ヒーリング全般

マイティピュリフィア使い方Tips 41「高度ふうなエネルギーワークをするときの補助ツールにする」

感想いただきました。

以前、usamimiさんのブログで紹介されていた、思考のシンボリックリンク時空間カスタマイズ

につきまして、不要なものをマイティで見ていって解除していく、また新たに・一時的に必要なものがあれば、マイティを通して帯びてみる、獲得してみるというのを試しています。

まだ試しはじめたところですが、盲点になっているところにアプローチしてくれる感じもあり、チャクラからガガガ〜っと不要な紐みたいなものが抜けていったり、なんかすごいです。

あざっす。

便利になんでも使ってみてくださいな。
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お腹いっぱい食べて、1週間に20分運動するだけ

原題は「THE CALORIE MYTH(カロリー神話)」という本。



すごく雑に要約すると、食事と運動によるカロリーの足し引きは体格の太る痩せるとは関係なく、脳が定義している

セットポイント体重次第

だという内容です。

つまり、自分の体重は「○kgと設定」している値がある、と。

そのセットポイントこそが人の体重を決める要因で、食事も運動も、すべてはセットポイントの値を変動させる要素にすぎないといったもの。
よくない食事と運動がホルモン詰まりを生み、それがセットポイント体重をあげてしまうという理論です。

だからセットポイント体重が低い人は一時的にドカ食いを続けて何十kgと太ったところで、そのドカ食いをやめればやがて元の体重に戻っていく。逆もしかり。
(一時期の20〜30kgの減量なんて、まるで嘘のように半年もしないうちに元どおりになるのがデブあるあるです)

で、食事や運動は、脳がセットポイント値を変えさせるためにあるという理論から、SANE食と著者が名付けた食材をメインに

大量に食べ、余計な運動をしないのがダイエットの肝

という、まさにカロリー神話に喧嘩を売るような内容。

だれか実践してみて報告ください。(←投げやり)

人間が普通に持ってる力の偉大さ

自画他賛なだけの自慢ぽい感じで若干照れますが、あえて載せてみます。

もともと、ヒーリングのレッスンとセッションをご所望の方でしたが、話をさせていただくなかでスピリチュアル談義みたくなり、3時間以上も話し込んでしまい、レッスンもセッションも今からってどうよ的になったので、お客様にもご納得いただいたうえで、お金はいただかず、(ご所望のメニューはこなさなかったけれど話の内容などに満足された様子で)お帰りになった方からの感想です。

超斬新で奇跡的な“セッション”、期待も予想も遥かに上回って、さすがusamimiさん神がかってるなあと、感心しています。
感動と興奮がまだ冷めやらず、喜びでいっぱいです。
感動を色々とお伝えしたいのですが、おもしろびっくり、でも真剣に話をしていく中で、得るものが多かったです。
とても書きつくせないし、顕在意識に上げきれないほどです。

起こった変化としては、その後、
・声が響くようになった。(人生でずっと、声が前に出なかった)
・人と接する時、力が抜けて自分らしくいられるようになった。
・私は私でいい、私がいい、自信を持って進めばいいと思えるようになった。
・あまり心配したり恐れたりしなくなり、何もかもうまくいってるんだと思えるようになった。自分自身と裏方さん(天使や神様など)を信頼できるようになった。
・日々が、楽しくて幸せで面白く、素晴らしさや美しさにもより気づくようになった。自分が与えられてる色々な恩恵に、より気づけるようになった。
・夫と娘もごきげん。
・くじ運が超悪かったのに、くじが当たったり、他にも運がよくなった。
などがあります♪

色々なことを落とし込めたり、気づくことができました。
サイキックな力を持って生きると言う感覚や、サイキックな力なんてなくても人の力は十分にすごいこと。(十分にサイキックだということ)
サイキックな力を求めることで逆に自分の力を失うという罠からも、出られた気がしています。
自分を取り戻せた感が、すごいです。
usamimiさんから、“上から目線”を全く感じなかったことや、usamimiさんの教育への態度にも、共感と好感を持ちました。
癒すー癒される 教えるー教えられる の構図が無い方がよっぽど学べるし癒されると、改めて思いました。日本ではね、なかなか、ハードル高いですよね。
お金に関しても、お金とどう付き合ったらいいか悩んでいましたが解決できて、スッキリしました!
期待していたセッションとレッスン内容も期待以上に満たされました!
どんなヒーリング、エネルギーワークよりも一発で本当、人間が普通に持ってる力の偉大さと、枠にとらわれずに創造的に仕事をするすごさを体感しました。
どうもありがとうございました!!

セッションを""で囲っているのは、メニューとしてのセッションじゃないからこそ、「あの話がいわばセッション」という意味合いなのでしょうかね。

これといってなにかヒーリングの技法を使ったわけではないのですが、この世を1人の人間として生きるうえで、どういうものを大切にしているか、超能力ともいえるスピリチュアルな能力、ヒーリング技法をどう位置付けているかといった個人的な感慨をだらだらと喋る形になりました。

初対面の方だったこともあり、
「usamimiさんはなんでもお見通しでなんでもできるから、全部を超能力でチャチャっと叶えてハッピーで何もかも願望実現!っていうふうには生きないんですか?」
と(ワクワクした様子で)聞かれました。
ご本人もどこか、超感覚を拓いていくということはそういう(特権的な)ことができるようになっていけるということなんでしょう?と期待して取り組んでいる?ようなところがあったような。

そこで、そうじゃないですという方向性のことをお話しました。

たとえばですけど、過去生で何かしらの縁あった人と今回の人生で会った時、あるいはこれから出会いたいと思ったとき、超感覚を使って見つけ出して会い、すぐ意気投合して強力な味方として過去生のときと同じように仲良くするか、という場合。

相手は今回の人生で超感覚を拓いていないかもしれず、こちらだけが超感覚を使って「あぁ、この人とは過去生でも仲良かった」とわかったうえで、うまく関係を築けるから&どうすればそれができるかお見通しだから、相手が気にいるような態度などでうまくやる、というのは、しません。

なんか、せっかく転生までしてるのに、フレッシュさが薄れると思うんですわ。

あとね、過去生でどんだけ仲よくても夫婦とかでも、あるいは敵対して殺す殺されるの関係性だったことがあったとしても、そういうことがあってもある意味ではリセットかけて、別の関係性を築ける可能性が用意されるというのが、輪廻転生の1つの醍醐味だとも思うわけですよ。
それを、何もかもお見通しだとして、過去生でどうだったから今回もこうしようと「間違いのない戦略、作戦」みたいなものを立てて動くというのは、単純に興ざめなんじゃないの、と。

それから、自由意思の法則があるので、たとえば国民的大スター芸能人として超人気者になる、というのは、どれだけ超感覚を拓いたとしても、それだけでは具現化は難しいです。
というのも、他人を操って洗脳して、それこそ魔法をかけて自分を持ち上げてスター扱いするように仕立て上げるようなことは、できないんです。
芸能事務所のマネージャーや社長といった人、ドラマのキャスティングをする人などは、その人の自由意思で、誰を起用したいかを選びます。
「働きかける」ことはできても、最終的な決定権までを奪って自分の好き勝手にすることはできません。
そしてその働きかけ方にせよ、霊視で相手の弱みを見つけてそこにつけこむとか、超感覚をあまりにも俗物的でエゴイスティックな欲望実現のために使うというのは、個人的にはしらけます。許されないなどと倫理で意識高くいうわけじゃなく、単純に、げんなりする。おもんくない。

せっかくの、何が起きるかわからない不安でもありワクワクでもある要素、はじめから決まっているのではなくて個々人の動き方次第でどうとでも未来が変わっていくこの世の霊的な摂理、そういったものを、失敗したりびっくりしたり怪我をしたり精神的に参ってしまう危険もありつつ、だからこそさぁどうしようかという冒険心を持つことができる余地を存分に生かして、無謀すぎず打算的すぎず、かといって無難すぎることもなく、規則的でもこれといって不規則だと断じ切ることもできないペースやリズムで、生きる。

その、実はものすごくプレシャスな恩恵としてのこの時空間に存在できていることを、「失敗したくない、確実に成功できる保証がほしい」といったどこか制限ある思考ゆえに超感覚で何もかも事前に正確に把握して、ただ単にパーフェクト(完璧)だと感じるような実績で生きていけたらそれで満足なのかよ、という。

アリっちゃアリですけどね。最初から完全攻略本を手元において、そのとおりにゲームを進めて、あらゆるイベントを完璧にこなしてコンプリートしたうえでクリアするというのも。それをする楽しみもあるっちゃあるでしょう。否定はしません。
でも自分からすると、「攻略本どおりに何もかもを完璧とされるありかたでクリアしていく人生」という在り方が、そもそも完璧なのかどうかとなると、疑問だったりもして。
何を完璧と思うかという時点でまず、価値観が無限にバリエーションあるじゃないですか。
あらゆる分野で世界一になればそれでいいのか、という。
世界一ったって、たとえば世界一、背が高いのと低いのは両立できない。金持ち度合いでも頭の良さなどでも同じ。
見方をほんの少し変えただけで、何かの基準では完璧だったものが、全然そうじゃなくなってしまう。
攻略本を見てクリアしていけるのは、そもそもそのゲームが、人間の手によって完璧なクリア法はこうですよと定義されていればこそ。実際のこの世は、ゲーム的な要素ではありますが、現時点の人間がつくるビデオゲームみたいなチャチい、制限かかりまくりのものではありません。

そういうようなことを、つらつらと話していくと、(最初、この方はうんざりして、超感覚を学ぶことに後ろ向きになるのかなと思ったりもしたのですが)その人自身が根本的に抱いていたことのほうを応援するというか後押しするかの効果があったようで、

「ですよね!はじめから正解がわかっていることをただ辿るだけじゃ面白くないですよね!」

と目を輝かせておっしゃるように変化。

あぁ、そうか。自分はなんで、いろいろある自分の考えのなかでも、この内容をよりによってたまたま自分でもわからないままに思いついて話したのかといえば、この方自身が根本的なところでは未知への冒険に向かっていく心を持ちつつ、不安などあれこれ考える顕在意識が「超感覚でなんでもお見通しにして間違いのない人生を生きたほうが素敵!?」という思考も構築し、それらが綱引きのように突っ張りあって、そのモゴモゴを抱えていたからなのだなと。
ほかならぬ私がお会いしてお話しすることでこの方をもっともユニークに有益?に刺激するとしたら、こういう話をすることだったのかもなぁ、と思ったりして。



これは自画自賛というわけではないのですが、自分が、自分の頭でも把握できていないような何かしらの凄み、神がかった能力?というかを発揮することが往々にしてあるのをみて、たとえ自分自身といえども、自分はしょせんこの程度の人間だというような制限を定義する資格はないんだなと思います。
いや、偉そうにふんぞりかえるわけじゃなく。

しかもこれは私に限ったことではなく、すべての人間がおそらく、その人自身で把握できていることよりもたぶんすごいものを持っていて、それが発揮する気もない時に実は発揮する形になっていたんだよ、みたくなることって、普通にあるんだろうなぁ、と。

そしてそれはこれまた、顕在意識のバカな頭で考えてもわからないような、不思議さというか神聖さというか、個々人それぞれが神の化身として生きているなかで時折?本人も無自覚なままにスイッチが入って、しかるべくその人が世界にとって、宇宙にとってするのが望ましいことをしれっとできてしまうというのはあるよなぁ、という感慨を新たにすることにもつながりました。

これは赤ん坊もそう。
赤ちゃんや乳児、幼児、子供といった存在は、大人より劣った、愚かな存在ではないし、大人より弱いわけでも、ましてや霊的な意味で本質的に魂として価値が低いわけではありません。

こういうとたいていの人は「知ってるよ」と言うんでしょうが、知ってはいるのかもしれないけど、わかってないことも多そう。それはもちろん私自身も含めてですが。

だから、他人であっても自分自身であっても、あんまり、人間のことを「しょせんこの程度」と見くびるような、何もかもを知り尽くしたつもりでわかった気になるのは、かえって愚かしいことだったりするのかなぁ、なんて思ったりして。

……ここらへんの考え方というかが、たとえばこの感想をくださったお客様からすると、「みんな!この方向に進めばそれはすなわち霊的成長!私がお手本!私の言う通りにやってみて!私みたいになれるようになるといいわね!」的に、ある方向を唯一無二?の「正しい目標」として提示し、そこに到達できてない人間を「未熟」と断じ、「今のダメな状態から良い方へ引き上げる(ことをリードする)」タイプのヒーラーやスピリチュアリストと違うところに映ったりしたのかなぁ、なんて。

わがんね。

わがんせ。

できることをしたいようにしたいだけするのみっスね。

アナスタシア (響きわたるシベリア杉 シリーズ)

ロシアのヒーラーが束になってもアナスタシアの足元にも及ばないとされる、伝説的な実在の人物(との対話)を描いた本。現在アナスタシアは40代半ばということになりますね。

ジャンルとしては間違いなくスピ本だと思いますが、小説の体裁をとっています。


著者であるウラジーミルがひょんなことから歩きで旅をすることになり、そのガイドというかで現れたのがアナスタシア。

彼女は旅すがら、自然の神秘や人間の本質、宇宙の成り立ちや仕組みなど、常識的にいえばおかしいとされるような奇想天外なことを話します。

アナスタシアを疑ったり、(霊的な真実を突きつけられたときの俗っぽい人間がみんなそうであるように)怒りを覚えたり、圧倒されたり感動したりする著者の反応がいわば「常識という名の、霊的真実から逸れた悪魔的幻想や制限ある思考という鎖に縛られた一般的人間」を代表する聞き手として機能します。

まぁ体裁としてはよくありますよね。
本の中で著者は、作家としての才能はないがアナスタシアと出会ったことでこの本を書き、その本が多くの人に届き、闇の勢力とされるものを打ち破り光の世界を推進することになる運命を実現した旨を綴っていますが、たしかに小説という意味では稚拙です。
そういう物語としての構図はある意味どうでもよく、
「アナスタシアがこんなことを言ってたよ」記録集と割り切ったほうがいいかも。
(実際、後半になるにつれ、物語的な部分はどんどんなくなり、ただひたすらアナスタシアが言ったことを書き留める体裁になっていきます)

2017年3月時点で、日本語訳は5巻までですが、ロシアでは10巻まで出ているそうです。このあとも続くのかな。

1巻の内容で、(小説家としての才能や実績があるわけでもない)著者が、アナスタシアの願望実現コマンドのおかげで、銀行や出版業界、その他もろもろの善き人々からのサポートを受けたおかげでトントン拍子に話が進んだことが書かれますが、アナスタシアの出版実現コマンドは今もなお続いているんでしょうか。

著者ウラジーミルを通じて、アナスタシアの教え(というか、この世界の普遍的な霊的真理をアナスタシアがたまたま伝えているというだけという体裁。アナスタシアの主観ではない感じ)が、世界中に今まさに届けられている真っ最中ということなんでしょうかね。

個人的感想をいえば、基本的にアナスタシアの発言として述べられていることで何か霊的におかしい、ズレてると思う点があるかというとなく、まぁそうだよね的です(←そっけない)。

でも1巻の出来事(著者とアナスタシアの出会い)が1996年、今から20年以上前ということを考えると、たしかに驚異的かもしれない。
当時、今とは比べものにならないほど、悪魔的な力が世界を牛耳ってるようなところがありましたもんね。
インターネットが全然まだ普及してなくて、今ほど一般的にみんながスピ的な良質な情報、真実とされる概念に触れることも容易ではなかった印象があります。
その時点で、これだけの内容(20年経った今読んでも何一つおかしくないです、おそらく1万年経ってから読んでも、1万年前に読んでも、どこもおかしくもなく、全然古くも新しすぎることもなく、全世界的に、民族や文化を超えて、人が本来もっている神性というかを刺激して、『!』という反応を得るでしょう)を、闇の勢力に邪魔されず出版に踏み切るというのは、たしかに偉業だったといえそう。。。



ただ1つだけ、この本シリーズを読む人に「こうなってほしくないなぁ〜」という個人的な勝手な想いを述べていいなら、

「何かをdisりたくて誹謗中傷して攻撃したくて、反発したくて、この本の内容・アナスタシアの発言を水戸黄門の印籠みたいに使う」

読み方。

自然と調和して逆らわないといって家もなく野宿(ほんとに草原や洞穴で寝泊まりして水道電気ガスや工具、機械、コンピュータの類を一切使わない)で生活をしているとか、起業家は世界で最も可哀想で不幸な人々だと断じるとか、ある意味では非現実的だったり、人の反感や顰蹙を買うような内容が入ってるんですよ。

で、過激な思想という感じで無農薬栽培にこだわる人とか、機械文明に反発する人が、「我が意を得たり!」みたいにこの本を経典みたいに祭り上げて、誰かを攻撃する大義名分に仕立て上げるみたいな読み方だったら残念すぎだな、と。

まぁ、そういう人が出たとしてもどうしようもないし、好きにすればいいし、出たところでべつに世界がすぐ滅びるわけでもないんだろうし、滅びたとしてだから何だ、でもあるし、ぶっちゃけ、そこまで本気で懸念してるほどでもないんですけどね(笑)。



それに加えていまの時代にこの本を読む人にとって重要なのは、この本に述べられているようなことを踏まえて、ブレず、逸脱もせず、かといって現代社会と相容れない社会不適応に陥ることもなく、どうバランスをとるかという点だと思います。

この本シリーズのファンになって、「アナスタシアはすごい!みんなアナスタシアの言うとおりにすべき!この本で私は救われたからみんなも読んで!」というだけだと、熱心な信者ではあるのかもしれないけど、受け身なんですよね。

アナスタシアがこうして著者を通じて述べてくれたことを受け止め、かつ、それを、どうすればこれからの社会で、人間の本来の本質、常識という名の誤謬で穢され否定され隠蔽された世界や宇宙についての真実を知りながら、いきなり現代社会をまるごと破壊・解体して作り直すとかではなく徐々に変えていくか。

それは、この本を読んだ人々、偉そうに言っていいなら「私たち」それぞれが、主体的に考えて、なにかしらの形で、試行錯誤ででも、実践していってこそだと思っています。

ただ、アナスタシアを偶像として教祖として崇めるだけに終始してはいけないと思っています。(まぁ、どうしてもそうしたい人はそうしてればって感じだけど個人的にはそこまで尊敬はできません)

「じゃあ、どうするか。どうしよう。私はこうしてみたけど」

ということを1人1人がしていかないと、本当の意味で、アナスタシアが本を通じて多くの人にこの内容を伝えた意義は、果たされないのでは、と。

もちろん、べつにアナスタシアの言うことはそれはそれとして、だから何だ、と冷ややかに突き放して捉えるというのも、自由だし、ある意味では大事な視点だと思います。

これまた個人的な勝手な意見ですが、一番ショボくてダサくてあんまりなのは
「アナスタシアに会いたい!そうすれば何かご利益があるかも!」
という、痛々しい依存気質と寄生虫願望のファン心理100%な読み方w

否定としての「あきらめない」は危険

ポジティブ思考が大事!ネガティブはダメ!あきらめないで!!

……みたいな少年ジャンプっぽさ全開の幼稚な前向きさは、時として危険です。

人生に起こるすべてのトラブルや嫌だと感じることは、なんらかのメッセージです。

特に、うまくいかないとか、痛いとか、不快感を呼び起こすタイプの刺激として起きてくる出来事のメッセージの方向性はおおむね「そっちじゃないよ」というもの。

だから素直に、「あ、違う?……もしかして、ここかな?ここをこう変えてみたらどうだろう?」というふうにしていけば、嘘のようにトラブルが消えて上手く行き始めたりするんです。

頑張って踏ん張ってしまうと、「違うっつーの!」と、メッセージの刺激はどんどん強くなり、大病をして頑張りようもなくなって計画が頓挫するなど、いわゆる「悲劇」が訪れます。

すべての悲劇は、最初にトントンと肩を叩かれた程度のときに「ん?何?」と振り向き、メッセージの内容を受け取り、理解し、その内容に沿った行動指針の変化などをすれば、起きないもの。
(あんまり意識高くなく、流されているようなところもあり、かといってわかりやすく堕落しまくりというわけでもない小市民的な人が、そこまでいろんな意味で大成功など傑出した出来事も味わっていないけれど一家揃って健康で仲良くて犯罪者や自殺者も出さず、みんなうまいこと結婚して子孫繁栄して……というのも、『そっちは違うぞ』というツッコミ系メッセージが来た時、無理に踏ん張らずにうまく行けそうな別の道を探してスッと移動するみたいな世渡り本能が高いゆえだったりして←華々しい成功を収めたセレブ的なエリートが良しとされる風潮が今はあるぽいですが、少なくとも数千年以上もの歴史を持つ人類がまだ科学や医学も発達しておらず病気や自然災害でわりとすぐ死んで当然な時代にもちゃっかり生き延びられたのは、こういう、『とりあえずしっかり生き延びて子孫を残す』という動物的な側面をちゃんとやる人々(生き残りスキル的にいえば超エリート)が一定数以上いてこそ、です。ビジネスでの金稼ぎなど、現代だからそれがすごいと呼ばれるだけで原始時代?にはだから何的に扱われて終わったであろう分野で天才と呼ばれるような実績をバリバリあげる人というのは、それはそれですごいですが、必ずしも人類の存続という意味でも同じように天才と呼べるかどうかはわからないんです。一生独身でこれといって性的なことに興味を示さず独身であるとか、いちおう結婚して子供はできたけどカミさんといろいろあって離婚して子供の養育費だけとりあえず払ってるというのは、動物的な意味合いで親が子をしっかり面倒みて育てるという観点からすると少なくともエリートではありません)

で。

自己啓発やスピリチュアルな教えというかが一般的になりつつある現代だからこそ起きてくる弊害なのかもしれませんが、

「そっちじゃねえよ。そうじゃねえよ」

というメッセージに、頑として歯向かっちゃう人、いるんですよね。

私がヒーラーとしていろんな人と接して来て思うのは、自分ならではの個性を認められない人。
それも、世間一般にいうエリートじゃなくてこっち、というような、本人からすると不本意なタイプの個性。

わかりやすく一流企業に勤めて出世して……というのがその人の神聖な計画やそれに沿って設定してきた今回の肉体の組成(人種や身長、肌や髪の色、容姿がその時代や国の基準からみて美貌とされるか否か、体質として頑丈かひ弱か、運動が得意かどうかetc)、得手不得手からみてそぐわない進路の場合。

「そっちじゃねえよ」

というメッセージとして、昇進試験に受からないとか、なぜか自分を毛嫌いする上司が自分を不当に低く査定するとか重要な仕事を担当させてもらえないとか、謎ふうなトラブルが起きまくります。

もちろん、「それを打破できるかどうかが問われるイニシエーションとしての課題、トラブル」もあります。
その見極めが難しいのですが(というか、だからこそ、ヒーラーやスピリチュアルカウンセラーがいるのです!!)。

「そっちじゃねえよ」系のメッセージに頑として抗(あらが)い、

「私はあきらめない!」

と真矢みき姉様の呼びかけに応えるかのようにいつまでも貫く人は、その意地によってかえって人生を実りの少ないものにしてしまいます。

何をどうやっても動かない現実、乗り越えられない壁があるなら、ある程度の期間、自分なりにあれこれやってみてもあまりにもビクともしない気配ならば、それは

しっかりあきらめるべきこと

かもしれません。

「そんな!人生には無限の可能性があるというのに、なぜあきらめなければいけないの?それはやはり敗北では?」

と思う人いると思います。

が、どうしても超えられない壁というのは実は、自分が生前に設定した、最高の人生を実現するうえで行くのがよくない方向性にガードレールとして存在しているのです。そのガードレールを設定したのも自分です。
よほど、生前に立てた神聖な計画を根っこから変えるところまでワークするならガードレールの設置箇所そのものを変えることもできるのでしょうが、そうなると今回どの両親の子として生まれたかなどまでもがすべてリセットされないと設定変更が完全にはできなくなるわけで、ほぼ不可能だと感じます。(少なくとも私はそれができた人を見たことがありません。し、そんなところまで変更する必要性が霊的摂理に照らして、あるとも思えません)

まぁでも、どうしてもあきらめたくない人は、いつまでもいつまでも、あきらめずに結果の出ない努力をして、「少なくとも私は努力できてる!ちゃんとあきらめないで前向きに頑張ってる!」と自己満足にでもニンマリしてればいいと思います。
そんな人間を他人は、社会はどう思うか、どう扱うか、何を得られるか、何を与えられるか、そもそもそんなものと関わる必要性が無いから与えも貰いもしなくていいのか、などなど、考えてそれでいいなら。



ちなみに私の場合、ちょっと前までは「万能である(はずだ)」という点に固執としてのプライドを持っており、心からは願ってもいないことをチャチャッとてがけて「できちゃった♪俺って万能!なんでもできるぜイエーイ!!」と好い気になりたくて、いろいろしていました。

が、だんだん、能力そのものじゃなくヤル気があるほうが採用されるとか、作品のクオリティでいえば自分のほうが高いのに本気でその道をキャリアとして行きて行くと神聖な計画で設定してきている人のほうが賞に選ばれるとか、本気を出せば難なくクリアできるのがあからさまな物事(難易度の低い資格試験取得など)になぜかまったく努力できないとか、自分でコントロールしきれないことが出てきて困惑しました。

ある意味それは、自由意思の法則がどのように働きかけているのか、それ以外の法則や神聖の計画といったもの、それらに基づいて選出される守護霊やその役割と働きかけ方etcを知るのにはとても役立ちました。
(世の中のルールもそうですよね。無難に普通にしてると誰からも怒られないぶん、どこまでやったらNGなのかがわからない。わざとルールを逸脱するようなことをしてみて、周りから怒られたり嫌われたり罰せられたりしてみて初めて、ルールの境界線がわかる。それの霊的版をやりまくったわけですw)

でも、ちょこざいなことをクリアできない(例:マトモに勤めるつもりもなく待遇も良くなく、仮に採用されたとしても自分の人生計画に照らしてプラスになる経験ができるとも思えない会社のバイト求人への応募)ことに、これまたちょこざいな自分の虚勢を張る意味合いでのプライドがカチンと来る。
それで何度もバイトに応募したり、資格試験の申し込みをしては1秒も勉強することなく試験本番を迎えて、どう考えてもべつに難易度が高いわけではないのに全く勉強してないから合格点をとれずに落ちる。
それを繰り返すことで、
「自分はあんな会社のバイトすら受からないのか。あんな簡単な資格試験にすら受からないのか」
という劣等感が募ってしまい、自尊心や人生を生き抜く自信までボロボロになっていき。

あるとき、
「原点を思い出せ。霊的な摂理の諸々を知るための実験としてあれこれヘンテコぽいことをしてただけだろう。本当にその会社にバイトで雇われたいとか、その資格試験に受かって職業にしたいわけでもないだろう(というか職業にして食っていけるような資格でもないだろう)」
と冷静に考え、バイトに応募して採用されることや、その資格試験に受かることなどを、

しっかりあきらめた

んですね。

そしたら、たとえばオリジナルのヒーリングモダリティをいろいろ開発するアイデアが湧いて来たり、それを具現化する作業は(作業量や大変さはあるはずなのに)べつに嫌じゃなくゴリゴリ突き進めた。寝ても覚めてもそのことばかり考えて、起きてる時間のほとんどをその作業に充ててすごく充実して幸せだった。これだ!という実感があって。
それでセミナーを開催してみたら好評で、もちろんお金も貰えて。

あぁ、そういうことなんだ、と認めざるを得ませんでした。

そもそも万能かどうかをいえば、人間全員、本来はそうなんですよね。だって全知全能の神の一部なんだから。

でも、そのままこの世に来たところで、誰もがあらゆる方向性において天才で無限に何もかもを手にいれて……とすると、この世に生まれる本来の意義(肉体や物理法則など制限があるふうな幻想で成立しているからこそ味わえる学びや喜びetc)そのものがなくなってしまう。

ちょうど30代も後半にさしかかるという頃合いで、もういい加減、若造若造した若造でいるのもなぁというのとも重なり、虚勢を張るみたいに「私、なんでもできるんです!」みたいなことする悪趣味なイタさは卒業した感じ。

そしたら面白いことに、自分が取得するのをあきらめた資格を持っている友人ができて力を貸してくれたりして、当初自分が思い描いていた「もし自分がこの資格をとったらこんなビジネスができる」という構想を、その人の協力によって実現できちゃったりと、夢が叶うようになったんです。

面白くないですか?

夢をあきらめたことで、夢が叶う

なんて。

あきらめずにひたすら、思い込んだら一つに懸ける(巨人の星)だけが能じゃない。

これ、少年ジャンプ感全開の精神年齢ガキな人には難しいんだろうなー、と思います(←さっそく上から目線w)。

でも、良い意味でのあきらめ方ができるというのも、素敵で成功したオトナの必須要件だったりして!?

んなわけないか。