2015年01月

蓬莱山の夢

中学生のとき、古典で竹取物語が出てきて、蓬莱山の存在を知りました。

夢のようなところらしい……けれど、実際どうなんだろう?

と、思い、蓬莱山に行ってみたいなぁ〜と思っていました。

夢の中でなら、蓬莱山に連れていってもらえるかもしれない、と思いました。

で、蓬莱山に行く夢がみられますように、と願うようになりました。

そしたら。

ある日、蓬莱山に行く夢が見られました。

すごかった!!

幸せで楽しかったという余裕などまったくなく、たとえば地面の砂つぶ1つが、自分の持っている美的感覚の針をグイーンと軽く振り切る美しさで、しかもその美しさが見た目だけでなく、エネルギー的に何か尊い、素晴らしいものの結晶なのだということが、自分で思いつく前に感じ取ってわかってしまう感じ。号泣どころか、体全体が感激のあまり、はちきれそうなほどでした。

砂つぶ1つですらそうなのに、どれもこれもそのレベルのものすごい美しく素晴らしいもので島全体が出来てるわけです。文字通り、脳みそボーン。どちらかというと感性を押し殺して、何も感じず何にも影響されないくらいの冷めた?在り方をキープして、それでももう限界!となってガバッと起き上がって目が覚めました。

ほんとに動悸がすごく、起き上がるなり本当に大声をあげて赤ん坊のように号泣してしまい、それがずっと続いて泣きすぎて過呼吸になって、完全にパニック状態。

どうにかどうにか落ち着いて、(普通に学校がある平日だったので)何事もなかったかのように平静を装っていたけど、夢で見た蓬莱山の光景があまりにもリアルで、ほんの少しでもそれを思い出すとその瞬間に感激のあまり、その場に崩れ落ちて泣き喚いてしまいそうになる。

この世がたいして美しくもなく感じられるような有様をしていたり、どんよりした波動のエネルギーが漂っていたり、不幸や貧困、憎悪や悲しみといったネガティブな波形の想念エネルギーがあるのもすべて、恩恵の1つなのだと痛感しました。

人は、良くも悪くも、本当に素晴らしく美しく豊かなエネルギーの中には、生きていられないのです。

ネガティブが存在すること自体が、人間がちゃんとこの地球で生きていけるための、セーフティネット。
以前のブログ記事で述べたとおり)



いま思うと、中学生の時点でそれを観た、というのは、存外に大事だった気がします。

シンプルでいいっちゃいいけど、「良いもの」をひたすらに指向して洗練させていく、というのは、真面目かもしれないけど、ある意味では偏っているというか、「たまたまそういう指向なだけ。唯一の絶対の正解でもなければ真実でもないし、立派かといえばそうでもないかもしれないし、他の在り方が悪いわけじゃない」と、14歳?の時点で気付けたことで、人生観というか世界観というかに、わずかながら?深みと幅が出たような気がします。

人ってわりとすぐ、

「この問題が解決さえすれば、幸せになれる。余裕も出て、じっくりと考えを深め、気づきを得ていける(のに、それができないのは、この問題に苛まれ邪魔されているためだ)」

と言います。

それ、嘘なんです。

あれこれあるなかで、不慮に、偶発的に、よりによってこんなタイミングで、何かしらのトラブルが訪れる。

まさに、そういう状況でそのトラブルなりをどうにかできるかどうかが、問われているんです。

それをしやすい、できるのが、この世なんですね。

蓬莱山が具体的にどこだったかというと、それこそこの物理的な時空間とも違う、どこか別のエネルギーが渦巻くエリア(←そもそも働いている法則自体が違う場合、何をもって『エリア』と定義するかも怪しいといえば怪しいですが)なんだろうなぁ、と。
それが具体的にどこかというよりは、私は

「とにかく、どこかには、この世とはまったく異なるエネルギーがある場所が、いくらでもあるっぽいぞ」

と思ったことを重視したいんですね。

なにひとつ不幸を感じずに幸せになりたい、というだけなら、死んでこの世を去った後、そういうふうになれるエリアに行けばいいだけのこと。
(あえて、このネガティブ渦巻く世にいながらにして、なにひとつ不幸を感じずに幸せになれるかどうか、なら、むしろすごいチャレンジですし、みんなそれをできるかどうか挑戦しにこの世にきてるとも言えるわけですが)

いま人間として、肉体という物理的な在り方を選んで、この世に生まれてきているということは、この世だからこそ、物理的な事象が働くこの仕組みだからこそ、成し得る何かがある。(はずだ/のではないか。または、べつに義務的使命的に決めてきたことは何もないとしても、まだ死なずにこの世に生きてる以上、この世で成し遂げうるものに向かっていったほうが、わけのわからない非現実的な夢想に浸り続けるよりは、いいのではないか。この世で実現不可能ぽいものにどうしても憧れるなら、死後、魂としてそういうところに旅立てば、いいじゃないか。焦らなくても)

……と思えたおかげで、現実や世間一般の社会的常識みたいなものを「霊的真実がわかってないバカ共w」などと卑下して否定してどんどん、ぶっとんだ頭のおかしい感じのイタいスピっ子になっていかずに済んだ気がします。

ちなみに、もう1回、蓬莱山に行きたいかといえば、ぶっちゃけ、もうお腹いっぱいなのでいいですw
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