完美王(筆ぺん)

またも文具レビュー(笑)。

呉竹から出ている筆ぺんです。
太字中字極細
いまどき筆ぺんを使う機会もそうそうないかと思いますが、私はペン字を習っている都合上、筆ぺんもやることになり、(毛筆の書道は特に苦手なのに)取り組んだ次第。

そうしたら!

なんとなく子供の頃に触った記憶のある筆ぺんとは、別物!!

昔は、使い込んだ歯ブラシみたいに筆先がパサパサに分かれて書き心地どころか線が一定に引けず、またインクカートリッジからのインク補給も当たり外れや時期(カートリッジが満タンか少なくなってるか、気温や湿度がどうかetc)によってマチマチで、びちゃっとインクがたれまくったり、あるいは逆にいくらゴシゴシ書いても悲しいくらい色が出なかったりして。

もちろん今でもメーカーなどによって品質の違いはあるかと思いますが、ここで紹介したものは感動ものです。
ペン先がなんともいえずゴムのような、感覚をつかみやすい一定のしなり方をする。
そしてインクカートリッジからのインク補給が途切れず、また多すぎもせず、ビチャっとシミがついたり、かすれてまともに書けないということもない。

耐久性も(まだ何千時間、などという使い込みはしてないのであくまで感覚値ですが)強く、長く使っても穂先がヨレヨレになって頼りなくならない。

筆ぺんを使ったことがない人間でも、わりとすぐにコツをつかんで、そこそこまともな字が書けるようになる印象。
(もちろん個人差あるので保証はできませんが)

で。

「いまどき筆ぺんを紹介されても、使い道がないよw べつにペン字を習うつもりもないし、今さら書道を正攻法で上達するなんて目標、ハードル高すぎw」

ということも書きながら思ったのですが、じゃあ。。。

これはどうだ!!


お絵描き!!

ほかにも、いろいろラインナップが出てます。
気軽にちょっとやって、そこそこ楽しめるってのがポイントですよね大人の趣味ってのは。

もうちょっとストイックにやりたくなってきたら、般若心経の写経はいかがでしょう。


解説はいいから、お手本がうすく書いてあればそれをなぞって書くよ、という人には、(お手本がうすく印刷されてある)用紙も売ってます。


お手本もいらない、あるいは般若心経以外の写経がしたいという場合は、枠線だけの用紙もあります。

(濃く般若心経のお手本が印刷された紙がついており、白紙の用紙を重ねると薄く透けるので、お手本をなぞるタイプの般若心経の写経もできます)

正攻法で綺麗な字を書くとなると、上には上がいすぎてちょっと、という場合は、「ゆる文字」で、上手い下手の評価から解放されて、雰囲気勝負してしまうという手もあります。(勝負ってw)


お絵描きのほうが楽しくなってきちゃう場合、黒だけだとものたりない、カラーで描きたい……と思う人もいるかと。

そんなときは、あかしや 水彩毛筆 彩 20色セット。(水彩なので混色や水で薄めたり、重ね塗りができる)


株式会社あかしやによる公式PV


外国人による、マンガイラストの彩色に「彩」を使った場合の実演つきレビュー(解説コメントは英語)。


ここまでくるともう、毛筆ではあるけど「ブラシ」という感覚で、和風じゃないいろんなテイストの着色にも使えますね。

もっともっと高度な技術レベル(美大とかプロの領域)で彩を使うデモ動画もあります。


ありゃ、筆ぺんの話からずいぶんと脱線して(このブログいつもそうだろ)。

無理やりスピリチュアルな話に戻すと、霊視で映像が見えにくいという人は、霊視云々以前に、脳のなかに、空間や図形、色彩を認識する回路があまり育ってないことが多いです。

こう言うと、

「え、たくさんテレビ見てるよ。映画も見るよ。毎日、目を開いて生活して、いろんなものを見てると思うけど?」

と反論がかえってきます。

じゃあ、スターバックスのロゴを書いてください、というと、描けない。
(スターバックスのロゴを見たことはある、という人に限る。また、絵のうまさ自体は問わないとして、形や文字が合ってるかどうかだけでもいいので答えてもらうと、それすらできない)

テレビで芸能人が出てる番組を見てる最中に突然テレビを消して、
「はい、いま◯◯(←芸能人の名前)が着てたスーツの色は?ネクタイの柄は?」
などと質問すると、つい数秒前まで、何十分も見ていたはずなのに、わからない。記憶にない。

霊視で映像がよく観える人は、このへんをけっこう答えられることが多いです。
(もちろん、完璧な統計に基づく因果関係を実証するほど私もちゃんとは言えないですが、あくまで印象として)

数学などで、まったくわからない問題を目にすると、そもそも思考が停止して、どんだけ時間があろうと机に向かっていようと、脳神経がほとんど処理をしていない、というの、あるじゃないですか。

霊視も結局は、言語化などで脳が観えているものを解釈するときには、一般的な意味での「思考」が伴っています。
(こう言うと、脊髄反射的に『はぁ〜?チャネリングでは頭を使っちゃいけないんだよ〜?』と、ニュアンスの違いをガン無視して言葉尻だけを捉えてツッコミを入れてくる人がいますが、思考の意味が違います)

そういうとき、スムーズに、霊視で得た霊的エネルギーの波形を、映像に変換処理するだけの脳の思考回路を鍛えておく意味でも、手を動かして自分で色彩や図形にふれてみる、というのは、何か役に立つ所があるんじゃねえかなとなんとなく思ってる次第。

ていうか、絵が描けたら、観えたものを絵にして相手に見せることもできますもんね。

美術の専門家じゃないならなおさら、独自でも付け焼刃でもなんでもいいから、無理なくできる範囲内で、お遊び程度に、ちょろっとこんなこともできますよ、くらいにいろいろ身につけておくと、とりあえず楽しみは増えるんじゃないの、といういい加減さで言ってますけどw

ましてや中高年にさしかかったり、いよいよ老後の楽しみを……というトシになってるならなおさら、

絵手紙にハマる

タイミングも間近なわけでしょう?(笑)

ほら、こんな世界がもうすぐ開ける。

さぁ、これさえ買えば画材はひととおり揃う入門セットもあるよ。


おあつらえ向きにハガキサイズの用紙セットも。


って、こうなるともはや、

ボケ防止

ですね。

そういえば介護の仕事をしてる友人・知人から、認知症が進んだ老人の話をよく聞きます。
それまではいわゆる「しっかりした」「立派な」「自分に厳しい」「良識のある」「規律&礼儀正しい」といった、デキる人的なコメントで評価されてきた人ほど、すごいんだって。
すごいんだって。
すんごいんだって。
特に女性が。

もうトイレも自分でできなくなってオムツして、大も小も漏らしてパンパンなのに、(男や女の)性器の隠語を大声で連呼しながらオムツに手を突っ込んでクソまみれで自慰しまくりとか。

男子トイレに駆け込んで、そこで用をたしている男性の性器にしゃぶりついて離さないとか。

男性でも、学歴や社会的地位がある人ほど、認知症で理性を失うと、
「このクズ!能無し!役立たず!」
「俺はなんたって◯◯大学を出てんだ!」
と、自分の優位性を示したり他人を見下すことをわめきちらすのがセオリーなんだとか。
(女性だと、姑の立場から嫁をなじる言葉のマシンガンってケースが多いそうです)

私、この話を聞いて、女性ってすげえんだなというのと、エリート男性でそうなっちゃう人に対しての
「認知症で自分の名前もわからなくなってるのに、出身大学だけは覚えてるのか」
という感慨で背筋が極寒。

認知症という病気によってではあるにせよ、理性がほぼすべて失われたときにそれでも残る(その人の本質的な深いところまで刻まれた概念・記憶という)のが、学歴自慢や他人への侮蔑って……と、青ざめます。

私は、特に男性ということもあり、いいトシしたおっさんが、しかもまだ老後と開き直るには早い年齢で、そのジャンルのプロでもないのに筆ペンがどーたらこーたら、なんて言ってるのはよっぽど知能の低い、社会的存在意義のない頭も能力もなにもかもが低い生き物なんだろうなあと思うことはあります。

ただそれでも、(本当に自分のなかにそういう概念がたぶんないので)認知症になったときに出身大学自慢はしない自信はあるかなぁ。(それ以前に、自慢する資格がある大学を出ていないというのが大きいですがw)
大学名以外でも、何か自慢して他人を見下して罵倒する概念とか思考って、ほんとに理性がなくなったら自分の場合は出てこないような。わかんないですけどね。

それよりは、草間彌生さんの普段みたいに、

「あぁ、綺麗ねぇ。すっごく素敵」

と、なんでもかんでも美的な素敵さでいろいろ言いそう。

べつにいい子ぶるんじゃなく、嫌いとか汚いと感じたものは

「やだ!色が汚い!綺麗じゃない!!」

なんてパニック起こして幼児みたいに駄々こねるなら、可愛くない?(←いいえ)

世間的には使えない人であっても、人生の末期に、自分の人間性が、あんまりな俗世間の価値観に侵食されてるってのは、さすがに避けたいなぁ、と思います。

それもあって、下手の横好きなのに、それでもこういうのっていいじゃない、と思うことをしてます。

そんな使えない人間、ロクな死に方できなくて結構。

自分でやれることを全力でやっても、それでも世間並みのところまで行けないなら、仕方ないじゃないの。
自殺もいけないんでしょう?
だったら、どんなみすぼらしい死に方をしても勿体無いくらいの恩恵、くらいにハードル下げて感謝感謝で最期までおめでたくいたいじゃない。

なーんて。

こんな負け犬にならないよう、将来有望な優秀な人は気をつけたほうがいいんでしょうね。

ある意味、憧れます。
認知症が進んでもそれでも最後まで残ってる記憶が、自分の出身大学(などなんらかのステータスとしての属性)だとしたら。
なにもかもかなぐりすてて、異性への性欲という動物的本能の真っ当さと強さ真っしぐらに突っ走れるなら。
そこまで誇らしく思えるなんて素敵じゃない。よかったですねぇ、夢が叶って、って。

やだ、なにバカなこと言ってんの、って感じ。

愛と光〜♪
なんちって。
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ベステック デザート・色で遊ぶクレヨン

ベステック社の文具・画材に釘付け。

マンガやイラストレーターさんなら、「ソーラインコミック」シリーズはかなりオススメ。
マンガの下書きに最適な、水色の芯のシャープペンシル。
それに絵画(水彩?)などに適している(と覚しい)水で消せる水色のマーカーペン。

この視点だけでも、かゆいところに手が届く感満載。

一方、実用性そのものは低いのかもしれないけど、私が虜になったのは、この記事のタイトルにもなっている、クレヨンシリーズ。

なんて素敵な色&マーブル具合!!

1本のクレヨンが、まるで大理石のように(というか、お菓子のチョコクランチバーのカラフル版みたいに)モザイク模様の色合いになっています。
それで描くから、当然、モザイク的な塗りっぷりに。

狙ったとおりの色合いにはならないかもしれないけど、狙った以上の色合いになる可能性も広がる。
なんて素敵なクレヨンでせう!!

子供の頃にこういうクレヨンでお絵描きできてたらすごい楽しかったと思う(←錯覚)。

気まぐれに買ってみても面白いのでは。
(そして最初の1回しか使わない罠or子供が壁とかにいたずら描きして大変な事態に)

ちなみに別メーカーですが、こちらのシリーズも気になる!!


クレヨンって、ガキが使うショボい画材でもう完成されて進歩などない、なんて思ってると全然違うんですね。

内臓メンテのルーチンを知る

これに載ってます。



「あぁ、グルテンフリー食生活の洗脳本w」

ってイメージのほうが世間では強いのかな。

このなかに、1日のうちどの時間帯にどの臓器がメンテナンスされるかについての記述があります。
(著者であるジョコビッチが編み出したというより、そういう考え方があると紹介する体裁)

たとえば肝臓は深夜1〜3時頃、そのあと早朝に肺……と、もちろん日中、一般的に人が起きている時間帯もずっと、心臓や胃などが順次、メンテされていきます。

えっ!?と思いましたが、よく考えたら複雑な人体ですもの、そのくらいルーチンワークで毎日せっせとやってなかったら肉体を保てないよなぁ、という感じもして。

肝臓が悪い人、怒りの感情が肝臓に溜まっている人は、メンテが大仕事になるため、落ち着いて安眠できなくなることが多いという記述もあります。深夜1〜3時、まさに多忙または不摂生な大人が眠りにつこうとしてうまくいかない時間帯w
怒りが溜まってんじゃないっすかぁ〜?

個人的感覚ですが、肝臓に怒りを溜め込んでその大仕事がうまくいかないと「なぜか眠れない」感覚になりますし、溜まってた怒りがドーン!と掃除(排出)される場合、その抜けていく怒りという想念の電磁波エネルギーに微妙に全身がエンパスして反応して、胸騒ぎがしたり意味もなく怖くなったり、生きていることが億劫になったりする印象。

朝起きたとき、べつに風邪をひいてるわけじゃなくてもゴホンゴホンと軽く咳き込んだりする人が多いのも、早朝に肺をメンテして終わった頃に起床するから、「掃き出したゴミ」を咳で最終仕上げ的に追い払ってる的なことらしいです。

何時にどこがメンテされるかを知りたい方は、本で確認してください(←べつに本の宣伝してアフィリ代を稼ぎたいわけじゃなく、正確に引用するのが面倒なのと、せっかく本として売ってる商品に抱えたことを引用と称してこういうところで転載しちゃうのも、という配慮)。

人体って、よくできてますね〜。

なんでもつっかかる人、自分は正確な科学に基づく正しい知識だけを世間に広めたいだけだと善意で思う傾向が強い人「それって本当の医学に根ざした正しい知識なんですかぁ〜?」

何もかも愛!系のスピ本をどう捉えるか

なにも悩む必要はない!
苦しみはサヨナラ!
この宇宙のすべては愛!
それを信じるだけで、
なんの努力も要らず、
100%すぐにどんな夢も叶い、
すべて満たされて幸せ全開!
それが真実!それがスピ!
苦しみの時代はもう終わり!
これからは愛だけがすべて!

みたいなこと言うヒーラーとか、そういう人が書いたスピ本ってありますよね。

たいてい、その著者としてのヒーラーの信者(あらかじめ面識がある?)や、いかにも現実逃避の口実を与えられて(事実としての現実の状況は何一つ変わってないのに)妄想の中でだけ「あたし、これでいいんだ!レリゴー♪」と浮かれるペイン子的な人がそういう本をAmazonのレビューで絶賛してたりする。

そこまでスピリチュアルなことを知らなかったり、霊視であらゆるエネルギーを精緻に正確に読み解けるところまで行っていない(ほとんどの)人は、胡散臭いと思いつつ、

「もしかして、それが真実なのかも!?」

とも思ったりして。

だからといって、「よし!信じてみよう!」と、そういうスピ本に書いてある、頭にどんだけウジ虫わいたらこういうこと平気で書けんだよ的なお花畑系の思想どおりに生きてみても、5分ももたないw
職場や家族のイライラ、ギスギス、願って引き寄せたつもりの妄想をちゃんと繰り広げたのにそのとおりにならない現実の山。ネガティブの嵐。

健気な人ほど、
「きっとこれは私が未熟だからなんだわ」
と反省してしまう。
あの本に書かれていること、あのヒーラーさんの言うことのほうが真実なのに、自分の至らなさのせいでそれが私の現実には訪れないのだ……と悩む。
もっと修行しなきゃ、魂を磨かなきゃ、負のカルマを払拭して、霊的ステージを上げて……と、明後日の方向に暴走していってしまうんですね。
そのうち、その路線で何をやっても現実は相変わらず思うようにはならず、ネガティブと感じる出来事はなくならない。から、ついに現実逃避を極限まで突き詰めて
「この世は幻想!私が幸せだと思ったら何もかも幸せ!ネガティブなことは、自分が意図を向けなければ存在してないのと同じ!ついに悟った。わかった。これで私も、すべては愛〜!あぁ、これが真実なのですね!気持ちいい。ようやくわかった。ふふふ、まだ私の得た悟りにまで至っていないみなさんも頑張って。私もあなたたちが気づけるように神聖な奉仕をするわ!」
みたいな、取り返しのつかない

インフィニティ・モンスピ
(≒制限のない痛々しい、モンスターみたいに手のつけられないスピっ子ちゃん)


になる、と。

他の人に遅れをとってなるものか、という勝ちっ気、負けず嫌いな精神を持つ人になると、実際にわかってるかどうかよりも「他の人からみて自分は、わかってる人だとみなしてもらえるような在り方をしているか」のほうを優先してしまい、ひたすらハリボテを制作して見事な虚勢の張りっぷりが板についてしまったり。。。

そこまでペイン子路線を貫けない、ある程度のところで目が覚めてしまう人は、
「あぶない!へんな思想に呑まれておかしな人になりかかっていた!」
と気づくのはいいんだけど、今度は反動で
「結局、スピリチュアルなんて嘘!ありえない!頭のおかしいバカの妄想!!」
と全否定してしまったり。

なんだかねぇ、うまくいかないもんすねぇ。
えんびふりゃーうめもんせ(←わかる人いるのか&この文章とまったく関係ないオヤジギャグ(にすらなってない戯言))。

さて、じゃあそういう、頭にウジでもわいてないと書けないような、とても現実を見て生きたことがないような人にでもなきゃ書けねえだろ的なスピリチュアルの思想は、いわゆる「誤謬」なのでしょうか。間違ってるんですかね?

あくまで私の私見ということになりますが、そういう、「すべては愛」系の、この世界の現実を見たとは思えない類のスピリチュアルな説というのは、この宇宙(←地球の外側に広がってるあの星空としての物理的空間というより、根源的な空間そのものというか、空間という概念ですらない『世(よ)全体』というか)の根本原理だけをいうならあてはまる、ということです。

いわば、プログラミングの開発環境そのものというか、プレステやニンテンドーDSなどゲーム機で動作するゲームをつくるための根本的な舞台。そこでは仕様次第で、どんなゲームでもつくれる可能性がありますし、愛(という単語がどういう意味で使われているかにもよるけど、もしそれを源としての創造主のエネルギーそのものを指すなら)がすべてです。
そこで、スーパーマリオとかドラクエ、とか、個々のゲームがつくられます。そしてゲームのなかで、このキャラクターは敵だから触ったら死ぬ、などという設定が条件づけされていき、それぞれのゲームならではのルールでのプレイが可能になるというわけ。

その、おおもととしての空間というか「場」に、とある設計者(たち)が創造した、スーパーマリオとかゼルダの伝説といった「個としての、あるゲーム」が、時空間として設置されます。
その時空間には、その時空間のなかにだけ働きかける法則などが逐次、設置されます。
(ある広大な土地に家やビルといった個々のゲームとしての建物がいくつもある、と想像するとわかりやすいかも!?)

その1つのゲームとしての時空間(に働きかける法則など摂理もろもろ)の影響下にあるという時点で、根本的なスピリチュアルの原則だけを言われてもピンとこないし周りの現実にそのままあてはまるとも思えないのは、道理とさえいえます。

もし、スーパーマリオで遊んでる人が、
「あれ?この技、使えないの?ゼルダではできるのに」
などと言ってたとしたらどう思いますか?
「それは別のゲームでしょw」
とツッコミませんかね。

ましてや、
「ゲームのプログラム自体をいじれば、この敵は消せるよね?」
と言い出したら、
「それはそうだけど、それはプレイヤーがゲームのルールの範囲内で遊んでる限りは無理だってば。仮にプログラムを書き換えるとなれば、それ相応のハッキング的なプログラミングのスキルが必要になるよ」
と思いませんか。
それと同じです。
(はい、ここで『そうか!この世界ハッキングという霊能力を修得すれば、この世界の不自由を自在に書き換えられるんだ!』と安直に思いつく人いそう。うん、頑張って実現させてみてね。そして、実現させてから言ってね。『そうすればできると気づいた』みたいな時点で大ボラ……じゃなかった、大風呂敷ひろげていかにも自分は特別にスピの真髄に気づけた崇高で優秀な存在、みたいなドヤ顔しないでね)

で。

あるゲームがストーリー展開していくように、この世界にも設計者たちの書いたシナリオがあります。
起承転結的な、ヤマタニがあるわけですね。単調な作品じゃおもしろくない。

そこで、設計者がつくったヤマタニのことを、◯座の時代とか、いまはカリ・ユガに該当するとか、スピリチュアル諸説がそれぞれの捉え方で察知して解説してたりするわけですね。
(よほどでなければ、この世に流布してるスピリチュアルな説のうち、まるっきりデタラメ100%というのも、それはそれでない印象)

なので、ゲームの設定の範囲内でいう「いまは人類がスピリチュアルに目覚める時期(という設定)or そうでない時期」という区分は、ありえます。

スピ本のなかにも、普遍的な根本原理(それが宇宙全体のほうなのか、このゲームに限っての設定なのかどっちでもいいけど)を説くものと、「トレンド(流行)を書いてみんなに旬なうちにお届け!」型の2つに大別しようと思えばできる実感があります。
その区分でいうトレンドお届け型の本が、
「これからは〜〜の時代!」
ということを書いてたりする。
その情報が、大小さまざまな括り(宇宙全体から、この時空間、そしてこの時空間のなかのさらに1つの次元の1つのタイミングの1つの集団としての人々、など無数にありますよね)のうち、どこのことを言ってるかによります。
読み手が読み間違えることもありますが、たいていの場合、書き手のほうが、情報を得る時点で区分を混同していろんな括りのことを雑多にまとめてしまったり、情報は正しく得たけど文章にちゃんと起しきれないからちゃんと伝わらないものになっているという場合もあります。

人間がやる以上、このへんはいろいろ悩ましいね。

だから、(でまとめると雑ですが)私は、頭にウジわいたお花畑系のスピ本を書いてる人も、
「幼稚園児に全盛期のピカソと同じ力量の絵を描けといっても無理でしょw」
式に、不遜かもしれませんがそのほうが精神衛生上健全、という割り切りをして、生温かい目で視界を横切るにまかせる(=追わない)ことにしています。
べつにそういう人の取り組みが無駄だとも、おかしいとも思いません。
幼稚園児があれこれしでかすのなんて、可愛いじゃない。元気があってよろしい!(←なんだテメエ何様なんだ感)

要は、自分次第。(←うわー、便利なまとめ方)
嘘をつく人もいるし、良かれと思って正しくない知識をそのまま他人に言ってしまう人もいる。
ある人が常に必ずそうということでもなく、ある人がその都度、あやふやなことを言ったりしたり、たまたまそうとは知らず正解を言えてたり、思いの外偶然のようにうまくできることもあったり。

それが人間ってもんでしょ。他人を恨まないに尽きる。
そして、

他人を崇拝して絶対視しない

のもたぶん重要。
(予想しうる反論『◯◯さんだけは絶対ですよ!?w あなたはあのお方の完璧さを知らないからそんなことが言えるんです。可哀想にwww』)

なーんて。
ほんとはね、いいと思う。
幼稚園児が、いつか本当にウルトラマンになれる!と信じていようが、サンタクロースが実在すると思っていようが、いいじゃない。
「これぞ真実100%というスピ本に巡り会えた!そういうことを書ける人を見つけた!一生ついていきます!」
みたいになっても、可愛い可愛い。

好きにすればいいよね。

すべては愛♡

マッスルメモリーが助けてくれる

筋肉記憶、って日本語で言えよって感じ。



この本に出てきます。

どういうことかというと、たとえば若い頃に運動部などでみっちり体を鍛えて立派な体格(やその体格での筋力による高い運動能力)だったことがある人がいるとします。
そのときの体の様子、というのを、体(というより脳)は覚えている、ということ。
だからその後、不摂生や運動しない日々などが続いてすっかりぶよぶよの肥満になったとしても、運動を再開するなどして肉体改造を始めると、かつての体格のあり方を脳が覚えている分、ほかの人よりも以前の体格に戻るのが早いというもの。

自分はまさにその典型なのですが、筋トレなど運動を再開したその週だけでも、

「え、こんなに?」

というくらい、見た目から体力から、変化があるんですね。

で、(筋トレを過剰にストイックに捉えていて、立派な肉体を手にいれるのは至難の技だということにしたくて仕方がない)人などは口頭でも本やブログなどでも、

「1日にトレーニングして生産される筋肉には限りがある。一朝一夕では結果は出ない」

といった、「なかなか肉体改造はできない」方向性のことを言うんですよね。

だから「だよなぁ……?」と思っていて。

でも、この概念を知ってなんとなく納得したような(←単純)。

でね。

運動能力にしても外見にしても、もしかしたら、筋肉量そのものが短期間でものすごく変わるということは、ないのかもしれません。

ただ、自転車に久々に乗った人が最初はヨロヨロするけど15分もすると勘を取り戻すみたいに、筋肉量以外の、たとえば神経の使い方や、神経の張り詰め方というかでもともとある筋肉が引き締まる……的な諸々のトータルとして、「短期間のわりに見た目も体力も変わったな」となるのではないかと。

で、マッスルメモリーがもし作用するならば、これまで運動をしたことがない人と比べて、同じような運動の刺激を与えたり適切な食事を摂ったとき、以前のような体格に戻すように栄養や体の機能を割くように脳が命令して、平均的な統計データよりもはやく体が元に戻るのでは、と。

もしちゃんと継続すればなんでしょうけどねー。



なんでも悪いほうを見て重箱の隅をつついてでも揚げ足をとる被害者意識の権化のような人「じゃあ若い頃に運動をしてこなかった私はオシマイだ、何やっても無駄だ、うまくいきっこいないってことですか?うぅ……。酷い!傷ついた!!」