ヒーリング全般

根底からの変化が得られること、「それがヒーリングなんだ!」と知ることが 出来ました!

オリジナルヒーリングセッションの感想いただきました。

幼少期から見下される経験が多く、今も主従関係で従に立ちがち。
今後は自分のスキルで立ち回りたい願望があるも技術不足、スキルアップも怠惰に流れる傾向。
以上から幼少期から続く奴隷的な振る舞いからの脱皮が今のテーマと感じている……という方からの相談でした。

本日はありがとうございました!
凄く楽しかったです!

根底のイシューが取れた後の最後の方、楽しい、楽しい、という
感情で頭の中がいっぱいだったので実は個々の言葉があまり頭に
入ってなかったのですが、とにかくなりたい今後の姿がずーっと
浮かんでいて、「ああ!なれるんだ!そしてそれが楽しいんだ!」
という気持ちに満ちあふれてました。

今思えば、セッション依頼内容には今後のなりたい姿、将来のキャリア
等書いてましたが、単に職種とかスキルとか資格のイメージでしかなく
セッション終了後、「なりたい&なれる自分」の姿が完全に頭に
定着したことが、「これが!ヒーリングによって変わるってことなんだな!」
と気付けました。

そうか!自分は今後なりたい姿が欲しかった、でもセッションで指摘されたように
「ヴィジョンが見えてなかった」自分が考えるヴィジョンは「ラベル(資格、職種)
だった。

でも、今は「頭の中になりたい&なれる自分の姿がいる!」これがすごい驚きです。

ああ、セッションってこういう感じなんだな!と理解できました。
論理的な掘り下げとか、コマンドがどうとか瑣末(重要スキルと思いますが)ではなく、
「ああ、こんなに変わるんだ!」「これが新しい自分なんだ!」と気付けること、
そのような根底からの変化が得られること、「それがヒーリングなんだ!」と知ることが
出来ました!

本当に楽しくて、セッション終了後、部屋で小躍りしてました笑

とにかく楽しい!&嬉しい!&ありがとうございます!
最高の経験でした。そして最高の誕生日でした!笑
ありがとうございます!これからの悟性魂の時期、楽しんでいきます!

あと、ヒーリングの最後の
「外の世界童貞だった自分が頭の中で妄想し続けて貼りまくった宇宙全体のラベル回収」
おおお・・・ここで来るか・・・・!とWow!って感じ、楽しかったです笑

今年の春にCelestie.jpを知り、マルチプルアバンダンスを受講、ブロックハントのブロマガを読み、
10月にはブロックハントGO!Extraを受講して、そして到達したusamimiさんのオリジナルセッション
その最後の締め!大回収!
すごい、何か、演劇みたい!最高のストーリー!最高の演出!最高の経験!って感じです笑

本当に!ありがとうございました!!!

感想内に「外の世界童貞」とありますが、この方は学校や会社、家庭といった生活を通じて、たしかに普通に人と会話をするなどの経験は積んできておられるものの、常に自分側でつくったラベル(この人は権威的存在、など)とだけ対話しているようなところが見受けられました。
つまり、ほんとの意味で他人と対話してない。すべてがセックスでなくオナニー。
一人で完結してしまっている。本当のコミュニケーションではない。
それを比喩的に表現した単語ということですね。

ただ、この方だけに限らず、究極をいえば、「そもそも人間が、本当に本当に、他人のナマの本質に触れるコミュニケーションなんて可能なのか?」という話だと思います。

多かれ少なかれ、どんなコミュニケーションの達人だろうと、しょせんは程度問題に過ぎないのかもなぁ、と思わなくもない話で。

いわば、0か1か、○か×かの二元論というよりは、たまねぎの皮みたいに無限に、どこまで行けるか、薄皮1枚でも剥いてできるだけナマに近いところまで相手に近づけるかなのかもしれません。すべての人にとってコミュニケーションって、そういう「(数学でいう)極限」の概念なのかもなぁ、と個人的に思ったりします。
(だから、というと雑なつなぎかもしれませんが、『うんうん。私にはあなたの気持ちが完全によくわかるよ!』みたいなことを、平気な顔してさらっと言って本人もそうできてると信じ込んでる的なのが苦手でうんざりしますw)

ちなみに感想は、セッションが一区切りついて、(ヒーラーである私からしても想像できなかったくらい)すごい変化が奇跡的に起きたことからポジティブな内容になっています。
が、セッションの最中、全体の4/5くらいは、なんなら殺し合いが起きてもおかしくないほど殺伐とした、重い、もしくは意地悪にイヤミを言ったり本人も悪気はないけどブロック由来のヘンテコなことをまくしたてたり。常人の神経なら発狂するレベルで不愉快なやりとりと感じるヒーラーがほとんどだと思います。

これはべつにこの感想をくださったお客様を責めているわけでは全然なく、それが当たり前なんです。

その、凄まじく、人生最大クラスで嫌〜〜〜〜〜な経験と感じるようなやりとりが、本当の意味で変わるヒーリングセッションの過程では、生じてもおかしくないわけです。
それを「当然の想定内」として受け止めて、圧倒されず、萎縮もせず、ましてや怒り狂ったり泣きわめいたりなどせずに、冷静に淡々と処理する。
先日、毒を抜いてないコブラの飼育施設で餌やりを担当する職員の人が、いちいちコブラに噛みつかれそうになっているのを平然と対処して業務をこなす映像を見たんですが、まさにそんな感じ。

それが怖いなら、嫌なら、ヒーラーなんかなるんじゃねえよ、的な。

もちろん「つらく苦しい、お互いに不幸で傷つくやりとりをしてこそ本物だ」と思ってしまうと、それはそれでお門違い。

このへんの温度感、どれが本物なのか正しいのか効果がある流れに乗っている証拠なのかそうでもないのかが常人には見極め不可能なほどの曖昧さ。

それができてこその、ヒーラー。

それをしてもらってこそ(=途中でお客様の側でキレたりして投げ出さないで最後まで自分自身と向き合って問題の根源を見つめて変わる決意をして現時点の殻を打ち破る)、ヒーリングを受けたことになるお客様。

嗚呼!
この萌え!

大半の人なら一生に一度たりとも、1秒たりとも耐えられないような、ありとあらゆる不快感や信じられないような嫌な気持ち(にさせられる概念との遭遇)、ギスギスした空気。
そういうものを、ごまかしゼロで、本当に、根源的な原因から、まるっと、癒して、変える。

その、愉悦!!

私にとって、それよりエキサイティング&スリリングなことは、まだ見つかっておりません。

ヒーラー、やめられまへんわ。ふふっ。(←キモい)
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自分を捨てて、その場や他人に合わせるからこそ見えてくる「本当の自分」

これ、大多数の人が、死んでもこっぱずかしいのとプライドがズタズタに踏みにじられる心地がして、嫌で絶対にやりたがらないことです。

「私はこれこれこういう人間なので、そういうのはちょっと……」

と、周囲のノリに反発したり拒絶して壁を作ったり、自尊心をこじらせた人になればなるほど周囲のノリや価値観を見下して蔑むように小馬鹿にしながら否定してニンマリ、とか。
(べつに他意はなく、あるあるだなーと思うのは、消極的に自活してる独身女性と、それなりにお金まわりが安定した家に嫁いで有閑マダムふうに切羽詰まらず生活できて十何年みたいなオバ様方。劣等感や引け目を感じるどころか、自分の方が身分が上で偉いからそれをしないでいいのだという感全開で、感じ悪い優越感を滲ませながら『いえ、私はそういうのは結構です/あ、私そういうの無理です/なにこれ!ありえない(怒)!』などとあくまでも自分らしさだと感じる、しょせんは『自分の殻』に過ぎないプライドの方を守ってしまう)

このへんの話は自己啓発本なり、ひとかどの人物とされる人のインタビュー記事などで無数に語られるんじゃないでしょうかね。
嫌だと思うことだからこそ向かっていくことで得られるものがある、という考え方。
若い頃の苦労は買ってでもしろとか、2つ以上の選択肢があったら一番大変そうなものを選べとか、言われるじゃないですか。
(こういう格言って解釈のニュアンスや、どういう経緯でどういう意味合いで言ってるかによって含蓄がまるっきり変わってしまうので、注意しないと『苦労なんかしなくても全然OK。苦労なんていいことないw 昔の人がバカだっただけw』と、ただ嘲笑してスルーするだけになりますが)

自分の思い通りにすることと、自分らしさを貫くことの違い。難しいんですよねー。

あと、「自分」って、常に「(今の)自分」と、カッコつきで「現時点の、」というニュアンスが入るわけです。

なんにもできてない時点での自分らしさって、ただの未熟なバカだし、その時点の自分が思いつくことというのは、そんな未熟なバカだから思いつくようなことでしかない、ともいえます。

このへんが難しいゆえんなんでしょう、どの人にとっても。
人はいつまでもどこまでも常に未熟で未完成、といえばそう言えるし。
一方で、そんなこと言ってたら人生が終わっちゃうよ、ということでもあるし。
だから常に「見切り発車」で動いていかないと、なんにも始まりも終わりもしないまま寿命が尽きてしまうことになります。

そして。
どんだけバカと言われようが未熟だと判断する人がいようが、
「うるせえ、私は私だ」
と自分なりの生き方を貫くこともできます。それが悪いわけではありません。

ただね。

実験的にでもやってみて面白いのが、あえて自分とはどんな人間かなど度外視して、他人が期待するやり方にひたすら応える・合わせるという動き方をしてみること。

これね、途中で心が折れたり体力の限界で悲鳴をあげたら終わり。そこまでなんです。

が。

無限に終わりがないように見える他人からの期待も、意外と、ちゃんと応えていくと、終わりというか、少なくとも「階段の踊り場」みたいな小休止は訪れます。

そして、最初は支配しようと悪意で勝手な期待をしてきた相手であっても、こちらが見事に相手の期待にちゃんと応えていくと、どんどん感銘を受けて、大切にしてくれるようになっていきます。
(よく、夫や子供、姑、会社などにどれだけ尽くしても自分は感謝されない!と被害者意識で自分を正当化してる人いますが、客観的にその人の動きを見てみると、独りよがりに善かれと思ってと解釈を歪めて、本当の意味では相手の期待に全然応えることができてないのがほとんどです)

そして、「こういうのは自分のキャラじゃないなぁ」ということでも、べつにその場が自分のためにあるものではない場合。自分らしさなんてものをこちらが主張したところで、誰も聞く気ないし、実際その場に全然そぐわないような場合。
試しにとか、演劇ごっこでいいから、合わせてみる。
と、みみっちい自分が「こんなのは本当の自分じゃないのに」と悔しがりますが、それさえもを試しに抑圧しきって、演じ切ってみる。
と、腹が立つほど、うまくその場が回り、人が合わせてくれるんです。

これ、何を隠そう私自身は「社会が期待する、男らしい、フツーの大人の男(らしさ)」で主に学習しました。

私はどうしても、自分のことを女性だと認めてもらいたく、女性らしいと評価されたい気持ちを持っていました。
それで、当然のごとく「あ、男性ですね。では~」と、こちらに”いわゆる男性(像、キャラ)”を期待して接してくる他人に、わざ~と、「繊細な女性らしさを滲ませた、量産型でない、斬新でユニークな男性キャラ」などわかりにくい、自分だけのこだわり満載のキャラで接したりしてました。特に若い頃は。

そのあとの相手の、しかめっ面。生理的不快感。続いて現れる差別意識。

それによって間柄は当然のごとくギスギスして、軋轢を生み、険悪な関係になり、相手はこちらに協力なんて絶対してくれなくなるしで、いいことゼロ。
せっかくキモい扱いされてまで表明した、とっておきの「自分らしさ」は、評価されるどころか毛嫌いされる決定打として、100%デメリットとして機能する始末。

若い頃はそういう、自分が(無駄に)自分らしく振る舞ったことで生まれた逆境に対して「なにくそ!」と思ってさらに反抗していくようなところがあったのですが、そんな反抗にかかずらううち、スイスイと物事を成し遂げていく同年代の人たちがいて。
一方、私が手に入れたのは嫌われたり変人扱いされたりして何もかもが思うようにいかず、嫌悪感と軽蔑や侮蔑、怒りというネガティブだけの反応。意地でも私の思い通りになどさせてたまるものか、と周囲全体がムキになって、あるいは無関心というやり方で、私の邪魔になる壁として立ちはだかる現実。

「なにこれ」

あまりにもバカバカしくなって。
相手が価値観を変えてくれるのを期待したところで、一生変わらない、変えるつもりもなかったりして。

そして自分がトシくっていく中で、自分が男か女かなんて、もうしょせんジジもババも区別つかないよねという心境になり。

「アホくさ」

と。

そして、今度は意地悪なつもりで、

「世間のバカな連中が期待するような男らしさとやらに、この演技力抜群の俺様が合わせてやるよ。バカども、騙されやがれ」

といって、「フツーの男らしい男」を演じてみました。

これが嘘のようにうまくいく。バカすぎて腹が立ちつつも笑いが止まらない。
いま、男らしく振る舞ってる自分のことをニコニコして好ましいという印象で接してる他人のことを、内心「バーカバーカ」と貶しながら、演技ごっこを楽しんでいました。

人って、こんなに浅はかなんだ?

と、がっかりするような、予想どおりだったような心地。

そうして、べつに詐欺師になるわけじゃないですが、いわゆるフツーの善良な市民のあまりの無防備さ、自分の偏見(例:こういうのが男らしい。その男らしさにあてはまっていれば良識的で異常なところがないと判断する)どおりに物事が運ぶと、あたかもそれが「社会正義が実現した理想の現実」であると信じ込むおめでたさに幻滅もしつつ、そういうバカどもを手玉にとる楽しさも覚えて。

同時に、「あぁ、本当に世間の他人というのは、自分がどんな人間かなんて、興味ないんだ」と学習しました。
これは自分に置き換えて他人のことをどう思っているか考えれば納得です。
自分が接するコンビニの店員さんなどいわゆる他人が、本当はどんな性格か、どんな価値観か、どんなこだわりやポリシーを持って生きている人間かなんて、全然考えてませんもんね。むしろ、考えろと言われたら「なんでそんなことしなきゃなんないの?」とイラついて言うと思います。

自分からしてそうなんだから、他の人だってたいがいそんなもの。
(ところが意外と一定数、ほんとにちょっとした接点しかない他人のことをものすごくちゃんと見てる人がいて、それはそれですげえな、本当に人間のことを大切にできているんだなこういう人は、と圧倒されますが)

そう思ったら、自分のこだわりをいちいち他人に押し付けようとして、押し付けを相手が受け取らなかったら怒るという自分のバカな固執が急にどうでもよくなって。


今では一歩進んで(るといいんですが)、

他人や、その集まりである集団と付き合うと決めたからには、多少以上、自分のありのままでない部分でその相手や集団が求めるあり方に「合わせる」ことを、妥協点を定めたうえで演じる。

というスタンスになっています。

ハナから合わせるつもりのない相手や、さすがにそこまで仮面を被って自分を殺して演じるのはお断りというルールを押し付けてくる集団などには、最初から関わらない。しっかりと距離を置くなり絶交するなりのけじめをつける。
付き合いを中途半端に持ちつつ、気分次第で自分らしさを急にアピールしたり、その相手に合わせる自分にストレスを感じるようなことをしない。

ちょっと極道じみたというか、「え、なにもそこまで」と緊張するような心地が最初はしましたが、それに慣れた今は、

いや、それ以外ありえないでしょ。
中途半端に受け入れられないくせに付き合いは持つとか、お互いに不幸じゃん。

という心境しかありません。

それが許されるライフスタイルの構築という点からして作り直さないといけないので、「そう悠長なことも言ってられないんだよねー」という例えば会社員や相手の家に嫁いだ側の人などの場合はなかなか大変かもしれませんけど。
(でもね、その会社に勤め続けるという選択を継続するなら、そこで起こるどんな軋轢にも理不尽にも愚痴を言わず受け入れて当然、という心持ちのほうにシフトしたほうが、キツいようでいて長い目でみたらラクだし、しかも堕落でなく強くなったので多少のことでは傷つかないというほうに成長できて有益だと思うんですがどうなんでしょう)

でね。

相変わらず前置きが長くてアレですが、記事タイトルにもした、結論。

自分を捨てて、完全に「こんなの自分らしくない」と思えるような動きやキャラを演じてみたとき、しかも中途半端な演じ方でなく周囲から好感をもって評価してもらえるほどちゃんと演じきれたとき。
それでも変わらない、「本当の自分」とはどんな人間なのかが、ふっ、とわかる瞬間が訪れる。

そんな経験則を私はですが、持っています。ドイツの文豪もそんなようなこと言ってたし。

余裕があるときに頭でっかちに考えてる「自分らしさ」なんて、実は全然、本当の意味では自分らしくなかったりして。

本当の、本当~~~~~の、自分らしさに出会うには。

完全に自分を捨てて、これだ!と思える相手や集団のために尽くして、合わせて、演じて、期待に応えてあげる献身的な行為に没入しなきゃいけなかったりして!?

ただ脊髄反射的になんでも反論する人「そんなことないんじゃない?」

良い意味で? 時代遅れになるネガティブあるある

ここ数年で特に本格的にいよいよ、時代って変わってきたなぁと感じます。

スマホやタブレットの浸透とそれに伴うWebサービス各種のインフラ化が影響してるのかなぁなんて素人なりに感じますがまぁそのへんは置いておくとして。

最近いいなぁと思うのは、

「いまどきそんなネガティブ? 古くない?w」

と、あまりにも王道でベタすぎるネガティブへの陥り方などについて、良い意味で(と私の主観からは思えます)、嘲笑する風潮ができてきたこと。

べつに不幸の真っ最中、ドツボにハマった人そのものを嘲笑しているのではなくて、その様式の古さというかに脱力して失笑というか。

例えばいまどき、「ゴム紐1本5千円で買えって押し売りが来たから買っちゃった」みたいな事件被害を聞いたとしたら。
被害に遭った人のことは可哀想だなぁと思うかもしれないし、古典的とはいえ自分もそういう目に遭ったら怖くて買わざるを得ないもんなのかなとは思うものの。

「ゴム紐の押し売りって古すぎだろ!」

っていうツッコミ、真っ先に思いつきません?

個別具体的な事件の被害者やその犯人のことがどうこうじゃなく、そのやり方・手法のあまりのベタな古さに対して。
(ここで『は? 全然わかんねえ。何言ってんの?』と感じる方にこれ以上説明する方法を私は知らないのでその場合はこの記事を読むのをやめることをおすすめします)

それと同じように、数年前ならまだ通用したあまりにベタなネガティブの図式も、たった数年ですが今となってはゴム紐の押し売りみたいな位置付けになりつつあると感じます。

先日、人材紹介会社に勤める人と話したのですが、最近話題になるブラック企業関連の話も、無表情のまま

「もうそういうブラック企業のやり方は、『とにかく間違ってて業績が上がらず社員が不幸になる。以上』で異論ないですよね。あまりにもそれがはっきりしてるので、いちいち『ブラックと言われるかもしれないが、うちはこのやり方で云々』などとモゴモゴ言う経営者がいても相手にせずブラック企業だから紹介しないとバッサリ瞬殺します。し、かつてブラック企業で苦しんだという転職希望者のことは問答無用で『うん。そういう悲劇に見舞われた』で細かく論じません。従業員側にももっと頑張る余地があったのではなど他人が口を挟んだところで、うまくいく見込みがほとんどない会社の仕組みの中で孤軍奮闘しても無理なので。だからブラック企業をすぐ辞めた経歴をマイナスと判断する人事担当者もいません」

と。もうそんなの常識ですよといった調子で。

だから、ブラック企業がいかに悪いか、そこで苦しむ従業員がいかに犠牲を払っているかなどを嘆いたり問題提起する声はそれこそツイッターなどには多く見られるものの、実際に人材戦略を考える業界でリアルに現実として人事を扱う人たちは、そういうぐちゃぐちゃした議論にかかずらう暇などないということなんでしょう。

ネガティブの図式もこれと同じようなところがあります。

ちょっと前なら、被害者意識で誰かを悪者にして自分が悲しい思いをしたという話について、「可哀想」と、ある意味、カモになって引っかかってしまう人は多かった気がします。

でも、今となってはもう、世の中いろんな人もいて、まだまだ人のモラルや社会制度には問題が山積みで、そんな現実を生きていかないといけない以上は問題ある状況や人にいいようにやられてダメージを受けたことを被害者面しててもなんもいいことはない、と大半の人が学習してしまったような。

これは人が冷たくなったというよりは、人類の集合知のようなものがアップデートされて、洗練されたと捉えるほうが建設的だろうなと私は思っています。

実際、ベタで古風な図式にしろハマってしまって苦しんでる人がいたとしたら、その人を思いやる気持ちを持つ人がいたら何かしらの方法で助け舟を出すこともあるでしょうし、ノウハウというかベタな図式だけに解決法みたいのもすぐわかる人がアドバイスするなどのことは、それなりにそこかしこで起きてるものなんでしょうし。
なによりそういう場面こそ、ヒーラーの出番だったりもしますから。

それより人類全体にとっての恩恵としては、みんながそういうベタな手に引っかからなくなるおかげで、あるいはベタな手に引っかかってそんな自分は悲劇のヒロインと勘違いしてる人がいたとき良い意味で「何を今どきw」と突っ込んであげることでその人がハッと目を覚ましてちゃっちゃと泥沼を抜け出すなどして、要は

「ネガティブな図式あれこれに人が陥らなくなる予防、なりかけのときドツボにハマる前に抜け出せるノウハウがどんどん整備されてる」

ことなんです。

良い意味で、「その程度の手に引っかかるものですかw」と、ベタな図式のネガティブを小馬鹿にして(←ほんとに蔑んで中傷して良い気になるという意味ではなく、あしらうというようなニュアンス)、そんなものには引っかかりもせず、あるいは多少引っかかったとしてもサッと対処して体制を立て直して、スッスッと進んでいく。

いわば、道を歩いてる時にフェンスの端に服が引っかかったとか、犬の糞が落ちてた(踏んだ)とか、その程度。

あらかじめ被害を予見できたら、しかるべくかわせばいいし、多少やっちまったでダメージを負っても、その場に座り込んで延々と泣き叫んで誰かに助けてもらうのを待つとかじゃなく。
服が引っかかったら瞬時に気づいて立ち止まって直す、犬の糞を踏んじまったなと思ったら草が生えてるところでゴシゴシ踏んで応急処置をしたり、水場を見つけて靴底を洗うなり、ティッシュで拭き取るなりして、何事もなかったようにまた歩く。

どれだけシビアなそういうトラブルに平然と対処できるか戸惑ってしまうかは、まさに人生経験を通じて身につけた手練手管次第。

実年齢はどんどん上がっていく。
今が何歳だろうと、いつまでも気弱で無知で無力な小娘じゃあるまいし。
面の皮がそこそこ以上に厚くなって来たBBAなら、BBAなりの必殺技「年の功」で何事もうまく対処したいもの。
トシのわりに無知で脆弱で、そのことを反省もせず開き直って他人に依存したり人のせいにしてご満悦の残念BBAになるのも一つの手だけれど。カモになってくれる若い有能な子を常にはべらせて支配して首輪とリードつけて言うことをきかせられるようにする方の手練手管も必要だったりで、そんなにラクなもんじゃない。

なんにもできないまま、いちいち些細なことで、おんなじこと何回も繰り返して、何も学ばず、毎回毎回、ワンワン泣き叫んで、「私は悪くない!なんにもしてないのに○○ちゃんがいじめるー」という被害者意識からの自己正当化を(幼稚園以前の赤ちゃんの頃からいまだに)BBAになっても、なんなら死ぬまで続けるのも、それはそれで初志貫徹!でいいかもしんないけど。

ただ……。

超ダッせぇ

けどな。

あら、でも人の目なんて気にしないで自分の道を貫くのも立派なことかもしれなくてよ?

みんなみんな立派。はい、これでいい?

ヒーラーとしてのスタンスが変わってきた

最近のエントリーにしては珍しく?、自分の話。

タイトルのとおりです。

当初、自分は、(それが部分的には豊かさブロックと貧しさへの固執が原因ではあったのですが)

「(なぜか成功しているヒーラーたちがこぞって目もくれない)なるべく安い料金で、不幸のどん底で苦しんでいる人を助けてあげるヒーラーになろう」

と思っていました。

そしてセミナーでガバッと効率よく?稼ぐより、1人1人のお客様を担当するセッションで売上を積み上げるタイプの稼ぎ方をするほうがヒーラーとしては真っ当な気がして(←これも穴だらけのヘンテコな思い込みですね、よく考えると)、そうしていました。

そのあとはいつも書いてるようなとおり。

「それだとこうなるよ?」

とばかりに、とことんまで人の良心をカモにして依存してつらいことを丸投げしたり人生がつらく苦しいのをこちらのせいにしようとしてきたり、そういうスタンスで「ラクになりたい」という気持ちを全開にしてこちらをパシリ以下の使い捨てみたく利用しようとしてきたり。
あるいは有料でヒーリングなんて怪しいことをやる人間はろくなもんじゃないから死後に地獄に堕ちるぞなんて脅してきたり。

いやー、いい洗礼、いい社会勉強でした。
(だからどの分野でも、ある程度以上のベテランで実力あるとされて実績を打ち立て続けて今なお現役バリバリという人が、どこか冷たいというか厳しいというか周囲に『壁』を作って接しているというのは、納得のいく話だと思っています。そしてそういう態度をとっているひとかどの人たちに対して、何にも成し遂げてない経験も積んでない口ばっかりの人間ほど『成功したからって偉そうに。感じ悪い。何様のつもり?』と悪く言うんですよね)

ちなみにこれ、最近になってツイッターなどで、ただネット上で漫画を描いて載せつつプロデビューが夢と言ってる人に寄せられる反応、みたいので同じようなことが顕著に起きてると感じます。
まだプロデビューしてないうちは「そんなの無理だ、勘違い乙w」で、プロデビューが決まると「しょせんメッキはすぐはげる、長くは続かない」、新人ぽいうちは「載せてあげるから無料でいいよね?」、だんだん業界に慣れて心を鬼にしてちゃんと交渉すると「たまたまプロになれた運だけのくせに図に乗るな」、それも何段階も経るといよいよ尊敬される側になり、貶す人間はいなくなり、「先生」と丁寧に扱われる。
はじめはよかれと思ってというか親切なつもりで、つっけんどんで非礼・無礼なことをしてくる&言ってくる他人と接して困惑するけれど、いつまでもそれじゃ埒があかなくて、やっぱり、シメるところはシメないといけないと学び、強くなり、業界内地位や実績が上がっていくなかでブレない人となりも手に入れる。

悲しい&悔しいけど、世の中で何か形にしていく道のりって、どんな分野でも同じみたいですね。

逆に、どの分野でも、うまくいかないことを正当化して、いかにも真っ当に生きているのにだからこそ報われない善人の悲劇を演出する、実際はこざかしいだけのチキン人間の言い訳は同じだということも学習しました。

・できない(のが正当であるという)理由を延々と述べる

・自分は頑張ってやろうとしているのに邪魔する存在や状況があり悪いのはそっちということにする

・家庭環境や過去のトラウマなどのせいで夢を叶える能力を培い損ねたり元来の強い心と体を失ってしまったので夢を叶えられないのは自分の落ち度ではなく自分を傷つけた親や学校教師など他人が諸悪の根源だと主張する

などなど。
いろいろパターンあるけど、根本は

「私は悪くない」

に集約される。あっそう、だから何?ですよね。はいはい悪くないから黙ってそのショボい現実でうじうじしてる間に寿命でも尽きて死ね、って感じ。気の毒だとは思うものの、だからといってこちらからすればそんな赤の他人が困ってたって知ったこっちゃないし、どうにかしようったってどうにかできるわけでもない。しなきゃいけない義理も義務もないし。

スピリチュアル的に見ても、

願いは(怒りや憎しみ、嘆き、後悔、恨み、悲しみなど)ネガティブな思いがあればあるほど、叶いにくい。
波動が高いとされるポジティブなエネルギーをまとった状態でしかるべく行動することによって現実化する。


ということが、知識はもとより、経験でも、客観的に霊視でエネルギーが具現化していく(あるいは具現化がネガティブなエネルギーによって成されない)のを見ていくことで、学びとりました。

もともと取材記者だったこともあり、プライベートでもわりといろいろ突っ込んで話を聞いたりわざわざ人に会いにいくということをライフワーク的にやっていっての併わせ体験でいうとほんと納得です。

うまくいっている人の楽しげな、ちょっと頼りないかふざけてるようにも思える明るい軽さ。でもやってることはブレておらず、人並み以上に実は、ということをできてる。いつも笑顔で周りのみんなに(気を遣って本人が疲弊する下手なやり方でなく)気を配(るだけの空気を読むスキルや人とコミュニケーションをとる経験からの学びが豊富にあ)りつつ、よくよく聞いてみると意外と大変なことやつらい過去があったりするのにそれをおくびにも出さず(抑圧でなく)解消したり何かしらの割り切りに至って他人に悟らせない。←これがうまくいく側。

翻ってうまくいかない側。一言でいえばブラック企業的なやり方です。ちゃんとやるための資源(資金)的な準備や体勢、能力など諸々がないのを、考えてどうにか改善するのではなく「根性!」でごまかすように正当化し。苦労してつらい思いに耐えてこそ何かいいものが生まれるのだという、どこから来たのかよくわからない思想を信じており、人一倍苦労してみせることでご満悦のようだけど結果は全然出てなくて。「仕方ない、うまくいくのは一握り。自分が常に成功して良い思いをしようだなんておこがましい!」と謙虚ふうに卑怯さをコーディネート。そうやって長時間やりゃあどうにかなるといって非効率的どころか支離滅裂なやり方でひたすら力だけ消耗して、なんにも形になっていかないと今度は犯人探しで濡れ衣を他人に着せ放題。そして最後の決め台詞は「私は悪くない」。

で。

私という、体ひとつで時間の中で生きてる人間という状態である以上、関われる人や場というのには限りがあるわけで。
(気力も体力も無限にあるわけじゃない。ヒーラーだからってゲームのドラクエみたいに、無限にホイミかけ続ければいいだろと頭でっかちな人は思うみたいですが、べつに超感覚を拓いてヒーリング能力を身につけるのって、そういうドライで心がない機械みたいな考え方とやり方でこの世の摂理から逸脱するわけじゃないですよ。
朝や夜が交互に訪れるみたいに、肉体の仕組みが自然や見えない宇宙の力と連動していて、満月の夜にいろんな動植物が生殖行為をしたりするように、交感神経と副交感神経が交互に優位になって。起きて、寝て。食べて、出して。吸って、吐いて。その振り子のように真反対の属性の間を行ったり来たりするバランスの中で(多少の不便があろうと)結果として、その気になれば深い悟りが得られるというか、生きているからこそ得られる魂の学びみたいなものを得ていけたりするわけじゃないですか)

当然のように、「選択」が重要になります。優先順位を、泣く泣くでもしぶしぶでも、つけにゃあ、なんにもできない。どっちつかずの虻蜂取らずで終わってしまう。

それで、不幸のドラマに内心、ジャンキー的にハマっていて仲間募集するつもりしかない人の「助けて!」は、無視することにしました。わざとらしすぎ。

それよりは、ここ2〜3年はいよいよ、(その前々から何年も構想はあったのですが)オリジナルのヒーリングモダリティを整備して伝え、受け取った人たちが使ったりさらに必要とする人に伝えたりしてもたらす効果のほうが、1対1で被害者ぶってるけどほんとはネガティブ宣教師な人たちを相手にするよりはるかに大きいという思いに至り。

まぁそんなこんなで、ヒーラーも10年やってると、「今いる段階、境地」みたいなものが変わっていくもんですね。
なんか、後進の指導に専念とかいって現役引退みたくなる老人みたいで嫌だなァ、だけど。。。w

自分だけが良くなってしまい、相手と波動が合わなくなっていた

オリジナルヒーリングセッションマルチプルアバンダンスの感想いただきました。

1年前にご対応頂きましたセッションのお礼も兼ねまして、勝手ながら
その時のセッションとマルチプルアバンダンスの感想をお伝えさせて頂ければと思います。

私は今でも、その時にセッションで頂いた言葉を大切にしております。
「今日はこれからの人生の中で若い。明日は一日歳を取る。」
当たり前に知っていたことなのに、どこか現実として考えていなかったのだと思います。
「思考パターンも問題ではなく、現実を歩いていくしかない」
と言っていただいた時、やっと現実に戻った気持ちでした。
他の言葉も含め、自分の区切りになる大切なセッションでした。
こうなるみたいだから、こうした方がいいかもと頂いたアドバイスも、
一年経ってその通りになってて、アドバイス通りにしていて良かったと思っています。

相手に見限られてしまった思うことで悩み始め、自分が良くなれば相手も見直してくれると思っておりました。
しかしながら、自分だけが良くなってしまい、相手と波動が合わなくなっていたのですね。
今回の人生を待つ時間として使うのは、もうやめて進みます。
観ていただいたとおり、決心して動き出してから確実な見込みがたつまで時間がかかりましたし、
まだ怖い気持ちも少しありますが、現実を進めて、この問題は解消します。
usamimi様の「もっと良い人はたくさん待っている」とのお言葉がとても心強かったです!

マルチプルアバンダンスについては、2015年の秋に初めて受講させて頂きまして、
その後、願い叶って希望していた企業に入る事ができました。

当時は中級までの受講でしたが、リコネクションなどのコマンドを
日替わりでかけていたのも良かったのかもしれません。
願いが叶うことの幸せを身を持って実感致しました。
今いる場所に慣れ、驕りを感じる時はあの頃の自分を思い出しています。

今年に入り、幸せ釣り、成功気流、悪魔的暗示を受講させていただき、
まだ慣れておりませんが、普段の生活に使わせていただいております。
もっと使う回数を増やして、馴染ませたいと思います。

マルチプルアバンダンスは使うほどに、
自分以外の人の考えを受容する器が広がって行っているような気がしています。

観る力も高める為にも、これからもどんどん使っていきます!
出会えて本当に良かったです。
すてきなプログラムをありがとうございました。

長文となり、失礼致しました。
また今後もセッション等をお願いさせて頂けますと幸いです。
寒くなって参りましたので、どうぞご自愛ください。

お礼が遅くなってしまい失礼致しました。
この度はどうもありがとうございました。

自然消滅しかかっている恋人との復縁を待ち望んで、スピリチュアルなクリアリングをしまくることで相手との関係もよくなっていくのではないかと考えておられた方でした。

が、結論としては、この記事タイトルにあるように、むしろどんどん離れていく一方。
これね、自由意思の法則があるから、仕方ないんですよね。

逆に、自分がよくなれば相手が振り向き直す、って霊的摂理あったら変じゃないですか。
その人がどう生きるかはその人自身しか決められない。
自分がどんなにか素晴らしい人間に変わろうとも、だからといって相手との相性や関係性がよくなるというのは、成り立たないんですね。

これを理屈で言うのは簡単で、一度は情が絡んだ相手なら、割り切るのは至難の業。
この方は時間をかけて行動を継続することで、ついに
「今回の人生を待つ時間として使うのは、もうやめて進みます」
という結論に到達されたとのことで心強いです。

ていうか太字にした箇所、地味に?、びっくりしました。
希望する会社に転職できちゃったのかよ!という。

実はこの方は転職歴が多く、年齢的にも第二新卒というほど若くなく、数年来のお客様としてのお付き合いがあるため(感想の中にあるように)どんどん年齢は上がっていってたんです。
だから、

「え、その年齢で希望する会社に転職成功ってすごくない!?」

という点に、(元・人材紹介会社でキャリアアップ理論と転職をメインに記事かいてた身からすると)驚きました。

このね、

なにもうさんくさくない、普通の日常生活の中で、それまでのその人なら考えられないような好転が事実として、現実に起きる

というのが、ほんとのスピリチュアルヒーリング、そしてマルチプルアバンダンスの真骨頂だと思います。

やっぱり、これまでの怪しげなスピにありがちな、

「本人は『自分は神に救われた、前より霊的ステージが上がって幸せになった』と言っているけれど、端からみるとどんどんアブない変な人になっていってる」

的なの、嫌なんですよ。

だってさ。
この世は、(今はいろいろあって、霊性を否定するという意味で歪んだ自然科学が優位ですが)霊的なエネルギーが一部は物質化という変化を経てたまたま物理現実が成立しているだけで、根本にスピリチュアルなものはあるわけです。

だから、「バランスよい食事を」的に、物理面でも精神面でも霊的な部分でも、それぞれの特性や特徴、なぜそういうものがこの世にあるのかを理解したうえで、バランスよく生きていく。どれも好き嫌いせず遭遇したものについては向き合って、食べて(←比喩です)、得ていく。

その、「現代社会が霊性を否定するという、本来の人間のあり方からして歪んだあり方を是正して、望ましい生き方に回帰する」一環として、スピリチュアルなものについて否定せず理解していく、というのがいいんじゃないかなぁと個人的には思います。

だいたいさぁ、スピリチュアルなものが、

・しょせんは金儲けが目的



・そのために教祖が、バカな人間を洗脳して信者にする

ことを発端として

・信者たちが、教祖の手下として、その教団の勢力を拡大するため布教活動に努める

・その「教え」に従った人間は、ノーマルな感覚を失い、教団のために身も心も全財産も捧げる

・教祖ウハウハ

なんて、チンケな本質でできてると本気で思いますか?

それはあくまで、スピリチュアルを部分的にしか理解せず、あるいははじめから歪ませて利用する気マンマンの哀れで貧しい金の亡者のでっちあげ加工にすぎないと思いませんか。

それとも、霊性と向き合うのが怖いからこそ、「あんなのはインチキよ」と否定することで、自分を正当化しつつ、その弱さから向き合うことを避けてたりして。

なーんてね。なんでもいいわ。疑う人がいようとも、逃げ惑ってるうちに一生を終えて死んじゃうのも、どれも人生。

ただ私は、感想をくださる方々のように、ちゃんとスピの良い部分を活用して、現実に生きる人間として、以前よりも豊かで賢く強く美しく変化していくのを楽しみながら生きる方々と過ごしていたいだけの話。
そうじゃない生き方も全然アリだと思ってはいます。ただ、それはそれで「お仲間」とだけ一緒になさいな、と。
過度な普遍化は自分の首を絞めるだけですから。

あら!首絞めプレイフェチ?
それならどうぞ、お好きなように!!

三田佳子「ギュウギュウギュウギュウ痛いのよ!」