仕事術・勉強法

やっぱりキオークマンで学習、が◎

キオークマン、ご存知ですか。

キオークマン7


いまバージョン?が7で、機能が進化しつつ、価格はどんどんお安くなっていってくれています。

いわゆる爆発的な知名度で有名化はしていないと思うのですが、静かに静かに、一定の人気を誇り、メーカー側も開発を続けてくれています。

なんたって40年の歴史を誇る、超ロングセラー商品。

性能はある意味シンプルで、自分が喋った声がヘッドホンから聴こえてくる(だけ)。

ケーブルで音響機器と接続すれば、そこから出る音を聴く通常のヘッドホンとしても機能します。
だから英語のシャドウイングなど「教材を聴きながら、自分でも喋る」学習・練習もできる。

「はぁ? 自分が喋った声なんて、べつにヘッドホンしてなくても聞こえるじゃんw」

という感想、抱くとは思います。

が、これがなんつーか、ビミョーというか微細というかの違いが、大きいのよ。学習効果として。

わざわざマイクを通してヘッドホンで間近に、いま自分が喋った声を大きい音量で聴く(聴かされる、聴かざるをえないw)のって、なんともいえない強い印象なのね。

英語に限らず、試験勉強全般で、たとえば難解な用語なども、目でテキストの文字を見ながら、キオークマンを装着して声に出して言う、読む。
と、なんていうんだろう……、その文字がドーン!と脳裏に浮かんで、そこにエコーかかった声で声優が必殺技みたいにその用語を叫ぶようなインパクトで、しっかり覚えちゃうのね。

覚えたくもないことならある意味、トラウマともいえるけど、覚えたい事柄を勉強してるわけじゃん?
なら、インパクトが強くてどうしたって忘れられない、というのはメリットでしかないよね。

英語など発音をこまかくチェックしたい場合、ヘッドホンなしで声に出しても聞こえるけど、良くも悪くも周囲の空気でボワンとしちゃって精密に発音を分析できない。
自分の声はただでさえ頭蓋骨に響いて、他人が聴いてる音は認識できないからさ。
だからヘッドホンでの確認が大事。

「それならICレコーダーで録音して、聴き直せばいいじゃない」

そうね、マメな人ならそれでもいいんでしょうね。

でもさ、

① いったん録音して
② それを聴きかえす

このステップ、①→②にいつもいつも確実に進めればいいけど、分断されがち。
「あとでやろう」
で永遠に聴きかえさないことなんて、あるあるじゃない?

リアルタイムに、しかも「自分で録音ボタンを押して止めて」の作業なく、その場で聴き返せる

ってのが、ものぐさな人ほど重宝するのよ。

単純に、ヘッドホンを装着するだけで、なんつーか、外部のノイズが遮断されて否応なく集中できる効果もあるし。
ましてやそこで、自分が喋った声と目で見てるテキスト「だけ」しか五感を刺激する情報源がないとなれば、そりゃ集中するし、その結果、印象は強まって覚える、理解するでしょうよ、という。

「え〜、でもォ、私ィ、自分で自分の声を聴くのが気持ち悪くってェ〜」

キオークマン
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真面目系クズ卒業のバイブル(聖典)、『アグリー・ベティ』

海外ドラマ「アグリー・ベティ」ご存知ですか?





huluでも見られます。

ルッキズム全開で陰謀渦巻くファッション雑誌編集部で働くことになった「アグリー・ベティ(醜いベティ)」が、仕事を通じて健気にしたたかに成長していく痛快コメディ。

いわゆる「悪役」として登場する女上司ウィルミナのさまざまな妨害工作に、時には立ち向かい、時には(なんだかんだいって同じ会社で働くチームなので)協力し……で、単純な善悪の対立構造から脱却して「清濁併せ飲む、これが大人社会のリアルだよね」の図式が描かれる点が真面目系クズにとっては気づきのヒントになりそう。

敵と味方が一意に定まらない、揺れ動いて移り変わる不安定でハラハラさせられる人間模様がほんとリアル。

視聴者として見ている中で、
「自分は良い人だから、良い人だけど可哀想で社内カースト最下位のベティを応援する。ウィルミナは悪い奴」
など、自分自身の偏見と差別意識による決めつけ、良い人のつもりでの感慨がある程度できあがったところで
「誰がそう決めたの?」
とばかりに崩される。いい意味で裏切られる。
単純に幼稚に、善と悪とにきっちり分け、勧善懲悪で正義が勝つ……と都合よく思っている自分自身の愚かさと醜さに気づかされる。
「ウィルミナだってマークだってアマンダだって、一人の人間なのだし、愛情が欲しいよ。人権もあるわけだし。ベティ側に立って見たら『悪い人』に見えるのかもしれないけど、それ自体が偏見としての決めつけ。そして仮に悪どいことや意地悪をしたからって犯罪ではないし、確実に悪人と断じるほどでもない。なにより、さしたる根拠もなく自分がただ感覚的に悪いと感じる人であればどこまでも酷い目に遭って罰せられるべきと思ってるなら、何よりも凶暴で無慈悲なサイコパスは、そう思うあなた(=このドラマを見ている視聴者)なのでは?」
と、自分よがりに善と悪を稚拙に切り分けて、悪い側の人間は水戸黄門よろしく磔獄門でとことん罰して一件落着気取り?になりそうな自分自身の醜い部分を突きつけられてしまうかも。

まさに視聴者自身の心を写し出す「鏡」のようなドラマです。

劇中の、誰か気に食わない登場人物に憎しみの目を向けて「天罰が下ればいい」と正義の味方のつもりで思うとしたら、まさにそう思う自分は何様なんだよ、と。

そして過酷なファッション業界でライバル社などとの熾烈な競争を余儀なくされ負けるわけにいかないビジネスである以上、悠長なこと言ってられんの?と。
「こんな酷い業界がおかしい。こんな会社、辞めた方が人間として健全」
と言っちゃうのは簡単。
でも、それって要するにビジネスパーソンとしては負けてるわけで。
自分がもしこの会社で働いていて、この状況に置かれたならば。
「こんなおかしな状況で勝ち残っても意味がない」
といって辞めてしまうのは一番、簡単で安直で芸がないのは言うまでもなく。
辞めるという選択肢をあえて禁止して、じゃあどうすれば?と考えたとき、はたして自分は資本主義社会に生きてしっかりちゃっかり稼ぐことができる?

「アコギな業界で稼ぐより、人間として真っ当であることの方が大事」

言うのは簡単だよね?

でもそこに、養わないとどうにもならない年老いた父親、シングルマザーで器用には稼げない姉とその子供(自分にとっては甥)といった家族がいた場合、カネなしでどうやって生きていくの?
人としての健全さだの真っ当さを優先した結果、清く正しく美しく一家そろって飢え死にすればいいってこと!?
……みたいな。

簡単に逃げ込める選択肢がないというのが、このドラマの設定の妙でもあり、それを鑑賞する側である自分が自身の心と向き合うしかない仕掛けにもなっていると感じます。

幼稚な綺麗事で善人を口先だけで気取るのなんか、誰にでもできる。
でも、そこどまりでしかない人間に、頑張って醜い競争だろうとなんだろうと狡猾にシノギを削って生きてる人間(それはそれで懸命のはず)を非難する資格があるの?みたいな。

(外見が)醜いとされるベティが、(内面が)醜いとされる業界・人間模様で揉まれて、内面まで醜くなってしまうのか?

それとも、「外見が醜くても心は綺麗!」といって、結局は世間で通用しない無能で不器用で負け犬なイジメられっ子どまりのまま、善人だからそれがなによりという”シンプル”な言い分を根拠に開き直る?

あるいは、ギスギスした会社と業界で悪どい手を平気で使うようになり、ルッキズムにも染まって外見も綺麗に着飾って
「どんな手を使ってでも出世して金と権力と美貌を手に入れたこの私こそが正解なのよ!」
と居直ってしまうのか。

はたしてベティはどう変化していくのか?
それとも変化せずに「醜いけれど心は綺麗な」路線を貫くのか?
結局、どうにもならずに業界からベティは消えてしまうのか?

怒涛のファイナルシーズン、結末の行方は!?


そして最終回のラストシーン。

ああああああああああああああああああああああああああああ

消えるのはベティではなく……!!
まさかの!!!!


もはや15年以上前の「古い」ドラマですが、就活してる学生や新社会人には是非、見てもらいたい作品です。

「感動を与えたい」で仕事をしては絶対にNGな理由

支配欲による他者への洗脳願望だからです。

ただ、これも文字面だけを言葉狩りのようにNG判定するというよりは、捉え方のニュアンス次第だよなぁとは思っていて。

すごい映画や小説、俳優の演技や音楽家の演奏、医師の手術などの仕事ぶりetcを味わって自分が感動し、そういったレベルの高度な感動?を与えられる「ような」すごい○○に自分もいつかなりたい……というのは、むしろ進路選択や職業選択でのいわゆる原体験にはなると思います。
そして、強い感動に支えられた志望動機は、頭で即席ででっち上げた、論理的思考力でっかちな体裁だけの志望動機よりも強く、その人をある職業としての生き方に導き、支える原動力になるとも思ってはいます。
だから
「なんならやろうと思えば人に感動を与えることができる。というか、結果的に見る人が感動を感じるほどのクオリティの高い成果物を作り上げることができる一流の職業人になろう」
といった、目安としてのニュアンスで「感動を与える」を捉えているならば、健全といえるでしょう。

問題は、感動を「恵んでやる」ニュアンスで捉えてる人。
そして、自分が生み出す「感動」によって、他の人が何か良くなると思い込んでいる人。
さらに、他人を感動「させる」ことができる自分自身に、感動した他人たちより優越感を感じてしまう人だと手に負えない。
感動を「与える/受ける」の図式が、まるで飼い主と飼い犬の餌を「あげる/もらう」の上下/優劣/主従関係の図式とリンクしているとヤバすぎ。

感動は、ある意味、「する・おぼえる側が自然と勝手にする」ものであって、誰かがもたらすものではないはずですし。


と同時に、感動は、政治やビジネスでの金儲け、もっといえば社会的な価値観を一変させ人々を煽動・洗脳するために使うのが有効で、実際されてきた歴史があります。

戦争や独裁、虐殺を正当化して実行に移そうとする政治家の演説しかり、

カルト宗教が信者勧誘のときに名前をあえて親しげに何度も言い共感を示しその人の弱みをねぎらうような言葉や優しい態度で感動させる手法しかり、

明るく前向きな「アットホームで居心地がよく、みんなで仲間を大切にする」系の経営理念を掲げるブラック企業が諸々のヤバ待遇をすべて「こころ」でカバーできた体裁で従業員をがんじがらめにする手法しかり。

ある種の手練手管をもってすれば、単純で素朴な相手を感動「させる」ことは可能でもある実態があります。
そして感動を人間の狡猾ともいえる何かしらの「狙い」を実現する「手段」として活用することで、その狙いを実現しやすくできることを歴史が証明していますよね。
国単位の歴史なんて大袈裟なものを持ち出さずとも、やたらモテるとか営業成績が抜群といった「人たらし」系の人は、悪気なく犯罪とも言えないといえば言えないレベルで、感動を便利な道具として使いこなしているのがあるあるです。


つまり、「感動を与える」は、有効すぎるゆえに反則・禁断といった分類をされる「必殺技」であるのは間違いないんです。

ここでパスい人だと
「有効なら使えばいいじゃんwwwww」
と思うと思います。

し、商売などの自己啓発の分野では、売上を上げるとか社内で出世するコツなどと称して、部分的にでもアレンジを加えてでも、感動を与える手法については数限りなく、本やセミナーで述べられています。
それをうまいこと実践すると、あれよあれよと成果に結びつくのも、もはや常識ですよね。

ということはつまり、有効なのになぜ感動を与える手法を使ってはいけないのかは、
「受け手の思考停止につながり、冷静な判断をくだせなくなるから」
という、いわば消費者保護的な、人権擁護的な、「優しい」観点に立てばこそ、といえるかもしれません。
問答無用の弱肉強食で資本主義マンセー!な側でいえば、うまいこと感動を使いこなして億万長者で社会的強者を目指すに限る!と迷いなく思うことでしょうし。

この考え方でいえば、自分側の都合で作り出した感動を与えるのは相手に申し訳ないから、、、という人道的な自戒の念あればこそ、といえそう。
「んなもん気にしてられっかい!」
と豪快に笑い飛ばすも一興?
みんなやってますもんね(with ゲス笑い)。


でも。
ここではスピリチュアルな観点で、感動を与えたいが絶対にNGな理由として、もうひとつ提言。

人の思考って基本的には、最大限に拓かれた叡智としての宇宙的真理みたいな「スゲーこと」と比べると、制限あって歪んでたり無知だったりしますよね。

そして、必ずしも美徳とはいえない、エゴティズムのような悪徳ゆえに、誰かが自分の喜ぶことをしたときに「ありがとう!嬉しい!」と感動するということもあるわけです。

もし人が、すべからく霊的成長を目指してこの世に受肉して生まれてくるのだとすれば。

そして仕事というものが、何かしらの形・側面で、それらをサポートしてこそ!というものであるとするならば。
(今となっては?ただの綺麗事に聞こえるかもしれないけど、本来、職業というか仕事というものは、こうであってこそだと思いませんか?ある個人が単に我欲として金持ちになりたい出世をして権力を手に入れたいというものではなくて←でも今でも実際、『できてる』人たちは、俗世間でローキャリアな人たちが想像するようなワガママのごうつくばり(死語)じゃなく、世のため人のために結果として自然となってることを(それをたまたま自分がやるのが好きだから、といった素朴なりエゴっぽいなりの動機であれ、ようするに結果として)営んだ結果ちゃんと報われた形として金や権力を得てると思うんですがいかがでしょう。よほど世襲の政治家や大企業の社長の座など、ボンボンボンクラが勝手に収まれる上級国民枠みたいな香ばしいラインを除いて、ある人が行動を起こしてそういうところまで登り詰めるような結果を出す路線の場合は、ですが)


仕事は、客としての相手の霊的成長に寄与するのを目的とするべきであって、感動を与えることを目的とするべきじゃない

んですよ。

もし仮に、

「感動をおぼえること=霊的成長に寄与する」

ならばOK。(ですよね? 論理的帰結としては)

でも。

感動というのは、上に述べたとおり、何かしらちゃんとした霊的成長の指標ではないです。

スピリチュアルヒーラーやスピリチュアルなことを学んで実践する人の中にも一定数どうやら

「感動したかどうかが、自分が正しい霊的成長の道のりを歩めているかどうかの指標!」

と言い切っちゃう、香ばしいアレな人がいるようですがどうでしょうかね?

「だって、こんなに胸がいっぱいになって、かぁ〜っと体が熱くなって、涙がこぼれてくるってことは、それが神様の意向に沿った正しい行いをしている証拠でしょう?魂の清らかな人間に近づいたということですよ!」

え〜?そぅお?
まさに感動をツールとして使って人を手玉に取ろうとする悪い奴らのカモじゃん、それ。
あ、じゃあそういう悪い奴らこそ、人々を感動を通じて神のもとへ導く聖職者ってことか。
え、だとすると「悪い」って何。みたいな幼稚な哲学談義w
とある絶大な、感動の与え手としての誰かこそが救世主ってことになりますよね。
その正当性は、人々が感動したから、を根拠とするわけですね?
ルシファー万々歳やな。


とまぁ、風呂敷は広げまくってきちゃいましたが。

ここで原点に戻って。

感動を与えたい、を仕事をする動機としてどうしても正当化したいとするならば。

大勢を目の前にして自分がその志望動機を演説する、というイメージプレイをしてみてください。

そして、容赦ないツッコミが次から次へと来る質疑応答を、何一つ質問が来なくなり全員が納得するまで続けると仮定して。
意地悪な質問者の側にも立って、わざと自分の言い分にツッコミを入れる役割も、脳内の一人全役として、演じてみましょう。

まぁね、絶対の正解に辿り着くというのも現実的じゃないけど。

そうやって努力目標としてでも、練っておくのって大事じゃない?

倫理道徳なんてこの際どうでもよくて。

ただの薄っぺらい感動に自分自身が踊らされて「人々に感動を与えたい」と言う自分自身がジ〜ンと感動しちゃったことによって思考停止に陥り、実はそのままだとコケる落とし穴やら険しい道のり、壁などがあったときにどうにもこうにもでやられちゃうとしたら。

って、こんなの悲観的な杞憂(馬から落馬)にすぎないって?

ですよねェ〜。

いやぁ、人々に感動を与えるって、素晴らしいことじゃないですかぁ〜。
ほんと正しいと思います。

はい、これでいい?

これからは「通信制」「オンライン教材」による自習(のための自己管理)ができると強い

昨今の情勢で、なんでもオンラインな時代です。

大学など教育機関もオンラインでの授業などが一般化しつつあります。
(それに備えるかのようにインターネットの浸透やスマホなどオンライン通信に適したデバイスが登場したのも奇妙なタイミングの一致といえませんか、なーんて)

私は2019年までにもともと、観劇や音楽コンサートなどの対面イベント、海外旅行、舞台演劇への出演や、通学制ならではの習い事などを精力的に、できる限り「済ませて」2020年を迎えました。
(当時は『なんで今、そんなにムキになってんの?』と、一般の人たちはもとより、スピリチュアルを実践する人たちからさえも訝しがられ、場合によっては失笑されていました。が、彼らはスピリチュアルやってたわりに、2020年からこうなるって知らなかったのでしょうか、まさか)

それと同時に、

自分でスケジュールを立ててその通りに学習するのが難しいというハードルで大勢が挫折するといわれる「通信制」での学習にも慣れるべく、通信制の芸大に入って単位を取っていったり(←1つ目だったので、あるある的な失態と苦悩を一通り経験できました♪)、その後も放送大学院の科目履修生として単位を継続的にとる(という体裁で、通信制による自己管理での学習ペースをつかみ、慣れる)ことをしておいたわけです。

もっと能力がある人であれば事情は違うのかもしれませんが、私のような出来がいいわけでもない人間の場合、

通信制に慣れるのに4〜5年かかりました。

ある意味、あっという間にオンライン学習が主流になった去年から今年にかけての流れで、あらかじめ通信制・オンラインでの自主学習に慣れておいたのはラッキーを超えて「当然のたしなみ」だったのかなと、胸をなでおろしています。

特定の学術機関に正式に学生として所属するわけではなくとも、これからはインターネットを活用して、学びたいものはガッツリ学んでいかないと話にならない時代。

ただでさえ人生100年時代なんて(無責任に)言われて、いつまで経っても「隠居」なんて、よっぽど裕福な人でもなければできない。

ちょっと趣旨はズレるかもしれませんが、PRESIDENT Onlineには、2018年8月下旬の段階で、

月収44万68歳の悩み"暇で暇で死にそう" 何もしない家での生活の息苦しさ

という記事が出ています。

一見、悲観的なタイトルですが、要約すると
「年金が月44万円は出るが、暇。生活も、苦しいまでとはいかなくても、そこまで余裕があるわけでもない。そこで60代後半ながら一念発起して就職活動を始めた。幸い社長経験もあったので、経営者の口が見つかった。大変だったし年収800万円(とそこまで高くない給料)だけど、生活にハリが出たし収入も増えた。かといって贅沢はせず、今の生活費は月50万円ですませ、残りの収入は貯金」
と、大半のおそらく「そんな恵まれた老後ムリだから」な水準で語られている感じ。自慢?

あえて強引にこの記事の趣旨に戻す?と、仮に年金が多少でても、ゆとりある暮らしは(それまでの生活水準が高ければ高いほど)おいそれとはできないし、じゃあ定年後も、老齢年金支給開始後も頑張って働くか!と思いきや、

年金受給の前に覚えておきたい「28万円」「47万円」の壁 働きながら年金がもらえる「在職老齢年金」の真実

のように、労働での給料が一定の基準額より高いと年金を減らされるなどのマジック(←言葉を選んだ)もあります。

まぁ、このマジックが発動するほど60代以降に稼げる仕事できてるかって時点でハードルありますけどね。。。

かといって大人しく年金だけ、あるいは年金カットされない基準額の範囲内でだけ細々と仕事を続けると、結局はカツカツ。

生かされず殺されず。

江戸時代の農民支配哲学でしょうか。
令和の今になっても健全&有効だなんて。

で、もっと現実的な問題は。

18〜23,24?歳くらいまでに出た、高校なり専門学校や高専、大学、大学院の修士課程などで学んだきり、なんなら半世紀も経というかという人間が、任される&できる仕事があるのか、ということ。

学術機関に入り直して学び直した、というガッツリ型の正式ルートではなくとも、職場でなんとなくPC操作は覚えた……というのが、おおかたの職業人のあるあるだとは思いますが、それにしたって、ひと仕事だったでしょう?
かろうじて使えはするものの、キーボードが一本指での操作だったり、マウスを動かす手がまるでスローモーション再生映像みたく、ゆっくりだったり。
エクセルやワードとなれば、さらに壊滅的。ましてや、プログラミング? なにそれ美味しいの?状態。

「近くにいる、機転がきく親切な若い子」に聞く、やってもらう……を常套手段化してしまうと、その子がいなくなったとき、どうすんでしょう。
かろうじて自分が正社員でしかも年功序列的に役職がついて、「若い子」に聞ける立場(というか、若い子側が、聞かれたら答えなきゃいけないっぽい上下関係)があればいいですけど。
それがなくなった場合。
自分のほうが、「機転がきく」ことを求められる側になる場合。聞く側でなく聞かれる側になった場合。

どうすんの? と。

そこで記事タイトルがAnswerになるわけで。

何かしらの講座をオンラインなり通信制で受講するから完全な独学ではない、とはいえ、自習するしかない境遇で何事かをしっかり結果が出る(≒単位をとれる、能力がちゃんと知識や技能として発揮できるまでに習得される)まで身につけるのは、正直いって、ほとんどの人にとって至難の業であろうと思います。

ほんとに、習慣というか、勘所を掴めるまで、数年かかる。
(得意分野を学ぶかどうか、子供の頃から自主学習を習慣づけていたかどうかによって、すぐできる人ももちろん、いるでしょうけど)

「できる範囲内で、コツコツと」

はいそれダメー!!
挫折する最大のやり方!!

しっかり気合い入れて、ほんとに一度死んで生まれ変わったつもりで、背水の陣のつもりでやらないと。
(ちなみに『決意を新たにする(だけ)』は、なんの意味もないっていろんな人が言ってますよね。行動を習慣づけてナンボ)

ちなみに、学習やジム通いなど、それまでになかった行動を習慣化すべく始めた人のうち、

週3回以下だと続かず挫折率が高い but 週4回以上だと続いて習慣化できる人が多い

実験結果が出た、って最近バズりましたよね?


だいたい、それまでの自分じゃ生きていけないとなった場合の起死回生がかかってんのに
「できる範囲内で、コツコツと」
って、ふざけてんの?って話じゃないですか。

まあでもいくらでも言い訳して、「でもォ、」とか言ってりゃいいよ。
できなきゃどっちにしろ、ね(笑顔)。

やるかやらないかも自由。
自力では生きていけないからこそ、どっかの助けてくれる誰かを探して寄生して吸血♪を一生続けるのも、それはそれで一興。

「なんにもしてない時間=修練」にできてると強い

「なんにもしてない」
「ただボーッとしてるだけ」
「ぐうたらぐうたら、食っちゃ寝生活」

悪い見本のように言われますが。

自分は病弱だったこともあり、今も年相応に(←これ、悪しき集合意識やんな)ガタがきまくりなわけですが。

なんにもしないでボケーッとしていられるって、すごいですよ。
食っちゃ寝の繰り返し、無事に穏便にできてるのって最強じゃないですか。

食べることができない、寝ることができない(ほどにいろいろ健康でない状態である)、ただそこにいてボーッとすることができないほどに痛みや苦しみが湧き上がる(ほどに身体の調子、場合によっては心の調子が悪い)。

可能性として、あるわけです。

この数ヶ月、自粛で家にいる時間が長くなった、外出(時の運動量)が減ったというだけで「自粛太り」という言葉をよく聞くようになりました。
つまり、それまでと違う何か生活スタイルをちょっと変えただけで、体重や体型、筋力など体力全般が変わってしまうわけですよね、数週間のうちに。

それくらい「なんでもない」「当たり前の」状態は、綱渡りのような危ういバランスの上に成立している奇跡(だということを人は往々にして、健康で心身の状態や生活環境、社会情勢が安定しているときは忘れがち)。

さて。

ここで言いたいのは、「これといって努力していると感じているわけじゃない何気ないボケーッとしたつもりの生活時間」は、それはそれでいろんな運動なり、脳での神経的な処理をしているということ。
その継続によって実は、「普通」と感じる状態(立ったり歩いたり、物を食べたり)各種が成立しキープできるわけです。

宇宙飛行士は重力のない宇宙空間での任務を終えた後は、地球に帰ってくると脚の筋肉が衰えて、歩けるようになるまで数週間?のリハビリが必要だそうです。
ただ地球にいるだけで、重力という重量を絶え間なく持ち上げる筋トレをしているようなものなのですね。
そしてそれが数日〜数週間、断たれるだけで、(宇宙飛行士に選ばれるほど)健康で頑強な心身をもった人間でさえ、歩くことすらままならなくなる。

で。

よく、意識高い系とか自己啓発系、今のままなんとなく日々を過ごすんじゃなくてより上を目指して云々ということを念頭において生きている人は、今という現状維持に留まることなく成長したいと思うわけじゃないですか。
そのために、心身に負担がかかる「修練」的な行動をルーチン化しようと目標を立てます。
勉強、運動、仕事、食事、睡眠、人付き合いetc。
目標により異なりますが、何かを「普段の、自然に、何気なく」しているときより負荷がかかる目標値にセットするわけです。
普段より多くしたり、少なくしたり(←ダイエットで食事制限をしたり、禁酒禁煙など『やめる』系の目標はこれが大きな課題になりますよね)。

当然ながら無意識に自然にしているのとは違う行動を強制されると、人は違和感や不快感を感じ、ストレスを感じ、その状態から回復するべく反発します。
目標達成のためにはこの、コンフォートゾーンに留まろうとする現状維持至上主義な自分との戦いといえそうです。

そして。

20世紀型と21世紀型に努力のパターンをあえて大別してみましょう。

20世紀型はいわば、「重いコンダラ」型。スパルタですわ。「歯ぁ食いしばれぇ!」でぶん殴られるのを覚悟する系。つらいのに耐えて耐えて耐えて。初舞台で生理が始まっちゃっても「あたし、演ったわよ?」。「ドジでノロマな亀です」と泣きながら反省して頑張る。どこまでもどこまでもどこまでも!!!!!!!!!!!

翻(ひるがえ)って。

21世紀型はいわば、「余計な苦労は百害あって一利なし。人は怒られると&嫌な思いをすると萎縮して能力を発揮できなくなる。スパルタで精神的虐待をするような『努力』できてるつもりの暴力は、実を結ばない」ふうな路線。

雑に分類すると、ネガティブからポジティブへ、みたいな。

そして、一見「そんなラクしてどうする!」と、20世紀に青春をエンジョイ!して、重いコンダラ型の努力をして……というわりにそれも結局は大人になるまで限定で就職したらのんべんだらりと会社を家みたいにして今さらこれからの自己研鑽なんてべつにもう、で胡座かいて何周回遅れだよ?で、そんな自分に内心ヒヤリとするからこそ、自分をあえて肯定したくて古き良き美しさをあくまでも持ち上げて理想化して、変わりゆく時代や若者をなぜか上から目線で非難する、みたいな中高年以上よりも。

楽しく成果が出て、やりがいを感じつつ、「俺様スゲー」と良い意味でうぬぼれて自分を甘やかして肯定して褒めて、うまいこと根拠のない自信や図に乗る浅はかさを利用して上昇気流に乗り、学生のうちから起業や個人事業でとりあえず月収100万円以上は稼げてますけど何か?で愚かな大人の言いなりになったり騙されないように免疫と自信を「ちゃんと実績コミ」でつけて、この人生を、世界を、遊び倒す!やりたいことはやりたいように全部やる!という路線がすごい時代です。

いかにラクに努力するか。

ストレスを感じるような無理を、自己虐待を、セルフSMを、どう避けるか。

あるいは、どうしても実質的に多少はツラい負荷をかけないとどうにもならないのは若かろうが何世紀だろうが普遍・不変でもあるのでやらなきゃいけないけど

それならそれで、楽しくキモチいいセルフSMプレイを満喫する(ような努力の在り方)

にして、修練自体さえもがキモチよくてラクで楽しく充実して幸せな時間にしてしまえるか。


ラクをするには、単に愚鈍に愚直に芸のない苦労をド根性でやるより、実は難易度は高かったりします。

何度も言いますが、腕力という意味での単純な力比べでいえば、野生動物各種のほうが強いです。
集団でとにかく攻める!なら、虫や細菌、ウィルスなど、一見ちいさくて弱いかのような存在たちの方が脅威です。

それでも、腕力がたいしたことなく、ひたすら単純作業を命がけで休まずに続ける虫やウィルスなどのような愚直さも持たずサボったりする人間が、地球上でこれだけ支配的な立ち位置を形成できたのは。

アタマ使ったからでしょう?

この記事でいう20世紀型の努力のカタチは、それはそれで、どうしてもそのやり方でないと人が(忍耐の美徳など霊的成長の上でも、一人の人間としてこの世を生きるうえでの知力・体力を形成する意味でも)どうしても学べないことは、あると思います。
それは21世紀だろうが、もっと先に文明が高度に進展した時代に生まれた人だろうが、どうしたって最小限度以上には必要になってくるでしょう。
私自身、20世紀型の努力がたりないが故に、21世紀型の努力は上手で高学歴→ハイキャリアの流れにせっかく乗ったのに、その後の社会の荒波と最低限にはどうしたって発生してくる波乱万丈の際に「無理ですぅ〜。嫌だったら逃げてもいいよね♪」でチャレンジをそこでやめて終了、となった若い人をたくさん見ています。

逆に、社会全体がナァナァで便利になってくるからこそ、20世紀型の努力は、頑張ってそれをしよう!と決める場とかがないと、励めないのかもしれませんね。

ただ。

まだまだ、21世紀型の努力ともいうべき「ストレスや虐待トラウマにならないカタチでの努力・修練のカタチ」はもっともっと普及させて浸透させていく余地があると感じています。


ここで冒頭に戻るのですが。

なんにもしていない、と見えて、実は人は、いろいろなことをしているわけですよね?
それを断たれると、それまでの「当たり前」が崩れる。自粛太りや宇宙飛行士の地球帰還後のように。

でもこの仕組み、うまく使えば、

ただの現状維持ではなく、能力を伸ばすことにも使える

ことがわかるでしょう。

通勤の徒歩が運動不足や肥満化を防ぐ現状維持の効果を持っているなら、今度は『最寄り駅の1つ手前の駅で降りて一駅分、歩く』は、現状維持の領域を超えて、心身の状態を改善・強化する……みたいな。


私の場合は、語学と音楽という、聴覚関連が(たぶん得意分野だから効果も出やすいのかもだけど)この路線の修練で伸びました。

あらかじめ、ちゃんと語学や音楽を学校に通って学ぶという20世紀型ふうの努力で下地を作っておくことは私の場合は重要だったのですが。

下地をちゃんと20世紀型の努力で整えてからは、テレビでも喫茶店で流れるBGMでも、聴こえてくる音楽を脳内で五線譜に書き留めたり、コード分析ができたりするようになったんです。

それも、はじめのうちは「お、せっかくだから今、聴こえてきている音楽を耳コピして分析してみるか」と、主体的な「今から努力を始めるぞスイッチ」が必要だったのですが、だんだん、無意識に無自覚に、自然とやっちゃう、できちゃうようになってきました。
逆にいうと、それをせずにいるのができなくなってきます(習慣化って良くも悪くも、自分をこんな無意識のクセレベルで変えてしまうんですね。仮面ライダーが改造手術をされるとき『やめろォ、ショッカー!』と絶叫していたのも納得です)。

これは語学にもいえることで、英語音声のドラマや映画を、字幕を観てると音はただの雑音なのですが「英語の方を聴き取るぞ!」とスイッチ入れたら、聴き取れるようになり。
それを過ぎると、べつに英語を聴き取ろうとスイッチなんか入れなくても「入(はい)りっぱなし」になり、否応なくわかるんですよね。脳内で文字起こしまでできる。無意識にやっている。

これはヒーラーとしての超感覚的な修練にもいえることです。

よく、霊視に始まり、念動力とか、いろいろ「練習しなきゃ」といって目標を立て、目標に縛られている義務感がストレスになり「もう嫌!なんで私がこんなことしなきゃいけないの」と挫折する人がいます。

それだけならまだしも、勝手に自分で20世紀型の努力を選び、しかも自分の至らなさで失敗してるのに、そこで抱えたストレスや虐待、トラウマだと感じたことへの恨みを「あのヒーリング!あのインストラクターめ!」と、八つ当たり式にぶつけます。
こんなヒーリングを知らなければ自分は傷つかず、もっと有効に楽しい人生を送れたのに……という後悔まで、ヒーリングモダリティ自体や、その創始者、習った講座のインストラクターにぶつけてくる(おめでたい)人もいます。

何しとんねん。だっさ。

うまいこと、21世紀型の努力を、しかるべき手順で軌道に乗せていけると(←それはそれで単純なことではないのですが)。

ただ、ぼーーーーーーーーーーーーーーーっと、寝っ転がってるだけで、(主体的に)宇宙のすべてと繋がり、チャネリングもし、エネルギーを感じ取り、分析もでき、影響を受けたり働きかけて与えたりといった交流もできるようになるわけです。

その、「なんにもしてない時間」が修練になってる人と、そうでない人の差は、ついていくばかり。

これ、俳優とか、他の仕事でもわりと、技能が絡むものならそうなんじゃないかな。

稽古場でひたすら、早朝から夜中まで発声練習をしたり、早口言葉を言ったり、柔軟運動で体をほぐして……というのはもちろん、それならではの培われていく強さもあるけど。

何気なく社会で生きて、周囲にいる人の仕草や表情、口調、会話のリアクションなどをトレースして、自分でできるようにボソボソ練習したり、稽古場では大声でやってみたり、そういう実践的・実戦的な稽古を、するでもなくやっちゃう人、できちゃう人。そっちが強かったりしない?
(俳優業については人に向かって言えるほど自分が何者やねん状態なんですが、いわゆる下手でセンスない系の人って、そういう目で日頃の生活では他人に関心も注意も払ってないっぽいんですよね。あるいは、十分に人と話す機会などはあるのに、トレースする精緻さでそれを捉えていない。よく、女性が男性の口調を真似すると『そんな喋り方する男性いねえだろ』というわざとらしさになる傾向ありますけど、あんな感じ。たぶん、下地ができてないと、経験だけ場数だけ踏んでも、せっかくその経験ナウな場で与えられる刺激や情報を、噛み砕けないから上達しないんじゃないかな。大人が外国語をテキストなどで何も学習せずに無知なままでその外国に行って、いくら現地ネイティブな発音でシャワーを浴びるように言葉を見聞きしても変わらないように)

まぁ、そんなご提言でごわす。