2019年04月

アーリマン的ディセンションの時代にスピリチュアルを実践するとは何か、なんのためか

タイトル、でかっ!

10年間に及ぶヒーラーとしての私の感慨を、ひと区切り的にまとめてみたいと思います。

インターネットが普及して以降、高次元エネルギーアチューンメントの遠隔伝授など、Webサイトでヒーラーがエネルギーワークについて告知して電子メールで顧客が依頼して遠隔でワークを行うスタイルが定着しました。

2005~2010年くらいまでが、そうした「遠隔アチューンメント」全盛の時代だったように思います。
私も、この「ブーム」に乗る形で稼げる目処が立ち、会社を辞めてヒーラーとして独立しました。

また、この頃に「ブログ」という体裁が整い、特に有名とかプロの作家とかでない一般人でも、なんなら世界じゅうに自分の想いを綴って公開するのが一般的になっていきました。

スピ本と呼ばれるジャンルの書籍も、この頃から出版数がうなぎのぼり的に増えていきます。

80~90年代にもニューエイジの影響で一時的に占いや霊能の分野が流行った感はありますが、この時点ではまだ、オカルトというか、奇想天外なトンデモ系エンタメとして霊能者によるエッセイ本などが出ていた記憶があります。
(いま読み直すと、たとえば宜保愛子さんのエッセイなどは、(本文を書いたのはゴーストライターだとしても、少なくともそのゴーストライターに向かって本の内容を取材を通じて話す宜保さんの想いというかは)べつにインチキな面白おかしい見世物小屋的なオカルトエンターテイメントを提供しようとしていたわけではない感じがします。ナチュラルサイキック特有の、霊界の仕組みに囚われすぎたある種の思考の制限ゆえに『?』と思える箇所があるにせよ、ひとりの霊能に携わる人間としての誠実でまっすぐな気持ちが綴られている部分も多く、いま読んでも人に感銘を与えるものになっていると感じます。ただ、そうした本が、本屋では『精神世界』というジャンルに置かれ、それを見る人々が好奇の目や偏見を持っている場合があるといった位置付けだったというのが実状ではないでしょうか)

それによって、良くも悪くも、スピリチュアルな概念が広まったと思っています。

一部では、本当に某ちゃんねる掲示板で延々と泥仕合が繰り広げられるなど、スピリチュアルな概念を議論の題材にしたゴシップや、もっといえばカード対戦ゲーム的なディベートごっことしてスピ談義が(そうした匿名性あればこそ自分の意見を内弁慶的にドヤれてマウンティングまたは気の合う仲間だけでハーレム的に言えるオタク気質の人たちの間で)それまでの時代よりも言葉のやりとりだけをとっても多くなされるようになったと思います。

この時点では今思えば、だいぶ素朴に、個々人が思うところをぶちまけていた、熱く本音をぶつけている部分が強かった気がします。

それから2010年以降になると、単なるエネルギーアチューンメントの域を超えた、ヒーリングモダリティ、メソッドといったものが主流になっていきましたよね。

それにより、副業的にでも、ヒーリングをお金をとって行う、ヒーラーの数は桁違いに増えました。

この頃に隆盛を極めたヒーリングモダリティの多くが、ただエネルギーを流して何かよくなればいいねという療法ではなく、対話型、カウンセリングの体裁をとって、人の悩みなどに細かく応えるものになっていたことも、流行った要因として大きいと感じています。

一過性のブームに終わった感のあるヒーリングモダリティもあれば、バブルのように急激に流行った後でバブルが弾けるように下火になり、それでも消えずに続いているもの、まったく話題にならないけど知る人ぞ知るといった位置付けで細々となされているもの……など、いろいろあります。

この時期に、ビジネスの分野で実績をあげた人々がヒーリング業界に進出してきたことが目立ち、彼らが持ち込むというか展開する、マーケティングの手法などが職業ヒーラーたちの間で、もっと稼ぐには、もっと人をセッションやセミナーに呼び込むには、という気持ちに拍車をかけたと私は思っています。

スピリチュアル以外にも、世の中全体で、Webマーケティングというか、ネットを使った宣伝手法がそれまでよりもシステマチックに行われるようになり、SEO対策や分析ツールによる効果検証で有効さの度合いを測って文章やバナー広告などを打ち出す考え方が主流になっていきました。

そこから、怪しげ……といったら失礼なのかもしれませんが、少なくとも「釣り広告」と呼ばれても文句は言えないんじゃないの、と人に感じさせるような

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みたいな文言のリンク広告、バナー広告などが目立つようになっていきましたよね。
(こうしたバナーを打つ会社の何割が、単に宣伝としてややあざとい釣り方をしているが実は良質なスピリチュアルの探究や人々への癒しをもたらす活動をしているのか、それとも……なのかは、私もウォッチする気にもならないのでわからないのですが)

こうした流れは、スピリチュアルな場というのがそれまでは
「世間では異端とされ、科学では証明されてないインチキで危ないと言われたりもするが、なぜか心惹かれる。怪しい新興宗教とは違った、心を高める何かが、こういう分野にはやはり、あるのではないか」
といった、不器用ながらも素朴に「何かいいもの」を探究する人が人目を忍んででも足を踏み入れるものから、堂々とカジュアルに
「努力なしで良い想いがしたい!成功したい!それはすなわち、お金持ちになってモテてセレブ化すること!」
といった動機の人メインにシフトしていったように思います。

隠すも何も、スピリチュアルとの関わりや、セレブっぷりを堂々とSNSにぶちまけて見せつけているのか、隠しません。

それで。

音楽の分野でも、芸術性に優れたクラシックのコンサートやCDよりも、チャラいけれど誰もが分かるし軽い気持ちで楽しめるポップスのアイドル歌手のコンサートやCDの方が売れる、動員数が多いのと同じように。

物事というのはなんでも、高尚になっていけばいくほど、それがわかる人・良いと思う人が少数になっていくので、世間の商業的な視点からしたら「売れない、人気がない、流行らない」ものになりがち。

それで、スピリチュアルの分野にしても、SNSでセレブっぷりを発揮して「信者」を獲得した人が人気になり、それをアンチが叩き、その様子を第三者的にスピリチュアルに興味ない人たちが見て
「スピリチュアル界隈、やばっ!」
と青ざめたり嘲笑している、といった図が目立つ形になったように思います。

スピと称しておいて俗っぽい分、世間の多くの人に「分かる」んですよ。
その結果、話題にしやすくなり(だって話が通じる相手の数が多いから)、炎上と呼ばれるような急激な話題の注目度上昇に伴うなどして焚きつけられた人が見ても何が起きているか把握しやすいんですね。

ネット弁慶的に誰かを叩くコメントをして好い気になっている人が、正義を振りかざしている体裁で実は単に弱い人を探してボコってイジメて喜んでストレス発散しているだけ、という図式は青い鳥の楽園をはじめ、リアル社会でも(特に学校など)よくある話。

それはスピリチュアル業界について、揚げ足取り的に叩いたり嘆いたり「目を覚ませ!」と善人のつもりで社会問題を提起しつつカルト洗脳されたスピリチュアル信者たちを救う気になっているおめでたい人などにもいえるようで。
それでガチャガチャして見える部分が目立つんだと思います。

でも。

そんなに正義、正義、といってるはずの人も、ガチスピというか、本当に洗練されたスピリチュアルなエネルギーや、そうしたエネルギーをまとった人、そういうエネルギーが生じる磁場を創り出すような暮らしぶりを実践している人を見るや否や、「こいつには太刀打ちできない」と思うのか、ピューと逃げていきます。なぁんだガキのイジメか、的なしらけを私は覚えるんですけどね。

そうして、世間のゴシップネタの1つになりさがった、お粗末な部類のスピリチュアル実践者などの浅ましさや、その浅ましさが自分と類友だからよく見えるだけの俗悪な人の物見遊山とゴシップ吹聴で

スピリチュアルはガチヤバ。頭おかしいインチキ

という見方が俗世間では以前より局所的にせよ拡大されていってる部分もあり。

一方で。

良くも悪くもネットが普及して、一般社会のニュースでも、新聞やテレビといった旧来からのマスコミが報じる内容がすべてではないし、もしかしたら真相をありのままに赤裸々に暴いて伝えてくれているとも限らないかもしれない、という知恵を一般人たちが持つようにもなってきていると感じています。

これはスピリチュアルを探究したい人にとってもそうで、
「なんだか一部では、スピリチュアルに染まる人は頭の弱いダメな人みたいに言われているけれど、スピリチュアルな分野自体がまるっきり中身のない嘘とインチキと金儲け詐欺でできているわけでもないでしょう?古来から連綿と続く、人間をより高める何かが伝えられているものなんじゃないの?」
という真贋の見極めスキルが各々、高まってきていると感じます。

そうした二極化が、いまは社会的に見てどの分野でも起きてきてますが、スピリチュアルな分野にも起きていると私は感じます。

できている側は、以前にもまして、すごくなっていってると思います。

すごい、という曖昧な主観的表現は恐縮ですが、すごいです。

そのすごさというのは、単に霊能力を身につけてスプーン曲げたからスゲー!というすごさというよりは。

しっかり人類の霊的な営みの発展を、半歩でも一歩でも、それまでの時代よりも前進させる形となる概念や在り方を、いま生きている人々が育んでいる、示している

という意味でです。

スピリチュアルな分野は、特に「実践」となると、そもそもそれってどういう境界線で区切ったジャンルなの?と言われそうな分野。
わかりやすく大学の博士たちが研究室で弟子的な院生を従えて……といった研究はなされていません。

が、実質的には、学術的な研究の分野それぞれで、優れた博士が論文を書き、それによって人類全体の「知」を半歩なり一歩なり進める功績を打ち出し、それを後続の研究者たちが継いで、さらに半歩でも一歩でも進めていく……というのと同じことが、スピリチュアルな実践の分野でも行われているものなんです。



さて、前置きが長くなりましたが(いつもながら長~)。

そんなような時代の流れによって、今は、シュタイナーのいうアーリマンがそそのかすような、唯物論で人々を染め、霊的なものを何もかも「嘘だ」と思い込むようになり、物質世界だけをすべてだと捉えてそこに囚われるという堕落に向かっている状態といえます。
(ある意味、これはあらかじめ計画された宇宙の運行のとおりになっています。ただ、前回以前のDo Overと違う点が、いろんなマスターたちの働きかけによって起きており、部分的には計画よりも早まっている感のある局面もありますし、それによって前回以前のDo Overよりも嘆かわしい状況になっている局面もあれば、逆に早くアーリマン化させようとしてうまく育たずコケることによって人々が堕落しない、あるいは弱いアーリマンの力にそそのかされて「風邪をひいたが回復して免疫がついた」形になって人類が霊的成長の方へ前進したというような局面もあります)

でも、ネットでゴシップ的に
「スピリチュアルはヤバいよ~!!」
なんて騒いでるのに踊らされたり、クソ真面目に
「そんなことないのに!ちゃんとしたスピリチュアルもあるよ!!」
と学級委員みたく奮闘しちゃうのも、どっちも結局、マーヤ(幻想)に呑まれて踊らされてDJの言いなりだYO!

[CM:マルチプルアバンダンス特級「まやかしマーヤ」よろしくね!(CV:坂本真綾(希望))]

じゃあ、スピリチュアルってなんのためにやるのか。あるのか。

この本


を読むことをおすすめします。
(注:読めるなら、ね。文字面としては読めるでしょう。平易な記述で、ページ数も少ないですし。でも、目を通したとして、音読もできたとして。はたして、『この本を読んだ』と本当に言えるでしょうか?なぁんてね、フフフ←キモい)

西洋・東洋、どの宗教かを問わず、真理というか霊的摂理とされるものは普遍的・不変的に1つなんですね。
どの人種かを問わず、人がびっくりしたときや笑うときがどんなときか、あるいはそのときどんな動作をするかが同じように。

骨や筋肉のなりたちが同じように。

アーリマンがそそのかす、「現世こそすべて。そこで地位と権力、それにふさわしいステータスを手にして他者よりもできるだけ優越した者が問答無用に人間のヒエラルキーで真実として上位であり、勝ち組である」という考えに大なり小なり染まってしまっている人は、

多様性を認めず、またその多様なそれぞれが等しく、神の偉大さのそれぞれの側面を顕しているかけがえのないものだ……ということにも気づけず(指摘されても腑に落ちないし、絶対に認めようともせず)、貶す要素として捉え、自分が信奉する唯一の正解と感じるものとズレた分だけ「間違い」と認識し、つまり点数が低い、劣っているという評価を(独りよがりに)下し、否定して排除しようとする

(その具体的な方法として、人を人種や家柄、性別、セクシャリティなどあらゆる細かい属性区分で『尊重されるべき勝ち組にふさわしい、正しく優れた在り方』と、『それ以外のどうしようもない、ゴミのように排除されても仕方ないもの。というか、いない方が世の中を良くすることになる、いるだけで世界を悪くする害悪』と決めつけ、法的に規制したり国家権力を発動するなど卑怯で横暴で暴力的なやり方で、自分の小さなこじらせた理想を現実化しようとする)
んです。

でもこれは、未熟な人間たちだからこそ、あえて堕落への誘惑という形式をとって「間違っている」とされることを自分がいったん、染まって取り組んでみることによって、風邪をひいた後に身に着ける免疫のような学び方をしようとしているにすぎません。

アーリマンのささやく言葉に真実はありません。(それが重要なんです)

たまたま、そのゲームに参加してる人数が多いと、声が大きく聞こえて、存在感が出てくるだけ。

自分が(そのゲームに染まって学ぶことがベストでない限り)そのゲームに染まる必要はないし、いくら周りでそのゲームにまざっている人が多いからといって、自分もそうしなければいけないわけではありません。

染まっていない自分が少数派だからという理由で文句をつけてくる誰かがいたとしても、その文句をつけてくる方が誤謬に呑まれているだけなので、そういう状態の人の言葉に耳を傾ける必要はないのです。

話が飛ぶように聞こえるかもしれませんが、つまり、
(世界大戦が起きている真っ最中、のような『大変な時代』『人々の多くが狂ってしまった酷い世相』の真っ最中だろうとそうでない時代だろうと関係なく)
あらゆる誤謬、真実でないものは、まだ真実を完全に悟ることができない未熟な人間に(やがて悟りに至る)気づきをもたらすための課題として、もっともその人間たちそれぞれに合う教材として届けられている

んです。

学級会のように、学生のディベート大会のように、何かのテーマについてわざと「賛成」と「反対」に立場が分かれて議論することで、みんながいろいろ学ぶ。
それの、現実版。

その、ある種のディベート大会ごっこが、多くの人々にとって関心事、当事者としてその大会ごっこに参加している場合、世の中的には

重大なトピックとして扱われる、流行っている、いま世間はその話題でもちきりである

という見え方をするだけにすぎません。

さらに話が飛んで結論を言うと。
世の中がどんな有様だろうと、ある人がスピリチュアルな営みを通じて、解脱(アセンション)とされるような、現世を輪廻転生から抜けて天界に到達しようとする行いは、古今東西、誰しもにも変わらない人間の「生まれて存在する理由(の本質的なうちの1つ)」
なんです。

スピリチュアルは、苦労や努力なく大金持ちになって美人になって若返って異性(同性愛者の場合は同性)からモテモテになるなど、ありとあらゆる頭で考える欲張りエゴイスト的な夢が叶う魔法のツール、ではありません。
そうなりたいと願うズルい怠け者のためにあるわけでもありません。

ていうか~、

スピリチュアルの本質と真髄が、そんな薄っぺらいものなわけないだろ
(そんな薄っぺらいものが本質だとして、嬉しい?そんな世界に生きてると思ったら虚しくないの?)


だいたいさぁ、
「みるからに頭おかしいことほざいて信者をつくって金儲けしてイェ~イ、みたいなことをしているのが、スピリチュアルです。そういう人はおかしいので関わってはいけません。もっと良識的になりましょう」
とか、真面目な顔して言うとして、自分でどう思う?

そして実際、あまりに残念すぎて、ガチでスピリチュアルやってる人たちからは生ぬるく見守られるだけで、言ってもきかないから批判もしない……みたいなスピボケしたヤバい人たちの動きのほうに目が行ってしまう(≒そういう人たちと類友である)あなたの人間性どうなの。

そういう人の有様を批判したり、正しくはこうだ!なんて自説を正義の味方のつもりなんなのか真実を告げる啓蒙者のつもりなのか、(よく考えたらあんたの言う事なんざ、ある程度まっとうな状態の人なら誰でもおもいつくだろ的な安直な考えを)声高に「スピリチュアル反対!怪しいスピリチュアルに騙されるな!」みたいなこと言うとしてさ。
「火をさわると火傷するので気をつけて!」みたいな。

正しいし、時と場合によってはそういう注意喚起がグッドタイミングでほんとに火傷する人を減らしてナイスジョブ!かもだけど、しょっちゅう、のべつまくなしに、ベラベラベラベラ言われたら鬱陶しいだろうが。

スピリチュアルのつもりで、ほんとにカルト教団みたいなヤバい状態になっている人たちは本当にいる(ようだ)し、そういう人はそりゃ、ヤバい(んだろう)から、脱洗脳なり何なりの救済が必要だったりするのかもしれない。
し、新たにそういう集団と関わることでカルト教団に洗脳された的になにか偏った有様になってしまう人を予防するのは大事なことかもしれない

よ?

あー、でもこれ書いてるだけでうんざりするんだけど。

これってまるで、

犬のウンコを踏んだら靴が汚れるし、すごい臭いし、しっかり洗わないといけなくなるので、踏まないようにしましょう

って書いてるみたい。

当たり前すぎてなんだろう、書いてる自分がバカバカしくなってくる。

そう言ったって書いたって、犬のウンコを踏んでみたい人はいずれにせよ踏むよね。

あとさ、さらに言うとね。
「自分たちは正常だ。カルトではない。なにも洗脳されてない」なんて思い込んでる、多数派の一員でいるから間違ってないぜ、ホッ……みたいな人たちの「マトモ」な社会だって、別の見方からしたら十分、カルトなんだぜ。
会社員が終業時刻を過ぎても定時で帰らないのを黙認してるとか、もういろいろ、挙げたらきりがない諸々を
「まぁ、しゃーないんじゃない?世の中そんなもんでしょ?」
で済ませてしまえる思考。その思考を作り上げた、もっといえば作り上げさせられる羽目になった、育った環境。この社会。

どこがカルトじゃないって言えるの?

ある意味、人間の集団なんて、どこもカルトなわけ。

それぞれのカルトが、そのカルト内部の価値観からしたらよろしくないふうに見える別のカルトを「カルト」呼ばわりしてるだけ。

つーか、

まったく問題がない、正しい生き方。それができている人。そういう人たちで構成されているマトモな社会

って、見た事ある?

実在するの?

これまでに、存在したことがあるわけ?

って話でもあって。

究極、何かがおかしいと糾弾するような姿勢は、その姿勢自体がひとつの偏りを示すにすぎないといえるんじゃないでしょうかね。

そろそろ気づく人は気づくと思うけど、こういうことを考えていくと、

ただ人間が妄想的にゴチャゴチャ言ったりやったりしてるだけ

な部分と、

それを拭い去った後に残る本質的な何か

に分かれる感じがしてこない?

人間がえてして「思う」あれこれってのは、基本的にはマーヤ(幻想)なのですわ。
そこじゃないの。人間が生きて掴むべき本質は。

というか。

マーヤまみれの状態にある人間が、いかにマーヤを見破り、克服していくかの修練のツールとして、スピリチュアルとされる分野の教えや実践がある

ってことだったりするんじゃないでしょうか。

知らんけど。
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