2012年12月

外野に構っちゃいられない

2012年を総括すると、もう、このタイトルの一言に尽きるなぁ、と思いました。
今日は総括ついでに、こっぱずかしーく、自分の半生まで振り返りますよ。

私はもともと、(自分で言うとこっぱずかしいのですが)「明るく積極的で快活な、リーダータイプ」でした。
自分自身が何人もいる兄弟のなかで長兄ということもあり、末っ子まで誰も不自由している人がないようにと面倒を見るタイプでした(まさに天使系)。
兄気質のなかにはジャイアンぽくなる人もいるようですが、幸い(?)横暴トラブルメーカー的な役割は次男が一手に引き受けてくれたので、それでかえって「面倒見のよいお人好し」キャラは不動のものとなった気がします。

これまた自分で言うとこっぱずかしいことこの上ないのですが、私はいわゆるIQよりも、EQが早くから高度に発達したクチだったのではと思っています。
(すいません学者じゃないのでEQの正確な判定や分析をしたわけではありません。あくまでニュアンスってことで)

大勢のクラスメイトがいても、誰か1人が不機嫌になったり具合が悪くなったりするのを瞬時に(担任の先生よりも速く的確に)見抜いて対処するほうでした。
おかげで小学校のときはずっと学級委員で、基本的に満票(私以外のクラスの全員が私に投票する)で当選し続けていました。

理路整然とした「良いものが良いとされる」時代ですね。こういう価値観が単一でまかり通る環境では、すごく活躍がしやすい気質なのだと思います。

が。

中学校以上になると、「イレギュラー」「不良」「本音と建前」的な、いわゆるネガティブ要素やオトナ社会の複雑な要素が自分たちの生活にも入り込んできますよね。
「良いものが必ずしも良いとは限らない」時代に突入していく。

このとき私は困惑しました。
どうして、反発したり態度の悪い行動をとったりするのだろう?と、小学校の頃とは別人のように変貌していく同級生を信じられない思いで見ていました。

自分に向けても、「頼れる真面目で明るい優等生」という好感の目線から、「カッコつけやがって図に乗ってんじゃねえよタコが」の非難と嫉妬、嫌悪の目線が向けられるようになりました。

とはいえクラスなど学校全体(それはつまり当時の境遇では自分という人生の『人付き合いの範囲全体』なのですが)をトータルで見れば、イジメに苦しむ人などには申し訳ないくらい牧歌的でおおらかな田舎ののびやかな雰囲気で、そこまで困ったというほどでもなかったのが幸いでしたが。。。

そこらへんからかなぁ、うまく動けなくなっていったのは。

強がるわけじゃないのですが、べつに私は誰かから非難されるのが怖くなったとか、いじめられたくないためにビクビクオドオドするようになっていったとかではありません。

ただ、もともと私が持っている

「みんなの総意に沿う動きをしよう(みんなの期待に応えよう)」

という、どうしようもなく天使天使した思考の土台ゆえに、困惑の度合いが高くなっていったというのが最大の原因だと思っています。

つまり、1人1人の価値観や意見、ニーズが異なるため、「みんな」が望むことが1つに定まらず、だからどうしていいかわからなくなっていったのです。

自分なりに子供心に(とはいえ中学生って、自意識的にはかなり『自分はもう一通りのことは判断がつくオトナ同然の知能は持っている』と自負しているものだし、実際そうだと思いますがw)

「みんなの言ってることばかり聞いていても仕方がない。自分はこうしよう、ということを決めて動こう」

という程度には学習をしていきました。

ただ、それでも、自分のなかに依然として

「みんなにとって利益が最大になる動き方をしよう」

という自主的な天使度極まりない思考は中心となって鎮座していたという次第。



そんなこんなで、私はどちらかというと、

主体性がない(のに積極的に動き回る)行動特性を獲得した

結果、

万人にとって都合のいい、ご用聞き(自発的パシリ)


化していきました。

どんだけ(悪い意味で)天使やねん!

って話ですわ。

このままじゃよくないと思いつつ、悪い意味でお人良し、悪い意味で視野が広い(?)ほうなのであろう私は、「みんながOKと言ったことをやろう/みんながNOと言うならやらない」という、結果的に受け身でしかない信条でいいトシしたオトナになっていってしまったようなところがあります。

(それこそシータヒーリングのアナトミーでがっつりワークするまで、相変わらず『世界全体の調和をウォッチし続ける義務がある』みたいなワケワカメな信念が根深く入っていました)

ヒーリングのワークを通じていよいよそういうイシューの解消に取り組み、今度はイシューそのものはなくなったにせよ、「じゃあこれからどうすればいいのか」を考えるとき(これまでやってこなかった分)途方に暮れることとなりました。

って、この時点で30歳超えてますからね、どんだけスローペースなんじゃいって話ですがw



で、これまたヒーリングのワークをもろもろ通じて、困った状況や、わざとうまくいかないような選択肢を選んで悲惨な状況を創りだしてそれを味わおうとする人たちがいることも、徐々にわかってきました。

つまりはみんな、頭ではあくまでも「そんなわけないでしょう!」と否定するとしても、現実はその人の意図が創出していることに気づくようになりました。

それでようやく、「助けてー、苦しいー」と言ってる人たちの声を、良い意味でスルーできるようになりました。
困っているからといってなんでもかんでもすぐ自分が手を出すことが必ずしもベストにならないことも多々あると学習したからです。

(せめてもの『私なりの折り合い』として、仕事としてヒーリングを依頼する人で、私が対処してもいいと思える案件、私が対処することが解消なり改善なりに貢献しうる性質の案件についてだけ、人助けをするという線引きをした次第です。つまり、わざわざお金を貰って、仕事として依頼されない限り基本的には人助けをしないというのは、放っておくと無尽蔵に人助け側に突っ走ってしまう(結果、自分が惨めになり何も生み出せないサイアクな結果に終わってしまう)天使的な性質がまだ色濃く残る自分へのブレーキとして機能しているといえます)

ここらへんが、今年の前半くらいまでにわりと上手にできるようになってきたこと。

今年の後半はといえば、今度は、

対立意見を唱えたり自分の在り方に文句を言う他者と、必要ならば適切にきちんと対立し、主張し、(イスとりゲームのように引き分けがなく勝敗がついてしまう類いの物事などで)どうしても妥協点が見つからないなら、勝負から逃げずに闘い、勝つ

という性質の獲得(というか、そういう性質自体は人並みかそれ以上に持っていたが、発揮することを禁止していた。あるいは、どこでどんなふうに発揮するのがよいかのコツが掴めてなかった←全力で闘って周囲をドン引きさせてしまうこともあった。スマートに、小猾いやり方なども上手に駆使して、涼しい顔をして相手より優位に立つという機転がきかなかった)がテーマだった気がします。

私はこれまた、面倒見のいいお兄ちゃん気質なところがアダとなったのか、際限なく相手の言い分を聞いてしまうようなところもあったんですね。
自分が言い分を親などに聞いてもらえなかったということが反動となって、せめて自分は人の言い分をきちんと聞いてあげられるような人間でいたい、という思いがかえって裏目に出ることが多くありました。

どこまで言い分を聞いても、その人が混乱していたり、何か熱に浮かされたような一時的な気の迷い状態にあったり、嘘を隠していてすべてが言い訳だったりすると、こちらとしても納得などできるはずもないわけです。
そういう状態に相手があるなら、見抜き、即座にシャットアウトして、相手を「尊重に値しない状態にある(←あくまで『状態』であり、『人間』でない点に注意。在り方が変わればまた尊重もする)」として無視するなり、目の前から排除するといった動きが有効になるケースもあるわけです。

ごちゃごちゃ書きましたが、私は自分が何かを決断したり発言したり行動したりするとき

他人の要望を聞き、自分のしていることがみんなのためになっていると確信が持てたら、する

クセが抜けきらなかったんです。
(しかも、顔色を伺うのは、非難されるのが怖いからというよりは、もっともよい奉仕の在り方を体現したいからという前向きポジティブなものだからタチが悪いw)

でも、価値観は人それぞれなので、何をするにも意見が1つにまとまることなんてありゃしない。
誰かの行動や発言ひとつとっても、好きと言う人もいれば嫌いという人もいて、良く思う人もいれば悪く思う人もいる。
みんなの意向は常にバラバラなんです。

そして、ほとんどの場合、人の意見というものは、そこまで確固たるものでは全然なく、ただ周囲に流されてコロコロ変わったりもするんですよね。

だいたい、

「みんな」って具体的に誰だよ

って話じゃないですか。

文字通り人類全員のことを指しているかといったらそうではなく、「なんとなく自分の目に入る他者全般」をなんとなく自分勝手に括ってるだけですよね。
それって滑稽じゃね?と気づきまして。

そんなこんなで、他人が言っていることが常に参考になるとは限らない、という、ものすごーーーーーーーい基本を30過ぎてやっと腑に落とせた感じです。

普通ならこんなの、10代か20代までには気づいておくことなんだろうなぁ……。

そんなこんなで、タイトルの言葉。

うーん、長かったなぁ……。でも、少なくともこれよりトシ食ってから気づくより、いま気づけてよかったのかも。


そもそも自分の仕事や境遇は、あまり一般的なものではないわけだし、「いわゆる一般的な価値判断基準」を持ってる人に「いまの自分ってどうかなぁ?」と採点を委ねたところで、信頼できるコメントが返ってくるわけないんですもんね。

これからは、良い意味でもっとワガママに、自分を主張していこうと思います。

人間の命というのは確かに、他人によって生かされてる部分はあると思うけど、他人のためだけに生きてるわけでもない。また、他人のためだけに生きていさえすれば世界は滞りなく動いていく、というものでもないんだもんね。
他人からしても「それはアンタ、自分でどうにかしなさいよ」としか言いようのないことだってあるわけで。

ようやくちゃんと、自分はこうしたい、という意向に沿って生きられるようになったかも。
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