ領域)と、そもそも人の第一希望としての意図はどこから生まれてくるかという話らへんまでもをきちんと考察すると、はじめてわかるネタなんでしょうね←スピリチュアルって奥深いのよ)

これも、「子供向けの小説なんだから、なんでも都合よく屁理屈でお話を書けるだろ。それが霊的真実を述べているだなんて、よくも言えたもんだ」と批判しようと思えば、いくらでもできますよ〜?したければその限りある命のすべてを費やしてどうぞどうぞ!それはとても価値のあるものではないでしょうか?

さて。

「あちこち話題がとんで、まともなブログ記事の体裁を成していない!もっと起承転結なりの構成よく、言いたいことが一見してわかるように、そして書き手の書きたいことを書くのではなく、読者が求めるものを書け!」

とか思っちゃいます?言っちゃいます?
それは確実に正しいことだ、間違いのない正解だ、という自信100%で?
その方がアフィリエイトやアドセンスで稼げるからって?
稼いだ額の大きさが自分の正しさの度合いだと?
そこでいう正しさって、「稼げるか否か」であって、べつに記事の信憑性や正当性じゃないのに?
「何を言うかじゃなくて、誰が言うかがものを言うってことを知らないのかw」
とそこで鼻で笑っちゃいます?まぁ芳しい。

まあいいや。

で、

・やりたいことをやる

・思考が現実化する

どちらにせよ、これって文字面では永遠に答えは数式のようには一意に定まることがないわけですな。

その言葉の含む含蓄次第よ。定義次第。

その定義すら、「〜のことを指すものとする」なんて法律みたいに明文化したところで、その言葉の1つ1つの単語が、てにをはが、無限のニュアンスを醸し出してしまう。
言葉で何かを説明できるなんてのは、本当に思い上がりよね。

あれ、何の話?

ああそう、霊的成長ね。

やりたいことをやれば霊的成長できる、って?

あれ、

そんなこと、この記事ではどこでも言ってない

って気づいてました?
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