才能を極めると無能になる

人間は輪廻転生を通じて霊的に成長していくわけですが。

また、肉体のDNAも、この世にいるすべての動植物のそれぞれの要素を物理的・霊的に持っており、それもまた進化していきます。

DNAの霊的要素、というとイメージしにくいかもしれませんが、まぁ、そういうのがあるわけです。

で。

たとえば音楽の才能、みたいのがあるとしますよね。べつにスポーツでもなんでもいいんですけど。
(それすら、例えに出すのもほんとは適切でないほど、『音楽の中のどういった部分についてのどんな才能?』となると話が細かくなるんですが)

そういう才能は、受肉して生きてるときに修練を積んで、それが脳や筋肉の発達、細胞記憶など肉体にまつわる変化で活かして伸ばして発揮していくことができます。
(その変化はエーテル体を中心とした、サトルボディ(精妙身)とされるものの錬成ともリンクしているのですがここでは詳細は省きます)

それが。

死んでから次の転生までの、霊界での待機期間に、もっと本質的な部分に、いわば保存(アーカイブ)されます。
その保存されたデータに照らして、来世どの両親(としてのDNA保持者)の子として宿るか、などが決定していきます。

そして「極めきる」までの間、まさにいま、才能とされるような特質的資質としての霊的エネルギーを伸ばしている最中の転生では、生まれ変わったときに前世よりもより強く大きな才能として引き継がれ、またDNA的にも、音楽の才能なら裕福な音楽家一族の子として生まれたりと、現世的にもその才能を花開かせやすい配置がされます。
そうやって、どんどん極めていくわけですね。

しかし。

極めきると、いよいよ本格的に魂魄の根幹設計図みたいなところに「内蔵」され、その来世では、その才能をまったく持っていないかのような有様になります。

表立った才能はないけれど、内蔵された、かつての極めた才能としての霊的なエネルギーは、なまじっか才能を発揮している段階よりも大雑把にいって「強い」です。

なにができるわけではないけれど、なぜか人から敬われ、大切にされる。
そういう、お姫様みたいな扱いをしてもらえる人。けっこういますよね?
本人は何の取り柄もないっぽいのに、なぜか人並み以上に恵まれて人生がうまくいってる人。
すさまじく雑に言うと、あれができるようになっていきます。

それを突き詰めていくと、ただそこに「いる」だけで、後光が射してまばゆく尊いお釈迦様……みたいなイメージの人物になっていく(いける)わけです。

さて。

中国の古代の文書などでは、技芸・技能に優れているのは実は「下」で、ほんとに「上」となる大事な要素は「徳」である的な教えが散見されますが、これはなかなかいいセンついてます。

徳というのをどう捉えるかにもよりますが、いろんな才能を伸ばして極めた、まさにその極める道のりの体験を通じての感慨などもひっくるめて、人が体得したものと捉えると、この記事の内容に沿うのかな、なんて思ったりして。


現代はともすれば以前よりスピリチュアルなことについての理解が薄れ、さして専門的に科学について学んだわけでもないのに単に曖昧な概念を否定したいだけの科学至上主義を気取る一般庶民が増えました(よね?)。

べつに悟りを開いてどうこう、ということではなくて、むしろ、昔の人の知恵、みたいに、学校で教わったわけでもないけれど、人としての心に照らしてこう思う、みたいなことが、実際は霊的な摂理についてうまく感覚的に掴み取れているものだったりする的なアレも、だいぶ失われてきてしまっています(違うと信じたいのですが)。

そして、古代の中国であれば「下」と捉えられたはずの、才能の方を、「高(ハイ)スペック」としてもてはやすようになってきていると感じているのですが、どう思いますか。

あるいは、二極化が進み、かつてのような「血筋、血統、家柄」がものを言う、暴力的で排他的な、一部の勝ち組と大多数の負け組としての支配構造が社会で成立していってしまっているようにも思えますが、そうでもないんでしょうか。
(この、血筋を信奉する考えは、『前世までで才能を磨いた人間が、より良い血筋の家系に転生する』という、ある意味での真理を、歪めて捉えて、実質的に備えている徳の部分を評価することなく、ただ現世で権力を掴んで独占・独裁的に影響力を強めた家系に生まれた人間なら手放しで勝ち組認定!みたいな差別的な薄っぺらさを肯定するようになっているのが大きな原因だろうなと思っています)

こういった風潮が続くと、

・中身のない、単に血筋だけが(現世で権力をせしめた家系という意味では)良いとされる家柄に生まれた、徳もへったくれもない人間がなぜか支配者・上流国民扱いされてしまう(そういう『上に立つ人間』に支配された社会ってどんななんですかね)

・本来は、才能を極めきったからこそ無能になった人の方が人間としては上というか、敬うべき「悟りの道のりでいう先輩」なのに、現時点で道の途中だからこそ才能全開!でいかにもすごい技能を発揮する人間の方を引き立ててしまう(ことで、目先の技能で点数をつけて上下や勝敗を決める、人間性が育ちにくい価値観が社会に蔓延する)
 (何かの能力が秀でてるわけでもないけど、この人と一緒にいて話したりして何か学び得るものがあるので敬う、といった人の評価法ができなくなる)

みたいなヤバげなことになりはしませんか、的な。


もっと言うと。

いろんな才能を極めて、いろんなことについて無能になり(それはその分野で技を磨いて修練するなかで人間性を高めるということをもう必要としないからです)、ある意味では解脱というか、人間としてアセンションしてこの世を卒業する段階になると、

世間一般の人並みなことが全然できない、人よりも劣ったように思える有様で、社会生活がうまくいかずホームレスなど「底辺」とされる生き様で生きるようになる

ということも実はよくあります。

ホームレスとして生きることしかできないような社会性のなさや不運とされる運命、なにか身体的・精神的に障害とされるような状態、持病、そういった、大雑把にいえば「負の性質」とされるような有様で生きている人は、とても劣っていて、残酷な物言いをすれば「生きている価値も資格もない」などとサイコパスな(合理的で賢いつもりの、アーリマンに呑まれたような)人には言われてしまいやすいです。

でも。

いろんな分野でガンガン成功していって……を、あらゆる分野でやりきってなお、見落としている、やり残していることがあるとすれば、

将棋でいう飛車角落ち的な、人から蔑まれたり社会生活上の恩恵が得られない境遇で生きて何を学ぶか……といった、ゲームの難易度選択でいうと「(スーパー)ハードモード」を選ぶ

人がいるとしても、そこまで理解不能ではないのではないでしょうか。
だって、プラスの栄光をあらゆる分野でやりきったら、あえて今度は(大変でも)逆方向に、とか思うとしても不思議はないと思いません?

もちろん、すべてのホームレスや何かの障害者が、実はすごい才能を極め切ったからそういう選択をするようになった、とは断言できません。

単純?に、前世までの生き方が劣悪で、誰かを攻撃して傷つけてなんとも思わないような有様だったので負のカルマが蓄積して、ある人生では身体障害者として生まれてくるという方が、どちらかというと一般的です。
(これ、俗世間の人向けには、すごく言いづらいんですよね。それが真実だとしても、やはりスピリチュアルなことが一般常識では否定され、証明する手もないとなると、『あなたが今回、身体障害者として生まれたのは、前世までで極悪人だったからです』なんて、根拠のない誹謗中傷になってしまう(だから基本、言いません)。ただそれでも、数少ない個人的経験ですが、身体障害者の方と話したとき、『こいつ、いい根性してんな(婉曲的な表現)』と感じることが多く、前世までの極悪さ、しっかり継承されてるよ(それを、健常者が『身体障害者だから可哀想』という色眼鏡で同情するから、見えにくいというのもあるんだろうな)と感じたことはあります)

ただ、無能とか、才能がないとされる有様の人にも、

なぜ今回そうなのか

の経緯の中には、この記事で述べてきたような事情・事象も世の中を見渡せば、あるんだよ……ということです。


これってね。

ある個人が、何かで成功したくて努力しているのに全然才能がないように思えてつらい気持ちになる(もっといえば精神を病んだり、最悪、自殺してしまう)とか、

人を生産性と称する、現世に貢献しているかどうかを測る基準での優生の考えで命の選別をする

といった、人(や社会全体)がディセンションすればするほど顕著になる、ヤバいのに「いいや、これこそ合理的で正しい、賢明な判断だ」と豪語しちゃう香ばしい人が出てくる(出てきちゃった)世相では、よくよく肝に銘じたほうがいいんじゃないかな、と個人的には思います。

そもそも。

「才能があるとされる、何かの能力で秀でた人間が、そうでない人間よりも本質的に(≒命の価値として)上である」みたいな考えは、大いなる誤謬

ですよ、と個人的には、言いたいです。

えー?
やっぱりそんなことない?
なんだかんだいって、男なら仕事ができて金を稼いで異性にモテて精力絶倫でHもうまくて、健常者で生まれてくる子供バンバン作れる精子ドピュドピュで、女なら孕んで産んで育ててをつつがなくこなす、みたいな人間こそが生産性があって尊く、そうでない人間は救う価値がない、って方にイっちゃうぅ〜?

まぁね、にわかに流行りよね、そういうアーリマンっぽさ。

流行りに乗るのも大事、って?

いまどき流行らない思考・思想なんか時代遅れでダサいからやめろ捨てろ、って?

んまァ、勇ましい。

本当に香ばしいわ。とっても芳(かぐわ)しい。

そうね、そういう考えが絶対に正しい真実だと思うわ。
100%賛同する。ホントよ?(目泳ぎ&棒読み)
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天界のマスターの魂を持った人間たちが完全に目覚めて使命に全力投球、は幻想かも

人間にはおおまかにいって2種類あり、支配する側とされる側……じゃなかった(テヘペロ)、

悟りを開いて解脱しましょうという学びの真っ最中である「現役生」としての人間と、
実はもうこの世を一度、卒業して天界に解脱したが人間界を助けるため受肉した人間


がいます。

その、一度この世を卒業したOB/OGとしての「マスターの魂」を持つ人間たちは、これまでにDo Over(←いわゆるビデオゲームなどでいう『何周目』という概念)で現役生たちだけに任せておくと、毎度毎度ラッパが鳴ってゲームオーバーになる流れを今度こそは変えようとして生まれてきます。

ただ。

マスターの魂だからと、誰もがすごい人と認めるなにか天才天才した在り方をしているかというとそうでもなく。

というか、天才っぽいところもあるのですが、だからといってこの世の人間たちにすごいと評価されるようなレベルやランクではなかったりします。
(ただのおかしい変人と思われ、小馬鹿にされ、たいした人間ではないと評価されることの方が多いです)

特質は完全にマスターすると内部に取り込まれ、その分野について無能になるという仕組みがありますが(次回のブログ記事で解説します)、そのため、かえって人並み以下の出来損ないのような有様で生まれてくることもあります。

また、すごさをそのまま保持している(段階だ)としても、波動を高くしていくときにこの世特有の「邪魔」が入って潰されないように、まだ時期尚早というときに本来のマスターの魂の輝きが増しそうになると、わざと自分の意思で邪魔が入るようにして、この世の「邪魔」が入る前に抑え込みます。

まぁいろいろありますが、現役生の人間と大差ない感じに見えるような設定になってます。

そして、幼少期から、自分はどこか他の人たちとは違うようだ、という感覚を本能的?に持ってはいるものの、だからといってわかりやすく天才少年少女として世に出て活躍して有名になるかというとそうでもないため(それは上記に述べたような諸々の仕組みゆえです)、

「自分は特別だ」なんて精神年齢が低いガキあるあるの、単なる思い込み・勘違いかな

と自戒するようになります。
(あまりにも子供の頃に、自分が本来の輝きをちょっと発揮したとき、そうした洗練された良さを好まないギスギスした大人たちや同年代の野蛮な現役生としての人間たちから難癖をつけられ、そういった経験が積み重なりすぎて、過度に自分を押さえ込んでしまう人も多々)

一方で、自分と同質な、つまりはマスターの魂を持った人との出会いを求め、例えば田舎で教育水準も高くない地域に生まれたりすると、なるべく優れた多くの人がうごめく場に行けば自分と同等の存在たちに会えるかもしれないという純朴な思いを抱いて、勉強を頑張って都会にある難関大学に入ったりと、いわゆる「意識高い」系の動きをする人も珍しくありません。
(勉強を頑張って進学校に入り難関大学を目指そうという人は、親に洗脳や強制されて、の人や、その方が現世でエリートになれるからという傲然とした優越感や差別意識、現世利益を欲しがるエゴなどが動機の人がいます。が、マスターの魂を持った人が難関大学を目指すのは、もっと素朴に、自分の優れた要素各種を隠さずに出しても怒ったり嫌ったりせず、むししろ分かち合って切磋琢磨しあえる仲間を求めるがゆえだったりします)

まぁ、マスターの魂を持った人間の解説はこの記事ではこのへんで。

で。

じゃあ、ある時期、年齢で、本来持っているマスターの魂としての輝きを、誰にも邪魔されないように発揮して、この世を前回以前のDo Overのときのような破滅から救おうと全力投球するかというと……。

そうでもない

んですよね。

これも、個々人により魂の成分の配合というかから使命の内容に至るまでバラバラなので一概に言えないのですが、

現役生としての魂の要素・成分も併せて持った状態で生まれてくる

マスターの魂を持った人間の方がどうやら今は多いようです。

この、魂がまるでカクテルのように「配合」されて1人の人間として生まれるってなんやねん、という点については、

マルチプルソウル(複数の魂)

や、

ディバイダブルソウル(分割しうる魂)

などといった概念で、スピリチュアル業界でも少しずつ言及されるようになっています。

その、現役生としての、ほんとにまだ未熟な部分、ひとりの人間として動物的に自身が生き延びて繁殖するという本能の部分を満たしたい気持ちが、良くも悪くもマスターの魂が使命遂行100%!に舵取りしようとするのを妨げることがあります。

この、天界のマスターとして世界を破滅から救い、人類をさらなる霊的進化に導こうという崇高な思いとそれができるだけの偉大な能力。
そして同時に、素朴に1人の、ヒト科の動物として、二足歩行をして服を着て言葉を話して……という、ちょっと高等動物っぽい在り方でとにかく生きて人生を満喫しようという在り方。
その2つの在り方の、綱引きのような、喧嘩のような、葛藤。
ときにこの葛藤は著しいストレスになり、マスターの魂を持った人間はそれゆえに自殺や重度の薬物依存、破産など、他の人にはいったい何でそんなに思い悩んで苦しんでいるのか全然理解されない理由で人生を踏み外すこともあります。
(私がスピリチュアルヒーラーという、世間的にみればなんだそれ的な職業を選んでいる理由の1つに、こういう状態の人に質の高いスピリチュアルな知識に裏付けされたアドバイスなどをできる立ち位置でいたいから、というのもあります。そういう人がもし、世間的に『まっとうである』とされる、精神科医や臨床心理士など『しかるべき、とされる』機関や専門家に相談してしまうと、そういう人たちは霊的なことを単なる妄想として処理してしまったりして、本質からかえって外れたアドバイスで薬を処方されてしまったりと、見当違いな目に遭うことがあるのです)

また、マスターの魂を持った1人の人間としてはバランスがとれているけれども、現役生としての人間たちのあまりの幼稚さと愚かさ(←それは形式的にはいわゆる難関大学を出て社会的地位も高い、権力を持った指導者・支配者といった肩書きで『すごい人』扱いされている人なども残念ながら含みます)ゆえに、どうすれば自分のメッセージが伝わるものなのか途方にくれてしまう人もいます。
あるいは、わかりやすく新興宗教の教祖になるなり、あるいはIT企業などを興して世界的な成功を収め、全世界的に尊敬される人物にはなれたとしても、はたしてそのやり方が、自分のメッセージを伝えたり使命を遂行することに繋がるかというと疑問、ということも。

誤解を恐れずに!と、マスターの魂を直球で全開にして精力的に活動したことで、真実を疑ったり怖れる大多数の現役生としての人間たちから、かえって

「怪しい危険人物」

などと警戒されたり、あるいは誹謗中傷され糾弾される場合もあります。
(20世紀初頭〜中盤にかけて生まれた、マスターの魂を持って生まれた人間たちはそれをして暗殺されたり、偉大な宗教的指導者としての功績があるにもかかわらず『新興宗教で金儲けした詐欺師w』などと揶揄される存在になったり、いろいろ残念ともいえる結果を生んでいます。その轍を踏まないように、ここ数十年で生まれたマスターたちは、いかに現役生の、どうしようもないグダグダさによって自分のせっかくの活動が負の側面を生まずに何かを伝えられるかどうかに慎重になっている人も少なくないようです)

まあそんなわけで。

マスターとしての魂の使命感を強く感じている人ほど、

「はやく、マスターの魂を持った仲間と出会ってドラクエみたいにパーティを組んで動きたい」

といった切実な思いが強いのですが。

驚くほど冷淡で、その気がなく、マスターの魂を持って生まれたこの人生自体を棒に振るような有様で、すっとぼけている人の多いこと多いこと。

よほどでないと、まともな期待はできないでしょう。

じゃあ、よほど、って何か。

そこをあの手この手で探りつつ動いて時期を待つ、みたいになってるマスターの魂を持った人たちの山、山、山!

さぁ〜て、このあと、どうなるんでしょうねぇ〜。

どうなるか、を待ってるとダメ。

どうするか、で創っていかないと、どうにもならないよ。

マスターの魂を持ってるけどアレな人「えー、こわーい。私はきっと現役生だから関係ないだろうけど(すっとぼけ)」

なんでもそうやって一生テヘペロしてろよォ〜。

自分は関係ない、ってつもりなんだろうけど、実は自分がバレーとか野球の試合に実は出てて、自分のところに来たボールを全部見送ってるせいで、チームが負けそうになってるかもしれないけど。

でもしゃあないか。知らんがな、って?

思考のスケール単位を持つ+使い分ける

この世は幻想。

スピリチュアルな本や話ではよく、そう言われます。

これがどういう意味合いでそうなのか、学ぶにつれて徐々にわかってくる人もいるし、学んで悟ったつもりでものすごい誤謬に呑まれて勘違いをしてる(のに本人はドヤ顔な)人もいて面白いわけですが。

思考を複数のスケール単位で持つことの重要性を、俗世に肉体を持って生きるうえでは、ひしひしと感じます。

スピリチュアルな教えの王道「すべては愛」にしたって、現世では、わかりやすく泥棒やスリ、詐欺といった犯罪を自分に仕掛けようとする悪人とされる人がいます。
し、友達付き合いや結婚相手、血の繋がった家族など、いわゆる親しい間柄とされる中にも、秘密や小さな裏切りは数限りなく。

どこが「すべては愛」なんでしょう、と感じるようなことばかりです。
(この場合、愛という単語が何を指しているか次第になってくるというのがポイントなんですが)

現世だけに限ってあえて考えても、マクロな視点で見ると
「お金は、ある時点で権力を持った人間たちが
自分の都合よく世の中を支配するために生み出した勝手なルールにすぎない」
といったことが見えてきますよね。
その、人が作ったルールを、あたかも自然法則各種のような、この世にもとからある普遍的な事象と同列に捉えてしまっている人がある意味、滑稽だったり。
お金というもの自体、ある人(たち)が勝手に作り出して、「こういうことにする」と内輪でルールを決めただけなのに、それに賛同するという、いわば「言いなりになった奴隷」という動き方をしてしまう。
動物や植物は、太陽光の作用を受けるし、重力や時間の法則(時間は重力の法則の一部なんですが)に添います。体内の光合成や食べたものの消化、肉体の維持などなどに使う化学変化も、共通の変化ルールのとおりにしますよね。呼吸時には酸素を吸って二酸化炭素を吐く、みたいな。
でも動植物はお金のルールには従いません。
はい、この時点で、いかに、お金というものが、人間だけが勝手に作り出したルールか、おわかりでしょう。
(だから占いで『金運』という項目があると、個人的には首を傾げてしまいます。霊的エネルギー事象のどこをどう金運と捉えて観測するのか)
(だからついでにいうと、スピリチュアルに金運を願うことも、なんかすげえなと思ってしまいます)

ただ。

だからといって、現行のお金のルールから完全に脱却するのは、そう簡単なことではありません。

まず、国籍といった、これまた人間が勝手に決めたルールといえばそうなのですが、それがあることによって、納税の義務などが生じます。
これも勝手な支配です。
もし、それが本当に嫌なら、そういう活動をして、自分がどこの国にも属さない、ルールに縛られない人間なのだという権利というか境遇を正式に勝ち取る必要があるでしょう。
それは不可能とは言いませんが、並大抵のことではなく、これまでに成功した人類がいるのかという点もなかなか。
あるいは正式も何も、バックれてどこぞの離島で税金も納めず、死ぬまで逃げ切り!という手もあるといえばある。
なんにせよ、いろいろアクションが必要になります。

無難なところでいえば、しぶしぶでも、悶々としてでも、勝手に決められた戸籍や国籍に従い、なんでだよと思いつつも納税し、欲しがった記憶もないのに与えられた選挙権を持ち、とはいえ病院などにかかるときは保険証を出して安く済ませるといった恩恵も被る。
(それを言ったら『舗装された道路を歩く』なども全部、知らずに国や行政団体のしてくれたことの恩恵を受けているわけですね)
そういった、清濁併せ吞むスタイルが多数派っちゃ多数派。
(私もそうしています)

そうなると、
「お金は人間が勝手に作ったルール!だから従わない!本質的にスピリチュアルなものではない!」
などと、人間が勝手に作ったという1点のみを問題にして単に「従わない」「求めない」とか言ってるだけだと、普通に生活に困りますw

この世の人類の社会基盤をお金に根ざしたものから別の何かに変えることこそ、生まれてきた使命!と思えるならどうぞどうぞですが、そうでもないなら。

無難にしたがっておく、「そういうことになってる」なら、あっそう、でそのとおり、波風立てずに合わせておく。

そんな手もありえます。
というか、かなり有効です。
(あまりやりすぎて従順になると、権力者が図に乗っていろんなことし出すので、良い意味でしっかり圧をかけるべきところにはかけておく、みたいなパワーバランス、大事なんですけどね)

これ以上書くとくどくなりますが、そういうふうに、思考にも、それぞれスケールがあるわけです。

そして、すべてのスケールで矛盾なく、ある生き方を貫くことは不可能ではありません。
(大変かもしれませんが)

というか、すべてのスケールなんてものをいちいち意識していられるほど器用な人間もあまり、いませんけど。


スピリチュアルな考えや教えを大事にする人でけっこう陥りがちなのは、

スピリチュアルで真理とされること(例:すべては愛)を、現世の営み全般に常に適用しようとする

ことです。

というか、真理というのは、適用しようとする以前に「常にどんなスケールでも、されている」ものなんですけどね。

つまりこの場合、

真理だと思っている言葉について、現実的なある場面においては適切でない「(本来の真理そのものからはズレた)解釈」で捉えている(ために不都合が生じる)

ということだと思うんですけど。

すべては愛、という言葉を、なんか漠然といいことをしてありったけの愛情をすべての人に対して発揮する、と捉えると、単純に気味が悪いというマイナス印象にもつながるでしょうし、犯罪的な意図を持った人の前ではカモになります。
あるいは、職場の同僚など、仲間ではあるけれど出世競争もする敵でもある、みたいな関係性の人との間では、利用され踏み台にされ、笑顔で「ごめんね〜」とか言いながらも、さっさとその人は上なり次なりに行ってしまうかもしれません。
まさに踏んだり蹴ったりです。

「それでも、人類全体でいえば、私を踏み台にしたりカモにして栄える他の人の役に立つなら嬉しい」

と本音100%で言えるなら真の聖人か、あるいは真のバカかどっちかでしょうね。

「そんなこと言われても、どのスケールでも完璧になんてできないよ!」

という(おそらくほとんどの)人は、まずは

その時点で、現世的な自分の身の安全に直結するスケールでの有利になる選択をする

ことを心がけるといいと思います。

たとえば職場で、ものすごく大変なことになっている別の部署の社員がいるとします。
自分は、できることなら助けてあげたいとします。
でも、自分の仕事もいっぱいいっぱいだとします。
状況が改善されないと、その人はクビになるとします。

そういうとき。

下手げにスピリチュアルな教えを優先して、その人を助けてしまうと、その人は仮に助かったとしても、自分の仕事がおろそかになって自分の方がクビになってしまうかもしれません。
そのとき、相手が自分のことをかばってくれるかどうかはわからない。
「なんかごめんねー。私のせいであなたのほうがクビになっちゃったみたいで」
とかなんとか、形だけ申し訳なさげな表情で上っ面な綺麗事をさらりと数秒で言っておしまい、なのがおそらくあるあるでしょう。

一度そういう経験をした人なんかがよく、
「正直者は馬鹿を見る」
「人を見たら泥棒と思え」
などと、自分の経験則を教訓にしたりもします。

すべては愛なのか。正直者は馬鹿を見るのか。人は泥棒なのか。
さぁ!正しいのはどれ!?

みたいな考えをしてると詰みます。

それはどのスケールでどう捉えたらそうか、みたいな話でもあるし、

現実はそれぞれの人の第一希望だけが起こる
     +
人は自分にとって霊的成長になると信じていることを第一希望にする
     +
だいたいの人は(本来、不必要な)苦労や理不尽で傷つき苦しむことが霊的成長に繋がると誤信している
     ↓
頭では「なんでこんな酷い目に遭うの?(私はこんなこと望んでない)」と感じるような悲劇に見舞われる


の、あるあるな現実創造セットで平常運転されてることでもあり。

よくわからないならつまりは、

スピリチュアルなんて概念をいったん横に置いておいて、動物みたいに
「いま現実で目の前に起きていることをどうやったら生き延びられるか、良い思いをできるか、嫌な思いを回避できるか」
で意思決定をする


が(とりあえず現世で生き延びるうえでは)正解だったりします。
その意味合いでの正解を選びたいか、って話は次の段階で。
(ただし、全方向的に誰も泣きを見ないで済むような選択というか行動は、その人自身が手練手管なり知恵なり力なりを、その行動を成功させるのに必要なだけ持ってないと、結局は『勇み足でズッコケ』みたいに終わるんですけどね)

ほとんどのスピリチュアル系の人は

「でも!そんなことをしたら!私が!不誠実ということになる!人を!裏切ったことに!なるのでは!」

という点で悶え苦しむんですよね。お人よし〜♪

でさ。

誰も苦しまないで済む状況を作るには、すっごいハイスペックが必要なの!

地球の自然環境や動力(今は電力メインだが電力だけが動力源ではない)確保などもそう。
既得権益にしがみついて、良くなる選択肢の邪魔をする権力者たちさえもを納得させて
「これなら万事解決だし、あなたが損をすることもないよ」
という案を、机上の空論でなくほんとに現実にもたらせるところまで高めれば、可能なんです。

ある時点で、そこまでの力がなくて、やむなく、目先の自分が生き延びる(けど他のことはいろいろ被害が出てるし、自分自身、高潔な人間であったかと言われるとそう言えない)選択しかできなかったなら。
それはそれで済んだことなんだから悔しさをバネにして、できるようになればいいじゃないの。
(でも、悔やんだり迷ったりするだけで、何かができるようになるまでみっちり修練を積んでほんとにできるようになる、というところまでいかないのが、スピ系あるある)

そういうプレイなんでしょ?

ならずっと楽しんでなさいよ。

あ、延長料金のことは気にしないで?

なんたって、

輪廻転生は永遠で終わりがない

から。

じゃ、永遠に頑張って♪

お先〜。

「不都合な真実」を、見るなり否定するお花畑脳なら知らない方がマシ

ま〜た、扇情的なタイトル。そうでもない?

都市伝説としての陰謀論、陰謀説を「嘘を信じてるバカw」としてコケにする人はいるし、ほんとに嘘のデタラメな噂なのに陰謀があるかのように信じて吹聴しちゃってるのは確かにアレかもしれません。

が。

特定のある1人の陰謀(という単位のまとまり)かどうかは別にして、

歴史はいろんな(権力を手にした)人の思惑によって動かされてきました

よね?

日本でいえば、



に書かれていることはご存知でしょうか。
(タイトルにある『洗脳』は確かに主観による解釈だといえますが、それを洗脳と呼ぶかどうかは別として、起こっていた事実関係については把握して、そのうえでそれをどう呼ぶかは個々人の意見が分かれるというのが健全だと思います)

ここでいう勝ち組側というか、特権階級としての支配層に入れている人はニンマリかもしれませんが、そうでない大多数の人は「そんな!」とショックを受けるかもしれません。

そこで事実を認識したくないから、否定のために

「陰謀論だ!しょせんは都市伝説の嘘だ!」

と言いたくなる(弱い)人がいる、というのが、あるあるでしょうかね。


それとは別に、(これがわりとスピリチュアル系の人に多いと思うのですが)

その事実は本当にあったし今もそういった仕組みで世の中が成り立っているというのも本当なのだろう、とは認める。

そのうえで、「でも大丈夫じゃない?」と前向きでポジティブな笑顔で、何の根拠もなく、カラカラと笑って「それは問題ではない」ということに(黙殺)する


という手を使います。

この手を使う人は国単位、世界規模の社会構造の問題など大きなスケールでなくとも、太り過ぎとか、健康診断で異常がみつかったとか、お金がないとか借金が返せないほどふくれあがったとか、個人レベルで起こるさまざまなことについてもまったく同じ反応をする場合が多いようです。

ようするに、問題っぽい何かしらの事象があること自体は認知するけれども、それを「問題・脅威である(対処しないと危険が増大して自分に不利な物事が起こって(場合によっては甚大な)被害を被る)」とは評価しないんです。

スピリチュアル系と呼べるような、スピリチュアルな考えをかじって知っていたり、そういう考えに基づいて生きている人がこういうとき、よく詭弁として使うのが

意図が現実を創る

という言葉。

文字面としては正しいんですけど、それを、「いま起こっている問題的な現象の否定」のために使う。

「これまでは、現状は、確かに、そういうよくないことが起きているのかもしれない。

でも!

ポジティブに考えるのが大事!

だって、意図が現実を創るから!

これまで何があったとしても、これからは大丈夫!

だって私、こんなに明るくてすがすがしい気持ちで笑っているもん!

私の笑顔で、どんな不幸も吹き飛ばしてみせる!」

みたいな。

小学校の学芸会向けの戯曲を厨二病末期の下手な劇作家が書いたらクライマックスのシーンでヒロインにこう叫ばせる、みたいな(香ばしく麗しく恥ずかしい)ことを、脳内で、あるいはスピ友同士の間などでは臆面もなく口にして憚りません。
(素晴らしい勇気!but Wisdomの美徳ゼロ)

意図が現実を創る、という言葉に謝れ的な。

で。

ほんとにそれができればすごいよ。

これまでの根が深い諸々の問題が、突如として全て解決してエンディング、という。

まるで映画の王道のような展開。

そう、シナリオライターが教わる、「映画の脚本はこのように書け」というパターンを、現実にも適用しちゃってる人たち。

クライマックスで最大の危機に陥るも、奇跡的な大どんでん返しで主人公が助かり、問題が根本から完全に解決し、みんな大喜びのうちにわりとすぐ閉幕……というのが、セオリーなんですよね。古典的な。

ほんとの現実も、そうだといいですねェ〜。


確かにね、すぐにはひどいことにはならないというか、すぐ死ぬ!という事態にはならないっちゃならないんですよ。
大きな大きな社会情勢の変化とかは。

そして、安穏と過ごせた今日があったということを根拠に「未来(永劫)もう大丈夫!」と言い切る。

いやぁ、素晴らしい。ほんとにそうなるといいですねぇ。
そうできる人ってことなんでしょ?いや〜、すごいなぁ。
羨ましい(棒読み)。

概念が乏しい人はなんでも悪く捉えるしかない

絵の上手い下手ってありますよね。

定義をこねくり回すと面倒ですが、雑にいって、絵が下手な人が描いたものを見せられたら、それを魅力的だと思う人は少ないかもしれません。というかそれ以前に、下手だと、何を描いたのか自体を把握できませんよね。

それと同じように。

人や物事を見聞きして「どう思ったか」という記憶(の仕方、主観の交え方)自体、絵描きのように、巧拙があるんです。

母親の家事や育児のさりげないすごさ、大変さは、同じ経験をして、家事や育児についての概念が練られている人、いわば

解像度が高い概念を持っている



物事について解像度の高い概念的把握ができる


同じような経験がある人にしかわからないものだったりします。

なんてことはないふうの家庭料理でも、隠し味や、ひと手間加えたからこそ生まれた美味しさ、そういう工夫を(忙しくて大変で面倒な中)手を抜かずにきちんとやることがどれだけメンタル面でしっかりしていないといけないか、などは、日頃から家族のために料理をしている人でないとわからなかったりしますよね。

それが何事にもあるんです。

本人がその経験をしていないために、それにまつわる概念をあまり持っていない、あるいは大雑把で解像度が低い概念しか持っていないと、どんなすごいことを見聞き体験しても、

「へ? あれの何がどうすごいの?」

となります。

なんでも言えますよね。実際、私が聞いた言葉をさらっと列挙するだけでも

「◯◯◯◯(←歌手名)なんてべつに歌うまくないじゃん」
「ピカソのゲルニカなんて自分にも描けるよ」
「(プロのスポーツの試合を見て)こんなの誰でもやればすぐできるでしょ」

など、すげー発言はいくらでも。

会社の仕事なんかもそうで、ITについて全然知らない営業畑あがりのオジサン頭の管理職なんかが
「もっと気合いでガツンとやれよ!」
と、システム上、理論的に不可能な要求をエンジニア職の人に上から目線でハッパかけたり。

これはレストランや交通機関を客として利用する場合にもある話で。
働く側になってみたら「何事もなく普通に」営業することがどれだけ奇跡的なことかを痛感するわけですが、客としてふんぞりかえってると、わかりません。
その状況を成立させるためにどれだけの諸々が必要とされるか、わからないんです。
だから、完璧にできていても「そんなの当たり前、全然すごくない」と鼻で笑って見下すしか能がない。
そして、ほんの少しでも何かアラのように感じたら(たとえそれが自分側の行き過ぎたワガママであろうとも)自分の感想の方を優先して文句を言う、貶す。

本人が経験や思い入れがないと想像力も育っておらず、実際の何かを見聞きしても何も感じないしそれがいかに偉大で素晴らしい(と捉えうる)ものかも理解できない……というのは、

バカの壁

でも、出産シーンを見た男子医学生と女子医学生の反応の違いが端的な例として挙げられています。
男子は出産に対する思いがうすく、自分ごとではないこともあり、あらかじめ想像してきていることも少なく、したがって持っている概念が少なく解像度も低いため、実際の出産シーン(のビデオ)を見ても「だから何」で終わりがち、という。


そしてこの記事で主に言いたいのはここからなんですが。

概念が乏しい人と付き合うと、自分がどれだけ素晴らしくても「たいしたことない」と低く評価され、相手が勝手にずうずうしく被害者意識を抱いたことをなんでも「自分の欠点」とされ非難されてしまう

ので要注意なんです。

付き合う人が大事、というのはよく言われます。
いろんな意味合い・側面でそうなんでしょうけれど、個人的には一番大事なのはここだな、と。

自分側がいかに素晴らしく、ズバ抜けたことをできて、ちゃんと形にして示しても。
それを受け取る側が、出されたものを解像度低くしか捉えられず、素晴らしさに気づくことができないと、悪く言われてしまう


んです。

ある意味、素朴な人は、

「ある小さい、レベルの低い集団で通用しない奴が、もっと大きなレベルの高い集団で通用するはずがない」

といったことを信じています。

でもこれ、えてして嘘ですよね。
(場合にもよるのですが)

周りの人間が、素晴らしい何かをちゃんと把握できるだけの概念を持っておらず、どんなにズバ抜けた何かを見ても
「それがどうした?」
「だからなんだ?」
「たまたま向いてるだけだべ。っつったって世の中にはもっとすげー奴がいるからたいしたことねえよきっと」
などなど、否定的に捉えるわけです。

ここにはもう1つ、「自分と釣り合わないものを人は不快に思って排除しようとする」というあるあるな傾向が絡むわけですが。
自分がたいしたことないと、それがプラスの方(うまい、すばらしいetc)であっても、何か異質なことをする人間が近くにいると、生理的に不快なんです、人間って。
だから、意地でも悪く言おうとする。ぜんぜんたいしたことない、ということにしようとする。

もし、何か素晴らしいものを持ってる側の人が、周囲の劣悪な人のそういうコメントを(特に、若い、世の中のことがわかっていないなどで)鵜呑みにしてしまうと、才能の芽が摘まれる形になります。

そして、素晴らしいものを持っている人の才能の芽を摘んだ側の人間(たち)に、そのことを責めるとしても

「はぁ? 何いってんだ? 俺らは才能の芽なんか摘んでねえぞ? もともとたいした才能がなかったんだべ」

などと、悪びれずに言います。

そういうもの。

特に田舎のBKワールドには、あるある。

(そのせいで、相当数の、実はちゃんとやればもっとできる伸びる人が、周囲からの評価を受け入れてしまって甘んじてしまう現象が起きていると感じます)

職業や専門性について考えている若い人などは特に用心すべきでしょう。
迂闊に、友達や家族に、自分が創作をしたり何かプロになろうとして努力していること、現時点での作品などを見せて評価を仰ぐべきではありません。
その道でプロとして活動している人でなければ、現実味のあるアドバイスや感想を言えないからです。

「その分野について信頼性の高いコメントをできるだけの概念を、ちゃんと解像度高く、この人は持っているだろうか」

と、意見を聞く前に考えるべきだと思います。

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私の場合、私生活というか一個人として「あいつはどうしようもない性悪な最低な奴だ」と言われても、それが職業上や社会生活(銀行のローンを借りるとか海外への入国が許可されるされないなど実利面)で悪影響が出るならまだしも、べつになんの権力や影響力も持ってないようなショボい人からどれだけ悪い印象で評価されていようとも、基本的には気にしません。実害がないからです。
(というか私、どうしようもない性悪で最低な人間に若い頃は憧れており、努力したけどあまり性悪で最低な人間の才能がなかったようで挫折的に中途半端にしか性悪な最低さを究められずに、そういうことできるトシを超えてしまって無難に善い人に収まってしまったので、ある意味では賞賛に聞こえます)

ただ、あえて言えば

ヒーリングセミナーを受けに来て、その人の持っている概念が乏しいからとんでもない印象での受け取り方をしてしまう人が現れる

のには、頭を抱えてしまいます。

そこそこいるんですよね、けっこうすごい受け止め方をしてる人。

ものすごい「え、そこ?」レベルでいえば

「やっぱり演劇で培った演技力をセミナー中は油断なくずっと発揮して、受講生にスピリチュアルヒーリングやチャネリングが嘘だとバレないように必死なわけですよね? インストラクターさんは。いや、うまいと思います。すごい。まるで本当にスピリチュアルなことができる人みたいに見えますもん。ほんとに演技がお上手なんですよね。ほんとの演劇で食えない役者をやるより確かに、こういうスピリチュアルセミナーで、あたかも超能力が実在するかのように演技して頭の弱いバカを騙して大金を巻き上げたほうが、儲かりますもんね」

と、その人自身もカネ払ってセミナーに来てるのに言う人とか。
(完全に何しに来たの?としか)

さすがにそこではないにしても、それなりにあるのは

「スピリチュアルなことがわかってできる人だと、『俺様が世界一だ!他の人間はどうしようもねえクズだ!』と思って生きてるんですよね?」

と、なぜか(そのセミナーを担当したインストラクターである私や、ほかの誰であってもヒーラーやヒーリングインストラクターをやっている人)が傲慢な自惚れ屋というイメージで受け止める人。

「ヒーラーってのは金の亡者だから。あいつらは金のことしか考えてない」

と、私のセミナー受講中の休憩時間に他の受講生と雑談していた(というかその人が一方的に話しかけ、そんな話しかけられ方をした受講生は困惑しつつ相槌だけ仕方なさげにうっていた)、なんてのもあります。

もう、なんていうんだろう。

その人の解像度の低い主観フィルターを通すと、この現実はどう見えているの?

と疑問で疑問で。

私側の動きや発言がそうしたものを感じさせるなら仕方ないとも思うんですが、それに続いて

「私も早く、それくらい自分に自信が持てる人間になりたいです」

と、(皮肉でなく)まっすぐな目をして言う人がいること。

目指すものが間違ってない?

(でも、けっこういるみたいなんです。はじめから、偉くなってふんぞりかえりたいのが目的で、何かを目指す人。これ、芸能人に憧れる若者なんかもそうかも。『事務所通して?』と高飛車に言うごっこ遊びみたいの、やる人いるじゃないですか。そういうことをほんとにできるようになりたくて芸能人に憧れてる。実際はもっと切実にめんどくさい諸々で困惑して言うもんなんですけどね、事務所通して、は)

もし額面通りにその言葉というかリアクションを受け取って「なぜそう言うのか」を推察してみると、

その受講生は、スピリチュアルヒーリングに精通していくことを、「人を足蹴にして見下して優越感に浸り放題で、でも凄いパワーを持っているから誰からも文句を言われたりせず攻撃もされない無敵状態でお金もバンバン稼げる強者」になることだと捉え、そこに憧れ、なりたいと思っている

ということになりますよね。

それってただの独裁権力者願望じゃん

と、しらけてしまうんです。

人って、その人が理解したいように歪めて物事を受け止めるし、その人が理解できる概念の範囲内でしか物事を理解できない。

そのことを年々、痛感します。

私がヒーリングセッションを受け付ける客にくわえ、セミナーでも受講生を選別するのは、そういう理由から。

1人でもアレな人がその場にまざると、場全体がカオスでどうしようもなくなる

という、ヒーリングセミナーあるあるな修羅場、それなりに経験あるので。

場合によっては、真実を受け入れたくない受講生側が多数派になると、暗黙のうちに、

「あの、嫌なことをまくしたてるインストラクターの方を攻撃して滅ぼせ!」

といった攻撃的な想いで場が満たされ、インストラクターへの敵意の塊みたいになってしまうこともあります。

その場でほんとに何かつっかかってくるのはよほどの猛者ですが、たいてい、後になってから

「あの人、なんか、ねぇ?」

とヒソヒソ話で悪評を共有し、

「あ、あなたも思った? 私も! あの人のほうがよくないよね!!」

と集団になることで自信を持ち、

「あのインストラクターは悪魔の使い! 極悪非道なロクでもない人!」

ということにして、実際は都合のいいように現実を解釈して真実を見ようとしない、見ることができるほど強くも賢くもない自分の方を正当化してしまう。
そして、俗世間のギスギスした状況を見ては
「ほらご覧!世の中ねぇ、あのヒーラーが言うような綺麗事じゃ通用しないんだよォ!ふぅ、あぶなかったー。私もあんなインチキの言うことをうっかり聞いていたら、今頃、あんなカルトの一員になって地下鉄にサリンまいてたかもね」
などと、ものすごく都合のいい、自分の側があくまでも正義の主人公というスタンスでの妄想を繰り広げます。
しかもその話を広めますw
(これ、ほんとよくあります)

まぁそんなわけで、公私ともに、

概念が乏しく、物事を見る目が解像度低い人とは一切、関わらない

ようになりました。

P.S

こう書くと、

「じゃあ世界でひとりぼっち? 孤独でしょう? 誰も友達がいなくなるよね?」

といったことを思う・言う人が出てきます。

え、この世には1人も素晴らしい概念を持っている解像度高く物事を見られる人がいない前提?

と驚きます。

いや、いるって。

それなりにすごくたくさん、いるから。

これ、「みんな」という言葉で思い浮かべる人々が、どういった人(だと思うような日常を送ってきている)か次第なんですよね。

今どきの時代限定なのかそうでもない普遍的なことなのかわかりませんが、

油断すると確率的に、概念が乏しい&物事を見る解像度が低い人に出くわしてしまうことが多い

わけじゃないですか、世の中って。
それはあると思います。

だからこそ、会社の採用だって、(よほど歯車で使い捨てるブラック企業のヒラ要員を探すのでなければ)デキる人を採ろうと選別するわけでしょう。
結婚だってそう。誰でもいいわけじゃない、というのは、つまり適当に選んだら概念の乏しい解像度の低い人に当たってしまうことを懸念してるわけですよね。

その上で。だからこそ。

ちゃんとした人、すごい人に相手にされるように自分側が実力を磨き、実績でアピールし、信用や評判を得て、自然とちゃんとした人が集まる、ちゃんとした人からお声がかかる「磁場」を形成する
(同時に、アレな人たちからは『自分ごときが相手してもらえるわけがない』と自分から離れていくようにする(≒虫除け))


のが大事なんですよね。

これ、年を追うごとに、そして世相がどんどんアレになる昨今、ほんとに大事だなと痛感します。

アレ側の人たち、何に洗脳されてるの的にヤバいこと、平気で言うようになってきてます。

「俺らは頑張っても無理」

と、一人称複数形でくくり、どうしようもなくダメになっていくのをガハハと明るくバカな雰囲気全開で笑い飛ばします。

昭和の漫画かよ。

なんでもギャグにすればいっときは気が休まるのかな。

現実を見ないスキルの方をぐんぐん伸ばしているのかな。

解像度を上げるどころか、

現実を見る視力を率先して失わせて失明したがってる

ような人たち。

そういう人を「みんな」とか「私たち」という概念で視野に入れてしまうことの危険。

そういう人たちの間で立ち回って、いかに素晴らしいことを成し遂げようとも

「だから何」

「頑張っちゃってイタいw しょせん何やっても無駄なのに自分は何者かであるような勘違い乙www」

などと、ナァナァにごまかしてお茶を濁され、ひどい侮辱をされ、なんならみんなと違う余計なことをする悪い人ということにされてしまう。

その評判の方を聞いた人に、架空といっていいほどの、悪い人物像が、自分のイメージとして伝えられてしまう。

その実害。


あ、ないか。そんなの。

うん、ないない。

ないよきっと。

現実なんか見てもしょうがないじゃん。

ていうか毎日こうして生きてるでしょ?
それがちゃんと現実を見ることができている証拠だよォ〜。
日本は平和!日本は最高!日本は世界一!

っつって?