仕事術・勉強法

図解強化版 思考は現実化する

発売されました。



もともと出版されていた、

「思考は現実化する(上・下巻)」

をわかりやすく図解でまとめてある本です。

そもそも「思考は現実化する」とは、願望実現についてナポレオン・ヒル博士が鉄鋼王デール・カーネギーから依頼され、25年の歳月をかけて完成したメソッド(を著した著作群の中で最も評価され売れた書籍名)。自己啓発の王道であり原典ともいえる内容です。
(古典的なイメージありますが、成立したのは1930年代で、けっこう最近なんですね)

ちなみに原題は「Think and Grow Rich」、直訳すると「考えよ、そして金持ちになれ」です。
「思考は現実化する」という意訳がいいのかどうなのか。
rich(リッチ)という単語が、どういう豊かさを指すのかにもよりますね。ただの金持ちというよりは、能力なども含めたリソース各種が豊富、という意味も含まれてるんでしょうか。
(ただ個人的には、カネだけと言いたいわけじゃないとしても、『ちゃんと成功するからには、当然、金持ちの資産家になるというカタチで証明せにゃあならんでしょう』というニュアンスは感じます)

そもそも、最終的には鉄鋼王という肩書きで世界的な偉人として名を残したカーネギーですが、もともとは超・低賃金でブラック企業的にパシリ労働させられてたド田舎の貧乏低学歴な職工。社会の最底辺から一代で這い上がり、のし上がった人物です。
そのカーネギーがナポレオン・ヒル博士の成功法則についての話を(何日もかかって寝食を共にしてまで!)聞き、体系だったメソッドとして確立してくれと依頼してるわけですからね。
当然、お金や、それを得られる社会的地位も含めた現世利益として結実させんでどうする、という方向性なのは間違いないといえそう。

ナポレオン・ヒル博士による解説動画(2時間超!)があります。


古典すぎて「もう古いw」と思われがちかもしれませんが?、2017年には、このメソッドを題材にした映画が公開されます。

映画「思考は現実化する」公式サイト(英語)

(映画予告編)


そんな事情もあり、また注目されてきています。

(ちなみに映画は、幼き日のエジソンのエピソード再現から始まります。学校から一通の手紙を受け取ったエジソンの母が、エジソンに内容を読んできかせる逸話。手紙には『あなたの息子は混乱している(精神障害者)だから今後の登校を禁じます』と書いてあったのですが、母は息子であるエジソンに『あなたの息子は天才です。当校にはそんな天才を教えられるだけの十分な能力を持った教師がおりませんので、今後は家庭で独自に学習されるほうがよろしいかと思います』と、全然違う内容を読み上げるんですね。その結果は、ご存知のとおりw)

このメソッド、

現実の行動で願望実現するための永久不変の必須項目が網羅されている

ので、ここを外したままで願望実現ができる人っているのかなというレベル。

「はぁ? スピリチュアルで一瞬で夢を叶えれば、そんなの必要ないじゃんw」

という反論の声が早くも聞こえてきそうです。(←お前の勘違いだろ)

ということで、スピリチュアルヒーラーという見地から、この手垢まみれともいえる王道の自己啓発的願望実現メソッドをスピリチュアリストが学ぶ意義について、ちょろっと書いてみます。



まず、「思考は現実化する」をはじめとする自己啓発寄りの願望実現メソッドの利点は、兎にも角にも「現実を行動で変えていくことで夢を叶える」という一連のプロセスそしてその一連のプロセスを支えるマインドを具体的にどうすればいいのか指南してくれること。
棚から牡丹餅式に自分が何もせずに良いことが起こるのを期待するのはスピリチュアルな力で願望を叶えたい人あるあるですが、個人が行動しなきゃ叶わない諸々(なにかの試験を受けて合格する、仕事で実績を挙げて出世してなんらかの役職ポストに就くetc)の願いというのは、ただ念力で「叶え!」といって突然パッと叶うものでは絶対にありません。
その意味では、スピリチュアル寄りの人だろうが、行動の指針やそれをできるだけの精神(やる気など)のマネジメント/メンテナンスとして、こうした具体的な自己啓発メソッドは有効です。

あえてデメリットを挙げるとすれば、

そもそも何を願うのが相応なのかについては言及されない

ということです。

叶えたい願望は、自分でなんでもいいから決めなきゃいけないんですね。
どんな願いを叶えるのが自分に相応しいか、などのアドバイスもありません。

なんとなく漠然と「不可能なんてないんだから、自分の好きなことを目標に掲げよ」的に焚きつける?だけ。
なので、べつにそんな頑張ってまで願いを叶えようとも思わない人が自己啓発メソッドを鼻で笑うというのも、あるある。

---

今度はスピリチュアルな技法というかでいう願望実現について触れていきます。

現実の事象というのは、その背景としての、設定としての霊的エネルギーがどんな組成で成立しているか、で決まっていきます。

なので、願掛けのような雑な神頼み的な願望実現メソッドは論外ということで置いておくとして、ちゃんとしたスピリチュアルな願望実現メソッドでは

・そもそもその願いは自分が本当に願っているのか(顕在意識で、頭で願っていると思い込んでるだけで、潜在意識などトータルでは別に望んでないのではないか)
 ※だって、いつだって人間の生きる現実は、その人の本当の意味での第一希望が常に叶い続ける仕組みなので

・願望を物理現実として具現化するうえで、霊的エネルギーの組成の段階で不合理がないかどうか
 (あるとすればどこをどう変えるとその願望の具現化が可能になるか)

・自分が今回、生まれて来るに際して決めた「神聖な計画」や「切望」、優先的に育むことを意図してきた美徳など、自分の今回の人生が何をするためのものなのかの本質に照らして、その願望は沿うものかどうか

といった点を具(つぶさ)に見ていくわけです。

運命を川に例えるなら、人間はその川の中で泳いでいる状態。
当然、水の流れに逆らって泳げば、苦しいわりにたいして進まず、ちょっとでも泳ぐ力が弱まったら流されるということになります。
実際の人間は、よほど霊能力を開花させてそれを自分の抱く願望やそれが宇宙の進行に沿っているかをチェックする人でもない限り、どの願望が川上に向かって泳ぐことになるのかなどを知りません。
なので、良かれと思って頭でっかちに、自分の運命に合わない願望を抱いて、そこに突き進もうとしてしまったりします(←ほとんどの場合、その願望は本人が頭で思い込んでいるだけで、潜在意識や生まれてくる前に決めた人生のテーマなど諸々に照らすと、べつに本当は願ってないものです)。
なので、本当は川の流れに沿って泳げばスイスイと物事が進むし、そうなってから初めて「あ、自分は最初から、こっちに泳ぎたかったんだ」と気づいたりします。
(シレッと書きましたが、ここは多くの人が葛藤に葛藤を重ねるところです。例えば、仕事で成功したいと頑張ってる女性がどう頑張ってもうまくいかず、あるいは形式的にはうまく行ってても芯から幸せだとは感じられずにいるとします。いろいろあって妊娠してしまったりして、さんざん迷うけど産むことにして、結婚するつもりもなかった赤ちゃんの父親とも、『子供のために』としぶしぶ、結婚したりして。でもいざ子供が産まれてみると「あ、私、これでよかったんだ」と思い、理想の結婚相手とは程遠いと思っていた夫に対して「実はこの人が唯一にして最愛の、私にとってのソウルメイトなんだ」とストンと納得できちゃう、みたいな。えぇ、これSATCのミランダのことですけどねw)

そんなわけで、スピリチュアルな願望実現メソッドの利点は、

・そもそも抱いている願望が自分が本当に望んでいるものなのかどうかがわかる

・世間の常識的なやり方に縛られず、その願いを本当に最短で最高最善に叶える道筋を見いだせる、選べる

・前向きな標語を毎日となえて気持ちの改革を促す、というような回りくどい方法を採らずとも、一瞬で思考を変えられる

・願望実現を阻むものが本人の思考や能力(の未熟さ)、行動実績など物理的にどうにかできるものではなく、呪いや呪術的な契約など霊的な要因にある場合、それを解消できる
 (いわゆる自己啓発メソッドでは、ここは絶対に手が届かない領域ですね。まさにスピリチュアルな願望実現メソッドの真骨頂といえるでしょう)


というところでしょうか。

デメリットとしては、

日々、どのような行動を通じてその願いを叶えていけばいいのかの指針、望ましい行動量やタイミング、できたかどうかの具体的な達成度を把握しにくい

ということ。

ついでにいうと

毎日の習慣としたほうがいい継続的な作業/行動について、浮き沈みのある人間の気分的な問題をそこまで逐一は面倒みるのにふさわしくない

ともいえそう。
(いやね、もし毎日、 霊視などで今の自分が願望実現のどの段階に来られてるかどうかなどをちゃんとチェックする習慣があらかじめ根付いてる人、そうできる能力がある人なら大丈夫だとは思います。でも実際は、すべての人がそこまでの能力を培ってるわけじゃないし、毎日ちゃんと願望実現に向けて生きることができているかどうかブレずにいられるというマインドが完成されている人ばかりではないのが実状ではないでしょうかね)

なので、個人的には

何を願うかはスピリチュアルなワークで見出し、それを叶える障害となる霊的要因があれば解決/解消する。
そして日々の現実的な行動や、それをちゃんとサボらず続けるヤル気の維持、それらの継続としての「習慣化」は自己啓発メソッドの実践で体現する。


のがバランスいいんじゃないかなー、と。

個人的にヒーラーとしていろんな方の願望実現についての諸々を見させてもらうと、

スピ系・スピ寄りの人というのは、体育会系的に、熱血な営業マン的に、毎日、自分がどの願いに向けて生きているのか、それを達成するために今日という日(の時間)をどう使うか。その時間の使い方にどこまで真剣に打ち込めるかなどが甘い

んですね。

それこそ会社に出社したら営業部全員が立って集合して、リーダーが部全体の目標を大声で語り、みんなもまた大声で目標を斉唱する。そのために今日どう動くかをみんなの前で大声で宣言する。その宣言どおりにバリバリ全力で動き回り、会社に戻ってきたときには成果を報告し、達成できてた人にはみんなで拍手&本人ガッツポーズ。達成できなかったら土下座しつつ明日はどう改善するかについてみんなの前で宣言したり、上司と改善案が妥当かについてガッツリ揉んだり……ということを、してない。

そもそもこの一生で、そういう学校の運動部や会社でバリバリやるという経験そのものがなかったり、あるいは一度は足を突っ込んだけれどもついていけず耐えられず逃げ出したりメンヘラで自滅したり……という人の場合、

「ちゃんとやる」

とはどういうことをさしているのかについてのノウハウ、できているかどうかを測る妥当なモノサシやその感覚がないんですね。

で、

「さんざんやりました」
「とことんやってます」

とすぐシレッとのたまう。

そのうえで

「しかたないじゃん。やることやったのに願いが叶ってくれなかったんだから。他人が、社会が、世界が、神が、私の!願いを!叶えて!くれなかった!!理不尽だ!!!酷い!!!!」

と被害者意識で、私は悪くありませんと開き直り、あらゆる言い訳を延々と超光速にひねり出す(←そういう人って、言い訳のネタに関しては天才的なアイデアマンですよね)。

みたいなことになってるわけですよ。

だから。

スピリチュアルに傾倒してる人ほど、自己啓発メソッドは大事ですよ!

と言いたいです。

ダメスピ「えー、めんどくさい。興味ない(といってブラウザを閉じる)」
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暗記ノートは1ページ1項目(電子ノート大活躍!)

昔読んだ『スーパーエリートの受験術』に、書いてありました。

当時、B4サイズのノートが学校では定番だったのですが、けっこうデカいサイズです。
そこに、たとえば英単語の暗記であれば

note.jpg

などのように、書きなぐるわけです。

できれば鉛筆やシャープペンなどの薄くて細い筆記具ではなく、太字のカラーマジックで、嫌でも書いた内容が目に飛び込んでくるように、目立つように。

当時、まだ紙のノートしかなかったし、そんな紙の無駄づかいに思える書き方でノートを使い切ってしまうのは、ビンボーな経済状況だった私には、到底、信じられませんでした。

でもその頃、これといって偏差値の高い進学高校に通っていたわけでもないのに日本最難関と呼ばれる私大の上位学部とされる学部に現役で合格しようとしていた私にとっては、「もったいない」という理由だけでそれをしない手はありませんでした。

というか、当時から不遜ながら私は

「いわゆる勉強のできる進学校にいる連中と、自分などバカ高校に通う人間との間に、そこまで本質的な学力の差などないだろう。実際、電話番号などをいきなり言われても、進学校の連中が一発で暗記できるわけでもない。たぶん、『誰でもそれをしさえすればある程度まではそうなれる、何か効率のいい訓練法みたいな勉強法』というのがあるんじゃないか」

と思っていました。

きっと、バカ高校に通う連中の間には、その秘密のノウハウみたいな情報が、出回ってこないだけなんじゃないだろうか、と。

この読みは当たっていました。

今となっては、勉強本と呼ばれる、「上手な勉強のやり方」を説く本が1つのジャンルとして成立するほど量産されています。

でも今から20年以上前、まだ世間でインターネットというものさえ普及していなかった社会では、そんな発想のほうが「都合のいい妄想」扱いでした。

なので、今なお伝説として、中古本が10万円前後の値段で取引されるほどの名著、『スーパーエリートの受験術』は、目からウロコだったのです。

もったいない、そんなまさか。他の誰もそんなやり方をしてない。そんなやり方は邪道だ。そんなことをしたら怒られるんじゃないか。不真面目ではないか……。

効率のいい、進学校で優秀な成績を収めている連中(だけ)が採っている勉強法の多くは、バカな人間からすると馴染みがなく、もっといえば正気の沙汰ではないように見えます。
やってみる前に、心理的抵抗がものすごいことになるのです。
もうそれは、
「いーけないんだ、いけないんだ、先生に言ってやろ」
と脅してくる、優等生気取りの身近な誰かから自分が悪者扱いされてしまうのではないかという恐怖。べつにそこに誰もいないわけですが。
これがもう、囚われなんですよね。
逃げようとする動物に電気ショックを与え続けると、もう、檻がなくとも動物は逃げようとしなくなる。あの図式です。
バカ人間が住むバカワールドは、そういう、人が本来もっている能力をより抑制し、発揮できないようにし、その結果、拙い能力や知識で物事に取り組まざるをえなくなり、うまくできず、時間もかかるし労力もかかって疲弊して大変なわりに出来上がった物のクオリティも低く、「しょせん、人間、どんなに努力してもこの程度。すごい人は生まれつき、普通の人とは違う特別な才能を持っているのだ」という結論に到達する……ということになります。
これは今、ブラック企業と呼ばれるような、業務のやり方や組織としての命令指揮系統の非効率性、業務に従事する人間の能力の低さなどをひたすら、体力と根性で乗り切ろうとする悪循環に姿を代えて、学生だけではなく社会人の領域にまで悪影響を与える結果をもたらしています。

あ、話がいつもどおりそれた。

話を元に戻すと、暗記のために1ページ1項目。それもデカデカとマジックで書く。
(裏面にインクがしみるのが懸念点でしたが、普通のキャンパスノートなど薄い紙でも、水性のサインペンで書くと裏移りしないことを学習しました)

暗記用ノートは1冊に決めて、英語でも理科でも社会でも、科目に関係なく、「覚えよう」と思った概念や単語がでてきたら、それを次々に書いていきます。(このことも、かなり抵抗がありました。罪悪感というより、美意識で。やっぱりノートは、科目ごとに別に用意しておかなくては……という変なこだわりが、それまで学校で実際に科目ごとにノートを用意していた習慣から、知らずに根付いていたのです)

その、生まれてこのかた、やったことがなく、思いついたことすらない非常識とも思えるやり方を、私は実践しました。

最初はとにかく、紙を無駄にしている罪悪感がすごいです。
自分はものすごく悪いことをしているような、あるいはバカげたことをしているような心地に囚われました。

でも。

そういうふうに書いて、パラパラとまるで、速読をするようにノートをめくり、目を通します。
ノート1冊をせいぜい10秒くらい、長くても30秒、どんなにゆっくりでも1分以内にめくりきるように。
尋常じゃないスピードです。それを、1日に何十回か、やるのです。
ノート1冊を30秒でパラパラめくるとすれば、単純計算で1分間に2回。10分で20回の計算です。
何十回、といっても、そこまで長時間、とられる作業ではありません。

最初から覚えようとするのではなく、「眺める」ように、めくる。
はっきりいって、全然、書いた内容なんか頭に入ってきません。
騙された?それとも、頭のいい人はできるけど自分みたいなバカにはできない?
そんな思いが込み上げます。

「やっぱりこんなやり方、ズルだ。ダメだ。邪道だったんだ。やっぱりこれまでどおり、急がば回れでちゃんとノートの罫線どおりに小さい文字でできるだけ詰め込んで、紙を無駄にせず、真面目に勉強するのが一番なんだ」

そういう、懺悔のような気持ちでいっぱいになります。

でも、そういう「自分が正しいと思うやり方をやった結果が、このザマ」ということを考えると、

「自分が今と違う、デキる側の人間になるには、これまでの、デキない人間である自分を作り上げたやり方のいちいちすべてが『デキない人間養成メソッド』ということになっているのかもしれない。デキない自分からみて異常に感じるやり方こそが、デキる人間になるための方法かもしれないじゃないか」

と思い、もうしばらく、騙されたと思って続けてみることにしました。

すると、

ヒマなガキが、もうすでに全部読んだ少年ジャンプなどの漫画雑誌を何度も手にとってパラパラめくるうち、どのページにどんな絵・セリフがあるのかを暗記してしまい、最初のうちは読む気もなかったマンガ大賞原稿募集の要綱説明ページや広告の内容までもを、一言一句間違いなくすっかり覚えてしまう現象


が起きてきたんです。

もう、あるページを眺める0.5秒くらいの間に、そのページに書いてあることはもとより、次のページには何が書いてあるかまで脳裏にパッと浮かぶ。

そのうち、

「もうわかったわ!いつまでこんなこと、せにゃあならんのじゃ!」

と、どんなに素早く、意地悪するみたいに速くパラパラとノートをめくっても、たまに紙が重なって2ページ一度にめくってしまい、目に入らなかったページがあるとしても
「いま飛ばしたページに書いてあるのは、(その前後がこれとこれだから)あれだろ」
と、わかる。

科目などに統一性がなく、バラバラに書いてあることも、全然、問題になりませんでした。

覚えた知識は、不思議と、実際に学校のテストですらすらと思い出せました。
全部の科目をごっちゃにした、1ページにたった1項目しか書かないノートをひたすらパラパラめくるのを1日何十回もやっただけとは思えないほどの記憶の定着率でした。

私は他にも、『スーパーエリートの受験術』に書いてあることを逐一、実践していきましたが、

それまで全国模試でせいぜい2〜3万位をウロウロしてた程度の成績が、たった2ヶ月で全国千位以内にまで上昇

しました。

全国順位3ケタ。

たいした進学校でもない高校に通い、塾や家庭教師などはおろか、家庭学習さえまったくせず、部活や演劇、バンドなどの課外活動だけが生き甲斐くらいに思えていた当時の生活スタイルからは考えられない成績でした。

そんなこんなで高3の秋には、

どんなにふざけて手抜きして、これから先に1秒たりとも勉強せずとも絶対に志望校に合格できるだけの学力がついていた

んです。

これは私の学力の問題ではなく、やり方の問題といえるでしょう。

この記事をお読みの方で、こういうやり方で暗記ノートをつくっていた人はいますか?
あるいは、暗記カードなどで1ページ1項目という原則は知っていたけれど、カードのサイズが小さかったり、鉛筆などの薄い細い線で書いてたり、めくるスピードが遅かった人もいるのでは。

やっぱり、デキる人がやっている方法というのには一理あり、自分がそれをデキない側にいるからには、やる前から批判したりせず、騙されたと思ってしばらくやってみてからでも、批判するのは遅くないんじゃないかということを10代のうちに学習できたことは今も活きています。
(受験勉強って、何の役にも立たないといろいろ言われやすいけど、実際、人が何かに真剣に取り組むからには、いわく説明しにくい、いろんな気づきや学びがあって当たり前ですよね。たいして真剣に受験勉強したことがなく、それまでの自分と違う一段高いレベルに到達するとか、今までの自分と違う自分に変わるということを経験したことがない人、その変化と成長と上達のプロセスのいちいちで押し寄せる壁や不安を何もかも乗り切って目標を達成した経験をしてない人が、それをできている人に対して、あれこれ偉そうに言う資格はないのではと思います。どんな分野の何にせよ)

まぁそんなわけで、暗記はデカめのノートに、1ページ1項目が原則、と。

「でも紙がもったいない!」

という人もいると思いますが、だからこそ!

今はiPadなどのタブレットがあるじゃないですかぁ!

そういうツールでお絵かきソフトをインストールし、Apple Pencilでも指での手書きでもいいから、太字マジック的な線が描けるツールを選んで、描く。

それを、スワイプしてピッピッと素早く目を通していく。

これなら、新しくノートを次々に買い足す必要も、インク切れになるペンをたくさん買い足す必要もありません。
書いたノートが溜まってかさばることもないでしょう。
(私が受験勉強したときは、最終的にはノート自体が何十冊にもなり、毎日、その何十冊ものノートの中から1日10冊くらいと決めて、それを何十回かパラパラめくるという、もはや学習ですらない『(すでにうんざりするほど読み込んで覚えきった知識を確認する)作業』を続けていました←でもこれをしておくと、何ヶ月か前に勉強してマスターした科目や分野の知識も、忘れていかず、試験当日も鮮明に確実に思い出せます)

そんなこんなで今、私は、

・タブレットはiPad Pro(9.7インチ)
・筆記具はApple Pencil
・ソフトはPenultimate

を使って、暗記することがある場合は、しています。
(書く作業はどんなお絵かきソフトでもできるのですが、指でサッサッとスワイプして次々にページをめくっていく動作において、Penultimateが目下いちばん便利だなと感じています)

まぁ、べつにたいした学力やそれにふさわしい職位等にあるわけでもない私ごときが何をいう、かもしれませんが(笑)。

ご参考に……して、かえってもっと効率のいい勉強法に気づかない危険性もあるので、自己責任でドゾー。

プロフェッショナルに努力する

何がプロフェッショナルか、については一意に定義できないので、1つの見解として。

やる気があるときは、やる。なければ、やらない。
つまり、ムラがある。

これってアマチュア的と考えることができそうです。

で。

その対極にあるプロフェッショナルなやり方の1つが「ルーチンワーク」。
定例的に、機械的に繰り返すんです。

え、それってプロなの、と思う人もいるでしょう。
(もちろん、唯一の真実なわけじゃないので、それはプロじゃないという意見も当然あるでしょうがそのうえでここでは触れずにおきます)
あくまで1つの考え方として、です。

やる気があるときもあれば、ないときもある。
やってみてうまくできるときもあれば、そうでないときもある。
けど、やると決めたことを、やる。

もっと、意識の高い路線で、理想論的に「プロフェッショナルとは!」と語ることはできそうです。
ていうか、誰でもやりますよね、そういう、「じゃあ実際やってみろよ」を除外した、口先だけの綺麗事を展開するのは。

問題は、「じゃあ実際やってみろよ」なんです。

(そこで「私はまだそこまでのプロじゃないし」といって自分のことを棚にあげるのが、逃げまくり人生のコツですよ。さぁ逃げて逃げて!!)

なので、できることを、やる。

もちろん、だからといって、あまりにも簡単なことを続けていても何も変わらない(かもしれない)し、単にどんどん難しいことに挑んでいくのも、「凡人的にプロとして生きる」自然な在り方からは逸れていく。

だから効果の出る分量というかを、見極める。
自分の上達や習熟度合いに応じて、やる内容を見直すのも大切かもしれませんね。

なにより、やる内容を決めるときは、自分だけの経験則ではなくて、世間のプロたちの間である程度、確立され有効とされるやり方を取り入れること。
(かといって、世間に出回る情報を鵜呑みにして猿まねだけしてもアレなところが難しいわけですが)




ポイントは、

「一定の確率でうまくいく内容のことをできている(自信がある)なら、目標どおりにならない場合にもすぐ方針を変えない」

こと。

これが難しいかもしれません。
まだ続けるべきときなのか、見直すべきなのかの違いの見極めw

どういうことかというと、株の取引とか、運動による減量とか、射的などの訓練……そうした、同じやり方をルーチンどおり繰り返していても、若干、結果にブレが生じて当然の類のことです。

あまりにワークの内容が合ってないために結果が出ないなら、メニューを考え直さないといけません。
しかし、一定の確率というかでうまくいくやり方であれば、続ける。一喜一憂しない。
それもプロとして大事なことなのでは。



一見、意識が高く立派なようでいて、自発的で主体的で受け身でない感じがして良いっぽいのにダメなのが、

「やると決めたルーチンを、そのときの結果(の悪さ)や気分、いかにも賢いと感じる衝動的な判断で、やめたり変えたりする……を毎回のようにやること」

なのでは。

ちゃんと努力してるのに結果が出ない、と言ってる人の大半は、これに陥っています。
脳内では、ちゃんとやったことになっている。でも実態は、という……。

これって

自分への誠実さが問われる

んですよ。

やると決めた自分との約束を、他ならぬ自分が、破る。

それは、自分は人(この場合、自分ですが)から信頼されないと自尊心が傷つきます。
そして、自分は人との約束を破る卑怯でダメな悪い人間だ、という罪悪感も芽生えます。
それを繰り返すと、溜まりに溜まった「自分はダメだと思う行為実績の山」にうんざりして、ある臨界点を超えると
「もう、どーでもいいや。人間なんてしょせんみんな(今の私と同じくらい)ダメな生き物よ(=だから私は他の人や平均と比べて格別にダメというわけではなく、これが普通。つまりダメじゃない)」
と自分で自分を丸め込んで本心にフタをして、いわゆる正論や頑張って成功できた人の話は何もかもスルー……する「大人」になっていきますw

自分に誠実にできない人間は、他人のことはもっと簡単に裏切ります。

それもアリですよね~♪

ルーチンワークどおりにプロフェッショナルに努力できたからって何?
それで絶対に良い思いができるって保証はあんの?
もし多少は良い思いができたとして、それは努力のために苦労した分とつりあう?
プロフェッショナルに努力できた人間とそうでない人間のどこに命として差がある?同じでしょ?

だからべつに、プロフェッショナルに努力するかどうかなんか、どうでもいいじゃん!w
何をふざけたこと言ってんの?頭大丈夫?
せいぜい努力してみればいいじゃん。
凡人の努力なんて、プロフェッショナルだろうがなんだろうが、たかがしれてるよ?
もっと楽してすごいことができちゃってる、才能ある一部の選ばれた人には敵わないよ?
自分の身の程も知らないで、何が努力だよ。
せいぜいくだらない努力したつもりになって、自分はマトモだとでも自己洗脳してろよ。

って?(笑)

努力はタイプ別に。(コツコツ=メンテ用、ガーッと=向上用)

コツコツ努力する、継続することの大切さは(主に庶民の間で)さんざん話題にされますよね。
そのちょっとしたコツコツ継続ができない人も多いから、永遠のテーマ的になっていて。

ただ。

全員が絶対にそう、とは言い切れませんが、あくまで傾向として、

コツコツ程度の努力では、能力は向上しない

があるかと。

でもこれ、「コツコツとはどのくらいか」を数値で示せないから、議論が紛糾しやすい分野だとも思うのですが。

しかも時間の長さとも違う。

あえていえば

現時点での限界を超えようとしてその努力的行為に臨んでいるか&できたか

の問題。

いつもやってることを、腕がなまらないように・知識を忘れないように的な意味合いで、疲れない程度に繰り返すというのは、あくまでメンテ用かと。
あるいは、すでにできている技能が、より精度高く速く綺麗にできるようになるといった「ブラッシュアップ」といった意味での向上。これなら、コツコツでもいい。

でも、勉強でもスポーツでも芸事でもなんでも、今ある能力を超えるときには、ちょっとした集中というか緊張というか、「せーの!」といった気迫でジャンプする的な瞬間があるもので。

ある程度ほとんどの人が通過儀礼的に経てきてる例でいうと、「鉄棒で逆上がりができるようにする」なら、「あぁ、納得」となるのでは。

コツコツと逆上がりができるようにする練習をする……というのは、どうでしょう。
それでもいつかはできるようになるのかもしれませんが、つらくない程度に落ち着いて、毎日の日課だからという感じで「よいしょ」とやって、

「できなかったけど、また明日もやろう。毎日やるのはえらいこと。コツコツ努力を継続するのが美しい」

という日々を繰り返していたら、どうですかね。

いま逆上がりができない人の「よいしょ」は、もう意識の時点で、「逆上がりをせずになんとなく鉄棒につかまってピョンと跳ねてみる」動作しかイメージできてないですよね。

ペースとしてはコツコツでも、頭の中で「さっきのジャンプの仕方だとできなかったから、今度はこうしてみよう」といった試行錯誤をして、さっきまでとは違う、自分が生まれて初めてやってみるジャンプの仕方で挑戦……と、ちょっとずつでも自分の限界を打ち破るような動き方なら、それは「ガーッと」型の努力といってもいいと思いますし、それならいつか、できる日は来るでしょう。
(そして、どんなにちょっとでもなんでも、いまの自分の限界を打ち破ろうとして何か行動を起こすときは、恐怖も押し寄せるし、また失敗したらどうしようと不安になるし、実際に失敗したときの落ち込み、何度やってもダメだったという落胆にさらに打ち勝って次の挑戦をするという苦難が訪れます。そしてそんな意地悪ふうに理不尽に訪れる苦難から逃げていると、永遠に、できないまま)

今の能力ではできないことを、能力側を伸ばすことでできるようにするという場合は、コツコツではダメ。「ガーッと」型の努力が必要になります。
この「ガーッ」というのは時間の多さや長さのことではありません。集中というか、意識というか、ちょっとカッコつけていえば「己と勝負して、克(か)つ」べく取り組んでる状態のこと。
たとえ短時間であっても、集中するというか、限界を振り切る「せーの!」というものが求められます(←漠然としすぎw)。

でも、「コツコツと、やろうとしてみる。参加することに意義がある」的な意味でほんとにコツコツしてるだけだと、延々とできるようには、ならないのでは。
というか、それはもう、コツコツを標榜したダラダラです。


このことは、私程度の人間が以前から思ってはいても、大々的に人に言うのも……と思って、言ってきませんでしたが、この本に書いてあり、「本に書いてあるよ」というのをメインにして「そういえば自分もこう思う」という流れなら言えるかな、と思った次第(セコい)。
   ↓

うぅむ、発売から2年が経過してるのに、しかも文庫本なのに、amazonで値崩れを起こしていない……。
(内容が支持され評価されている指標かと)

この本の著者は歯科医で、しかもニューヨークに留学するなどして歯科医療の先端を極めようと奮闘したような、意識高い系?っぽいです。

自分自身が凹んだ?ときに自己啓発の分野の存在を知り、本を書く側・セミナーをやる側にまで回り、何千人何万人の支持者がいるとか。すげー。(←あくびまじりに)

この本、バランスがいいというか、(K間K代などの著書と違って)一般人がドン引きするような行き過ぎた意識の高さや宗教臭さ、アブない思想といった雰囲気がなく、

トイレの後には手を洗おう

みたいな、小学校の標語的な、誰もが違和感なく「前向きで、いいね」と思える塩梅で書いてるのがヒットの要因かと勝手に分析しています。

ぶっとび自己啓発にもスピにも及び腰な「自称ノーマル」な大多数の人たちに、おすすめ。

って何?本の宣伝なわけえ?(〆)

セルフ調教

自分を動物と同じように調教しましょうというご提言。

これ参考になります。
    ↓


何かをやろうとするとき、

一番うまくいかないのは「ヤル気で苦難に耐え続けて突き進み、絶対に心も体も折れずに目標に到達する」やり方

です。

ひたすら根性論。気合いだ気合いだ!!……無理でしょ? 無理だったでしょ?

そうじゃなくて。

目標達成につながる行動を、快楽の虜にして、好きにさせて、率先してやりたくなっちゃうように自分自身を調教する

が楽チン。

イルカの調教師だったとき、お客さんに見せる芸を仕込むという意味での調教も大事でしたが、それ以上に

・肛門に体温計を挿しこんでの検温

・体重計に乗る(乗ったらじっとしている)

・健康診断のための採血

を仕込むのが大事でした。

で、普通に考えたらこれらは「嫌なこと」だったりします。

それを、「好きなこと、楽しいこと、やりたいこと」に調教するわけです。

たとえば採血。尾びれに注射針を刺して採血するのですが、そのためには

1.調教師(飼育員)に尾ひれを向けてじっとしている
2.採血の一連を尾ひれにされても暴れずじっとしている

という調教が必要になります。

しかもイルカには、恐怖や罰で嫌なことを強制するというやり方が通用しないので、上記のことを「楽しくて大好きだからする」というふうに持って行く必要があります。

ちょうど、人間の子供(というか赤ちゃん)に「いい顔してごらん、いい顔ー」といって、顔をしかめさせ、できたら「はい、いい子ねー」と拍手して褒めて、撫でてあげたりする、あのやり方。
厳密に考えると、顔をしかめる動作自体は、べつに楽しくないんですよね。
でもそこに、「言う通りにできたら褒めてもらえる。喜んでもらえる。(好意で)注目してもらえる。そうできた自分が誇らしい、嬉しい」というのが加わると、顔をしかめる動作そのものはべつに好きじゃなくても、それをした結果、得られるもののために、赤ちゃんは顔をしかめるのです。

基本的に、イルカもそれと同じ要領で躾けます。

採血に関していえば、尾ひれを触られるとか針を刺されるというのは、どちらかといえばマイナス。不快なわけです。
そこで、「脱感作(だつかんさ)」という調教をしていきます。

最初は、尾ひれを向けてじっとしているのを教える。合図があるまでじっとしていられたらご褒美(笛の音や褒める合図、魚の餌など)。
それができてきたら、指で尾ひれを触ります。触られても嫌がらずに合図があるまでじっとしていられたらご褒美。
次は、尾ひれを掴みます。
それもできたら、今度は指先の爪で、注射する位置をわざと押します。
最初はちょっとした力で始めて、徐々に力を強くしていきます。
最後は、全力で?爪を立てて尾ひれを押しても動かないでいるところまで持っていきます。
(何回も、何日も、何週間もかけてこれを徐々にやります。急にやりすぎると『怖い!痛い!嫌だ!』となり、それまでできてた動作も何もかも言うことをきかなくなります←調教師の腕が試されます)

うまくいけば、本当に採血のとき、針を刺して、血を十分な量、とれるまで、イルカはじっとしていてくれるというわけ。

余談ですが最近は、イルカ(哺乳類)だけでなく、サメなど大型の魚類にも調教が成功しており、体重を測るのが以前より大幅に楽になりつつあります。
(自分で体重計の上に乗って計測が終わるまでじっとしている、ということができない大型の魚や海獣の場合、麻酔注射で眠らせてクレーンで吊り上げて……という、大変な作業と危険、それに費用が伴います。調教技術やノウハウの発達により、安全と費用削減が実現できてきています)



冒頭に挙げた本が述べているやり方を応用し、自分が何か成功を目指すためにとるべき行動を、1つ1つ分解していき、どのくらいストレスを感じるかを洗い出します。

たとえば資格をとるため勉強しようという場合。

・テキストを見たとき
・テキストを手に取る行動を起こすとき、起こしたとき
・テキストを開いたとき
・テキストの内容を読み始めたとき
・テキストの問題を解くとき
・前に学習したはずのページを遡って開くとき
・前にやったはずの問題の答えがわからない、忘れていたとき
・そのテキスト1ページを読み終えたとき

など、こまかくこまかく分解し、どんなストレスをどのくらい感じるか。それはどんな思考ゆえかを洗い出すわけです。

テキストを見ただけで、そのあとしなきゃいけないことを思い出してはうんざりする、ということもありますね。
内容を読み始めたとき、学習の内容というよりは「子供の頃から学校でいつもこういう、嫌なことをさせられて、私はいまだに奴隷のような、つらいやらされ感を背負っている」という精神的な苦痛がこみあげたり。

ほとんどの人は、こういう苦痛・ストレス・嫌な気持ちをなにもかも我慢!我慢!我慢!して、進もうとします。
(出来の悪い人ほどその傾向が顕著です)

だから失敗する。挫折する。

そうではなくて、洗い出した嫌なことを、1つ1つ、調教していくんです。

たとえば私の場合、スポーツジムで筋トレをするのが嫌でした。

まず、トレーニングするのを思い浮かべると、バカみたいだし無意味に感じるし、つらそうで嫌。

このままジム通いなんかしたら、ほんとにトラウマになりますw

だから、イメトレで洗脳。

自分の場合は、ジムの内装が綺麗とか、トレーニングが終わったらジャグジーでくつろげるとかで、嫌なイメージを払拭していきました。
また、筋トレの効果について述べる記事や情報を収集し、アンチエンジング効果とか、デトックスになるとか、ほんとかどうかはひとまず置いておき、筋トレについてのイメージを良くするように持って行きました。

そして、ジムでトレーニングするのを思い浮かべて、ワクワクするようになったら次のステップに進みます。

ジムに行く、という行為。
勤め先までの定期券で行ける最寄駅かどうかや、営業時間など諸々の条件を考慮します。
ジムに行くこと自体がまだ好きになれないときは、その最寄駅の喫茶店でお茶するなど別のプラス要素を思い浮かべることで、行く気にさせました。

で、行ってみて、ジムに到達できたら、大仰に万歳をする。
世界一すごいことをした人みたいに、喜ぶ。
(こういうとき、演劇的というか、メソードというか、自分の感情を意図的に、持って行きたいほうへ持って行くというスキルを習得していると、やりやすいです)

「すげー、俺。ジムに来ちゃった!」

といって有頂天になる。で、その近くにあるお気に入りの喫茶店でドーナツセットとか食べるw

こうやって、

ジムに行ったら更衣室で着替えてジャグジーに行き、風呂を満喫して帰る
    ↓
遊んでるくらい軽い負荷のマシンをキコキコやりながら、ジム内のモニターでやっているテレビ番組を見る

など、徐々に慣らしていきます。

嫌なことがなくなる、というのが第一ですが、できれば「やるのが好き」なところまで持って行きたいところ。

で、いよいよちゃんとトレーニングをするようになったら、イルカの採血をご褒美にするみたいに、トレーニングのつらさを脱感作していきます。

また同時に、トレーニングでつらい気持ちになったときは「いい感じだ。この状態を経験すれば、脳が勝手にあとは自分を強くしてくれる」などと、責任を別の誰かに丸投げできたような気にわざとなることで、「このつらい状態になるのは、いいことだ」というふうに洗脳していきます。

それで、(私の場合はもともと運動をしていたためか、体質的なものなのか)何回か軽いトレーニングを経験すると、早くも物足りなくなってきます。

でも、カリキュラムを組んでいて、最初の2週間はこれ、そのあとは……というふうになっているため、

「もっとガシガシやりたいのに!」

と、やりたいのにやれないストレスを感じます。

このストレスは「ご褒美お預け」のため、わざーと、放置します。

ストレスが溜まり、

「もう嫌だ!もっと本格的にトレーニングしたい!」

と爆発しそうなところまで持って行き、高負荷トレーニング解禁。

すると、それまで「やれ」と言われても絶対に嫌だったはずの高負荷トレーニングが、本当にご褒美に感じられるわけです。
めちゃめちゃ息が苦しかろうがなんだろうが、「これがやりたかった!これを望んでた!!」という気持ちのほうが強いので、苦痛自体が、ある意味では、やりがいというか、夢が叶った喜びの一部になります。
(これはドM化するのとは微妙に異なります。苦痛自体を、つらいから好きというふうに調教するのは別のことです←ここが難しい。ドM化すると、つらい作業が快楽になりガシガシやれる反面、本来の目的だった成功のほうに興味がなくなってしまうので、つらい作業自体を目的として満足してしまうようになりかねない)

そこで今度は、できたトレーニングを、ログ(実績を記録する手帳)に、書き込みます。
そりゃあもう、ドヤ顔の極致で。成功体験として。

そうなると、スタンプラリーを制覇したくなる気持ちみたいなものがムクムク湧いて、手帳を「◯kgのバーベルで〜〜運動を◯回、達成」といった記録で埋め尽くしたくなります。

ここまできてようやく、慣性の法則が切り替わります。
(電車が止まっているときは止まり続けようとしますが、動かそうとする力のほうが強くなったとき『ガッタン!』となりますね。あれが心理的に起きます)

そのあとは、せっかく走り出して回り始めた流れを止めないこと。
(これは、最初にしかるべく慣性の法則を、気合いでなく楽しさで乗り越えたら、けっこう簡単です。油断は禁物ですが)

ジムに行かない日に体がなまってウズウズするようになれば、しめたもの。

……こういうことを、達成しようとするすべてのことに応用していくわけです。

「嫌だけど仕方ないから我慢する。そしてその我慢は本当に苦痛として感じられる」

という要素を放置して、体や心の奥底に毒をしまいこむようにすると、それは必ず、歪みになります。時間差でどこかに変調を来たします。
(大学受験(まで)で難関校を志望し(させられ?)た人は、本人は普通のつもりでも、いわゆるフツーの人から見たら動作やしゃべり方、考え方などが微妙におかしかったり、底知れぬ欲望を抱くようになったりと、つらいことに我慢したツケが必ずどこかに出ているのが残念というかでした。30代前半など若いころはまだ平気だった人が中年になってから発症したり、精神というよりは肉体のほうに出てしまったり、いろいろ大変ぽい模様)

自分の周囲を見渡すかぎり、で恐縮ですが、

一流の人……本当に好きなことをしているようにセルフ調教できている

1.5流以下の人……やむなく、嫌だと感じることをどこかに溜め込んで耐えて努力している

何流かわからないくらい下流のグダグダな人……おおっぴらに不平不満をぶちまけて嘆く


の傾向があります。

「うっせーな。何がセルフ調教だよ。嫌でもなんでも、いいから、やれ!」

で無理くりゴリ押しするほうが、安直でラクだし即効性?はあるのかもしれませんが、長い目で見たらそういうサボりは、よろしくないようですね。

「べつに一流になんかならなくていいんだよ、フツーのとこまで行けば。でも普通にしててフツーになれない人間は、どんなにつらくても耐えるしかねえんだよ。つらいことを楽しく好きになる作業なんか、やってるうちに周りから差をつけられて人生が終わっちまうよ!w」

そうですか、ではそのようにどうぞどうぞ。(笑顔)