ヒーリング全般

自分の今までの生き方…といいますか、在り方が問われるな、と身が引き締まる思いもしました。

マイティピュリフィアの伝授をお受けになった方からの感想いただきました。

お世話になります。
先日マルチプルアバンダンス上級を受けた者です。
昨日開催されました認定ディストリビューターさんによるマイティピュリフィアの伝授・実践会にも参加しました。
私はシータヒーリングの講座を一度も受講したことがないので、「すべてが癒える場所」にすぐに行けるのか少々不安もありましたが、すーっと行くことができ、そしてその先が「無限」であることもなんとなくではありますが感じることができて、感動しました。
ありがとうございました。

マイティピュリフィアの汎用性の高さに、自分の今までの生き方…といいますか、在り方が問われるな、と身が引き締まる思いもしました。

usamimiさんが伝授会を開催したときの講義録音mp3音源の方も昨日早速聞きました。
私に伝授してくださったディストリビューターさんがmp3の存在を教えてくださってたお話もいろいろあったのですが、
全体を通して聞いて、音源を聞く前に思っていた以上に「これは私という人間の在り方が問われている…。」と深く感じました。
私はシータヒーリングを習っていないのでよく分かりませんが、7層に「ちゃんと」辿りつくまでに正しく訓練する必要があるみたいですね。
しかし、それもマイティピュリフィアのプログラムがまるで宇宙エレベーターのようにぐおーーーーんと連れてってくれるので、それだけでも「ドラえもんの秘密道具」みたいな便利ツールのように感じてしまいますが、
「人が癒されるということはどういうことか」「人を癒すということはどういうことか」をどのように捉え、そしてどこまで深く思索し続けてきたか、が、否応なしにハッキリ出てしまうプログラムなんだな、と音源を聞きながら思いました。
使うたびに誤魔化しが一切通用しないと思い知らされるといいますか、真摯に向き合うしかないといいますか、そんな心情になります。
マルチプルアバンダンスは、すぐに友人知人に使わせてもらってみんなと一緒になって喜んでいますが、マイティピュリフィアはまず自分自身を見つめ直すために使い込みたいと思います。

usamimiさんのブログは2010年からずっと読ませてもらっているのですが、usamimiさんのセション等を受けるのは私にとっては「最終兵器」みたいな感覚でいたため、(もちろん様々な方々の手を借りつつ)今までコツコツと自分なりに進んできました。
それがようやくこうしてマルチプルアバンダンスとマイティピュリフィアを伝授してもらえるところまで来たんだな、と実はものすごく感慨深くなっています。
本当にありがとうございました。

あざっす。

簡潔な感想なのかもしれませんが、これ、すごく感無量でした。

具体的には、シータヒーリングを学んだことがない(≒シータヒーリングというモダリティの中で教わる、(べつにシータヒーリングというモダリティに限定されない普遍的な)霊的な事象について知識を得たりそこに超感覚でつながる、使いこなすという経験がまったくない)人でも、いきなりこうなれるんだ、という点。

そこ、すごく意識したんですよ。

私はべつにシータヒーリングを部分的にパクろうと思っているわけではありません。べつにパクってもいません。
ただ、どうしたって、霊的な事象というのはまるで物理法則のように万人にとって普遍なので(←厳密にいえばこの例えは適切ではないんですけどね、物理法則自体がいかようにもその時代や地域によって実は変動するので)、使うものは同じ部分があるというか。

中華料理でもイタリア料理でも日本料理でもなんでも、たとえば、茄子(なす)という食材を使うなら、それはもう共通ですよね。どこぞで栽培でも買って仕入れでもして、茄子を手に入れて使う。
茄子を使ったイタリア料理を出す料理人がいたからといって、同じく茄子を使った料理を持つ中華料理や日本料理の料理人が
「パクんじゃねーよ!」
と言ってきても、んなわけねーだろ、なんです。

マイティピュリフィアでは、シータヒーリングで用いるのと共通の領域ももちろん利用します。
で、シータヒーリングを通じて、あらかじめそこらへんについて知識や技能的に触れておいてもらえると、コツを掴んだり理解するのがスムーズになるのは間違いないと感じています。

でも。

いちいち、
「マイティピュリフィア受けるなら、先にシータヒーリングで基礎的な知識と技能を仕入れてからにしてくださいね」
と言うのもどうよと思っていて。

普通に、それまでまったく霊感なんて自分にあると思ったこともなく、スピリチュアルなセミナーも初めてという人の場合であっても、マイティピュリフィアになにかピンと来るものを感じて、実際に伝授会に申し込んだときに担当ディストリビューターがOKを出したら(強制ルールではありませんがほとんどのディストリビューターは、申し込みをした人がセミナーに出るのにふさわしい状態かどうかを霊視してチェックします)。

「出た!すごい!楽しい!できた!」

でルンルン(死語)で帰っていってもらいたいんです。

そういうふうにつくっています。

それがもしかしたら、この方の場合限定かもしれないけど?、うまくいったっぽい。

これぞ創始者冥利。

しかもそれを、たまたま習得したちょっとした物好きとか体験ワークショップで作った手づくり小物みたいな位置付け(←人によってはそれを大切にする人もいるんでしょうけど)ではなく、記事タイトルにあるとおり

「マイティピュリフィアの汎用性の高さに、自分の今までの生き方…といいますか、在り方が問われるな、と身が引き締まる思いもしました。」

と思ってくださってるんですね。

本当にありがたいことですし、自信にもなりました。あざすあざす。
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穢れ自体を波動転換して本来の光の状態に戻す=癒す→吸収することができる

マイティピュリフィアをお使いの方が、使い方のシェアをしてくださいました。

皆さん日々活用されていて刺激を受けています。
シェアありがとうございます!

私のお気に入りワークも紹介させて下さい。
個人的にここがスゴイ!と思っている機能が、

穢れ自体を波動転換して本来の光の状態に戻す=癒す→吸収することができる

です。
浄化コマンドをかける時には常に、この最後に何の波動に転換されたかを観届けます。

本来はどんな美徳が歪んでしまって穢れとして取り込んだのか、
霊的成長の課題として本当は何がしたいのか、
傾向が掴めてきます。

傾向を掴むと対策が取れます。よくない癖を止めることができるのです。
穢れも気付きのために引き寄せていますから…
穢れよ教えてくれてありがとうぐらいの気持ちです。
これについてはきちんと掘り下げワークが必要かと思いますが。

浄化して波動転換で得た美徳は、日常生活で発揮して貢献したりして、
自分のエネルギーとして自然に発するので、
同じようなレベルの穢れは取り込まなくなりますし、
美徳が鍛錬されるわけです。

そうして、より大きな癒しの実現や、究極の癒し人を目指しています。

あざっす!

最初、マイティピュリフィアは、マイティガードといって、穢れを弾くだけのバリアだったんですよね。
それを大幅にバージョンアップして、ここに書いてくださってるような機能をどんどん搭載していき、今に至ります。

私のほうとしては、小技的なエネルギープログラムとしてマイティガードを整備して、もうそれで終わりでいいだろうと思っていたのですが、ある時期、マイティガードの機能拡充についての問い合わせや要望をいろんな方からいただき、

「え、べつにもういいじゃんこれで」

と思い、しばらく放置し(←ひどい)、あるときムクッと好奇心というか閃きというかが湧いて、そこからどんどん、とんでもないものになっていき……という経緯があります。

結果的に私というヒーラーの最高傑作ともいえるものになり、ありがたいです。焚きつけてくださった方々。

ある1人が同人的に独りよがりに作って良い気になって終わるというのではなく、ニーズがあり、求められ、それに応え、お伝えし、それをさらに活用する別の方がおられて……という、「人の輪」を通じてこの技法が、創始者も知らない顔というかを備えていくのを他人事のように逞しく思っています。

※マイティピュリフィアは、認定ディストリビューターと呼ばれる人たちが、伝授会といって使い方の解説や実習などセミナーを開催し、そこで使えるようになります。
マイティピュリフィア公式サイトのリンクはこちらですが、2017/8/16現在、まだ整備中です。

それぞれのモダリティが一種の数学の定理みたいなもの

アストラルリーディングの願望の全貌を読み解くセッションを受けてくださった方からいただいた感想です。

願望の全貌を読み解くセッションでは、叶えないほうがいい願いについても見て行くのですが、この方の場合は、のんびりラクして豊かに暮らす願望はニセモノなので叶えないほうがいい、ただの憧れ、浮ついた願望だからとお伝えしました。

先月はアストラルリーディングセッション、ありがとうございました。

先月セッションを受けてから今に至るまで、あのときusamimiさんが仰っていたことを何回も思い出して反芻して、少しずつ消化していっている感じです。

叶えないほうがいい浮ついた願望の、「ラクして豊かに~」のくだりについて、しばらく考えていました。

私にとっての「ラクして豊か」のイメージを思い浮かべると、なにもしなくても無尽蔵にお金があって自由に使えて、毎日が楽しくて幸せで喜びに満ちていて…といった感じでした。

もしもなんの苦労もせずに一瞬でそういう状態になれる方法があったとしても、わざわざ肉体を持つ人間としてこの世界この時代に生まれてきた以上、やっぱり私は自分の頭も身体も使ってあーだこーだと悩んで考えて動きながらそういう境遇を手に入れたいんじゃないかな…と思いました。

第4レイヤー以降を観て仰って頂いたことは、わりと他の方からアストラルリーディングやシータヒーリングを受けたときに言われることと共通していることが多くて、「あー、やっぱりそうなんだ」と思うことが多かったです。

自己啓発本やスピ本でよく出てくる、「すべての現実は自分で望んで創っている」というフレーズ。
中学生の頃くらいから「きっとそうなんだろうな」と感じてはいましたが、
「とはいえなんでこんな現実を創ってるんだ意味わかんねー!」
と思うことばかりで、自分で自分がわからなくて発狂しまくっていた私が、シータヒーリング、アストラルリーディング、マルチプルアバンダンスなどに出会って、それまで自分で認識出来ていなかった自分の願望・思考・意図などに少しずつ光が当てられて、少しずつ理解して腑に落としていけている実感があります。

それぞれのモダリティが一種の数学の定理みたいなもので、それぞれを組み合わせて問題を解いたり、新たな世界を創造したり。
私にとってはそんな感じです。

マルチプルアバンダンスの上級も特級も受講したいと思っているので、これからもよろしくお願いします。

あざっす。

アストラルリーディング以外のモダリティについても触れてくれていますね。

いますでにその年齢をすぎてる人がこれ読んで気分を害しても一切、謝る気ないんですが、

「すべての現実は自分で望んで創っている」ということがどういうことなのか、総論レベルでも構わないから正確な理解は20代のうちにできるようになっておきたいところ

だよねと思います。万人にいえることです。
(まぁ無理だけどね)

そしてできれば

30代以降は、自分の日常生活など各論・具体的な事案それぞれに対して、どんな意図がどういう仕組みを経てこの現実に結実しているかを精緻に読み解くことができるようになっておきたいところ

だよねと思います。万人にいえることです。
(まぁ無理だけどね)

でも、もしそれができたら

最THE強

だったりして!?

この感想をくださった方も、そんな流れに乗りたいなら乗っちゃいなよYOU!的な~?

ただ気分的に「幸せ、救われた」感を味わいたいだけならスピじゃなくてもいいよね4

前回の記事のさらに続き。これでいちおう一区切りの予定。

■第4段階「もう一回、現世の諸々に目を向ける」

第3段階までで、いわゆる「スピリチュアル的にすごい」有様には到達できた人が、次にくるのが、ここ。

個人の身の回りの人生が満たされている状態が続くことでだんだん生じてくる「ずっとここどまりってのもどうよ」という疑問を、建設的に発展的に解消(≒さらなる成長)しようとする人がここに来ます。

なぜ現世の諸々を省みるか。

それは突き詰めると

今現在の自分の頭で思い描けること自体に限界を感じる
(≒より視野、発想を広げるためにインプットの必要性を感じる)


からであることがほとんど。

貧しくて愚かで、自分の現実は自分の意図で創っているなんて到底信じられないところからスタートして。
信じはしても、どうやればいいのかわからず、試行錯誤で誤りのほうばかりで「なんだよスピなんてやっぱり嘘かよ」というほうにもやさぐれてみたりもして。
それであるタイミング&段階で、「こうやるんだよ」と、正しいスピリチュアルな原則に根ざしたエネルギーワーク(ただのヒーリングだけでなく現実創造なども含む全般)に出会い。
そこからいろいろ修行というか修練を積んで、「こうだったらいいのに」と最初の貧しく愚かな(でも一般的な)夢は叶って。

もっとお金があればいいのに。
もっと人から好かれたいのに。
もっとやりたいことをできるようになりたいのに。
そうすれば、幸せだろう。

それは、叶った。

ら、半径5mの私事は満たされてストレスなくハッピーな毎日を送り、ただそれだけ。
あらゆることがうまくいきすぎて、はっきりいってヒマになる。
はじめのうちはそれを悪趣味的に、いま苦しんでる人たちやうまくいってない不幸な人たちに見せびらかして、そういう人の悔しがる顔を見てニンマリと優越感に浸ったり、すごいと賞賛されて有頂天になったり。
でもそれも飽きる。

第一、霊的な事象と現実の関連がわかればわかるほど、何かの芸事や技能を要求される仕事に精進した人みたいに、「もっと次、さらに上」がありそうだなというのがわかってくる。

そこで自分の中の保守的そして怠惰な声と向き合う。

「べつにいいじゃないの、このままで」
「なにもそこまでして成長成長って、成長神話に囚われてる自己啓発バカじゃあるまいし」
「なんかもうここまでさんざんいろいろやってきて結果は出てるからこのへんでいいや」

そういう声が折にふれ、湧き上がる。
そうやって湧き上がることも何回も何年も続くと、鬱陶しくなってきたりして。

それで、面倒だけれども

「あ、私、もっと先へ進みたがってるんだ(だって現状に100%満足してたら、こんな気持ちの揺れが生じるはずないし)」

と認める。

それから、それでもまだウダウダいろいろして、ある時期、ようやっと腹が据わる。

そして、「次」だか「上」だかに行こうとなったとき、発想が湧いてこないことに気づく。

今より稼ぐ?
もっと人に好かれる?
やりたいことを拡大する?

当初からの(すでにある規模や範囲、レベルで)叶った夢をグレードアップさせることを考えてもみる。
それも悪くない。上には上がいるし。

でも「それ以外」を思いつけない。

やっぱり、余計なことを考えないほうがいいんだろうかと思う。
これ以上もっと、と願うのはただのワガママだろうか、食べ放題で満腹でもまだ食べるデブみたいな、願望実現デブ、成長意欲デブなんだろうかと思う。

じゃあ、この世界って、これだけ?

他人にとってどうかはわからないけど、自分にとっての世界って、これだけなんだ? と思う。

子供の頃から思い返してみる。

生まれ育った故郷、通った学校、大人になって、就職したり、結婚したり、生きた年月だけとりあえず歳はとって。

行ったことない地球上のどこかのことを考える。
なんとかの滝、なんとか塩湖、なんとか遺跡。
国内でも海外でも、行ったことない場所。

日常を満足して暮らせはしているけどまだ実現してない、手が出せてないことを思い浮かべる。
ファーストクラスの飛行機でどこへでも行くとか、超高級ホテル暮らし、投資で年収ン億円……。
やったことないスポーツ競技、弾けない楽器、知らない学問的分野。いろいろある。

とりとめもなくなって、また卑近なことを考えるほうに立ち返る。
そういえば、長年の友達が趣味だといってたアレ(将棋とかスキューバとか神社仏閣巡りとか)、いつも雑談のときは興味ないから聞き流してるけど、自分は、やったことない。
身近にいる人の体験したことさえ知らないで、自分のばかな頭で思い描くことだけで満足している。

満足していることがいけないとは思わない。
餓鬼みたいに、何をやっても不満足というのも違う。
でも、今いるところで、すべてを悟ったようなツラして残りの人生、死ぬ瞬間まで「私は悟った~。豊か~。幸せ~」と、言い続けるのか。

何も知らないのに。

何もわかってないのに。

なにより。

世界のあちこちで、まだまだ社会問題はあり、戦争や紛争は地球のどこかではいつも起きていて、自分がこうしている間にも空から爆弾が降って来て全身が吹き飛んで死ぬ人や、地雷を踏んで片足を失い、病院にも行けず、包帯を巻くだけで傷が化膿して……の苦しみを味わう人がいて。
遠い外国のことはわからなくても、国内を見たって、どうよ?

自分さえよければいいんだ?

べつに世界全体なんか救えないし、「救う」という自分なりの定義での考えに反対する人、望まない人もいて、べつに自分の願望どおりに「救ったつもりで支配」するのも違うとはわかるけど。

自分がこうして安穏と暮らして終わる人生で、ほかならぬ自分自身が、満足するのか。

満足ったって、それがいいことか悪いことかわからないけど、ある段階で妥協をしている。

世界でいちばん権力があるわけでも、金持ちなわけでも、運動能力があるわけでも、頭がいいわけでも、歌がうまいわけでもない。

もちろんある段階で妥協するのも大事だし、すべての分野で一番でないとという子供じみた願望にとりつかれて、ただの自己啓発オタクになっても(逆戻りしても)芸がなさすぎる。


そうやってあれこれ考えて。

今の自分の脳内にある語彙・概念の範囲内で、同じことしか考えないことに気づく

んですよ。

じゃあもっと思考の偏りをワークする?
といって粗探しみたいにしてスピリチュアルなワークで何かを解消しようと思っても。
まぁ、探せば必ずイシューは無限に見つかるし、それを解消するってのもいいけど。
クリティカルじゃない思考のワークってしょせんはブレインキャンディーだったり。

そこじゃないんだ。スピリチュアルなワークをただもっとひたすらにやればいいってもんじゃないんだと思う。

スピ本をいくら読み漁っても、すでに知ってることばかり。
著書ごとに立ち位置が異なるから主張内容が若干、異なるだけで、そのどれかが唯一の正解でもないし、どれかが決定的に間違っているとも言い難い。
(ただし霊的な仕組み、物理法則みたいに万人にとって共通のはずのカラクリについて、誤った認識で書いてるスピ本は山ほどあります)

この悩みを、スピ友とされる、スピリチュアルな話題を振っても大丈夫な知人友人に相談してみても、ぽかんとされたり。

「そういう悩みを抱くイシューがあるってことだよ」

とか、なんじゃそりゃ的なトンチンカンに思える答えが返ってきたり。

その人が傲慢で支配的で図々しいと、

「今の状態に完全に満足して思い悩まず生きる、って感覚を呼び覚ましてもいいですか?」

と言って来られたり。

いや、そこじゃねえよ、そういうことじゃねえんだよ、と思って。

スピ友にも相談できなくて。

そこまでくると、もう、やる気ならいくらでもあるはずなのに、どこをどう手をつけたらいいかもわからなくなってくる。
焦る気持ちを持て余す。
やってやる、という思いだけが発散の先を探して暴走する。

かつて出たスピリチュアルのセミナーを再受講してみたり。むかし読んだスピ本を読み返してみたり。話題の新しいヒーリング技法や出版されたばかりのスピ本に手を出してみたり。
それはそれで得るものもあるけど、なにか決定的に今の自分が欲している答えが見つかったとも思えず。

そうやって、スピリチュアルとされる範疇で立ち回ること自体の限界を感じるんです。

で、現世の諸々の出来事に目を向ける。

いろいろつらかったときは、ただただラクになりたかった。
ラクになったら、次は幸せで豊かになりたくなった。
なれた。
そこで、抽象的なことをただの快・不快で判断して、もっと自分の好きなこと、やりたいことを探してもあんまり見つからないぽいなと気づく。

そういうぐるぐるを経て(←何年かかけてこうなっていきます、だいたい)、

・自分の単なる好き嫌い、快・不快を超えた、霊的にもっと洗練された在り方とは何かの探求意欲が湧く

・外界や他人などが「私には関係ない」ことではなく、自分が存在してこの一生を送る世界のかけがえのない一部らしいことがわかる

・世の中の大多数の人は、いきなりスピリチュアルな真理をドンと突きつけられたところでちゃんと理解もできないし、真実であればあるほどブロックあって受け取れないものだとわかる

・自分1人が満足すればいいわけではないし、他人を支配するのとも違う何かしらのやり方で、スピリチュアル100%をぶつけても理解されない人たちもいるからこそ、じゃあどんな方法でどんな人たちを主に対象としてこれからの人生を生きるかを考えるようになる

などが、上辺だけの意識の高さでなく

「もう、それを得ないと、生きてる意味がわからなくなる」

くらいの勢いで、強く、腹の底から思うようになる。

そこで、「すでに答えが用意されてることを勉強してテストで満点をとる的な動きでは、ダメなんだ」という結論に(ある時点で)到達する。

愕然とする。

正解が決まっていて、こうなっていればより望ましいですよという価値観や採点基準を誰かが用意してくれる範囲で、それをやって、よくできましたと褒められているだけならどれだけマシだろうと思う。
(会社なんかそうですよね、厳密にいえば会社の仕事も正解や満点は基本的にはないんですが、用意された昇進テーブルの要件を満たして行くというのは、自分で自分ならではの本当の霊的成長なんかよくわかんないけど現世利益的につつがなく人生ゲームのコマを進めることができた気になりたい人には、うってつけでしょう)

自分で創っていかなきゃいけないんだ、とわかる。

この世界の誰も、なんならチャネリングで聞く高次元の存在の声にしても、どれが正しいかを言ってくれない。
(もちろん神霊的存在は、『これが正解だ』と自分の意見を自信満々に言ってくるでしょうが、そうした高次元の存在さえもが個々人の考えを言っているだけで、宇宙の根源から見たらある種の偏りというか『それを正しいと捉えることもできるけど、他の考えもある』ということがわかってしまうんです。だから、自分にとっての、生身の人間として物理的時空間で一生を送るうえでその一生をどんなものにしたいかは、自分で決めるしかないし、裏返せば自分で決めてよいともいえて、決めたとおりに高次元や霊的なエネルギーのサポートを自分のほうから求めて、得て行くこともできるとわかります)

それはなんだろう、と考えて。

考えるだけじゃ(自分の今の脳内にあることをまたグルグルするだけなので)ダメとわかり。

勉強!勉強!(ゴールデンボーイ)

ここまでの流れを、もうテキトーな気休めじゃ満足できない!というまで熟成(あるいは若干以上のこじらせ)させると、漠然と抽象的な話にはどんな分野でも満足できなくなります。

この場合の「満足できない」は、餓鬼みたいに何を食っても満腹にならないという貧しさのほうじゃなく、しっかり中身を見据えて、浮ついた幻想や詰めの甘い非現実的な部分をそのままでは許容せず実際に現実で実のあるものにすることを前提として情報を精査しつつ判断しているという意味で、いいと思います。私の主観ですが。

そうやって、自分にないものを、取り入れる。

取り入れるさなかにも、嫌悪感や偏見ではなくて、本質を見極めるというニュアンスで、見聞き体験したことや情報をいい意味で、自分なりにフィルタリングして(篩に掛けて)いく。

そうやって、自分にない発想を思いつけるようになる。

そうしてから考えると、前に考えるだけだったときより、新しい考え方ができる。
思いついたアイデアを実行してみて、ものによってはうまくいったり、試行錯誤の末にだんだん出来がよくなったり結果が出るようになったりしていく。

はじめは、そして昔の自分なら絶対に怖くてできなかった、

「この世のどこにも、誰からも、『それが正解かどうか』を判断も承認もしてくれない物事を、あらゆるリスクや不安・恐怖を乗り越えて行動を起こし、何かしらの結果に結びつける」

ことができる。

その瞬間。

本当の人生は、自分とまったく同じDNA配列(その証の1つとしての指紋など)を持つ人間は他に一人もいないからこそ、「自分にしかできないやり方で何かをする」ことの中にしかないんだとわかる。
(やってる内容そのものが世界で1人でなくてもいい。ありきたりとされるような職業や仕事、みんなやってる分野でもいいから、自分ならではの動機と意欲、目標、狙い、いわばコンセプトといったもので取り組み、ただの上手い下手のランクづけとも違う『らしさ』がしっかり出てるものならOKなのでは)

これだ、と思う。

たった1人で、たった一匹の生き物が。

世界と向き合う。世界に働きかける。

べつに常に1人で友達も味方もいないという意味ではなくて。
なんなら大きな組織をつくっていくこともできるし、それがベストなら、すでにある組織に入るのも悪くない。
ただ、どれだけ大勢の仲間に囲まれていても、常に、芯の部分では、自分というたった一匹の生き物が、たった数十年かもしれない短い時間の間(しかも最初ともしかしたら最後の数年~十数年はバリバリは立ち回れないこともある)に、生きて行くしかないんだという基本に立ち返る。

何を恐れても、ずる賢いつもりで自分だけ得できた気になっても、他人を見下しても、不幸を嘆いて誰かの気をひくなり都合よく幸せが降ってくるのをボケッと待ってても。
べつにいいっちゃいいけど、何をしようが、せいぜい数十年。
(輪廻転生があるとはいえ、過去生や未来世にはそれはそれでそのとき特有の諸々の設定などがあるわけで、今の自分とどこまで『同一人物』といえるのかもわからないし、はっきりわかるのはこの一生だけ、ってのが大概の人のあるあるでは?)

大人になるにつれて、年をとるにつれて、いろんな人が死んで行く。
それで終わり。もうその人の人生のページは、更新されない。
イマドキだと、ツイッターとかブログとかフェイスブックとかインスタとか、そういうのに、何気ないくだらないつぶやきや、日常のひとコマ的な写真が載って、それがその人の人生最後の投稿だったりも、あるある。

そしてその日はいつか、自分にも来る。

うだうだ気にしてるすべてが、ある意味ではチャラに、ある意味では台無しになる。

何を築き上げようが、何がどんだけ崩壊しようが、しょせん死ぬまでのこと。

その中で、誰に承認されたがってる? 誰から何を正解だと言ってもらいたい? もしそうなれたらなんなの?

「ひたすらあらゆる人に承認され、正解だと言われた。承認欲求めっちゃ満たされた、他人の価値観に尻尾振って満点とってあげてた人生でした♪」

ってのがあなたの栄光? 成功? 幸せな一生とやらですか。

とか思う。

べつに悪いわけじゃない。

それが何よりも、この世に生まれて成し遂げたい、自分の理想の人生の形なら。

ザ ベリー ベスト オブ 承認欲求奴隷♡

なんちゃってね。

(でも、既存の枠組みに沿って行くのが必ずしも悪いダメなことだとも思いません。既存の枠組みに合わせて従って行くのはある意味ではどんな人にとってもありのままではいられないだろうし、あくまでも既存の組織や与えられた役割をこなすことは、ある意味では忍耐力や、自分の考えと組織の考えの違いや優先順位を考えるといった霊的成長の修行の一環になります。役人や軍人というモデルケースを全うして、しかるべく昇進できるところまで昇進して功績も残して死んで行くというのは、それはそれでとても立派な1つの『オリジナル』だと私は思っています。もしそこまで命がけでその組織や肩書きを全うできるなら、それは逃げとしての承認欲求だけでいられるはずはなく、ある1匹の生き物が『ここでやっていく!認められるような生き方をするぞ!』と、れっきとした主体性をもって選択をしているものではないでしょうかね、個々人のケースを見ないと断言はできないとしても)

そうやって、自分ならではの

多次元構造な何かしらの貢献・作品づくり

ができたらいいんじゃないでしょうか。

ここでいう多次元というのは時空間としての次元というよりは、「いろんな段階・価値観の人どれにも何かしらを与えうる」という意味です。

古典とされ時代を経て残っている文献や作品はだいたいどれも、何千年前のどんな人間が見ても何千年後のどんな人間が見ても何かしら感じうるものがある普遍性・多次元性といったものを備えています。

一例としてですが、ディズニーやピクサー、ジブリのアニメ(映画)作品は、多次元性をよくぞここまで、と体現できてるのではないでしょうか。現時点の人類の最高峰の1つの形でしょう。
絵だけをいっても、人物の表情を見る人やキラキラした演出に萌える人など、それぞれ価値観が違う人たちが集まってみてもそれぞれの「萌えポイント」を見出しやすいようにあれこれ工夫がなされています。登場人物の服や小物、アクセサリなども手を抜かない。し、そういうところをチェックしてる人たちは、確実にいるものです。
ストーリーにしても、子供やシンプルな思考の人が見てもわかる大筋。そこに、無限ともいえる解釈可能な、潜ませた意図や詩的なニュアンスが散りばめられています。

ある特定の、自分と似た感性の人たちだけが集まって内輪ノリで盛り上がるだけにとどまらない。

それか、いっそターゲットを特定して、「もう、100%内輪ノリっすわ。わかる人だけでいいっす」といって突っ走るのも、その在り方ならではの何かができてるならいいんじゃないでしょうか。

こうして書いててもわかるとおり(←自分の文章力のなさを反省しない)、正解ってないし、その人ならではの何かなんて、どうしたって他人が見抜いて本人に教えてあげるなんてできない(ように設定されています)。できるのはヒントあげる程度まで。

ガチなヒーラーとして大成するでも、それ以外の何かしらの職業でも、なんなら職業という区分ではなく、1人の親として子供を育てたとか、誰も褒めないことだけどこれだということを人知れずやりぬいたとか、べつにどれでもいいっちゃいいけど、テキトーに決めたとかではなくて上記のような(短文でまとめる才能がないからこそ無駄に長文な)流れをしかるべく辿った末にたどり着いたことであれば、いんじゃね? みたいな。

べつに最低と罵られ自分自身でもクズだなーと思って生きて死んでもいいっちゃいいし。

そのどの段階でも、スピリチュアルヒーリングをうまいこと取り入れることは可能だし、上手に付き合っていけたらいいし、上手な付き合いってもの自体、「じゃあどうすればいいんですか?(といって相手が何もかも説明して自分に理解させてくれるのを100%の受け身で待つ)」では解き明かされないし。

答えなんて用意されてないから創るしかない、とわかったら、ある意味、開き直れるし。

自分がモヤッとしないで生きるほうがいいと思うなら、そうすればいいじゃんというシンプルさでもあって。

なにいってんだって話w (←こんな完結)

ただ気分的に「幸せ、救われた」感を味わいたいだけならスピじゃなくてもいいよね3

前回記事の続き。

■第3段階「(ちんまい)すごさにドヤ顔放題で浮かれてる人」

前段階からさらに1つ精進して、実際に霊視やヒーリング、お金や愛情など望む境遇を自分の狙い通りに創れるようになった人たち。

ピアノでいえば、音楽室で授業の前後の休み時間にここぞとばかりにバリバリ弾いて、好意的な同級生からは「すごーい」と言われる的なやつのヒーリング版。

個人的な経験則でいえばかもしれませんが、霊視とかヒーリング、念動力、そういった霊能力・超能力とされるものは、ちゃんと訓練すれば思ったより早く開花します。

たとえばシータヒーリングというモダリティでは、いちばん最初に基礎クラスを受講するのですが、それは3日間連続で、初日の昼過ぎにはもう、ばんばん霊視するワークが入ってきます。
人にもよりますが、わりとすんなりもう、観えるようになっていきます。

いわゆる徳を積んだ、非の打ち所がない人格など備えなくても、霊能力や超能力は使えてしまうんです。

(念動力についても、たとえば地方在住などで良い意味で素朴で純粋なまま大人として生きていて『自分、霊感とかたぶん全然ないし、超能力とかもやったことないんですよね、こういうセミナー初めてで』という方が、いきなりモーターで回したように風車を念動力でビューンと回せてしまったりします。こういうのは過去生までに培った美徳や、今回の人生の生き様のトータルで、本人も自覚していないところで成立する力なのですわ。もっといえば才能とされるものを求められる音楽や演劇、美術、スポーツなど、あるいは料理人や理髪師など技能が問われる職種で、『なぜかできちゃう』人がそこそこいますね。それは漠然と才能や適性といった言葉で処理されますが、重力や空間を曲げてすごいスピードやアクロバットな動きができるなど、純粋な運動能力とは別の超能力を実は発揮しているからこそ抜きん出ているというケースがほとんどです)

コツややり方を掴めば、お金も人間関係も思い通り。
それまでとは比べ物にならないほど、「ほんとにこんなにラクで何もかも思い通りでいいの?」という状態になります。
(何を隠そう私も、32歳をピークにその前後2〜3年は、この状態でした)

偶然やたまたまというのではなく、「意図が現実を創る」というのがどういうことか、はっきりわかるんです。
霊視で、自分の意図と、それにより成立した現実の事象との間での、因果もしくは照応関係が観えます。
(余談ですが中途半端なスピ本では、引き寄せの法則や意図が現実を創る話についても、『因果関係』にばかり論理的に着目してしまい、照応関係のほうを見落としてすべてを解説しようとして、論が無理めになってて実際使えないというケースがよくあります)

半径5mの日常が、パラダイス化する

んですね。

これ、成立したときは、ほんとに有頂天でいられます。
私も、こんなふうに世の中には喜ばしい、ポジティブとされる側面を、こんなにも味わい放題なんてことがあるんだ!?と存分に浮かれて、はしゃぎました。大事だと思います。
(そしてそれは、境遇が下向いたわけでも、また苦悩が蘇ってきたというような『後退・荒廃・衰退』したわけではなく、そこはもう常識というか当然というか『日本の家屋なら水道の蛇口をひねれば飲める程度にきれいな水が出る』式のこととして今もなお続いて、より定着していっています。老後も含め、いわゆる人生に対して生存そのものの雲行きを心配するということはまったくありません。お金の心配もしたことないですし、実際に足りなくて困ったことは一瞬もありません。ある意味、わざと上というか先というか前というかを目指そうと、単なる苦労じゃない、実りありげな挑戦を、ラクになった分、主体的に取り入れてるだけです←ほんと余談ですが、普通に生きてるだけでいろいろ嫌なことがあったりしてつらいのは、しかるべくワークしてラクになっていけて、そのラクになった分、『日常だけでアップアップしてたら一生、チャレンジできなかったようなこと』に挑んでいけて、そっちでどんだけ苦労してもまだキャパに余裕ある、みたくなるのが最高の恩恵でした)

で。

一般的にいえば、ここに到達したことをもってして「成功(者)」と呼んでも、さしつかえないと思います。
それ以上のところに無理して行く必要は、ないのかも。

前々回の記事で書いた「ラクになりたい」人たちの層に働きかけて、引き上げるというか、どうすればじゃあ(堕落というほうでなく、しかるべき試練を乗り越えたという方向性で)ラクになれるのかを伝えていくことになんなら一生を投げ打ってもいいでしょうし、この段階で落ち着いて安穏と暮らせる日々にただ満足するというのもアリだと思います。

ただ。

あえていえば、多少、霊能力や超能力を身につけて、それを日常生活にも活かせて以前より格段にラクに暮らせるようになり、それはつまり幸せの度合いが上がったと捉えるところに終始するってどうよ、というのもあります。

武芸の達人が、もう技を使わず、ただそこにいるだけで「すごい!」と感心される的なの、漫画とかでありますが、あれなんですよ。

なんかね。いろんな超能力をバシバシ使ったり、霊能力を駆使して高次元の存在や宇宙の源とチャネリングしてなんでも知っている状態になる、というのは、人間の霊的成長でいえばせいぜい「進学校に入って自分が優秀だと自覚してる程度の中高大学生」程度なんです。

うわぁ〜すごいわねぇ〜、そんなこともできるの、へぇ〜、と言われるでしょう。
他の人ができないことができるでしょう。
人間1人、なんなら家族を養って暮らして行く程度のことは、余裕でできるでしょう。
苦もなくお金や時間をやりくりして、趣味などにも没頭できて。有閑マダム状態、楽しいでしょうね。

でもそれだと、独りよがりというか、自分の中だけで完結してるんです。

もちろん、ラクになりたいけどなれてない人たちの層に、セミナー教授やアドバイスなどをして奉仕するという意味で貢献する方法もあります。
それはとても尊いことだと思います。

でもそれを超えた境地というのはありますし、お金(を食べ物や住居など生存に必要なものに交換できるものと捉えた場合)や愛情といった、「動物が欲しがるもの」を欲しがって手に入れてイエーイというのは、厳しくいえばですが、やっぱり動物にすぎません。
エリート動物!

いやね、霊能力や超能力をしかるべく使えるようになった人に向かって、エリート動物だなんて酷いべ、と思いはしますよ。
どこかの誰かに向けて誹謗中傷の意味で言ってるわけじゃなく、自戒の意味も込めて、そう捉えうるのも確かだよね、という。

この段階に到達した人にもピンキリはあるもので、まだまだワークの余地はいくらでもあるんですが、そういう自分の思考についてのワークだけやってると

似たり寄ったりの堂々巡りで抜本的に一歩前に出るに至らない

ことがあると感じます。周囲を見ても。

で、ここから先というのは何度も言いますが義務でどうしてもというところではないと感じます。
あくまでも、自分個人がよりよく生きるためだけのために、とワークをして、手に入れた超能力を使って人生を謳歌するのもいいでしょう(それができた過去生はほとんどなかったはずですし!)。

でも。

もし、それだけってのもどうよと思い始めたら、ここから先は、ある個人がいかに現世利益を得てウハウハなことをもってして「幸せ〜♪豊か〜♪」とご満悦なだけでなく、

この宇宙の仕組みを霊的に考察する

というステップに入って行くのが、さらなる霊的成長を目指すならよさげ。

なんで人類っているのか。骨格や臓器の仕組みは世界共通で同じなのか。一方、肌や髪の色などが違うのか。民族と呼ばれるDNA上の違いから気質・価値観・文化といったものに至るまで、なぜ異なるのか。なぜ争いもし、同時に愛し合うのか。
繁殖がセックスという、神聖であるらしいともされるけど下劣とも思われやすい、いわば究極の矛盾のようなことを通じてなされるのか。
そんな人類が太陽系のなかでなんで地球に集中してるのか。
意図が現実を創るなら、この地球の環境も、太陽系も、なんなら宇宙空間として捉えているものも人間の意図で生まれたのではないか。
100%そうではないとしても、それらも現実である以上、部分的にせよ何かしら影響を与えているものなのではないか。
じゃあ人類はどういうふうになっていくとどうなのか。

宇宙というと急すぎてイメージつかないなら、「この人類が作っている社会」という捉え方でもいいと思います。

いきなり視野を拡大しすぎると、これまた「抽象的なことを偉大ふうに語ったり夢想するだけで本人は何もしない、できてない役立たず」みたくなるので注意が必要ですが。

ただ自分だけが満たされてるだけでも、社会にはまだまだ問題があるし、不幸とされる在り方から抜け出せない人たちもいる。

自分が貧しく不幸だったときは、他人に与えたり尽くすのなんか死んでも御免と思っていたはずなのに、いざ自分の生活の基礎的な部分が満たされ、他人を見下していい気になる段階さえも超えてしまったとなれば、どうにかしたくなる。
何か、自分にできることはないかーー。
貧しい頃の自分なら「なにバカなこと言ってんの? ひたすら自分だけ得して、勝ち組イェーイでいいじゃん」と思うような在り方を、自分から志向していっている自分がいる。

自分自身についても、ただ生活を安穏と暮らして日々を送るだけの繰り返しに、なにか物足りなさだったり、このままでいいのか感を抱くようになった。

そうなれば。

すぐに答えが見つからなくてもいいわけだから、あれこれ物見遊山的にでも、しかも興味がないと思うものをあえていろいろ試してやってみたり、展覧会などを身に行ったりするのも手。

思考や出してる波動など、自分の状態が変わっているので、かつて一度やってみたり見聞きして面白くないと思ったものが新鮮に感じられたり、以前は苦手だと思ったタイプの人たちから好意的に接してもらえたりもします。
もちろん、ショックなことや不本意な目にも遭うリスクはある。けど、実際そうなったとき、以前ほど傷ついたり即座に被害者意識に呑まれて誰かや何かを悪者にして糾弾するような思考が起こらないことに気付いたり。

せっかく余裕があるんだから「幸せ〜」とのんびりするのもいいけど、それにも飽きたら、ね。

ちなみに卑近な例で恐縮ですが、私の場合、34歳くらいから、やりたい放題の生活を3年くらい続けて
「30代半ばで、なんなら働き盛りかもしれないこの年齢を、こんなふうに毎日極楽みたいに生きてるだけでいいのかな。自分にとってのこの世界って、そんなもんどまりなの?」
といった感慨を抱くようになりました。
気まぐれに簿記の検定受験に燃えてみたり、ほんとにあれこれ、「なんでわざわざ?」というようなことをやって。
それで、ほんとに興味ないとか、自分がそれをやっても自分も他人もあんまりプラスがないなと思えたり。
同時に、自由意思の法則があるので他人を言いなりにすることはできず、他人が絡むとあいかわらずうまくいかなかったり、自分がショボいと尊敬されなかったり。

それで、少し立ち位置を変えるだけで、自分が築いてトップに立ててると思ったことなんか、瞬時に崩壊するというか、崩壊はしないけど「視点が違う」から、それはそれ、これはこれで評価されるんだな、と。
あと、上には上がいるもので、自分はすごいと思ってたことがそこまででもないと思うしかないことに遭遇してヒヤッとしたり。

いわゆる偉人伝みたいなのを読んでもいいし、成功者が書いた自伝みたいなビジネス書を読んでもいいと思います。
多少の誇張や、都合の悪い点をカットすることはあるにせよ、まったくの嘘、事実無根ということは書けないもの。
何かの会社でこれだけの実績を出した、と数字で出るようなことは、嘘ではないはずです(よほど悪辣でなければ)。
そういうふうに、下を見て満足するんじゃなくて、少なくとも横、そしてできれば斜め上を見てみるというのも大事かと。

「えー、めんどくせ」

と思うなら、やらなくてもよろし。

何かしらのヒーリングモダリティでインストラクターなどを取得していれば、スピに興味ある人をそこそこたくさん常連受講生として抱えて、そういう箱庭の中では一番偉いセンセとして君臨していられますから。
その旨味にどっぷり浸かって「あたしはもうここでええわ」となってるヒーラーも大勢います。

大勢います。

大!
勢!
います!!

ちんまいすごさに胡座をかいて、チヤホヤされる人生、すんごい幸せだよ。そこどまりで全然OKと思えるはず。

あなたがその程度で終わっていいと思えてるなら。
わざわざそうは思わないとしても、その程度のところで浮かれて有頂天でずっとずっと醒めない夢を見ていられるなら。

ものすごい快楽だよ。
麻薬みたいなモン。
抜けられないって。
並の人間には。

ここまで来たらゴール。

それでいいんじゃないでしょうかね。