スピリチュアル

アンチ悪としての善行=ロクでなし街道まっしぐら

よく、「善 対 悪」みたいに、善と悪を対立する対等な概念・エネルギー・在り方etcなものだと思ってる人いますね。

でも実はそうじゃなくて、この世の事象を霊的エネルギーで捉えた場合、そもそも「ネガティブなエネルギー」とか「ネガティブな波動、感情、想念」というのは、絶対値でいう0より低いマイナス値ではないというのは、おわかりでしょうか。

ネガティブというのは「低い(側)」ってだけなんです。ポジティブというのは、エネルギーの波動帯域として、「高い(側)」というだけ。

つまり、室温の「暑い・寒い」でいえば、0℃より低い温度は存在しない世界だとしてだいたい25℃を境に、それ以下なら「寒い(ほう)」、それ以上なら「暑い(ほう)」となるんです。

知能の高さ(IQ)や感情的な知能の高さ(EQ)などの概念で捉えると、よりわかりやすくなります。
IQやEQがマイナスという人はいません。あくまで、高いか低いか、ですよね。
で、IQが高い側になれば頭がよくて物事がより理解できたり知恵を発揮できて、低いと頭が悪いから、何か非効率的なやり方や、生産性の低い愚行などを延々と繰り返して学ばない、というような有様になる。
EQが高ければいわゆる心の機知を察することができて、空気が読めて、他人の気持ちを汲み取ることができたり、自分と違うノリなどにも合わせることができる。いろんな種類の面白さや魅力にも、感じ取って呼応して、自分自身がいろんな楽しさをアンテナでキャッチできて感性がどんどん豊かになっていく。低いと、KYの感じ悪いギスギスした気の利かない卑屈で面白みのない人になる。
感情も、それ自体が電磁波としてのエネルギーなわけですが、愛を最高として喜びや感謝、そういったポジティブとされる感情は、周波数が高いです。一方、怒りや恨み、悲しみといったネガティブな感情は周波数が低く、なかでも周波数が最低の感情は「恐怖」です。

で。

大は小を兼ねる、じゃないですが、高さは低さを内包する、というのがこれらの事象には、あてはまります。

高さ10メートルの建物があるとして、そこにハシゴなり階段なりがあるとすれば、なんなら1階で地上と同じ高さに立つこともできるし、最大10メートルまで1メートルでも2メートルでも、その範囲内の高さには対応できるわけです。

つまり。

IQが高い人は、頭がいいわけですが、同時に、そのIQまでのそれぞれの段階を内包しています。要は、「バカ(ここではIQが低いという意味)とはどういうものか」も、わかるんです。
EQが高い人も、しかり。その人のEQの値を上限として、それより低いEQの人がどう、感情的に稚拙で未熟で鈍感で無知かを、実は知っています。

感情もそうで、喜びや達成感、忠実さ、感謝、そして感情として最高の波動を持つ「愛」。これら高い周波数の感情を知っている人というのは、その周波数より低い感情のいろいろを、知っていることが多いです。
よく「悲しみを乗り越えてこそ、優しくなれる。弱さを知るからこそ、強くなれる」みたいな標語、あるじゃないですか。要は、あれ。

と、いうことは。

いわゆる「善行」と呼ばれる、高い周波数の感情やIQ的EQ的エネルギーなどに到達した人が行える、高い周波数の事象を生み出す?動かす?なんらかの行いというのは、必然的に、「悪行」と呼ばれる行いもなんなら可能だよ、ということを内包しているんです。
人に奉仕して助けるという善行ができている人というのは、なんなら他人を虐待して痛めつけるということもできる、ということ。
何かを冷たく見放すこともできるけど、それ以上に高い周波数のエネルギーもろもろにその人が到達しており、意思の面でも面倒がらずにベストを尽くすことを選択した場合は、結果として善行を行います。このことはつまり、そうでないときには、すごい善行を行える人であっても、サイテーのクズ的な悪行、愚行を行うことも可能だ、ということです。

逆に、ある高さの周波数エネルギーに到達してない人は、全力を尽くしたところでたいした善行はできず(というか、思いつかなかったり、思いついたとしても実行するだけの能力がなかったりする)、それどころか「その人にできる範囲内でベストを尽くしたが、結果的に悪行・愚行とみなされるようなことしか、できないのが関の山だった」ということは、往々にしてあります。

理屈っぽく述べてきましたが。

善行は、その善行っぷりよりも劣る?低い?善行度合いのあらゆる行い(のほうを行うこともできたよ、という可能性)を含んでるわけです。選ばなかっただけで。

ということは。

誰かの悪行を咎めることは、場合(=たとえばその人がベストを尽くした結果、それしか思いつかず、それしかできなかった場合)によっては残酷であり、本質を見誤る(=例:いわゆる悪人という人がいて、悪いこと至上主義みたいな思想のもとに、あえて悪行とされることをしたと思い込む)ことがあります。

自分がテストで満点をとったからといって、それ以下の点数をとった人を「なぜお前は満点をとらなかったんだ?どうしてそんな反抗的なことをするんだよ!満点をとることを否定してるのか?そんなに満点をとることを愚弄したいのか!」とたしなめるようなもので。そのツッコミが本当に的を射ているかどうかは疑問でしょうね。

極論すると、「善か悪か」と、あたかも善と悪を対等に並べるような捉え方をして、そのどちらかを判別するような考え方の人というのは、この世の本質をそもそも見誤っているといえます。

光(その場を照らす可視光線としてのエネルギー)で例えてみると、もっと単純な話になります。

「光あれば闇あり」と言われ、それは確かにそうです(=明るいところでは、照らされたものに影ができる)が、光のない状態は、真っ暗です。闇の影に光はありません。

光と闇は、対等なものではなく、エネルギーの「有無あるいは高低の度合い」なんです。

言葉は悪いですが、利口な人はバカにもなれるが、バカは利口な人には、なれません。利口とされる知性に到達していないから、やろうと思っても、できないんです。
これはすべてのことにいえます。感情が豊かな人は無感情な人の状態を(選ぼうと思えば)選べるけど、無感情な人は、感情豊かな人という在り方を選ぶことは、できません。だって、それをできるだけの状態に、達していないから。

おわかりでしょうか。

人間が「悪」と呼ぶものの本質は、「エネルギーの不足、未熟、稚拙、貧しさ」なだけ


なんです。

偏差値の低いバカ学校と言われるようなところでは、生徒たちの間で
「勉強する奴のほうがバカだよな。全然世の中がわかってない」
というような、アンチ頭脳派みたいな考えが主流だったりします。
だって、勉強ができたほうがいいという考え方を認めたら、自分を否定してしまい、つらいからです。

それと同じように、悪魔と呼ばれる存在は、波動が低く、できることが限られている(というか、正確に言うと『完全なる無能』だ)から、
「神だの天使だのがいう善なんて嘘。悪のほうが、正しい。悪こそ、唯一の真実。怒りと嘆き、恨み、悲しみ。そういうネガティブこそが、この世の本質。それをわかっている奴こそがスゲエ」
という、まさにバカ学校の生徒が進学校の優等生をdisるのとまったく同じ図式が展開されます。

成績のいい人は、名門進学校に行こうと思えば行けるし、それ以下の偏差値の学校を選ぶこともできます(IQ250の天才なのに、0点常習者の月野うさぎと同じ高校に進学してしまう水野亜美のように)。
が、成績の悪い人は、どうでしょうか。考えるまでもなく、結果は明白ですよね。


話題がいつものようにぶっちぎりで逸れたかに見えるかもしれませんが、タイトルについての答え。

善か悪か、とそれら2つを対等な、対立する概念として捉えていると、それは霊的真実を見誤っていることになります。
人は深いところでは皆、霊的に成長して真実を理解していくことを志向しているので、「もし間違ってたらツッコミを入れてね」と宣言しています。
(志村けんの、受験生の勉強コントをご存知でしょうか。『(なぜか必ず女装をして三つ編みにセーラー服で、コタツで勉強しながら)あたしが寝たら起こしてね』と言った直後に寝て、起こし役の加藤茶などが、どんどん過激な起こし方をして『痛っ!!』というアレです。あれを私たちは、みんな宣言してるんです)

その宣言が、カルマシステムを利用するということだったりするんですがこのへんはまたいつか。(←といって延々としない罠)

となれば。

「悪はダメだ!善でなくちゃ!」

という考えでいると……。

「痛っ!!」

そこでメッセージの内容(=その捉え方は間違ってるよ)に気付けばいいけど、ムキになって

「私は!悪を!駆逐するまで!撲滅するまで!絶対に!諦めない!!」

と頑張っちゃうと……。

いかりや長介「ダメだこりゃ」

ジャンジャンジャンジャン!!

(例えが古くてわからない人、ごめんなさい←嘘。謝る気ゼロ。このくらいついてこいよ!勉強しろよ!と言いたい。日本の文化やで?←なぜに関西弁?)
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感情エネルギーコレクター&感情カクテルレシピ研究家時代

ある意味、黒歴史のセルフ暴露ですw

自分は10代の頃、人間の感情エネルギーを、まるで魚拓をとるかの如くにコレクションするのを趣味にしていました。

人間のいろんな感情エネルギーのバリエーションを知っておくことは、ゆくゆく何かの表現に関わるうえでも重要になるだろう、という大義名分をタテマエにして、実質はほとんど趣味w

珍しい電磁波周波数形を持つ感情を目にすると、いただき!とばかりに(自分がナチュラルサイキックのうち得意だった、『エネルギーコピー』の技を使って)自分のエネルギー体にこしらえた「感情収集ブック」とでもいうべき領域に格納するんです。

わかりやすい喜怒哀楽はすぐに集まるので、どんどんレアな感情の在り方を収集したいと思うようになりました。

で、レア感情というのはたいてい、複数の感情が複雑に絡まってできてるんですね。それこそ「愛憎」みたいな。シンプルじゃない路線。

そこへさらに、「熟成」という概念が加わると、バリエーションが一気にひろがります。

ある感情が長らくその人のなかで熟成されると、それこそ果物が酒になるが如くに、味わいが変わるんです。

だんだん、自然に遭遇する他人の感情をコピーするだけでは飽きたらず、私は自分自身を「感情カクテル研究家」気取りで、作戦を立てては他人をダシにしてオリジナル感情カクテルのレシピを考案するようになりました。

たとえば、ある人に自分を好きになってもらうとか信頼してもらうとかして、そのあとで裏切る。
そうして相手のなかに「愛憎」という感情を生み出して、それをコピーして自分のコレクションに加える。

愛憎といっても細かなバリエーションはあるもので、それが友情バージョンのこともあれば、恋愛バージョンのこともあり、また同じようなシチュエーションでも個々人の性格や個性によって、できあがる感情の想念電磁波は微妙に異なる。

愛憎というのは1つの例にすぎず、もっともっと複雑に絡み合った感情の波形を私は求めました。
その波形をまず誰かの心に出現させるため、どんどんマニアックな状況設定が必要になっていきました。
また、自分の1つのアクションに対する収穫をできるだけ大きくしようという目論みで、ある集団を自分の書いたシナリオどおりに動かしてそこにいる個々の人間たちからそれぞれ、自分が狙う感情をコピーするというような大掛かりではた迷惑なものになっていって……。

そうやってどんどん、自分なりの感情カクテルを考案し、実生活で自分自身の人生をも実験台にしたうえで、独りよがりに感情の波形パターン収集を繰り返していました。



自分がそうした、不毛でしかないようなことをしていた動機は、実のところ自分にも完全にはわかっていません。

あんまりストレスフルで望みどおりにならない現実に嫌気がさして、悪ふざけをしてストレスのはけ口にしていただけなのかも、と思うこともあります。

ただ、ブッダがやったと思しき?「人間のネガティブ感情一覧図鑑」を再整備しようとしてたようなフシはあるのかなぁ、と。

なんとなく、それを成し遂げることがとても意義あることのように思えてる部分もありました。

で、それは20代後半になるにつれて「いつまでもこんな、感情波形収集なんて遊びにかまけてる場合じゃない」と思えたあたりで影を潜め、シータヒーリングで創造主とのチャネリングを実現できるようになったことが契機で完全になくなったようなところがあります。
(もう、実生活で証明しなくても、チャネリングを通じてどんな波形でも霊視で把握できるようになったので)

しかも、感情のカクテル波形パターンはまさに無限ともいえるバリエーションで、「完全に整備」するなんてどれだけ馬鹿げたプランだったのだったのだろうと呆れる心地もしていて……。
(これは音楽に似ているかも。理論上は、音符の組み合わせで『世の中に存在しうるすべての音楽を整備』しようと思えばできそうな気もしなくもないですが、いまだに新曲は次々と生み出されているし、『もうこれ以上、どうやったって“世の中にこれまでなかった新曲”はつくれない。もう既に出きってしまった』とは、まだまだなる気配は無いですよね……)

まぁ、若気の至り(なのか?)ってことにしときますわ。

高次元霊や天使、マスターの声には要注意

超感覚が開いてくると、チャネリング能力が開花してきて、霊の声などが聞こえる、想念として交信することができるようになってきます。

ナチュラルサイキック的にチャネリングをする場合の第一関門は、「立派な霊やマスターの名を騙る低級霊に騙されないこと」でしょうかね。

このへんは、陸上部で靴紐の結び方をレクチャーするようなものなのでここでは飛ばします。

ここで書きたいのは、「本当に間違いなく、高次元霊や有名なアセンデッドマスター本人、天使や大天使その他スピリチュアルな存在とチャネリングで交信ができる」ことを前提として、それができてしまうからこそ陥りがちな罠についてです。

ここでは天使でも高次元霊でもアセンデッドマスターでも、ようするに素晴らしい高次元の存在たちを便宜上、一括して「マスター」と呼ぶことにしましょう。

マスターたちはそれぞれ代表的に体現している美徳があり、信念体系をとっても、ある方向を向いていてそれが歪みも迷いもなく成立しています。

創造主の観点から言ったら「どちらでもよい」ことについても、個々のマスターたちは

「私は○○を良しとしてそちらの方向へ突き進む。なぜなら〜〜だからだ」

というふうに確固たる意志を持っています。
(そしてそれは、人間が説得して改心させられるようなハンパなものではありません。まさに鉄壁の信念で、考えを改めたり別の考え方に切り替えたりは、まずもってありません←少なくとも私は、マスターの誰かがそうしたのを見たことがありません)

ここがまさに罠なんです。

マスターとチャネリングをすると、迷いなく(遠慮もなく)自分の本心からの信念を、ズバ抜けたカリスマ性と説得力と自信と寛容さその他もろもろの素晴らしさをセットにして、容赦なく惜しみなく与えてくれます。

ただそれが、チャネリングをしている本人の思考パターンから見た最高の生き方や、その人がこれから歩むべき道のり(≒神聖な計画として設定した生きる方向性)を正確に顕して導いてくれるというわけではないのです。

だから、善かれと思って、単独のとあるマスターの言うことを信頼して突き進むと、自分が(今回、生まれてくるときに設定した神聖な計画に書いてある内容のように)進みたい方向と、いまマスターから助言を受けたとおりに向かっている方向が違うことから不満や摩擦を感じ、苦しくなることが往々にしてあります。

で、その不満が臨界点を超えると、

「もう嫌だ!お前の言いなりになんかなるもんか!!」

と、反抗期のガキよろしくマスターに今度は怒りをぶつけたり、被害者意識に囚われてマスターの声がもう聞こえないように自分の殻に閉じこもってチャネリング能力を封印しようとしたりするのです。

これじゃ本末転倒ですよね。



じゃあどうすればいいか。

対処法は1つ正解があるというわけではないんでしょうけれども、私が個人的にオススメするのは、

「どんな高次元のマスターとはいえ、創造主の一部という意味では自分とまったく対等の存在である」

ということを前提として、

「どんな高次元のマスターとはいえ、他人はあくまで他人。自分が誰のどんな意見を参考に入れるか入れないかは、自分で決める。」

というスタンスで、高次元のマスターたちとチャネリングを行うことです。

マスターたちの助言は、役に立つこともあるでしょうが、それに従うかどうかは、最終的には自分の意思決定になります。

で、べつにマスターが言ったとおりのことをしないからといって、バチが当たったり祟りが起きたりは、ありません。
(もしそういうことをしてくるとしたら、追記に書いた『高次元のなかでは低級』な霊ということでしょう。そういう霊はアウトオブ眼中(←死語)がオススメ)

仮に、マスターの言いなりに人生を生きたとして、ものすごく人から感謝されたり栄耀栄華を満喫する人生になったとして、それは果たしてあなたが今回、人間として生まれてくるうえで経験すべき最高の人生だと断言できるでしょうかね!?
本人が納得できればそれにこしたことはないでしょうが……。
(ここでさらに落とし穴がある。豊かで人から好かれ、なにもかもがポジティブで満ち足りた人生を生きてる最中は『これぞ幸せ!極楽じゃ!頑張ってマスターに従った甲斐があった!!』と本人も思ってたりするのですが、いざ人生を終えて霊界に帰り、自分が神聖な計画で書いたことがどれだけ実行できたかを振り返ったとき、『やっべ。わかりやすい豊かさと愛情と幸せにかまけて、ぜんっぜん宿題おわってねぇ』となる可能性だってあるわけです。それでほんとにいいの?ってことですわ)

あと、マスターの助言はときにはおせっかいすぎてノイローゼの元にもなるし、もっというと強力な洗脳テープとしても働きます。

自分本来の生き方と違う生き方を提唱するマスターからの声を年がら年中聞き続けることで、まるで怪しげな新興宗教にハマった人みたいに、傍からみると痛々しい感じになっていってしまう人もいます。
(自分で能動的にチャネリング回線を切る(スイッチのON/OFF)ことができる人ならいいんですが、そうでないと大変みたいですね……)

マスターの声も良し悪し、というところでしょうか。

新しい法則が誕生するとリコンパイルされる宇宙

魔法少女まどか☆マギカの最終回を観た人(≒あのアニメを最終回まで観られるところまでクリアリングが進んだ&観ることができるだけの霊的成長ができた人)はわかると思いますが、法則は日々、新しく生まれています。

まったく新しい法則が誕生するのは稀……というか、まぁ珍しく、たいていは母体となる法則の「子法則」の「一部」に「(個体として充分に霊的に成熟して『個としての存在』を卒業するに至った魂が)組み込まれる」という図式ですけど。

そして、新しい法則が加わると、宇宙全体がリコンパイルされます。

リコンパイルとは、「コンパイル」というコンピュータ用語に「リ(=再)」がついたもの。
「再コンパイル」という意味ですな。

法則の定義など宇宙の成立要件を記述したものが「ソースコード」だとすれば、それをコンパイルして実行体にしたものが宇宙なんです。
(C言語がわかる方は理解しやすいでしょう)
(ちょっと脱線:シータヒーリングに言う『創造主の定義』というのはまさにこの、宇宙をつくりあげる設計図としての『ソースコードに書いてある記述』のことなんです。個々人の信念や価値観を超えた、『この宇宙は、これこれこういうことになっています』という絶対の真実が、ここに定義されています。つまりシータヒーリングとは言い換えれば、コンパイル済みの宇宙という実行体にいながらにしてソースコードにアクセスする術といえるでしょう←ここでいう『ソースコード』はアカシックレコードとは全然違いますのでご注意をば←アカシックレコードは実行体に内包されるもの、ソースコードはアカシックレコードを含む宇宙すべてを定義し、実行体を生み出す源泉となる設計図)

で、新しく法則が誕生するということはつまり、ソースコードが書き換わるということなので、実行体を「書き換えた新しいソースコードを反映した実行体」にするためにリコンパイルが必要になる、と。

わりとみんなが勘違いしやすいポイントは、法則が誕生した時刻“以降”の宇宙だけが、新しい法則を採用して創りかえられると思い込んでしまうこと。

宇宙自体のリコンパイルということは、時間の法則の外側から、実行体が内包する時間の法則(の実行体)自体もリコンパイルの対象となるので、過去も未来もすべての時間軸で、変わってしまうんですね。

そうなると、その新しい法則が加わる前の宇宙がどんなだったかを覚えている人は事実上、いないということになります。

(ここでは詳しく述べませんが、『リコンパイルがうまくいってるかどうかを見守る存在』というのがいて、彼ら(だけ)はリコンパイル前後の記憶を持ち合わせています(まどマギでいう“ほむら”みたいな能力者)。リコンパイルの対象にならないというわけではなくて、リコンパイルされながらも上書きされないメモリ領域を割り当てられていて、その領域にアクセスする能力が保持されるという仕組みです。彼らのことは『(七)鍵の守護神』と呼ばれたりします。来るべきときに、それぞれの鍵を使って全員一致でソースコード(法則の誕生による加筆以外のところにも手を入れることがある)を書き換えて宇宙を創りなおしたりもします。鍵の守護神の生まれ変わり人間たちはいつも、『この宇宙のソースコードに手を加えるとしたら、どこをどう加筆/訂正/削除したらよいものやら、ということを思い悩む傾向があります。世間的には無名の一般人として生きていたりするので、誰かにおいそれと相談することもできずに悶々として過度に暗い?シリアスな?性格だったりするみたいですw)



だから何だって話かもしれませんけど。

マニフェスト「できました」リストもつくろう。

これからマニフェストするぞ!というリスト、つまり願い事を書き出すのは、よくありますよね。

でも、けっこうみんなやってないっぽいのは「実際にマニフェストできました」リストの書き出し。

叶えたことはもうどうでもいいやとばかりに、わりといろんな変化が起きて前より人生が豊かになったりしてきてるのに、その「良くなった状態」に慣れてしまうと、それが「アタリマエ」に感じられて、ありがたみを感じにくくなりがち。

でもって、充分いろんな恩恵は受けてるのに

「自分はぜんぜん良いことがない。なにやっても大差ない」

みたいに溜め息をつく。。。

こういう人、けっこういるんですよね。もしかしたら以前の自分もそうだったクチなのかもしれませんが(←ていうかぜったいにそうだったはずw)。

でも、それってどうなんだろう、と思うんです。

「いいや!こんな小さなことでいちいちありがたみなんて感じてる場合じゃない!私が目指してるのは、もっと先!もっとすごい結果なの!」

みたいなこと考える人も、いるにはいるのかもしれませんが、、、。
(私の経験上、そういうこと言う人に限って『もっと先!もっとすごい結果』を得られずに、結局いわゆる『そのへんの普通の人』と同じくらいの業績&世の中への貢献度でしかないことがほとんどですが)

ビジネスでも、「PLAN(計画)・DO(実行)・SEE(結果を見る)」が大事だと言われますけど、わりと「PLAN(計画)・DO(実行)」で終わりがちだったり。
せっかく「SEE(結果を見る)」をしても、特に日本人の場合は、マイナス点や失敗点、今後の改善点ばかりの「ダメ出し」に目がいって、「ここがよかった」とはっきりちゃんと明らかにすることを“サボりがち”だったりしますね。

自分は2011年、それこそ1/1と12/31を比べたとしたら、とても「1年でこれだけ実現したの!?」と信じられないくらいの、良い意味での変化や収穫を得られました。
(しかも、TOEICの900点超・足ツボで生計を立てられるほど稼ぐ・簿記試験合格など、それまで10~20年以上も夢見ていてずっと叶っていなかった願望がついに叶うといった、感無量な変化と実りの連続でした)

ほか、目に見える実り以外にも、素晴らしい人との出会いやその人たちと温めて育った人間関係の絆、自分の人生観や幸せだと感じる度合い、、、といった「目に見えない実り」も、冷静に思い出して年初と年末で比較してみると、すごく良い意味で変わることができていて。

オトナって現金なもので(子供もかな!?)、たとえ半年前、3ヶ月前の出来事でも、わざわざちゃんと時間をとって注意を向けてじっくり思い出さないと、すごい幸運や恩恵となる出来事があったのになかなか思い出せなかったりするんですよね。

そういう、「わざわざ思い出さないともう忘れてしまっているが、たしかに間違いなく自分の人生の1ページにとって重要だった出来事、手にした成果物」を、あえて大切に思い出して実感をかみしめる、、、というのは、存外に自分を、自分の人生を大切にするうえで重要だったりするんじゃないかな、、、と思い始めました。

そんなわけで、新しい年にマニフェストしたいことのリストばっかりつくるんじゃなくて、去年以前に実際にマニフェストできたことのリストをつくって、それをできればときどき眺めてみる、なんてのもオツなもんじゃないかなぁ、というご提案。
(あんまりやりすぎて『過去の栄光にすがりつく』人になってもアレですけどw)