2012年04月

認知的不協和の解消、で「良かった」と言ってない?

よくセミナーなどに参加した人に感想を聞くと、

「よかったー!」

と言う声が返ってきます。満面の笑みをうかべて。

で、そこでやめないで、根掘り葉掘り聞いていくと、あんまり良いと思っていないことが浮き彫りになってきたりします。

なんで、あんまり良いと思わなかったはずなのに、よかったと言うんでしょう?

特に、セミナーの料金が高かったり、人気のセミナーで受講倍率が高かったり、とにかくハードルが高いものだと顕著。

……もちろん、ほんとにセミナーの内容が素晴らしかったという可能性もあります。

ただ、ここで知っておいて損はないのが「認知的不協和の解消」という概念。

わかりやすく言うと、

「自分がとった行動に『本当に正しいかったのだろうか?ベストな選択をできたといえるだろうか?』といった疑問や不満を感じるが、それを感じ続けるのが不快なので、どんなこじつけでも使って『あれで正しかったのだ』と自分で自分を納得させる行為」

とでもいえばいいでしょうかね。
(正確な定義を知りたければお調べください)

たとえば家電って、買ってみて使ってみて、100%の満足がいかないことって、往々にしてありますよね。
細かな不満足点が、使ううちに見えてくるものです。

「これじゃなくて、あれにしたほうがよかったのかしら」

なんて思ったりして。

でもそこで、

「数ある家電のなかで、この機種がダントツ1位!」

と自分の買った製品を絶賛する雑誌やテレビの評判を見聞きしたらどうでしょう。

なんとなく気持ちがホクホクして

「自分は間違っていなかった!」

と思いませんかね?

あるいは、10人中9人がその製品を悪く言うとします。
が、残りの1人がその製品を褒めたとします。
すると人は、褒めた1人の意見を、残りの悪く言った9人の意見よりも尊重するのです。
そうやって、自分の選択が間違っていなかったという根拠づけを、ある意味では自分勝手にしていくのです。

もし、自然にしていて良い評判が聞こえてこなければ、血眼になって「その家電を買ったことが正解である証拠」を探して集めはじめます。
そして、都合の悪い情報は全部、無視して、自分の選択が正しかったと裏付けるようなデータを(たとえそれがどんなに偏っていても、ただの意見に過ぎなくても)集めるのです。

もう、話の全貌は見えましたよね。

つまり、セミナーでもなんでも、人は

「私があのセミナーに出たのは失敗だった!」

と認めることは、したくないのです。

どうにかして、自分の選択が正しかったと思い込みたいのです。



このことは、セミナーを「やる側」にとっては恩恵と働くかもしれません。

一方、「受ける側」からしたら、注意したほうがいいのかもしれませんね。

「私の選択は、間違っていた」

と認めることで、拓ける現実もあるわけですから。

もし、本当は良くなかったと思っているのに自分の本音に嘘をついて、良かった良かったと言い続けると、その嘘をずっとずっと上塗りし続けるはめになります。
そのうち、自分の本音がなんだったのかさえわからなくなり、自分自身の思い込みに縛られて洗脳された人間になっていってしまいます。

べつに、そうなっちゃいけないというわけではないんですけどねw

ご参考までに。
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