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誕生日に考えたこと(個人メモ)

42歳の誕生日に、こんなことを考えました。

外見のこと
演劇で食ってる、食えてる人たちと話してて痛感するのは、自分の外見についても、一般人とは認識が違う。

「とにかくセレブにふさわしく綺麗に!」

という、無限に、しかも抽象的に漠然とイケメンや美人を目指すというヌルいゆるふわ感じゃない。そっちの方が今や、一般人的。

何が強みか具体的に。

自分の容貌が人に与えるイメージ、ハマる役柄、実在の同業他者としての誰かとの差別化ポイントはどこか、などを、ほんとに仕事にアサインされてお金がもらえることをリアルに想定して戦略的に捉えている。

一般人がよくふざけてやる
「事務所通してください」
みたいな芸能人ごっことは真逆のシビア。


本気で生きるとは、みたいな感じ?

それから時代の変化と変化しない会社員や主婦などについて。

さすがに鈍い人でも、5年前とは世界が、時代が変わってきていると認めざるを得ないんじゃないだろうか。と自分などは思う。

でももう十数年も会社員やってて視野が「そこの会社の従業員あるある」な定点カメラで固定され、しかも家やマンション買ってローン返済30年マラソン真っ最中!な面々は無理。

世の中が変わってきている、その中での生存戦略も変わってきている、以前より生き残りがシビアになってきている……なんて認めようにも、

その会社で決められた業務経験や物事を見る目、収入ルートしかなく、さらに毎月容赦なくローンの返済に追われる。結婚して子供もいる

となれば、動けないよね。

認めようにも手を打つわけにいかない、思い切った舵取りをするのは怖くて不安でリスクが高い……となれば。

「はぁ? 世の中が変わってきている? んなわけない。つか、そういうことは常に言われてる。でも変わらないよ。日本は平和で経済大国。大企業の正社員が正解。変な気を起こさないこと」

政治についても、わざと感度を下げて、しらばっくれるのが保身のため、自衛のため。

今のままの自分ではヤバい、なんて気づくのは、単に自分が不安に呑まれ、しかもその不安の解消方法も見つからない以上、得策じゃない。

どこまでも愚鈍に徹するのが最善。
しかもそれを遺伝子の記憶が保証してる。

みんなの言うことに従って、スタンドプレーという独りよがりな愚かしい危険は起こさないこと。
お上とされる偉い人には逆らわないこと。

多少の(それどころか甚大な)損や嫌な目に遭おうとも、それでも一人で変な気を起こして決定的な破滅を辿るよりは生きながらえる方がマシ。

それが先祖の知恵。

「隣の億万長者」じゃないけど、今は株でもFXでも仮想通貨でも、ブログでアフィリエイトでもなんでも、以前よりカネは稼ぎ出しやすくなってる。

だからその流れに乗って、目先のカネという意味では少しでも良い思いをできると、世の中は良くなっている感じを全肯定しがち。
(むしろ経済は破綻寄り)

その、多少は良い思いをしつつ、かといって一生安泰というほどでもないから勤め先にしがみついたり、保証のような旧来からの生き方のしがらみから完全には解放される道は選ばない(選べるほどの頭も心も体力も経済力もない?)となれば。

「日本は最高!なんの問題があるの? 何かを批判する奴は敵」

その、残念な消去法での、そこに辿り着くのは、妥当というか。
まぁそうだよね、それならそうなるよね、とも思う。


そして今度は富裕層。少なくとも、不労所得で生きるところまで行けた人たちの残念ケース。

不労所得で高級マンション住まいの知人とお茶。

が、
「これまでの安穏とした暮らしだけでは飽き足らず、自分は何を成したのか、つまり自分は何者なのかを自分に問う気持ちが芽生えて、今は会社を作ったりして動き出してる」
と言うと態度が急変。

急に慌てふためいてご立腹の様子で追い出された。

分析するに、この知人をはじめ、お金が余ってるので贅沢に裕福な暮らしができている人というのはえてして、「お金がたくさんある私」というところで満足して思考停止している(がゆえに毎日を生きていられる)。

自分の、行動による実績、それによる自負や自信(アイデンティティの確立)は無い世界。

実業を通じて、稼ぎ出すお金に自分の生き様や、その生き様を通してのトロフィー的な意味付けをできている人だと、また違うのかもしれない。

問題?は、いわゆる富裕層向けの銀行に預けて運用してもらって自分はおこぼれ的な利息や収益をただ引き出して暮らしてるだけの人。

一見リッチだが、惨め!?

まさに今日、お茶しようとした知人はそのタイプ。

まだ40代だが、悠々自適な御老人みたいな路線で、なんとなくの趣味というか、まるで子供が夏休みに学校に行かずに毎日なんとなく好きなことをする、あの路線の日々をもう何年も十数年も送っている。

しかもいち早く金策に勤しみリタイヤ目指した組。

いち早くリタイヤ目指した組というのはどういうことかというと、(これも人により違いがあるだろうけど)

会社員などいわゆる社会人としてお金の金額以外で業績や地位といったカタチを納得いく偉大なものとして完成させることなく、カネができたので「いち抜けた」

未練がある人もいるということ。

今よくいる若手ブロガー月収年収儲かり放題、みたいに、まさにその道でそれだけの実績を出せている自分について満足できていたり、達成感を持てているとなると、この惨めさ、空虚さはないのかもしれない。

そもそも肩書きだけでいいなら、カネがあれば形式的に法人登記して社長を名乗れるわけだし。

ある意味、世代?と本人の価値観のこともあり、

投資で大儲けしてサラリーマン生活を脱却できて不労所得の富裕層側に行けたにも関わらず、マインドがどこかで「仕事で偉業を成してこそ男」といった気持ちが残っており、かといって今から何か実業で成果を出すとか自分は何者かなんて面倒

という状態。

自分が「臭いものにはフタ」をして「寝た子を起こすな」状態で、お金には困らず毎日ゆとりある好きなことをするという生き方で自分をごまかしてた部分を、俺の発言というか近況報告で、掘り起こされてしまった形になったのかもしれない。

あの慌て方。

会社を作ったとこちらが言ったときの嫉妬の目。

「お金や時間にただゆとりがあるからいいや、というんじゃなくて、『お前は何者だ? どう生きて、何を成した?』というところが、気になっちゃってさ。そこをナァナァにごまかしきれなくて」

と俺が言ったときの

「わかんない!何いってるか全然わからない!」

というヒステリックな取り乱し方。

いや、わかってるでしょ?

わかってしまったけど、わかったことを認めたくないだけでしょ?

このことをわかってしまうと、自分がごまかして埋め立てたつもりの都合の悪い気持ちが露呈して、自分が崩壊しちゃうからでしょ?

こちらが相手を刺激する形になったのなら、申し訳ないとも思うけど……。

でも、みるからに相手を罵倒して侮辱するような言葉とは思えないし(だって、自分側の心境をただ聞かれたので答えただけ)、俺がそこまで罪悪感を感じるべきだとも思えない。

し同年代の同じ境遇の同じ性別ということもあり、

「不労所得生活まで登り詰めた40代の男がこの程度で何をそんな」

とも。

この知人以外でも、わりと「形だけお金持ち」というか、何かしらの理由でカネはあるからいっぱしに贅沢とされるようなゆとりある暮らしはできているけど、人としては普通どころか、毎日頑張って生きてる人たちより行動してない分(カネで買えるもの以外で)得たものもなく、充実感も乏しく、自尊心↓。

そういう人は少なくない……というか、彼らにはお金しかないので、自分の行動による実績とか、才能とか実力とか、そういう領域についての話題はもはやタブー……ということも頭では知ってはいる。

おそらくもう、そこから今以上に強くなることも、劣等感や後ろめたさを払拭することもできないだろう。

ある意味、今日の出来事は

「量産型ゆるふわ不労所得あるある」な人への対応を見誤った

という意味では俺が悪いんだろうな。

ガラス細工を、まるで生きた人間と指相撲をするみたいに力を込めてしまったこちらが不器用だった、と思うことにする。

それにしても。

カネがここまで人を弱らせるとは。


そして、まとめ。

誕生日だってのに、というか、誕生日という節目で、こんな象徴的な経験をするというのも、なんかいかにもイニシエーションっぽいな、なんてメタ認知ぶって思ってる自分もいたりして。

うーん、今日のツイートを読み返してみたけど、

20世紀的な価値観ではイケてる方のはずの人たちの、あまりスポットライトをあてられることもないから露見しにくい、隠れた闇&弱さ

みたいなものについてつぶさに見る思考の動きをしてるなぁ、自分。

ある意味、自分への反面教師的所信表明なのかな。

いやでも、今日は、なんかの占いで(しかも自分が見ようとしたわけじゃなくツイッターだかにあって目に入っただけ)

自分の住む世界とそうでない世界の境界線がはっきりする

みたいなことが書いてあったけど、まさにその通りの日になったな……。


くっきり、バサッと、線を引いた感覚。

自分が選ばなくていいや、とうすうす思っていつつも、「世の中のみんな」ふうな人たちがなぜか持ち上げる生き方とか考え方についての、

「いや、やっぱり、ないでしょう」

という点を、再確認したというか。

いえね、べつに馬鹿にするつもりはないんですよ。

この生き方が私には合ってるんです、というなら邪魔するつもりもない。

ただ、自分の場合は、というか。

あるいは、「こういう路線の人のこういう弱さってあるでしょ?」という読みが当たってたよね、という独りよがりかもしれない確認でもあって。

これはヤダ

という総覧を、見尽くした感じがします。

嫌なものがわかったところで、目指すべき方がそれですなわちくっきりわかるというわけでもないんだけどね。

自分の中のどこか、「アレで微妙だと思っても、『みんな』がいるなら、多数派にまざってた方が寂しくなくていいのかな」みたいな弱さもあって?

でもやっぱ、ないわ。

あと、「みんな」っていうほどは、もうそんな全員、ここまでのオワコンで周回遅れな時代錯誤の窓際思考パターンで生きてないでしょ。

中学生がブログで月収100万円突破する時代ですよ?

こしきゆかしき美しきオッサンワールド is グッバイ!(←変な英語)

いやもう、本格的に、根本的に、「無い」と断言できる。未練とか執着とか、ないや。

あんなにも暴力的で、あんなにも原始的で、あんなにも野蛮で、あんなにもふんぞりかえって開き直って自分が正しい!と声高に脅迫的に唯我独尊を叫ぶ、香ばしい美しさ。

さようなら。

あんたたちの価値観で褒められても嬉しくないし、あんたたちの価値観での理想を押し付けられて「期待しているぞ。失望させるなよ」とかウケるw

そして42歳は若い

いきなり何をトチ狂ってんだ、だけど、冷静にそう思ったの。

人生100年時代、ほんとに100歳すぎてもまだ現役で働くというか、なにかしら活動的に動くとすれば。
42歳なんて、まだ折り返し地点にすら到達してない。
物理的にまだ60年ある。

信長は人生50年といって舞ったけど。

天海僧正は125歳?まで生きたという伝説もあるし。

ある意味、それが運命なら今日、明日に死んでももはや未練はない。

同時に、今と同じく、何かしら動いて、考えて、の「生き物」としての有様をあと70年以上?も続けるとして、その覚悟もできている。

トシだから、なんていって守りに入ってる場合じゃない。

一方で。

放っておけばいつか失明するとも診断されている。

薬でメンテしないと骨に尿酸が沈殿して尿酸値が平気で12以上にまであっという間に跳ね返って痛風放題になる体質でもある。

強いのか、弱いのか。
それぞれあるということだろう、強みも弱みも。

それをケアしていかないといけない。
ほんとの10〜20代みたいな無茶はできないのもわかってる。

どっちにせよ、一匹の生き物。
なんかあればすぐ死んでそれまでの話。
そんな大層なもんでもない。大層なもんでなくてよい。

それは自分が決めていることではあるのだろうけど、その深い真意に自分自身、いつも気づけているわけでもない。
それでいいと思う(霊能者がこう言うのも変かもだけど)。

そして、42歳になる前に死んだ人たちのことも考える。
直接知っている人も、映像資料などでしか知らない、特攻隊で散って行った人、自分の知らない昔の人たちなど。
何人か(も?)、自分の年下で、しかも自殺で死んだ知人もいる。
彼らが迎えることのなかった、42歳の誕生日。
そのこと。

自分はなんでまだ生きてるのか。生きている資格があるのか。
ぼーっと思うけど、考え込みはしない。
そういうもの。

ブログなどでは人一倍、深刻にクソ真面目に悲観的なことを考え込んでいるかのようにしているけれど。
結局のところ、あんまり考えてない。その軽い、都合の良さが長寿の秘訣だったりもするんだろうか。
抱え込まない、悩まない。
動物ってそうでしょ。罪悪感で悩んだりしない。猫とか、ガシャーンと食器を割っても知らんぷり。
自分も究極、その路線。ほんとは全然深刻でもないのですよね。



節目、なのかな。
これまで、誕生日だからってわざわざ、そのことについて触れることもなかったはずなのに。

42歳で授かる、魂の一部。
(人の魂は出産で出てくるときには『一部が早産』で、それから約七年ごとに後天的に生まれてくるという話、ご存知?)

そこでいよいよ、何かが揃う、のかも。

そうでなくてもべつにいいけど。

ほんとになんつーか、30代までと感性というか、なんなら人格まで変わっちゃった感じで。
あの頃、という自分がどんなだったのか、もう、思い出せもしないし。

このブログも、自分の中での「スピリチュアルにまつわる呻吟」を、出し尽くした感じもあり。

終わりが近いのかもしれませんな。

いまどきはブログで稼ぐというのが再び? 以前にもましてメジャーになってきてるのかもだけど、このブログはそういう方面で流行る必要もないとは思う(実際はけっこうなアクセス数だったりするみたいだけど驚くほど自分の中で商売っ気がない)。

自分をヒーラーと名乗るかどうかももう、わかりません。

個人的に
「知りたいのに誰も教えてくれない。これを知らないで納得がいかないまま、『いいからこの世ではこう生きろ。それが正しいんだ』なんて押し付け、受け入れられないよ」
というのがきっかけでこういうブログを始めたわけですが、それももう結構なお手前で。

(今でも覚えてる。気まぐれで勢いでブログを作って、最初の記事を義務的に書いて、『続かなくて放置かな』と思った10年以上前の日のことを)

ちゃっかり生きてきておいてなんだけど、「べつにはじめから生きてこなくてもよかったのかもな」なんてバチ当たりなことも思えてしまうものでもあって。

自分でいうと憐れっぽいけど、けっこう可哀想な人生だったと思う。

けど、ヒーラーとして生きた10年は、楽しかった。幸せだった。

この10年があるだけでも、生まれてきてよかったと思える。

それ以上があるのか? 何をしたい? ……今はまだ、わからない。

そしてもう、わかろうと思う気持ち、わからなくて不安な気持ちもない。

ほんとにヒーラーになることを決意し、その生き方を選び取り、納得がいくまでとことん活動できたことが誇らしい。
この人生でもしかしたら唯一、価値があると思えたこと。
その、自分が宇宙で唯一、価値があると思えることのために生きられたこと。その生き様を貫けたこと。
ほんとに良かった。幸せだった。もうそれで、思い残すこともないや。

じゃあまたいつかどこかでご縁があれば。
Auf wiedersehen!
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勝手にマーケティング感覚で人を測るなよ

もともと、個人が自由に余暇として、楽しみとして、プライベートな喜びとして(市民への普及が)始まったっぽい(よね?)の、Web。

2000年以前に情強(あくまで当時の水準で)な人が、Web以前のパソコン通信からの流れでいち早く個人サイトを立ち上げたりして。
日記はごく平凡な日常を、プロのライターというわけでもない文体で、当然ながらSEO効果やキーワード選定、Webマーケティングやセールスライティングといった概念なく綴っていて。
そこに併設された掲示板では、ネット友とでもいうべき、面識はあったりなかったりするけど交流ある知人との心温まるやりとり。もはや文通の世界。

そんなでした(よね?)。

それがいつしか、良くも悪くも進展して、やれブログのPVがどれくらいだの、ツイッターのフォロワー数、いいねの数、リツイート、フェイスブックやインスタグラムの投稿におけるインフルーエンサー効果……と、なんだかせせこましくも感じるドライでシビアでサイコパスっぽい、データで人を格付けする価値観の方が主流になってきた(よね?)。

で、ネット上での発信力、発言の影響力がすなわち、その人の「凄さ」の(かなり信頼のおける)目安としてみなされるようになってしまったり。

ヤル気ワクワク!アーリマン♪

で。

あくまでもネットという媒体を使って、可能な限り自分の影響力を拡大し、それにより人脈を築き(というか、人に認められることでレベルの高い人脈構築が可能になる道を切り開き)、なんならお金の収益にもつなげるのが勝ちでしょ賢いでしょ、という考え方もあります。

で、今となっては、それもないのにネットで何かを発信するのは時間と労力の無駄、愚行とみなされることもあります。

モモ(byミヒャエル・エンデ)の世界へようこそ、灰色のなんとかさんたち♪

なあんてね。

え、なんのことか分からない?

気にしなくていいのよ、どうせたいした意味なんてないんだから。

やっぱりブログというWeb媒体の特性を活かしてPV数をアップしてアフィリエイトリンクや記事中で告知されるセミナーなどへのコンバージョン率を上げてうんたらかんたらで経済的自由(死語)を得て南の島でロハス(死語)でノマド(死語)でセミリタイヤ(死語)でインフルーエンサーなカリスマブロガーじゃない奴のことなんか一切相手する価値ないんじゃない?

子供の頃、なぜああだったのかカミングアウト&クロニクル(まがい)

幼稚園の頃からの幼なじみ(某NHK大河ドラマ脚本家)と、通ってる音楽教室でばったり再会。

「前と全然違う」

と驚かれた。

だよなァ、と思い。

ちょっと整理してみようかと。

神秘体験として読んでもらってもいいし、子供にあるあるの妄想と思ってもらっても。
重要ポイントは赤字にしてあります。

--

・赤ん坊のとき

生まれる前のことをつらつらと思い出してた。
霊界のようなところから現世と呼ばれるこの世界に来て、帰ってを繰り返すこと。
蓮の花の中のようなところから新しい魂が続々と生まれていく光景も。

 +

眠って目覚めるたび、2つの体を意識?が行き来してた。
ひとつは今の自分の。もう1つは西洋の白人夫婦の子供だった。
起きた時に見える両親らしき人間の民族的特徴で、今どっちにいるか判別してた。
西洋人夫婦の方があたたかく、愛情が伝わってきて、好きだった。
日本人の今の両親の方はハズレに思えた。
赤ん坊をあやして笑ってるけど、独善的で、愛情だと本人も思い込んでる独占欲や支配欲、愛玩的なワガママさが伝わってきてうざいうざい。
そして、逆らったら怒りそうな怖さもあった。

あるときから、何度目覚めても日本人の方で、もう西洋人のあの夫婦の子供として目覚めることがなく、こっちで生きていくしかないようだ、という覚悟を、ものすごく絶望的な気持ちで決めたのを覚えている。

寝室にブルース・リーのポスターが貼ってあり、それがすごく怖かった。
乳首が目に、へそとか腹筋のスジが鼻や口に見えていた。
(このときの、乳首が怖いというのは今もちょっとあり、カラス除けの目玉模様や昔の西友の包装紙の模様、弓道やダーツの的が怖くて直視できない。もちろん男女ともに、ほんとの体の乳首が苦手(なので肉体関係に後ろ向き))

・幼児のとき

情報としては後で知ったが、母親が流産したらしい。
自分は泣いてる女の子の霊(妹?)を感知し、「生まれられない」と嘆いていたので、自分の体をシェアするのを申し出た。
それで、二重人格ならぬ、2つの魂が1つの肉体に同居して、どっちかが運転する車旅みたいな感じに。

女として生きたいという強烈な願望が湧いてきて、肉体が男であることを嘆き、風呂の後で親が体を拭いているときに
「なんで自分にはこんなのがついてるの? 切り取りたい!」
と号泣して「なんてこと言うの!」と怒られたりしていた。(←どうしてそれで怒られるの、という理不尽な悲しみ)

気まぐれな性格、とあえて自分でも捉えて深くは考えなかったけど、まだ当時実家に同居していた伯母たちから
「ある時期からお前は反抗的で可愛げがなくなった」
とイヤミを言われるようになった。

どうやら、兄として男としての自分は寛容で優しいが芯が強く、妹として女としての自分は強気でキャンキャンすぐ吠えてヒステリックな(まさに母親や祖母譲りの)性格だが打たれ弱い(←女あるあるだw)性格のようだ、と自己分析。

生きたがる妹に大部分の起きている時間を譲り、兄(男)としての自分は深い精神性みたいなものに沈殿するようになっていった。

外交的で勝ちっ気な自分は、肉体が男だからとなぜ女である自分が女言葉を使うと「オカマ」とからかわれ、罵られるのかが不服で(こじらせフェミかよ)、わざと女言葉を人前で使うようにしたが、男言葉よりも文字数が多くなるのが鬱陶しくて普通に男言葉を使うことも多かった。

・幼稚園のとき

教室の窓の桟に腰掛けてたら、雷のように白い光に打たれ、周囲が止まり(ポールのミラクル大冒険で時間が止まったときみたいな)、両手が火傷したように熱くなった。
そこで
「お前は〜〜〜〜〜〜〜〜〜だ」
と、文章というよりはチャネリング波動でビジョンが観える、メッセージ全体をまるで圧縮ファイルのダウンロードのように「受け取る」感じで。そこで運命を確信する。
周囲が動き出したとき、慌てて手をみたら、火傷はしていなかったけど両手に、それまではなかった、神秘十字と言われるらしいシワが、いまできました感全開で真っ赤に刻まれていた。

その頃から、指導霊と自分が呼んでる、家庭教師的な霊が、いろいろ教えてくれるようになった。
子供ながら、よく子供が作るという「架空のお友達」を、自分の場合はそういうふうに空想しているのだろうか、とニヒルに自己分析してみたりもしたが、指導霊が言うことはほんとに現世で正しい知識ばかりだったので、お得だった。
(それもあり、机に向かう勉強などを全然しなくても、いろんな知識がどんどん増えていって、小学高学年くらいのときには大学入試の問題などもスラスラ解けた←ただし全科目を満点で、というほどべつに学校の勉強に特化して教わるわけではなかったけど)

指導霊の教えはどちらかというと、霊的な修練というか、人として成長していく中で、踏まえておくべき基礎的な数学や科学の知識が多かった。
その知識はあくまで前提というか土台で、そのうえでの教訓みたいのを教えてくれるのだった。

その指導霊から教わったことを、悪気なく親に話したところ、鼻血ブーブーになってそれでもなお、ひたすら怒り狂って怒鳴り殴りの嵐。

その後も、(ドラマ『ミディアム』でアリソンの娘たちがするみたいに)近所の人の隠れた秘密などを、通りで出くわして無難に挨拶だけして通り過ぎるなどの折に

「あのおばちゃん、ほんとは〜〜〜〜を〜〜〜〜〜してるのに隠してるんだよ」

などとあけすけに言ってしまい、そのたびに親からの怒鳴る殴るで血まみれ、タンコブまみれ。

(いま思うと、特に父親が自分のことを、まるでこんなのは実の息子とは認めないくらいの勢いで、自分の汚点を消そうとするみたいに、ほんとに殺しにかかる勢いで虐待してきたのは、霊能力を隠さずに発露してしまったことが大きな要因なのではないかと分析している。ただでさえ面と向かって『子供というのは親の分身だ。だから親とまったく同じでなければいけないし、親の意向に反する自分の意見など持ってはいけない。絶対服従で言いなりになれ』と言い聞かせる、香ばしい若造だったわけだから)


ニアリー悪徳商法なのでは的な英語教材テープ50本セットだかを、訪問販売に来たセールスマンの口車に乗せられて親が買ってしまう。
「これで勉強してペラペラになりな」
と渡され、(まだ日本語の文章もたどたどしいのに)独学で英語を学び始める。
(が、高校程度(英検準2級程度)にいくか行かないかで大変すぎてギブアップ)

・小2のとき

ついでにとんちんかん」という漫画を読む。
そのなかで、爆弾が爆発したが、主人公の抜作先生が「爆弾が危ないものだと知らなかった」ので無傷で済んだというギャグシーンがあり、
「これは(ある意味)本当のことだ」
と直感。


この世は本当はもっと制限のない無限なもので、物理法則とされるものも、どんな効き目の法則か自体を設定変更みたくできるものなのだ、という確信?が。
けれど、人の意図が、「こうだ」と決めると、空間というかがその夢を叶えてそのようになってしまい、したがって火に触ると火傷するとか、そういった「常識的な」「科学的な」反応が物理現象として起きるのだ、と。
(だから、それを打ち破れるかの修行をして、できているかどうかの確認?のために、火の上を裸足で歩くお坊さんなどがいると後にテレビで知ったとき、『あぁ、みんな考えることは同じだな』という感慨を抱いた)

ついでにとんちんかんの抜作先生みたいな、バカとされる在り方は、ある意味では賢く、この世の本来の無限の可能性を(すでにみんなが常識だと思い込んで集合意識的に成立した制限にかかずらうことなく)具現化しうるのだ、と思った。

学校の勉強や、世間で一般常識とされる決め事は、かえって「それ(だけ)が正しい」という制限を生んでしまい、呑まれすぎると自分の思考が作った檻の中に自分から閉じ込められにいくようなものだな、と思って勉強しすぎないようにor勉強はそれとして別の考え方の余地を残しておかないと、自分は勝ち組だと思い込んでる箱庭エリートみたくなるぞと自戒。

床屋で「大東京ビンボー生活マニュアル」を読み、衝撃を受ける。この方向で行こう、と。


父親がPCを買う。
本人がプログラミングの勉強をしようとして、PC雑誌と呼ばれるものを毎月、購読していたがまともに読んでいた気配は無い。
遊ぶオモチャとしていじらせてもらい、雑誌に載っているサンプルコードを打ち込んでみたり変数の代入値を変えてカスタマイズしたりと、自分でゲームや測量計算などのプログラムを自作できるようになる。が、月並みなところまでやったらまた飽きて放置。
テープにデータをバックアップするなどデータ保存の概念を早々と学ぶ。

ちょうどファミリーコンピュータが発売され、衝撃を受ける。
にわかゲーマーになり、発売されるゲームは基本、制覇して全クリ。
そのうち発売されるゲームの本数が多くなりすぎてコンプリートは難しくなる。

ファミコンのゲームの完成度のすごさに、自分ごときのにわかプログラミングでは太刀打ちできず、どこがどう違ってこういうすごいゲームとそうでない自分の自作ゲームがあるんだろうと思いつつ、(緊急に答えを出さなきゃいけないことでもないので)放置w

・小3〜4?くらい

ファミコンゲームの当たり判定やタイミングについて直感的にすごくよくわかり、六三四の剣などの対戦ゲームで、小6とか中学生以上の年上(同級生の兄とか)とでも問答無用で全勝してしまい、顰蹙を買う。

当時のファミコンは、調子が悪くなることがわりとあり、コントローラーのとおりにゲームキャラが動かなくなる不調があちこちの家庭で、あるあるだった。

たとえばコントローラーで上に押すと右に動いてしまう、など。

そういうとき、自分がゲーム機と波長を合わせて念じながら操作すると、壊れたコントローラーでも狙い通りに動いた。

その後、ドラクエ2、3などでロンダルキアの洞窟といった「コントローラーの操作と異なる方向に動く床」が登場したとき、やはり意識をゲームに合わせると、ゲーム側の設定が頭に入ってきて、狙い通り動けた。
ほか、次のターンでコンピュータが、敵のモンスターにどういう行動をさせようと決定しているか、攻撃のダメージ計算がいくつになるかなどが瞬間的に「伝わってくる」感じで、実際そのとおりになって面白かった。

「迷宮組曲」というゲームをやったとき、単なる娯楽を超えて「これは!」という運命的なものを感じた。
(それが後にヒーリングの世界に足を踏み入れたあとへの伏線になる)


親に脅されて入部させられたアイスホッケー部の練習があまりにきつくてトラウマに。
ホッケーそのものよりも、アイスリンク特有の意識が研ぎ澄まされる感覚の中で、氷の精霊や風の精霊といったものを感じ取り、会話?するようになる。

なかでも風の精霊は好意的で、自分が風を吹かせてと頼むと、「5秒待って」など答えが脳に響く感じで来て、ほんとに(それまで無風だったのに)強風が吹いて面白くて笑ったりしていた。

・小5〜6

ぜんぜん授業をせずにひたすら説教をするという、いま思っても異常としか思えない担任になる。
毎日朝から下校の時間、それをすぎてまで、クドクドと説教され、同級生たちほとんどボロ泣き、当然のように暴力。
勉強を習わないのが単純に怖い(中学校以降、ついていけるのか不安)し、家では親から虐待されまくりなのに学校では先生からひたすら恫喝と暴力100%なのかよ、とドン引き。

部活で死にそうに疲れてるし、親から殴る怒鳴るされるのがまだ怖くて不登校をキメる度胸もなく、マシンのように馬車馬サラリーマンのように小学生していたら、なぜか人望と成績が良く。
本人が不幸でひたすら義務をこなすとなぜか報われる日本のヤバさの縮図を身をもって体験する。

ある日、風呂の中で「かつて起きたことがあるこの時間軸の未来」が、わぁ〜〜〜〜〜っと、わかってしまった心地がする。

かつて、わかりやすくエリート路線で「優秀」とされる方面へ進んでしまい、確かにエリートとして世の中を牽引するほどの勝ち組になれたけれど、その結果、生まれ直すほど後悔するようなことになってしまったんじゃないか、と。

それで、なんとしても今回は別ルートの展開にしなきゃ、と強く思う。
それで翌日から、ものすごい変態キャラを演じる。
人が変わってしまったようだと同級生たちは思ったようだが、子供だからなのか幼稚園の頃からの長い知り合いだからなのか、いじめられるといった不都合を感じることはなく、むしろ心の支えになっていた。

・中学のとき

具体的にこの世界というかこの国のどこがどうアレでああなってしまうのかを分析していくようになる。

そのなかで解決策というかも模索していき、かつての時間軸(いわゆる『前回のDo Over』時)では迫害され異端視された

オタク・同性愛・スピリチュアル(な分野、勢力)がどう力をつけるかがカギ

と思うようになる。
それで、自分をファミコンと見立て、オタクなど属性の特徴をカセットに見立て、自分をそういった属性のイタコのように演じてみる実験をするようになる。
オタクの同級生と仲良くしてみたり、突然オネエキャラぶってみたり、女性恐怖症という設定をしたり、あれこれ変わったカセットいろいろ挿したキャラで学校生活を送る。
小5からの変人キャラもあり、そんななのにハブられない奇跡のバランスを保てていたが(今でも中学の同級生が一番、歴代の知り合いたちの間で仲が良かった感を持てている)、そうなる前の自分を知っている同級生(それこそ大人になってから再会した幼馴染など)からは、何かそういうフリをしなきゃいけない切羽詰まった問題を抱えているのだろうかといった心配をされ、直接そう話しかけられることもあった。が、言えずにいた。

そして、前回、無二の親友というか世渡り上のパートナーというかになったらしい、(小学校までは別だった)同級生たちと出会う。
前回は彼らとバンドを組み、メジャーデビューし……と、まるで浜田と出会った松本、小学校からの同級生の持ち上がりでそのままデビューしたBEGINのような関係性だった記憶というか感慨がなぜか確信的にあり。
前回と別のルートにしなきゃ!という強迫的な焦りと真剣味ゆえ、わざと彼らと険悪な関係になるように、というか関係性が生まれないように振る舞った。
ものすごく気持ち悪いオカマが好きになっちゃってこじらせて嫌がらせをする、みたいにしたかと思えば、そのカセットの設定も(たぶん有効にいかないと判断したか何かで)別人のようなキャラになって接したりと、自分としては全力を尽くしていたが周囲からすれば何事なのか全然わからなかったと思う。
何より、そんなにまでして険悪になろうと俺が邪険に接した彼らには本当に申し訳ないことをしたとも感じている。
(と同時に、自分が錯乱した接し方をする中で、もし本当に彼らが自分と何か深い絆というかを持っていたり、口に出しはしないものの俺が幻視を観たような神秘体験をしていれば、何かヒントやアドバイスが貰えるのではないかという、変な共依存ぽさもあった気がする)

そこで悪魔的な力が一見、正統で頼れる人格者な善のリーダーふうの体裁を演出しつつ、牛耳ってヘンテコな方へもっていこうとする手法を漠然とでも見出す。
ただ、実証データがないので、自分のような田舎のガキが「観えた」と思えていることなんて、ほんとなのかどうかと自分を戒めるつもりで、あまり信じすぎないようにしていた。

公立の学校でずっと来ていたが高校となると受験があり、前回のようなエリートコースを歩むと繰り返してしまいそうで、かといってバカ高校すぎて自分が無知で能力の低い大人になってしまうことでできることわかることが制限されてちんまく終わる人生もアレなので、なんとなくどうにでもなる系の高校を選ぶ。

(さんざん険悪になろうと邪険に接した、かつて深い絆だったであろう同級生たちが、なぜか成績がふるわず俺と同じ高校を受けて結局おなじ高校に通うハメになったり、高校こそ分かれたものの遠距離通学の電車が同じで、通学の行き来の2時間近くを毎日一緒に過ごしてもはや同じ学校の友達より深い付き合い、みたくなって困惑した)

・高校のとき

中学までに縁を切ろうと全力で動いたのになぜか結局おなじ高校に進学してしまった同級生たちと、完全無視という形で完全に関係性を断つ。(ほどにまで自分が、人間関係の破壊方面では手練手管を培い、達人になっていた←なんか俺、可哀想)
(関係性が完全に断たれた途端、彼らの成績が嘘のようにダダ下がりして、さすがにこれじゃ大学以降は同じところには行きませんわな、的になったのが象徴的だった。というか、それまで彼らの成績が、自分とどっこいどっこいだったのは俺側が何か加護を与えていたのではないかと都合よい妄想をしたりもした)

セーラームーンSでウラネプが無限学園に潜入しつつ悪の正体を暴くアレを見て「これだ」と直観。

歴史の道標(のパシリ霊)から勧誘を受け、自分が見てきたことが本当らしいと確信を強める。

それで東京に出る口実として、高校受験のときと同じ路線でエリートすぎない大学・学部を目指す。
大東京ビンボー生活マニュアルの学生クンを見習い、あとは週刊SPA!の連載で当時スゲエと思っていた鴻上尚史がいたこと、授業を受けなくても済むこと、エンデの本を訳した先生がいるなどなどで早大、しかも花形を避けて法学部に落ち着く。

この頃から、それが自立することなのだと言い聞かせて強引に、指導霊にもうあまり教えを乞わなくなる。
(それから、順風満帆だった自分の人生がどんどん破茶滅茶になっていく)

・大学のとき

さすがに就職では念願の職業に就きたいし、これまで人と仲違いするように動いてきてしまったのをリセットしたいと思う。
が、当初の進学動機だった、ウラネプ稼業で思ったよりもうわぁ、なウラというかをまざまざと見てしまい、いわゆる一般的な路線で生きる方こそ裏切り、とまた思い詰める。

同時に、ファミコンとカセットみたくシステマチックにエネルギーを単位化してその組み合わせを操るといった独自のエネルギーワークも観えてくるものが増え、深まり、縁や未来のルートなども、場合やエネルギー組成にもよるけど変えられるらしいことに気づく。
例えば、将来、放送局のアナウンサーになれる自分の道というか縁というかを、もはやそっちを目指すわけにいかないからと、「なりたがっているが夢が叶わない思考などの設定」になっている同級生に移植で譲ったりした。
厳密には自分がそうしたからかどうかの検証はできないけど、彼は結果として、地方のアナウンサーになりはした。やがて辞めたけど。(←やっぱりモノホンじゃないと続かないらしい)

前回以前のDo Overでなのか今回俺がアナウンサーを目指していたから新たに設定されたのか、とにかく大学では、会った瞬間にビビッとくる人たちと立て続けに出会った。
(彼らは本当に今も、日本を代表するアナウンサーとしてキー局各社で活躍している)
けれど、やっぱりその路線を歩むわけにいかない、と、自分の10代の目指してきたものすべてをあえて破壊するみたいに、意図的に留年したり就職活動でものすごくふざけた態度をとって頑張って落ちたり(自然にしていたり、多少の油断だと受かっていってしまうので)、また、破壊的な行動に出た。
結局それがクセになり、得意技でもあり、それしか知らないようになっていたんだと思う。

でもってドイツ語(の先生)との出会い。
止められないシュタイナーとの縁。
なんで図書館にあるの、シュタイナーの本。

それでようやく、これまで自分が、指導霊からの教えと、自分の直観であれこれやってきた、スピリチュアルなエネルギーワークが、一個人の妄想ではないこと、体系的に人々(の一部)が感じ取ってきたことを知り、ものすごく救われた心地になる。

このままドイツ語を勉強してシュタイナー学校の先生になろうかとも考えたが、この時点でいきなりそれだけを掴みにいってしまうと、それはそれで空振りしそうで保留。

・20代の会社員時代

シュタイナー本で知識を裏付けできた心地になり、前回と違う流れを世界に起こす、というのが真のテーマになりつつ、表向きは量産型な会社員として社会人のスタートを切る。

いわゆるホワイト企業で、残業もなく、終業も17:10と早かったため、給料をもらいつつ、本業はこれから!という感じで夕方以降の隠密活動に勤しむ。

対ルシファーを目の敵のような一大テーマとしており、ファイナルファンタジーの青魔法ラーニングのように、ネガティブなパターンを現出させてその波動をスキャン(して、あわよくばワクチン化しようと)する日々。
でもそれはつまり、わざと人を怒らせたり、不可解な状況に追い込んだりと、悪趣味ともとれる変人ぽい動きをせざるを得ず、いつ終わるのかもわからずでなんだかなァ感。

ホワイトなお役所的大企業で波動スキャンというかをやり尽くしたのでブラックなベンチャー企業へ転職。
編集職をしつつ、独立や副業的に名のある有名雑誌へ寄稿するなど個人的な出世を目論み実現する同僚ばかりの部署のカラーに励まされ、背中を押される形で自分もライター業を個人名で始める(某Webサイトの某ガイドとかしてたなァ)。

会社より個人で動いた方が結果を出しやすい特性があるんだかなんだかでうまくいくので、本格的に独立を志す。

しかもちょうど、ロバート・キヨサキの「ファイナンシャル・インテリジェンス」がCMで売り出されており、それに触れて具体的に、自分を軸に起業など経済活動を通じて社会で成功していく在り方がある、今さえない会社員をしている人間にもそのチャンスがあるということを知る。

今後、世界の流れを変える自分の真のテーマを追うには、とある会社に雇われて身も心も定年まで捧げて文句も言わずサービス残業に休日出勤etcというのは無理だ、ということで独立はマストと位置付ける。

そして、いわゆる一般的とされる業種の仕事をしつつ兼業的にスピリチュアルをやるようだともうたりない、本格的にゴリゴリやらないと……ということで、まさかまさかでスピリチュアルな分野での独立を狙う。

それで臼井式レイキのアチューンメントなど、高次元エネルギーを習得していき、はじめはできるか不安だったけど嘘のようにトントン拍子で事が進み、会社の給料の何倍もコンスタントに稼げるようになって独立。

・ヒーラーとしての30代

自分が暗に抱え、誰にも言えずにいた、このブログで書いたようなことを他人に話せるというのがもう、それだけで奇跡的で。

そして子供の頃からの、真面目ゆえに?こじらせ、ひねくれた生き方をせざるを得なかった自分のイシューを癒し、ファミコンカセットで他人を演じるみたいな変な取り組みからも脱却して、かつての拙い自分がしたエネルギー的な縛りや設定も解除していき。

それでようやく、素の自分というかで生きられるようになった。
(妹としての別の魂とも、ある意味ではお別れをした)

それに加え、チャネリングについても高度な技法を修得することで、探究というかが以前より格段にラクに。

また、「きっと〜〜は無理だろう、できないだろう」といった、スピリチュアルな業界の知り合いにも、おいそれとはなかなか話せずにいたことについて、その制限ある考えが真実ではなく解決可能であることetcで自分が都度都度、制限や諦めで小さく狭めていた世界をどんどん広く深くしていけた。

この宇宙はホログラフィック、といった真理も、はじめは、言葉で知ってるだけで具体的には把握できていなかったけれど、どんどんわかっていった。
ある1人をたとえばヒーリングセッションで変えることが、宇宙全部と繋がっていて、それが世界を直接、変えているのだということを、霊視で観えることなども交えて総合的に納得していけるようになった。

30代も後半になると、既存の商売として成立しているスピリチュアル業界の定型パターンどおりの、客から金をもらって悩みを聞いて云々というルーチンだけを繰り返す以上の活動の仕方があるな、もっと主体的に訴える、声をあげていくことが必要ぽいな、ということで、オリジナルのヒーリングメソッドという形を通じて、マルチプルアバンダンスなどを整備していった。

それがまさに、やればやるほど、という感じで、やったからこそ開けた、変わった、実現した現実という感じで今に至る。

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いま40代が幕開けたわけですが、自分の人生経験の大半を占めていた時期の自分らしさ(だと思っていた属性)を手放す自殺行為ともとれるワークをしてしまったこともあり、正直、困惑している部分もあります。

というのも、以前なら情熱を感じたことにもう、萌えない。頑張ろうと思えない。

弾くなと言われても弾いてたピアノ。せっかく楽器も手に入れて弾き放題の環境を手に入れて先生に習いにいけるようになったのに、今はどちらかというと、以前そうしたかった自分の想いを弔うかのような義務感で習っている。

正直いって退屈だったり苦痛だったり、できるようになったからってなんだよというしらけた気持ちでピアノを練習しつつ、

「以前の自分よ、君は何がしたかったんだい」

と別人に語りかけるように思うこともしばしば。

それがピアノだけじゃなくて、全方向的に。

ある意味、誰でもそうなのかもしれない。
これがいわゆる、中年の危機なのかもしれない。

若者が「絶対に譲れない!」といって必死で追いかける夢。
いつの間にか、それを傍観する側になってきてしまった。

何かができてもできなくても、最後は耄碌して死んでいく。
ヨガの行者も、ボディビルダーも、スポーツ選手も。
全盛期を大きく過ぎて、何十年も歳をとってしまうともう、かつてそんな身体能力があったなんて嘘のように、そのへんの、若い頃からたいして身体能力が優れていなかった老人と同じになってしまう。

そういう悲観としらけ。

完全に呑まれてもうダメだとなってしまっているというほどでもないけれど、そういう方に来てしまっている。

妙な達観したつもりの、単に老け込むだけの淡白化はとても危険なことなのだ、ということをひしひしと味わっている昨今です。

ある意味では、とても人間くさくなってしまった。

このブログでさえ、数年前の記事でさえ、書いた覚えなどまったくなく、今書けと言われても知らない、まるで赤の他人が書いた文章を読むような心地で読んで「へぇ〜」と思ったりする。

今、そんなふうになってる。

一方で、以前の自分にはわからなかったスピリチュアルなこともどんどんわかるようになってきてもいる。

それはとても意義のあることのようにも思えるけれど、どんどん貧しく停滞し退廃していくかに観える世相の中で(って、それもこの国限定だったりして、諸外国をメインに世界を捉えたら、まさに21世紀だから20世紀より進んでるぜ!感で伸びてるのが大半なんでしょうけどね)、この国の中に留まるとして、いったい何ができるんだろう、という思いもあります。

以前のように無邪気に

「みんな!自分がすごいことを発見したからシェアするね!これを知って、修得して、もっと良い人生を送ろう!世界を良くしていこうよ!」

という、良い意味で蒼い部分がなくなってきてしまっているのかもしれない。

そしてツイッターなどでゴロゴロいる、なぜだか知らないけどものすごく頭がいいだかなんだかでお金も稼いでていわゆる成功者ということになっていて、実在していて嘘じゃないけど顔出しもしていない……みたいな人々。
そうした人々がインフルーエンサーと呼ばれる、影響力の強い人ということになっているみたいだけど、その人が
「なんだかんだいってカネを稼いだもん勝ち」
みたいな、俗世限定なことを金言のように言うタイプだと、大衆がそういう人の発言を「やっぱりそうなんだ!」と受け止めてしまったり。

自分は、世界の流れを変えようとは思って生きてきたけど、世界そのものの在り方を、人間社会の中で自分がリーダーなりボスなりインフルーエンサーなりになって影響力を発揮することで変えよう、という思いは(なんと能天気なことに)持っていない。

だから、端から見れば
「スピリチュアルとかいって、結局、世の中で役に立たない、よほど物好きな少数な人でもなきゃ知りたいとも思えないことのために人生を棒に振ってトシ食っちゃった、『使えない下流老人』でしょw」
と揶揄されるとしてもそのとおりのスペックだよなぁ、という思いもあります。

「ようするにただの低スペックな変人が、低スペックな変人なりに、低スペックな変人として生きてきた、たいしたことない、ショボい人生でしょ」

と括られたら、まぁそうなんだろうなぁ、という。

で、結局のところ、世界の流れを変えることができたのか?という点についても、

自力で変えようと思ってはいなかったし、今後もそうするつもりがない

のが本音で。

変えようと思えば変えうる環境というかを整備する

という方なのね。

ほら、ますます「だから何?」感。


これまで辿った道のり、それによる主にスピリチュアルな事象への発見と、そこに肉体を持って現世に生きながらにしてどのように手を入れることができるものなのかという諸々は、(これまでにそれができた人間がいたかという点でいえば)ものすごいことだと思う。

ただ、それが、1人の、オマンマ食いっぱぐれて人から相手にされなきゃ飢え死にしまっせという人間としてはどうなの、というのも思う。

自分が発見したことは、他の人が役立ててくれるだろう、欲しているだろうというのは、甘い算段だった。

人は、霊的真実をなんとしても見まいとブロックを全力で発動させてまで、このまやかしの世界のまやかしに呑まれていたいものなのだな。

つまり、誰のためのなんだったんだろう、自分の半生は……という心境が今とてもリアル。

(ただ、べつに失敗したというほど悔やんだり、選択を誤ったとも思ってはいない。今、知り得ている、できるようになっているスピリチュアルでサイキックな知識や能力をまったく育めないままで、金持ち権力者として勝ち組だぜベイベみたくなっていたとしたら、それは前回と同じに結局なってしまった大失敗だから)

それも、この、日本村という、世界の進展と逆行するかのような、何かの冗談みたいな国で。

そこを、さあてどうすんべーというのが、おそらくこれからの10年の課題なんでしょうなぁ。


イマココ報告

つらつらと。


昨日、音楽ライブのとき、攻殻機動隊で草薙素子が民間人として街でエンジョイしてる?自分の幻視を船から見るシーンみたくなった(←元ネタわかりにくい)。

要するに、今と違う自分の境遇で生きてたら、みたいな想像。
今の自分で本当に良かったのか的な。

で「もっとこうが良かった」が無くて。

頭で考える、現世的ないわゆるキャリア的成功。

叶ってないから自分事として想像できてるかと言われたら弱いんだけど、それでも30代までは「なんとしても!」という羨望?執着?があった。

けど、40代になってから自分が変わりすぎて、かつてなら叶ったら嬉しいはずと思ってた事にもう萌えなくて。

それでたまたま、以前の会社での同僚たちが、会社員路線でいえば国なり世界トップレベルでエリート路線を実現できているとの話も聴いて。

ほんとならそこで嫉妬したかった。
何か悔しさとか、やられた!とか、自分もああなりたい、と地団駄を踏むような、醜くていいから感情が湧いてほしかった。

なのに、何にも湧かなかった。

それどころか、どこか達観した感じで、じゃあそのポジションで迎え入れてもらえるとなったと勝手に想像してみたけど、ビタイチ心が動かなかった。

そんな自分に愕然とした。

自分は何かしら具現化のための夢を追って、そのために生きていられたと思っていたのに。

他の人みたいに、エゴイスティックなのに自分の欲望を満たして享楽に溺れたり、そういうエゴまみれで恋愛や結婚をあたかも崇高な真っ当なもののように語り(騙り)、それを手にしたら安くご満悦、みたくなれるタイプではないとは自覚してて。
それはそれで生きる原動力が弱くてヤベーなとは思ってて。

だから子供の頃のわりと早い段階から、(今の時点ごとに起きる、友達と遊ぶとか、美味しいものを食べる、みたいなものだけで満足しきれない虚しさが消えないので)仕事というか、何某かの目標を掲げてそこへ全力投球するスタンスなら気が紛れると思って、意識を高く。

つもりだった。でもそれも逃げ。

結局自分は、今ある虚しさ、満足しきれない何かから目を逸らすために、次に目指す何かを常に設定していただけなんだ。

だから叶うと、いわば鼻面のニンジンがなくなった馬みたいなもので動かない、虚しさを自覚してしまうから、その夢は叶わないままにしておく方が良い。
それが第一希望で叶ってた。

自分がサイキックな修練を積んだ動機のひとつに、超リアルサイコメトリー(思考転写)がある。

いろんな夢をどれも強い執着で持っていて、その全部を叶えるのは事実上難しいとも思い、かつ、

何かの職業に就きたい動機自体がどこか嘘というか、単に見聞き知りたい(だけ)、もうすうす勘付いてた。

だから、いわば自分が他人に憑依して完全に、その人の人生経験とそこから抱いた想いをスキャン、コピーできるようにと。

で、ここ数年はそれが本格的に実は完成していて、表向きのいわゆるヒーラー活動とは別の、個人的な隠密行動で、自分の長年の憂さというか、鬱屈した想い、疑問を解消していった。

それで、例えば

「なんだかんだいって、超大金持ちは憧れるよね」

みたいな思考、まだ数年前まではあった気がするのに、ガチで超大金持ちの気持ち、置かれた境遇、お金についての知識や見方、それをどう扱うかなどもまるまるリアルに読み取り、味わったら、驚くほどあっさり消えて。

それの連続。

執着がなくなるのはいわば霊的に見れば望ましいというか、宗教のお坊さんがまさに目指すところなのかもしれない。

で、執着という重い波動のネガティブなエネルギーを解放し、その代わりに宇宙からの万能のエネルギーを取り入れる……みたいな、文字で書くとほんとにバカスピっぽいけど、な事が進み。

それでどんどん、かつてならどんなに頑張っても先へ進まなかったことが進むようになっていった。

喜ばしいことのはずなのに、先に超リアルなバーチャル憑依であらかじめ、そういうことを叶えた人の気持ちを味わっていた分、感動は無に等しかった。

何やってんだろうと思った。

どこ目指してんの俺。

そういう諸々が。
あの音楽、あの歌声で。

ドラクエの「凍てつく波動」と同じ効果を、北風と太陽の太陽のように暖かさでやられた感じ。

頑張って意識高く(嘘っぽい)気持ちと「こうなれば充実のはず」という屁理屈の理論武装をバサッと解かれて。

丸裸で、自分が抜け出すことも諦めた迷子と自覚。

そこへ渋谷の風景。
ちょうど渋谷ラジオ局があるビルにいて、外にはあの用水路みたいな川?と、古い雑居ビル、無理くり開発してグーグルまで続く歩道橋?がわざとらしく不格好に近未来で。

いろいろ無理があってイタいのに、それでもそこで楽しむ風情の人たちもいて。

そこに自分はジョインできず。

「あ、もう俺、この街、国?、人々?、と、同じ風景と想いを何一つ共有できてない(んじゃないか)」

と。

なんのために今ここにまだいるのか。

それから海外移住?まで頭をもたげて。

でも、それすらまた、できて、したとして、そのあとでまたこういう気持ちになるとしたら(=逃げだったら)?

極論、地球上どこへ行ってもどんな夢を叶えても、何かそれをもってして今の生命を肯定する根拠にはなり得なかったら?

頭で空想するだけだから、都合よく秒でそんなことまでスケール広げた気になって。

草薙素子。

義体じゃなかったら、公安9課勤務じゃなかったら。
街でソーダ水を飲む一般人なら。

頭でっかちにスピ本あるあるなフレーズが脳内リフレインするのもウザい。

「その状態でどこへ行こうと何をしようと同じこと。問題は解決しない。
どこかへ行って違うことをするのではなく、自分が変わらないと」

言ってろよ。
言うのは簡単だよ。

じゃあどうすれば?

「贅沢いうな」
とも感じる。

そういう、すぐに処理しきれず、考える分だけ消耗したり、最悪、早まったことをしかねない思考。

そういうものは、よほど準備ができたときに、心してワークしないと手に負えないのに。

この音が、歌声が、自分の気持ちのフタを容赦なく溶かして、パンドラの箱(そんな大層なもんか)を開けた。

姑息なやり過ごし方も、年の功で知ってる。

思考停止。

貧乏バカ庶民なら全員使える、必須にして基本のスキル。

それを発動する(しかない)。

わざと思考の程度やスケールを狭めて、

「わぁ、綺麗な電飾」
「いい歌〜」
「酒うめー」
「渋谷の新しい展望スポット行きたい!」

とかにする命綱。

命綱!

思考停止によってどうにか生きていられる!!

ダニとかハエの一生を思い浮かべる。
繁殖して生命力に溢れて、可能性も無限大……と、若きダニやウジ虫は思うかもしれない。
でも食われたり叩き潰されたり殺虫剤で駆除されたり。

俺の人生だってそれと同じだろ、何を深刻に、とも思う。

それで煮詰まりすぎて、マイHP/MP全回復スポット、F店へ。

こんなにまで美味いものを、世間では無名で、こぢんまりとした裏露地の店舗で、間違えたみたいな安い値段で。

食う。満たされる。命の基本に立ち返る。

作り、食わせ、金をもらう店長のルーチンな生き方を尊いとも思い。

リセットボタン。
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ほぼ確実に挫折できる魔法の言葉「あとは自分でやります」

なんでもそうですよね。

何かを教わるとき、

・難しくてついていけない

・これ以上、いま教室や先生についていくのが嫌だという気持ちがMAX

・学びの実践の場で「できてない今の自分」をさらけ出す恥辱に耐えられない

など、ようするに

逃げ&隠れ or 頑固

の意図があるときに出る言葉です。

「あとは自分でやります」

さて、この言葉を守る人、いると思いますか?

私は見たことありません。

やらないのか。できないのか。

どっちもあるでしょうけど。


ちょっと冷静に考えてみてください。

未経験だから、まったく知らないから、わからないから、できないからといって学びに来た人が、自分の中でブレーキをかけてその場でそれ以上、学びを続けたくないという気持ちで言った

「あとは自分でやります」

え? と思いませんか?

自分でやれるの?(やれるほど、もうわかってるの?)

じゃあなんで習いに来たの?

できるなら学びになんか、わざわざ来なくてよかったじゃん。みたいな。

それに、立派に完璧にできもしない初心者、素人、下手くそごときが「自分でやる」と教える側の師匠や先生に言うなんて、

単純に失礼

ですよね……。

これ、いわゆる素人が世界トップクラスの大御所に習う機会を(なぜか奇跡的に)得たとして。
例えばオペラの歌唱とか、オリンピックで金メダル獲れるほどのレベルのスポーツ、プログラミングなど、難易度が非常に高いことを教わる中で、先生に向かって言うでしょうか。言えるでしょうか。

「あとは自分でやります」

と。

どの口が言ってんだ、と思いませんかね。やってみせろよ絶対だな?と意地悪な追い打ちをかけたくなります。


それとなくそういうことをほのめかすと、

「ちゃんと本読んであとは自分で勉強して、できるようにして、やります」

と、苦笑いなり、ちょっとムッとするなりして、さらに言うんですよ。

さらに言うか、って感じですが。

だったら最初から1人で本でも読んでチャッチャとできるようになって1人でやってろよ

って思いませんか。

なんかその、習う物事についても失礼ですよね。

で、そういうことをいけしゃあしゃあと言えてしまう時点で、よっぽど

何かをきちんと学んで、いろんな壁や挫折しそうになる局面を乗り越えて一人前になったことがない

ことまで透けて見えます。霊視なんか要らんがな。

たいして、本気で、きちんとモノになるまで、何かを学んだことがないってことの何よりの証拠でしょう。

「あとは自分でやります」

あとは?
自分で?
やる?

それを平気で言えてしまう人間性や知能、人生経験全般のアレさもわかりますよね。

「あとは自分でやります」

それができないから、習いに来るものなんじゃないの?

あなた、そんなに優秀なの? 天才?

だったら人に教わろうとしてんじゃねーよ。

そして、口ばっかりじゃなくて、

できるようになって見せてみろよ

って話。

これまで、あらゆる分野と意味合いで、このセリフを言った人のことは全部覚えてます。

何年、何十年経っても忘れません。

「あとは自分でやります」

もう何年も、何十年も経ったんだから、できるようになったかな?

えぇ、きっとできるようになったと信じています。

もし違ったら。

いえいえ、そんなこと、万に一つもございますまい。


人は無限の可能性を秘めている!!

んでしょ?

だから、「あとは自分でやります」なんて言えるんだよね?

秘めたる可能性を、秘めたままじゃなく、発揮して、なんでもいいけど1人であとでやってモノになるまで具現化するのに必要な手練手管のすべてを備えているから言えるんでしょうからね?

すごいなぁ〜。

世の中には、すごい人がたくさんいるものです。

いとすごし。