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コンクール(での受賞)、級・段位認定の是非

習い事や資格には、級や段などの認定、○○コース修了、なんとかコンクール入賞などといった、肩書きや箔付けとなるものがあります。
ヒーリングでも、モダリティとして確立されてると、いろいろありますよね。レイキでも、ファースト→セカンド→サードetcと段階があります。
(私、以前レイキでファーストディグリーだけ伝授してもらってレイキの実践会に出たら、『あなた、どこまで伝授うけた?』の質問責めに遭い、『まだファーストだけです』と答えると、失笑や下目使いで見下されたり、突然相手の態度がでかくなったり、まぁいろいろされました)

こういうのって、メリットもデメリットもあるんですよね。

デメリットとしては、先に()内で述べたように、

本来の実力と関係ないかもしれないところで、上下関係や優越感を得てしまう(ことで、自分が得た箔のうえに胡座をかいてしまう。勘違い的なプライドや自尊心が肥大化して、本来の道からそれてしまう)

ことが筆頭に挙げられると思います。

ほか、英検やTOEICに代表されるように語学には顕著ですが

検定試験目当ての勉強に偏ってしまい、試験には合格できても、本当の能力は身につかない

が挙げられるでしょう。

音楽やダンスなど芸事とされる領域になると、資格コレクターと同じ路線で、コンクール受賞歴コレクターとでもいうべき人たちが一定数、います。
英検に受かっただけの人が英語圏に行って全然英語が使いこなせないように、コンクールに受かりはしたけど、音楽家や舞踊家としては全然応用がきかない。コンクールの課題を機械的に完璧に覚えただけ……みたいな。

また、そうはいってもコンクール入賞や○段認定者を多数輩出、という触れ込みは、教える側のインストラクター・師範といった人からすると、自分の箔付けにはうってつけという事情もあります。
なぜって、日本人は特にかもしれませんが、箔に弱いからです。肩書きをステータスとみなして、それを欲するからです。
だから、生徒をたくさん集めるためにも、自分の業界内地位や教師としての名声を上げるためにも、とにかくコンクールや段位認定試験を受けさせて受からせることばかりに注力している教師がいます。そういう人が主催している教室もあります。
(そして当然のことながら? 名門的なイメージになり、実際に実力者が集まりやすくなったりして、そこそこ正のスパイラルに入れなくもないです)

で。

あえてデメリットばかりを先に挙げてきてしまいましたが、私はここでは、あまり語られることがないかもしれない?メリットについて述べたいと思います。

私は今年、某地方のとある芸事で複数のコンクールを受け、受けたコンクールすべて受賞・入賞・合格といった成績を収めることができました。
そしてその流れで、入賞者だけが出演できる発表会・コンサートにお声がかかり、まがりなりにも人前で演奏する機会を得ました。

そのことを、これといってコンクール入賞を狙わせるでもなく、実直に習い事としてその芸事を教えている知人に話すと、こう笑われました。

「コンクール入賞が箔付けになると思った?受賞できた自分はすごいと勘違いしちゃった?バッカだねえ。あんなのは主催者側が金を集めつつ、コンクールの賞という餌をぶらさげて、芸事をやめさせないようにする罠なんだよ?受賞できた快感が麻薬みたいに働いて、上機嫌にさせつつ、もっと上のランクの賞を狙いたくさせる。いちばん上の賞を獲ったら、今度は教師免許が欲しくなる。教師免許をとったら、生徒をたくさん集めて、コンクール入賞者をたくさん輩出して、先生として他の先生たちより偉くなりたくなる。キリがないんだよ。そのために何度もランク別にコンクールに出続け、教師免許をとる際にはどこかの流派の忠実な犬にならざるを得ない。栄光を与えられる体裁で、宗教みたいに束縛されるんだ。その芸事の世界に洗脳されていくんだよ」

と。
(ちなみにこう言った知人は、コンクール最上位の賞も受賞し、れっきとした師範の免許を持っている。なので、自分自身の境遇を若干、皮肉って言っているところもある。ほんとに嫌なら別の道に路線変更しているはずだから)

その教室に通う、コンクール入賞などは考えてないけど心のどこかで引っかかっているのであろう生徒さんたちからも、口々にあてつけがましいことを言われました。

「へぇー!賞を獲ったの!それじゃあさぞかし、上手いんでしょうねぇ!!」
「私の知り合いもその賞なら獲れたわよ。でもいざ演奏してみたら全然下手!こんな下手でも受かるコンクールなんて、受けても意味ないわと思った!」
「賞が欲しくて芸事をやってるの?見下げた根性ね。本当の芸って、賞とは関係ないものなんじゃないの?」

など。
(まるで私が、コンクール入賞だけに目がくらんで、点数稼ぎみたいに芸事を機械的に取り組む、芸事とは何かがまるっきりわかってないミーハーなチャラいニセモノ、なんちゃってミュージシャンみたいな決めつけだった)

あれ、メリットを書くはずじゃ?まぁしばし待たれよ。

個人的には、せっかく芸事をやっているのだから、人に合否の評価をつけられてしまうという、ある意味では下手な素人なら死んでもされたくないものに、勇気を出して挑戦してみようという純朴な想いが動機でした。
たまたま習いに行った教室が、良くも悪くも?(←悪いってことはないか)コンクールを受けることを推奨するノリのところで、ゆくゆくは教師免許もとって教える側になっていきたいという人が集まるところだったから、「それなら」と背中を押してもらっただけというような経緯もあって。

で、受けてみて、自分がまだ下手なのは自分が誰よりわかっているのに、合格しちゃっていいの?という困惑もあり。
受からせてもらっておいてなんですが、こんなに簡単に受かるならべつにもういっか、とも思ったり。
(でもそこに受からない人たちもいるので、なんとも言えない気持ちにもなったり)

そして迎えた、コンクール受賞者演奏会。

自分と同じランクの賞を獲った人たちがそれぞれ曲目にアサインされて、みなさんの演奏を聴かせてもらったわけだけど、同じランクの受賞者とはいえ実力はピンキリ。
賞なんかに浮かれてる場合じゃないなぁ、と思い知らされました。

同時に、上のランクの入賞者や、最高ランクの賞をもう随分前に受かって今は演奏会のときだけセミプロみたいに弾きに来てるベテラン(普段は会社員とかやってる)さんなんかの演奏は、ドン引きするほど上手い。自分なんかがここまでのレベルに一生かかっても到達できないかも、というくらいに。

そして、新人であっても、発表会では何曲も割り当てられ、それをソロで、あるいは自分の楽器は1人で他の楽器の人(←すごく上手い人の場合もある)たちと合わせることになったり、踊り手さんの舞いの伴奏として弾くシチュエーションだったり。
何もかもが初体験の嵐なのに、そのどれもを、「できて当然」ということを暗黙のうちに期待される。
れっきとしたプロとしての動きを要求される。
しかも、厳しくテンパってるのは新人の自分たちだけで、場慣れした人たちは「それが何か?」という感じで淡々とこなしている。
良い意味でそういう、「淡々とハイレベルな要求に応える」人たちにつられて、だんだん自分も、「それができて普通。そういうもの」と思えるようになってくる。
それが、せいぜい前日のリハーサル~当日にかけての、ほぼ1日半くらいの間で起きる。とても1日半とは思えないほど、濃厚で、自分がまるで何年も修行を積んだかのように成長できたのを感じる。
芸事は、練習百回より本番一回、と言われる理由がわかった気がしました。

そのあとで、コンクールをまだ受けてない人や、コンクールを受ける風潮がない教室に何年も通っている人と話すと、その人たちが

・コンクール入賞を、過度に高いハードルであるかのように、思い込みを膨らませて捉え、怖れ慄いてしまっている

・ある曲をちゃんとできるようになるのに何年かかる、といくらなんでもなスローペース&低レベルな習い方に慣れてしまい、実際、何年習っても上手くならない&レパートリーが増えていかない

・上手い人、プロ的に演奏会の本番や踊りの発表会の伴奏をガンガンこなしている人の実力や曲を覚えるペースを知らないため、目指すべき地点が見えず、ただ漫然と練習している(ためにいつまで経っても上手くならない)

などの状態に陥っているのがはっきりわかりました。

べつに偉そうにふんぞりかえっているわけではなくとも、井の中の蛙になっている感じ。
大海を知らないんですね。
本当の海の大きさを知らないから有頂天になる側もいれば、知らないからこそ過度に大袈裟に捉えて、自分が勝手に膨らませすぎた想像のなかの巨大すぎる海のイメージに恐怖を感じて「いいです!私はここでこぢんまりと習うだけで!」と必死でブレーキをかけて自分の伸びしろを制限して、それが安全でいられることだと思っている側も。
どっちの側も、不幸なんじゃないかな、と思いました。

私は単純に、その業界のベテランの実力、プロとしての(次から次へと別の演目を流れ作業的に、かつ1曲1曲を珠玉の名演奏としてのクオリティを外さずに)仕事をこなしていくさまを見られて、よかったと思います。

だって、

現実離れした妄想を抱かないで済む

んですもの。

それは同時に、

現実を見たことがないからこそ妄想が膨らみまくった、アテにならないデタラメな噂に惑わされない

ことにもなりました。

今の自分が業界内のどこらへんの上手さにいるのか。
そこからどのくらいのペース・練習量で上達していけそうか。
上達した暁にはどのくらい上手い演奏ができるのか(のイメージ)。

などが、具体的に把握できたんです。

一方、わけのわからない、実体のない怖れや想像だけで膨らませた、ありもしないかもしれない噂に惑わされている状態の人は、もうそのわけのわからないものに翻弄されまくって、消耗しきっちゃっているんです。
考えなくてもいいことを考え、あるいは、そっちの方向じゃないのに正しいと信じて突き進んで(当たらなくても乗り越えなくてもいい、コースから外れたガードレールとしての)壁にぶち当たってしまったり。

これ、「東大に受かるには」と例えると、わかりやすいんじゃないでしょうか。
実際に東大に受かった人たちが間近にいてどのくらい勉強ができていたのか、どのくらいのペースで勉強をしているのかを把握できたり、東大に受かるための塾に通って「どうすれば受かるか」という方向性の講師から習えていたり、東大模試を受けて順位を把握したり、をできている人は、もともとはたいした成績じゃなくても、受かる道筋が具体的に見えるし、どこまで学力を伸ばして入試で何点とれば受かるかがわかるんですよね。
一方、田舎のバカ高校的な、周りに東大に受かったどころか受けた人もおらず、そういう人がどのくらいの勉強をしているのかもわからず、過去問を見たこともなくどんな問題が出て何点とれば合格圏内なのかも知らず、したがって自分の成績をどこまでどう上げれば合格できるのかすら見当もつかないところにいる人は、そこそこ良い成績をとれていても「そんなの無理!だって、すんごい大変なんでしょう?」となってしまう。
それと同じです。

やっぱり、

生で、リアルに、実状を見る。見るだけじゃなくて、参加して、肌で感じる。
憶測や妄想でなく、事実として状況を把握する。五感をフル活用して全身で。


に尽きるなぁ、と思います。

長くなりましたが、コンクールなり、段位認定試験なり、大会や試合なり、何か自分の実力を思い知らされてしまう場、他人の実力と比較できる(比較されざるを得ない?)場、自分よりも実力が上の人間が手で触れられる距離にいる場。そういう場に行ってみるというのは、(ボッコボコのけちょんけちょんに傷ついて致命傷なまでの劣等感を抱かされてトラウマになって退場、の危険性もある一方で)口ばっかりとか頭でっかちでなく、具体的に現実的に今より向上していきたいなら、言葉では言い尽くせないほどの情報が得られます。

痛い思いをすることがあってもプライドがズタズタに引き裂かれても、自分で何もアクションを起こさず勝負にも出ないで口ばっかりでああだこうだ言って何かがわかった気になってるだけの無力なチキンでい続けるより、はるかに実りの多い人生が送れると思います。

そもそも、現実に出ていってみて、引き裂かれたプライドなんてのは、持っていても意味がないし役に立たない。
都合よく妄想ででっちあげた、架空の世界の中でしか通用しない無用の長物なわけです。引き裂かれて良かったと思う価値は十分にあるんじゃないでしょうか。現実で勝負しても引き裂かれないで済むプライドとはどんなものか、探るきっかけにもなるでしょうし。

そんなわけで、肩書きコレクターになっていないならば。
合格や認定された肩書きをブランド信仰的に求めているのでないならば。

コンクールとか、資格試験とか、段位認定などには、思い切って立ち向かうのも手かと思った次第です。そんだけ。
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チェロで得たリラックス集中力

  • ?
本文は要約的に。

マイク前の演技やナレーションで
ガチガチに力むやり方をしてた。
それが真面目にやることだと
勘違いしてた。

それをボイトレの先生に指摘され。

リラックスしつつ集中することを
習得する必要を感じた。

でも、やり方がわからない。

いろいろ試行錯誤して、チェロなど
弦楽器を弾く感覚を身につければ
リラックスしつつ集中するとは
どんなことかがわかるのではと思った。

チェロの先生に師事して習い始める。

生来のすぐ力む自分の性格からして、
全然合わない。苦手。まったく上手く
ならずに最初の2年くらいが過ぎる。

先生にリラックスして弾くよう言われると
「力抜いたら弾けないじゃん!」
とイラッと反発を感じてた。

でもそれじゃあ、この先生に習ってる
意味ゼロじゃん、と思って、従うことに。

自分のこだわりを完全に捨て、
絶対服従する人形のようになる意識で
レッスンを受け始めたら上達。

力むこと至上主義的な自分のやり方を
否定されたみたいで悔しいが、
悔しがってるメリットもないので
受け入れる。

そしたら自分の中に、新しい
「リラックスしつつ集中できる自分」
が生まれた。

すると日常でも、予定がパツパツの
ときや、うっかりデカい失敗を
したときなど(特に遅刻)、
前みたいに取り乱さなくなった。

本を読むときも細部のキャプションまで
しっかり読むなど、前みたいな雑さが
全般的に消えた。というか、克服できた。

繊細寄りに性格がシフトしたというより
繊細にもできますと幅が広がった感じ。

前みたいな大胆さのほうも、精密な
計算や配慮をしつつ大胆に動けて
相乗効果あり。
大胆さと繊細さがお互いを打ち消さない。

それ以来、体や喉に余計な力を入れず
喋ったり歌ったりできるようになり、
狙ったとおりの声での表現を前より
やりやすくなった。

苦手なことを克服しているヒマがあったら
得意分野を伸ばせ、というのが
成功法則のセオリーみたいに今の時代は
なってるけど、一見全然関係ない分野が
自分の伸ばしたいものをさらに伸ばすうえで
役立つことがあるのだなぁと思った。

そんだけ。

女はしっかりしなきゃいけない!?

スピリチュアル関連の知人から

「usamimiさんからしたら、現代の『男に養ってもらいたい、働きたくない、責任を負いたくない』という、男に甘えて依存して何もかもから逃げようとする女なんて、けしからん!って感じですか?」

と聞かれました。

うーん。。。

そういう、意識の高い低いの話じゃないんですよね。正直なところ。

どういうことかというと、過去生のいくつもの記憶が断片的にでもある(と少なくとも本人は思っている)私としては、当然、自分が女性として生きた記憶も無数にあります。

それぞれの時代で、国で、とりまく常識や社会通念、技術的な発展の度合いなどが異なることにより、女性の扱われ方、位置付けはさまざまです。

しかしここ数千年を過去から振り返るという範囲内でいうなら、

女性が今ほど権利を認められ、行動することが許容され、教育やビジネスなどに携われるなど恩恵の大きな時代は珍しい

という印象。

第一、

女に人権がある

女で字が読める、計算ができる
 (≒教育を受けることができる)

女に選挙権がある
(参政権まである!)

女が職業に就いて賃金を稼ぐことが許される


なんて、はっきりいって信じられない奇跡です。

何百年、「どうせ無理でしょ」と諦めかけつつも古今東西の女性が夢見てきたことか。

女って、国や地域、時代によっては、馬や牛などの家畜と同じように、本人の意思も承諾も何も、村の男たちの話し合いで誰と結婚するかなどがほんとに「物」みたいに勝手に決められていたんです。

一度も会ったことのない男と結婚し、その相手がどんなに酷い人間であろうが絶対服従。
しかも夫が死んだら、妻である女がどれだけまだ健康だろうとなんだろうと夫と一緒に生き埋め。
それか、「夫が死んだら自殺するのが妻の美徳」とされ、村人たちから自殺を迫られる。
それでも抵抗すると、縛り上げて火あぶりとか、無理やり村じゅうの人々から「酷い女だ」といって殺される。
悪いのは、男に追従して死ななかった女のほう。

これはさすがに昔すぎ、極端すぎ、と思いますか?

夏目漱石の『こころ』はどうでしょう。娘と結婚したいと男(先生)から打ち明けられた母親がOKを出すんですよね。本人の承諾も必要ない、とまではっきり宣言して。男じゃなく女が、女を、そう扱うんです。これは近代の日本の話です。フィクションとはいえ、それが不自然に感じない世相だったことが窺える、と言ったらそんなにおかしくはないのでは。

映画『駆込み女と駆出し男』はどうでしょう?
江戸時代、女のほうから離婚を申し出るのは基本的に許されず、唯一残された手段が、駆け込み寺へ入ること。
「女のほうから縁を切られるような不名誉レッテルを貼られる男が自分のいる村から出るなんて」という男(連中)の沽券のために、寺に駆け込もうとする女を村じゅうの男で無理やりにでも阻止しようとします。

名探偵ポワロでも、ケンブリッジで学問を修めた女性が正式には学位を授けられず、女たちだけで集まって私的に形式的に学位の授与式に相当する式典を開催するシーンが出てきます。

ナニー・マクフィーの魔法のステッキ』は19世紀イギリスの話ですが、メイドとして働くエヴァンジェリーンは教育を受けることができておらず、文字が読めないことに劣等感を持ち、休憩時間に童話をたどたどしく独学で勉強しつつ「文字も読めないような女、相手にされないわ」と嘆きます。

挙げた例は確かにフィクションかもしれないけど、これがそれぞれの時代の女性あるあるだったんです。

私が師事した大学時代の恩師(女性)も、高校のときの教師が男尊女卑で、女子生徒が指されて質問に答えられないと

「まっこと、女子の学力とは無に等しい」

とおおっぴらにのたまい、男子生徒が爆笑……という光景が当たり前だったそうです。

進学に際しても、父親から「女のくせに!」と反対されたとか。
(ちなみに父親から『そんなに大学に行きたいなら、東京大学に現役で受かってみろ!そしたら行かせてやるw』と意地悪的に言われたそうです。それなら、と、ほんとに受かってみせて今に至るという流れだとか)

今回の人生に限っての私自身の体験も、10~20代の頃は、しかも地方になると

「女なのに大学なんて行ったって意味ない」

が常識でした。大学進学なんてしたら、親不孝。嫁の貰い手がなくなる、とマイナス評価だったりして。

それで進学を諦めさせられた同級生、社会人になったあとでバイト先で知り合った同年代の人など、どれだけいたと思いますか。

話しているととても利発で、まだ「大卒」が今よりものを言った時代。彼女たちの知能が他の大卒の女性や、ましてや男子に比べて劣っていたとも思えません。
でも「女だから」という理由で大学進学を断念し、安い時給の、誰でもできる扱いの仕事に甘んじている。
(究極的には本人の意向というのがスピリチュアルな真実なんですけどね)

これ以外にも、いくらでもあります。
女性だから昇進させてもらえない。
女性だから◯◯は許されない。

今もすべてが解消されたとは全然思ってません。

が、少なくとも法律では認められるようになってきているのは確かです。

またフィクションの話で恐縮ですが、オールコットの『第三若草物語』(Little Men)を原作とした『若草物語 ナンとジョー先生』というアニメがあります。

主人公はおてんばな少女なのですが、将来、医者になりたいという夢を持ちます。
が、19世紀のアメリカ(後進国ではなく先進国中の先進国!)では、女性は医者になることが許されませんでした。
絶望して夢を諦めそうになる主人公は、ジョー先生が自転車に乗る姿(←これも当時は、男性だけが乗るものとされていた)を見て、希望を持ちます(そして最終回では、大人になり医者になった主人公の姿で終わる!)。

中世の日本でも、日本初の女医と言われる人が
「女が医者になるなど前例がない」
といって認められなかったのを、古文書を紐解き、奈良時代に医者に相当するとおぼしい働き方をする女性がいる記述を発見し
「前例ならあります!」
といって医業に携わるのを許されたというエピソードが。

相撲の土俵に女性は上がってはいけないというのもありましたね。最近、破られましたがw

これ、私がこういう作品を見たから影響されたというのではなくて、いろんな時代や国の過去生を女として生きた記憶がある人間からすると、そのどれもが、多かれ少なかれ当たっているというか、少なくとも

「うんうん、そうだったそうだった」

という感慨を思い起こさせるものなんです。

べつに、意識の高さなんて話じゃないんです。

女がどれだけ、何かをしたいと思っても、させてもらえなかった。

そういう時代を、国を、そこで「絶対」とされていた「常識」という名のプレッシャーと共に、思い出すんです。

「そんなこと言われてもォ〜、たしかにそうかもしんないけどォ〜、でもォ〜、私は今の現実で十分つらいから仕方ないじゃんw」

というのもわかる。
だから、究極的には、ほかの人に向かって

「せっかく今の時代という恵まれた境遇に生まれたんだから、その恩恵に感謝して最大限、努力しろ!」

なんて言うつもりもありません。

どの時代にうまれようが、そのあり方がほかの誰かからみてどれだけ恵まれたものに映ろうが、問題は自分がそれをどう思うかだから。

どこかの誰かからみて羨ましいものを授けられたから、嫌々しぶしぶ頑張るなんて、アホらしいと思いますし。

ただね。

これだけ女性にいろんな権利が認められて、活動が許容されている時代に生まれておいて、それをありがたいことだとも思わず不満点ばかりをあげつらってブーブー文句いってる女性を見ると、

なんともいえない気持ちになる

だけなんです。それだけ。

二極化&多能化する人々

二極化という言葉は、21世紀になってから主にお金(所有資産)の面で多く用いられてきた印象があります。
いわゆる、金持ちと貧乏に分かれていき、中流家庭がなくなるという現象。

ただスピリチュアルヒーラーとして今、人々を観察するに、二極化はどちらかというと「情報」のほうにおいて顕著だと感じます。いわゆる、情弱(情報弱者の略?)と、情強(←こんな単語あるのかしら)に分かれていく。
その要因はインターネットが大きいと感じますが、実はそれ以上に

周りにいる人
(というか、周りにどんな知人をつくるか)


の存在が大きいと感じます。

要するに、ネットとリアルの口コミ。

知っている人はどんどん知っていき、知らない人は何も知らないまま。

で、いま何が語られ、人々の間で話題やトレンドになっているかというと、(私が思うに)筆頭は

・平均的?な能力の一般人でも、やり方次第でいろんな方面での成功が普通に狙える

・特に器用というわけではない人でも、いくつか(いくつも)のことを手がけられる

・地に足つけた質実剛健?な幸せを、誰に遠慮するでもなく庶民の誰もが手にできる


ということ。
そしてそれらを実現するためのノウハウです。

同時に、上記のようなことを知らない人たちが一定数(以上?)いて、そういう人たちにいきなり上記のようなことを言っても奇想天外すぎて?受け入れられず、むしろ反発されたり、「そんなことはない!」と反論され攻撃すらされてしまう可能性があるということも、当たり前のように学習していきます。

また、ひと昔前のように、あるいはわかりやすい漫画やドラマに出てくる感じ悪い金持ち成功者のように、自分の成功をひけらかすと要らぬ嫉妬や恨みを買うし、自分の印象が悪くなり、品性まで損ねて何も良いことがないというマナー的自戒の念。

そして上記2つを混ぜ合わせた?

「知らない側」の人間には、演技をして、「私もあなたたちと同じ、デキない人間ですぅ~。ダメダメなところがあってぇ~。夢なんて叶わないし、欲しいものを手にいれるなんて贅沢ですよね~。我慢して苦労に耐えてこそ尊い生き方。つらいけど、それが普通だから、一緒に頑張っていきましょうね!」と合わせ、鬱陶しいちょっかいを出されないように上手にあしらうキャラの使い分けテクニック。

皮肉なことに、「知っている側」にいる人は、知っている側の人たちからどんどん学び、実践して試行錯誤を繰り返しながら体得していき、徐々に成功の打率を上げていく。それが自信につながる。
一方、「知らない側」にいる人は、たとえ知っている側の人たちと接していても、そういう人たちが自分と同じ知らない人であるかのような演技をしているのでそのことに気づかず、何も学ばない。もし、「私は知っている側。教えてあげますよ」なんて人が現れたところで「嘘だァ!?」と糾弾して信じず、疑い、詐欺師か宗教かぶれか要するに変人だと決めつけて追い払ってしまう。なので、延々と無知でバカなまま。

まさに、情報格差でいう強者と弱者の間に、「バカの壁」が存在するのです。
これは誰の悪意によって恣意的になされるでもなく、よりによってバカ側の人が自分から知る機会・成長する可能性を閉ざしてしまう拒否・拒絶のエネルギーで無意識的に築かれるもの。知っている側が意地悪しているわけではありません。

そもそも知っている側の人が知らない側の人と接するとき、自分が実はいろんなことを知っていて、それを実行してちゃんと成果も出して、豊かで幸せだということをことさらには表明せずにいるのも、意地悪だからではなくてむしろ、

自分の自慢をしないという嗜み。マナー。謙虚な配慮


ゆえなわけです。

誰も悪くない。

あえて悪いとすれば、自分で知らない側でい続けるような在り方・行動(←知る側にシフトするための行動を『しない』という行動も含む)をしておきながら、自分が不幸で貧しいことを嘆き、しかもそれを自分より豊かで幸せな人たちのせいだと妬んで悪者扱いする、「知らない側」にいる人間……ではないでしょうか。

知っている側にいる人は、ひと昔前までショボい側の人たちがよく自己アピールとして使っていた、不幸自慢や同情を集めて気を惹くやり方が、いい加減、陳腐で時代遅れになりつつあることも学習しています。また、それが珍しい可哀想なことというよりは、根性無しの卑怯者がよく使う手だということも。実際、そういう手を使いまくっている依存体質の構ってちゃんが大勢いるらしいことも、ネットなどを通じて間接的にせよ、感じ取っています。また、どんなに不幸だと嘆く人でも、ちゃっかり冷暖房完備で雨漏りのしない家で、電気ガス水道の通った、えてして風呂もトイレもある、あったかいオフトゥンで毎晩眠ることができてる程度には豊かで恵まれていることもわかっています。
本当に、いわゆる一般庶民が、押し寄せる不幸と貧しさの波にどうすることもできず、耐えるしかないというなら話は別ですが、ちゃんとした方法論やノウハウを学習して、実行に移すことで、そこそこ以上いろんな身の回りのトラブルなり、不幸や貧しさなりは、たとえ庶民といえども普通に自力で解決・解消できてしまうものだということを、知っているのです。不幸や貧しさを解消するどころか、望む成功や、幸せな境遇を実現することについても知っており、また今時は苦労に耐えるよりも、いかに現状に甘んじることなく「より幸せになるというチャレンジ」をするかのほうが意義も価値もあるよね……という、(霊的な真実なのかどうかは別として)前向きな思想というかがある種の流行として存在してもいます。

もう、一庶民といえどおとなしく、無能なままで、何も手にせず、その状況に甘んじてどんなにつらくても不幸でも貧しくても健気に笑顔を浮かべてありとあらゆる理不尽に素直に誠実に従い、そのことに耐えている……という時代じゃないのです。

それまで(特にネットや、ネットにより流布した成功者ノウハウや実績などのデータを知らずに幼少期~学生時代~若手社会人時代を過ごしたいまの30代以上の人間にとって)は、
「できないのが当たり前。できると少数派だから浮いちゃう。いじめられる。わからないふりしてみんなと同じバカさに合わせてないと、居場所がなくなる。それはつまらないし不幸だけど、しゃーない」
という感覚のほうが無意識的に通奏低音的に人生を覆っていたかもしれませんが、もはや、それは過去の遺物とさえいえます。
(もちろんいまの時代も、ひと昔前までのような、絵に描いたような転落や不幸、貧しさを味わおうと思えば味わえる、そういう現実が成立する可能性としてはある、というのが、それはそれでこの世の無限さを表していてすごいと思います)

知ってる人は、もうやってる。

表立って言わないだけで、副業や投資、起業(あるいは少なくとも個人事業)といった「複業」を、ごくごくフツーに会社勤めをしたり、家事や育児に追われながら、両立(両、というか複数立?w)させています。

それでいて、

「素人が投資なんぞに手を出すと痛い目にあってすっからかんで自己破産でホームレスか首吊り自殺、一家心中」

みたいなふうになるかというと、ならないw

天才でもないフツーの庶民が、そうならずにうまいことやるには、という注意ポイントやノウハウさえもがすでにあらかた整備され、それをフツーに踏まえて実行してるからです。

ここで

「嘘だァ!?」

と思った人は、つまり知らない側にいるということでしょう。
身の回りの知人たとえば100人いて、その過半数がいま述べたようなことを「できている側」か「できていない側」かで、何を「嘘だァ!?」と感じるかは変わるのです。

(そして、愚かな人になればなるほど、何のデータも根拠もなく、自分が直感的に感じたことを、その瞬間に、もうあたかも確実な事実であるかのように思い込み、絶対にそれを疑おうとしません。し、自分が思い込んだことについて誰かから『違うんじゃない?』と言われようものなら、(何の反論根拠もないのに)全力で敵意をむき出しにして、食ってかかります)

……なーんちゃって。ここに書いたことなんて、全部嘘ですよぅ。
庶民がそんな、仕事や家事、育児もしながらスマホで株式投資やって月十万円くらいの小遣いはフツーに稼いでるとか、土日だけの副業で派遣社員としての給料より多い収入があるとか、スカイプなどネット通信機器をうまく使って細切れ時間に安いレッスン料でネイティブ講師から英語を習ってちゃっかり話せるようになっちゃうとか、ないない!
そんな人は、ほんの一握りの運のいい、才能を持って生まれた、選ばれし人だけ。
それ以外の庶民は、どんなに努力しても、成功につながるルートに乗ることはできず、こぢんまりとした幸せや豊かさの中で、不平不満を言わず、耐えてるもんですってば。
みんなそう。みんなそうですよ。

誰も彼もが実はちょっと前の平均的な幸せ&豊かさより高い境遇を自力でつかんでそれを当たり前のように日常として生活してる、なんてただの幻想。やめてくださいよー、カルト宗教じゃあるまいし。自己啓発か何かに洗脳されてるんじゃないですか?そういうのを信じてる人は。

我慢我慢。何事もうまくいかないのが人生ですよ。ねぇ?(with笑顔)

読者をなくしたビジネス自己啓発本

クソリプ「はぁ? 読者いますよ? 全然売れてますけど?www」

前々からありはしたけれど、ビジネス自己啓発、という本のジャンルがあること自体が普及したのは、やっぱりK間さん以降ですかね。

で、

「そういう変わった怪しいものを読んじゃうんだ?w」

という偏見寄りながらも、認知はされていきました。

そして、自己啓発本の謳う、今でいう「意識の高さ」は、なんとなく生きてる自分の今を肯定したい(大多数の)人たちの顰蹙を買うようなところもあって、アンチ自己啓発本、みたいな意見の勢力もワーッと盛り上がって。

そのあと、そういう、自己啓発本の信者とアンチの戦いの図式みたいなものさえもが普遍化して、同時に、流行ったがゆえにマーケットが広がって有象無象の自己啓発本がわんさと出版され、そのなかで玉石混交の様相を呈して。

ここでのポイントは「石」があるということじゃなく、石混じりのなかにもちゃんと「玉」があるということ。

アンチ自己啓発本な考え方の人も、さすがにたくさん出ている自己啓発本の山のなかに、1冊くらいマトモでためになることが書いてあることもそりゃあるだろ、という点までは否定できなくなっていったようなところもあって。

そういう成熟した「自己啓発本をめぐる、世の中のみんなの考え方もろもろ」は、地獄のミサワみたいな漫画の風刺や、ツイッターでの皮肉ギャグ的なつぶやきに昇華されていき。

そこで転換が起きた。

何がか、というと

会社に勤めて、会社の仕事を頑張るのは、問答無用に、良いことである。尊いことである……という神話が崩壊した


んです。

自己啓発本を信奉しようが茶化そうがアンチで憎もうが、みんなの心の根底にはまだ、

「社会人は会社に勤めてナンボ。出世できるにこしたことはない。『仕事じゃなくプライベートの充実が優先』と言うのは勝手だけど、そういう人はしょせん、会社での出世競争で勝つという、社会人にとってのアイデンティティを放棄した負け犬なのだ」

という意識が、多分に残っていたような気がします。

でも、そうじゃなくなった。

もはや、会社で頑張るかどうかというのは「その人の趣味」レベルの扱いで、そうでない生き方がダメというわけではなく、いろんな生き方それぞれに魅力なり学びなりがあるのだと、庶民レベルの連中まで、気づいてしまった。

みんなの1人1人のなかで、良くも悪くも、「社会人は会社で頑張るのが本分である」という洗脳が、解けていってしまったわけです。

そうなると、よほどの仕事マニアでもない限りは、「やっぱり家族や愛する人、友達と、仲良く幸せにマイペースで生きるのがいいよね」という(古来からの賢明な)答えに、行き着いてしまうw

まだ部分的に多少以上はモノを言うとはいえ、お金の持つ魔力も、みんなの中で相当、薄れていってしまっている。
ブランドものも、以前のような、人を操り虜にする魅力はない。
そんなものが必要以上になくても問題ない、本質はそこじゃない、と、よりによって「大衆」が気付き始めてしまっている。
オセロの大逆転のときのように、パタパタと次々に盤面(≒集合意識、の比喩)の色が変わっていってしまっている。

学歴も、会社での肩書きも、そしてなにより、年収。つまり、お金という、貨幣経済社会では生存にかかわる度合いが高いとされるものにまで、人はすでに、以前ほどは執着も依存も固執も盲信も、していない。

そうなるともう、「会社で頑張って出世する」ことを、どうしてもそこまでみんなみんながやらなきゃいけないとは思えなくなってくる。そして、そんなことにほんとは興味のない自分の気持ちのほうを(それまでは抑圧して、いけない考え方だと否定して、目をそらせてきたけれど)素直に認めてしまう。認めることへの罪悪感や後ろめたさが幻だと気づいてきてしまっている。正直に納得して、やりたくもないことのために大切な時間を犠牲にして不幸な人生は送りたくない、という決意のほうが、確立してしまっている。

自己啓発本が読者を失った瞬間です。

たとえアンチでも、「意識されている」うちは、まだマシ。
でも、会社などの仕事で出世することの意義を感じなくなった人にとって自己啓発本は、世界一どうでもいい、役に立たないものになってしまうのです。

もちろん、書店から完全に自己啓発本がなくなることは、まだ当面は、ないでしょう。
人はそこまで全員が全員、同じふうには変わるわけではありません。
廃れた古典芸能がかろうじてでもなんでもまだ生き残ってはいるみたいに、自己啓発本というジャンルは、栄枯盛衰のどのフェーズにあろうと、なんだかんだ、残っていくとは思います。それを信奉したり書いたりする人も皆無には、ならないでしょう。

ただそれは、囲碁将棋の定石本とか、愛鳩の友(←雑誌名)みたいな、「とある趣味の人たち向け」の1ジャンルという位置付けに事実上なっていったうえで、という話。

いっそ、「ビジネス」をとった自己啓発のほうが、今後は展望が明るいかもしれません。

会社に骨を埋めるよりも家族が大事、という基本に人々が立ち返るにつれ、それまでは「売れないジャンル」の代名詞ともいえたはずの「子育て本」「しつけ・教育マニュアル」系の本が、バカ売れしています。
(今は『子供を東大に入れる』系のしつけ・教育本が、何匹目のどぜう狙いなんだテメエら、と出版社各社にうんざりするほど出てますね)

そして一見、そういうジャンルには興味も関心もなさそうな主婦が、女性が、不動産投資や株、FXの本をみっちり読んでいます。

40代以上の男性が、バンダイプレミアムなどが出す、かつてのアニメヒーローの豪華グッズに何万円もつぎ込み、漫画を全集で大人買いします。

自分が不必要に、望んでもいないのに、会社で出世するという方法で金と権力だかを追いかけ(なきゃいけないんじゃないかという洗脳に縛られた状態でい)るのをやめた分のエネルギーが、そのまま、子育てや自分の資産運用、個人的に好きなことという、プライベート、パーソナルな部分に向けられているのです。

クソリプ「それってどの統計に裏付けられた意見ですか? まさか主観?w あのー、無責任にいい加減なことネットで書くと、あなたがバカだってバレますよ?w」

宝塚音楽学校があくまでも独自路線を貫くみたいに、「あくまでも自己啓発本に書かれてることを実践してる社員を良しとして評価する」まるでそこだけ異次元空間みたいな独自カルチャーの会社が、今後も残っていくとor新しく生まれると、面白いのかもしれませんね。(誰にとって?)

はー、戯れ言戯れ言。




ビジネス自己啓発本マニアな方へ。やっぱりビジネス自己啓発本が提唱するような「デキる人」になりたいあなたへ。
「もしあなたが幸せで自分に自信があり、ありのままの自分でも十分に愛されると感じ、実際そうなっていると思える境遇・人間関係の中で暮らすことができているとして、それでもそういう路線なんですか?」

そこで「ええ、もちろん!」って答えるようじゃないと!

愛鳩の友を読んでる人は、時代のトレンドとか全然関係なく鳩を愛してあの雑誌を読むわけで。
その人たちに負けないだけの、ビジネス自己啓発への愛を持って、アキバのアニメヲタクにも負けない「萌え」でスキルアップに命を捧げるとか、平気でやれるようでなきゃ、どうするよ?

中途半端な覚悟なら、ビジネス自己啓発本マニア気取りなんざ、やめちまえ!このメッキが!!(キャシー塚本ふうに)