ほぼ確実に挫折できる魔法の言葉「あとは自分でやります」

なんでもそうですよね。

何かを教わるとき、

・難しくてついていけない

・これ以上、いま教室や先生についていくのが嫌だという気持ちがMAX

・学びの実践の場で「できてない今の自分」をさらけ出す恥辱に耐えられない

など、ようするに

逃げ&隠れ or 頑固

の意図があるときに出る言葉です。

「あとは自分でやります」

さて、この言葉を守る人、いると思いますか?

私は見たことありません。

やらないのか。できないのか。

どっちもあるでしょうけど。


ちょっと冷静に考えてみてください。

未経験だから、まったく知らないから、わからないから、できないからといって学びに来た人が、自分の中でブレーキをかけてその場でそれ以上、学びを続けたくないという気持ちで言った

「あとは自分でやります」

え? と思いませんか?

自分でやれるの?(やれるほど、もうわかってるの?)

じゃあなんで習いに来たの?

できるなら学びになんか、わざわざ来なくてよかったじゃん。みたいな。

それに、立派に完璧にできもしない初心者、素人、下手くそごときが「自分でやる」と教える側の師匠や先生に言うなんて、

単純に失礼

ですよね……。

これ、いわゆる素人が世界トップクラスの大御所に習う機会を(なぜか奇跡的に)得たとして。
例えばオペラの歌唱とか、オリンピックで金メダル獲れるほどのレベルのスポーツ、プログラミングなど、難易度が非常に高いことを教わる中で、先生に向かって言うでしょうか。言えるでしょうか。

「あとは自分でやります」

と。

どの口が言ってんだ、と思いませんかね。やってみせろよ絶対だな?と意地悪な追い打ちをかけたくなります。


それとなくそういうことをほのめかすと、

「ちゃんと本読んであとは自分で勉強して、できるようにして、やります」

と、苦笑いなり、ちょっとムッとするなりして、さらに言うんですよ。

さらに言うか、って感じですが。

だったら最初から1人で本でも読んでチャッチャとできるようになって1人でやってろよ

って思いませんか。

なんかその、習う物事についても失礼ですよね。

で、そういうことをいけしゃあしゃあと言えてしまう時点で、よっぽど

何かをきちんと学んで、いろんな壁や挫折しそうになる局面を乗り越えて一人前になったことがない

ことまで透けて見えます。霊視なんか要らんがな。

たいして、本気で、きちんとモノになるまで、何かを学んだことがないってことの何よりの証拠でしょう。

「あとは自分でやります」

あとは?
自分で?
やる?

それを平気で言えてしまう人間性や知能、人生経験全般のアレさもわかりますよね。

「あとは自分でやります」

それができないから、習いに来るものなんじゃないの?

あなた、そんなに優秀なの? 天才?

だったら人に教わろうとしてんじゃねーよ。

そして、口ばっかりじゃなくて、

できるようになって見せてみろよ

って話。

これまで、あらゆる分野と意味合いで、このセリフを言った人のことは全部覚えてます。

何年、何十年経っても忘れません。

「あとは自分でやります」

もう何年も、何十年も経ったんだから、できるようになったかな?

えぇ、きっとできるようになったと信じています。

もし違ったら。

いえいえ、そんなこと、万に一つもございますまい。


人は無限の可能性を秘めている!!

んでしょ?

だから、「あとは自分でやります」なんて言えるんだよね?

秘めたる可能性を、秘めたままじゃなく、発揮して、なんでもいいけど1人であとでやってモノになるまで具現化するのに必要な手練手管のすべてを備えているから言えるんでしょうからね?

すごいなぁ〜。

世の中には、すごい人がたくさんいるものです。

いとすごし。
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善悪も優劣もない世界は想像していたよりずっと自由で楽しいものでした。

オリジナルヒーリングセッションの感想いただきました。

まだ幼いお子さんが、発達障害かもしれないがまだ幼くて決定的な判断が専門家でもできないことで不安を感じておられる方からの相談です。
(掲載許可はブログにあるものはすべてクライアント様本人からいただいております)

その節はオリジナルヒーリングセッションをありがとうございました。

昔から「この後悪いことが起きるかも」といった謎の不安感に振り回されてきたのですが、子供が産まれたのち更に不安の収集がつかなくなりご相談をさせて頂きました。

「子供に障害があったらどうしよう」という不安の裏に『障害が悪であるという独善的な決めつけ』があるとのご指摘から、集合意識の影響や受難の誓いの解除、そして「誓いが無くなったら、代わりに強靭な意志を持たねば」という思い込みを手放し「神聖な計画の自動運転に任せて生きる事ができる」ようにと、繊細ながら凄まじいスピードでワークをして頂きました。

思い込みを解く事には少し抵抗を感じましたが「無闇に心配したり強靭な意志を持ち出すのは自動運転のブレーキでしかない。自分の望みに基づいたアクセルを踏みたい時だけ踏んで良い」という在り方を教えて頂いたお陰で、こういう生き方したい!と解放感を感じながら手放すことができました。
セッション後は新しい自分の感覚に戸惑う時もありましたが、アドバイス頂いた“天上の存在たち”に相談しながらマルチプルアバンダンスのプログラムで小まめに引っかかりを探ることで消化していってます。

セッションの数日後、夫が職場の先輩とお子さん(発達障害と診断の)について話をしたそうで、私に「これからは平均的でない事が強みになるのかもしれないな」と言ってきて驚きました。セッションの話はしていませんし、ずっと子供の事を“普通であって欲しい”と言っていた人だったので。
また子供の就学に向け見学に行った学校で、子供達の心を第一に考えて学校改革に励む方々との圧倒されるような出会いもあったり、私が子供ひいては人間に対する見方を変えると共に周囲の世界の様子も変わって来ました。

セッションの中でusamimiさんが「障害・病気・貧困などが劣っているように感じるのは人間の勝手な判断であって本質ではなく、どんな状態もその人が選んだ尊い選択である。」というお話をして下さり、そもそも“受難”の定義自体が思い込みだったのだという事に気づけました。
また頭では“障害は悪ではない”と思いながら自分の子には障害や困難がありませんように、と願う自分にモヤモヤを感じてきましたが、その願いこそ私の決めつけによって子供を支配しようとしているものであると分かりました。一人の人間が自分で選ぶ経験の数々を、勝手に判断し邪魔などせず見守って行こうと思います。

善悪も優劣もない世界は想像していたよりずっと自由で楽しいものでした。これまで、やりたいけど躊躇ったり面倒で後回しにしていた事にも手が出せるようになってきています。
まだまだブロックも沢山あると感じますが、せっかく今まで心配に費やしていたエネルギーを自由に使えるようになったので、未熟ながらも行動優先で動きながら解消しながら行こうと思います。

今回のセッションが、主体的な世界を取り戻すきっかけとなりました。本当にありがとうございました。



あざす!!

セッション中の私の発言は基本的に自分の意見ではなく、エネルギーを読んだ上で、伝えるといいらしいものを自動筆記ならぬ自動スピーチばりになんか言ってるだけなのですが。

セッション中の私の発言って、なんか良い人ぽいというか、こうして読むと立派な人なんだなぁ~と感心します。

普段の私とは大違い。

そこが面白いんだよね。

感想あざました!!

ソウルメイトかどうかとか過去生で関係があったとか、「今回の人間関係」に持ち込むのは野暮

タイトルで言い切ってしまった。

多いんですよねぇ。スピリチュアル好きというかの人って。

「あなたは私のことを過去生で殺した」

だから何。

「あなたと私はツインソウル。特別な魂の関係性にある」

だから何。

「あなたは私のソウルメイト。さぁ結婚しましょう」

だから何。つーかキモい。

ほか、なんでもあります。

「なんたって私はルシフェルの生まれ変わりだ。永年最高位天使長セラフィムであるぞよ」

という自己紹介されたり(であるぞよ、はついてなかったけど、ニュアンス的にそういう路線)。

その肩書きのでっちあげとネーミングセンスがthe・中二病!って感じ満載で。
傲然と見下して「大天使ごときのお前に私から直々に声をかけてやっているのだ」みたいな。
あんまりイタくて、憐れで、見ていられなかった。精神病院に行った方がいいんじゃないかな。皮肉じゃなくほんとに。

あのさ。

霊的なつながり、そりゃ、あるよ。見ていけば。いろいろと。

でもね。

過去生や霊界・天界にいたときの記憶をなくしてこの世に転生するのはなぜですか

って、考えてみなよ。

過去生で殺した人に、生まれ変わって「どうもすいません」とか言えばいいの?
それが償いになるの? つーか、そんな償い、そもそも必要なの? 過去生の自分とはいえ、どこかの誰かなのに?

霊的に魂の関係性が特別だからって何?
つーか、特別な関係とそうでない関係の違いはなんなの。
もし特別だったからって、そうじゃない関係性の人と比べてどう特別待遇すべきだっつーわけ?

人と仲良くしようってときに、今回の自分の振る舞いでアピールするんじゃなく、霊的なつながりだの、過去生のなんちゃらみたいな「別の話」を持ち出すのって、卑怯だし野暮

だよ。

気色悪い。

自分に自信がないからでしょ?

しがらみを持ち出して相手が怯むなり服従するなり、義務的に受け入れるなりするのを期待するってわけ?

見下げた根性ね。

それも、目に見えない、スピリチュアルなことを、そんなふうに使うなんて。

恥を知りなさい。

そして。

いくら今回の自分でアピールしたところで、相手が「嫌だ、お前と関わりを持つのを望まない」って表明してるんなら、退(ひ)けば?

「でも好きなんだもん」

「いやいや、あの人が目覚め切っていないだけで、本当の使命を思い出せば、きっと私のことを好きだと思ってくれるはず」

「あの人、嫌いなんです!だからなんとしても、謝らせたい!私に頭を下げさせたいんです!」

etc,etc...

はいはい、ストーカー。

粘着・執着・嫌がらせ。

あくまでも「あなたの頭の中ででっち上げただけかもしれない」霊的ななんちゃらを持ち出すわけ?

それって単純に、今回の人生を、いま現世で肉体を持って生きているナウな時間じゃなく、霊界だか天界だか過去生だか異次元だかなんだかを起点にして時間を過ごしちゃってるってことでしょ?

他の人生やら時空間での出来事やらを思うだけのこの人生ってなんなのよ。

魂としての自分が誰かを思い出すことが、今回の人間としての自分の人生を投げやりにすることになっていいんですか

って話。

「べつにいい」

と思うとしたら、それってつまり、今回の人間としての自分を価値ある存在だと思えてないってことでしょ?
だから別の何かで箔付けしようとしてるんだよね?

まずはその無様で情けない、みっともない、かっこわるいところをどうにかするところからじゃない?

あんまりな妄言を人様に言うかどうかは、その後で考えても遅くはないと思うよ。

やってはいけない勉強法

おすすめです。
  ↓


この単行本


の、図解版。

タイトルどおり、真面目系クズ(成績よくない)がやりがちな、効果の出にくい学習法あるあるについて、どこがダメか、じゃあどうすればいいかを解説してあります。

そこまでとんがった、珍しい風変わりな勉強法というのではなく、例えば
「ノートは2行あけて余白をとりながら、片面だけを使って書く」
など、ある意味では一般的、基本的といえるちょっとしたコツの集大成。

でも、このちょっとしたコツみたいなやり方が、大きな差を生みます。

ちょっと想像してみてください。
あらかじめ引かれた罫線どおり、チマチマと小さい文字でびっしりと鉛筆一色で書いたノート。

「おぉ、勉強がんばってるな」

という印象は、あるかもしれません。

でも、じゃあそれ、テスト前の復習でどう役に立つの?
そのチマチマした、アリの大群みたいなノートの文字を、丁寧に読み込んでいくの?

その苦労をものともせずに頑張るのが勉強、って?

ねぇそれ、本気で言ってます? それで点数とれると本気で信じてますか?

みたいな。

広告を見ればわかりますが、タイトルや強調したい文言は、びっくりするほど大きな文字で印刷してありますよね。

そして、解説文みたいな文章も、小説の文庫本みたいな小ささではなく、パッと見てすぐ内容がわかるような文字数と行数にしてある。と、思いませんか?

それって、人間の脳の仕組みから見て一番、効果的とされるからではないでしょうか。

もし人間が、隙間もなく詰め込まれた活字の山を、何の問題もなく100%、パッと見てすぐわかる脳をしていたら、世間のあちこちに貼ってあるポスターなどは、何もかも新聞のように小さい文字だらけになります。

でも違うわけでしょう? そんなの見ても、何が書いてあるか、全然わからない。
それは愚かだからとか、低スペックだからではなく、人間の肉体(目など)、脳の働きからして自然なことなんです。

じゃあなぜ、勉強のノートだけ、灰色のうすい鉛筆やシャーペンの文字で、チマチマとぎっしり書いて効果があると思ってるんでしょうか。
とにかく書く用のノートっていうならまだわかりますが。
見直して知識を思い出すとか、使い方からして定まってなくて

「だって、そういうものでしょ?(ノートをとるのが勉強でしょ)」

で思考停止していませんか。


……と、そういう基本的なところ。

よく考えたらおかしいよね、確かにこの方がいいよね、という提案が満載です。

なんでも揚げ足を取らないと気が済まない人は、この本に書かれたおすすめの勉強の仕方に、あくまでも反論するでしょう。
それならそれで、(口先でなく実績で)自分の場合はこうなのだ、ということを証明すればいいんじゃないの、と思います。

何がベストな勉強法かなんて、世界で一律に決まるものではないわけですし。

この本一冊で、なんとしてもベストな勉強法とやらを身につけるぞ!というよりは、

なるほど、これまで惰性で何も考えずやっていた勉強法が、必ずしも有効ではない場合があるということだな

くらいの気づきが得られれば、御の字だったりするんじゃないでしょうか。千円だし。この本。

悪気ない世界征服願望

ツイッターでこんなことつぶやきました。

最近出てこないけど。

数年前?まで、今より間口を広く客を受け入れてた頃は、セッションの予約がとれて俺に直接会えるからと、セッションで相談したい内容なんかどうでもよく

「あなたは頑張ってるつもりかもしれないけど、私に言わせればまだまだヒヨッコよ」

など、とにかく何か言ってやる人も。

良かれと思ってなのか

「おそらく他にこういうことを言ってくれる人がいないだろうから、教えてあげる」

という体裁で、いかにこちらが幼稚で未熟で不完全で、もっと改良改善の余地ガバガバか。その広大な改善の余地を、どうすればもっと良くしていけるかetcについて

「いいかいよくお聞き」式に。

そういう人は、本人が自分の夢をきちんと叶えてなくて、逃げ回る後ろめたさやつらさを、そうやって他人に助言をしてあげることで紛らわそうとしている。

もしくは、こちらが成功したあかつきに、
「あの子を成功に導いたのは、実はこの私」
と言いたい。

単純に自分の想いをこちらに言って刻みたい。

自分の存在を、他人の記憶に植え付けることで、自分の領土を拡大し、相手が何か成し遂げたら自分の手柄ということにする。
というか、頭の中ではそういう人は、自分が何かを言った他人のことを「私の子分」と認識しているから、自分が世界征服に向けてまた一歩、成果を出せたと認識する。イカれ過ぎ🦑

これ、いろんなバリエーションで、あるなぁ、と。

「世界を愛でいっぱいにしたい(それ以外を排除したい)」

みたいな、一見「いいこと」に思える思想というかが、その実は差別的・排他的・画一的かつ支配的で、多様性について全然認めてないスタンスだったり。

逆に今は、(おそらく、心の奥底にある世界征服願望を処理しきれてないからこそ)ビクビクするかのように
「私の意見を良いと思わない人もいるだろうから、決めつけはよくない。別の考えを持つ人にも配慮しないと」
といって、思考も行動も停止したまま、誰かから非難される恐怖に震えているだけでどんどんトシ食っていく人もいます。
(どっちも同じなんです。強気か弱気かの違いなだけで)

てかさ。

ここまで社会が幼稚になったか、と驚かされることが最近は多いですが。

意見は1人1人、違っていて、当たり前。

その中で、「社会秩序」といったものが、そこで暮らす人の安全など(仲間割れで戦って全員死亡などを避ける)を考えれば、必要ぽく感じる。

それで制度を作る。

制度の運営責任者が、いわばリーダーとして、いわば権力者としての地位を手にする。

その権力者が暴走しないように、たとえば国の憲法などで監視・(権力の暴走・濫用を)抑制する。

みたくなってるわけです。

それが選挙だったり、今の各国の行政制度各種なわけですね。


ある人が自発的に、自分がどこまでなら社会全体というかに出しゃばってもいいものなのかどうかは、見極めがつかないものなんですよ。
そして社会自体も変わっていくので、ある意見というかを持った人(たち)がどこまで多数派として、そして社会制度の在り方や社会自体の方向性を決めるかの元になる思想を推進するのがよいかどうかも。あらかじめわかったりしない。

社会の運用、なんてデカいことを考えるからには、答えなんか、最初からあるわけないんです。

だからこそ、意見を聞いて、どれだけ証拠としては不確かでも、誰かを信じるとか、任せるとか、従うとか、何かしらの方向性を持つ意図に沿って、決め事をしていくしかない。

それが具体的に現れているのが、歴史上で実在する国々に見られる、クーデターやテロ、戦争などによる政権交代や、あるいは平和的解決という形をとった制度改変、権力者のメンツ入れ替えだったりするわけでしょう。

これは一個人のちんまい生活圏内でも起きているわけですよ、冒頭の私のつぶやきのように。

いわゆるマウンティング。

ボス猿がグループ、ハーレムを形成し、そのグループ内の権力を握る。

どんな単位でもありますよね。国全体だけでなく、会社、町内会、ママ友、家族、友達グループ、なんでも。

で、誰かが権力の拡大を目論んで、ゴリ押ししてみること自体がいけないわけではない。
起業家なんか、(それが必ずしも『権力』志向かは別ですが)少なくとも、この社会で自分ができることを拡大して、主に商業の分野で、影響力なりを大きくすることによって、お金といった報酬的成果物を人より多く得ようとしてるからこそ、起業なんてめんどくさい形をとるわけですし。

で、「それはいかがなものか」と思うならば、(どの人の意見もバラバラで、それ自体が良い悪いではないが、実質的にこの社会というか物理的現実では力の強い人が思惑どおりに他の人の領域にまで支配を及ばせることが可能でもあるので)クレームをつけるなり、なんなりする(というコミュニケーションをとる)。

それでスムーズに問題と感じる何かが解決するか、そうでもないかは、力と腕次第。


そして人間はとどのつまり、自分が生きながらえて子孫を残すことを至上の本能とする「動物」です。
(同時に神の一部でもあるから面白いんですよね)

そうなると、周囲から餌をたくさん手に入れ、自分を肥え太らせ、子孫をたくさん残し、その子孫も養うというのは本能。
そして、その子孫としての一個人それぞれもまた、自分を起点として動物として、肥えて殖えてを目指す。
使えるものはなんでも使おう、で、利害が一致しているのでファミリーで団結する。
そのファミリーが親戚的な血縁にも及び、もしくは血縁そのものはないけど、下手げな血縁者よりも仲間だと感じる人がいればその人と結託して。村ができ。
それが国になり。
かつて仲間として気が合っていたメンツとも、人数が増えたり、複雑な事情が絡んで必ずしも利害が一致しない事態が生じると、内輪揉めが。
それが国内での戦争に発展したり、革命が起きたり。あら、これってまんま、世界の歴史♪

はい、こんなふうに、一見複雑な人間社会も、おおまかに要点だけ捉えると、とてもシンプルに大枠が。

人間って、基本的に、悪気なく、世界征服願望を抱くものなんです。それを「愛」とか「善」と認識しつつ。

でもね。

ある人の「善かれと思って」は、自分からしたら、そうじゃない場合もある。

その場合も、黙っていて相手が引き下がってくれるとも限らない。

伝えないと。表明しないと。

できうる限り、効果的な方法で。

失敗すれば、あいかわらずいいように相手からつけ入られるだけ。シンプルシンプル♪
嫌なら勝つしかない。主張を通すしか。勝つというか、べつに相手を負けさせる必要もないんだけど。
真っ向からバトるのもいいし、相手を諭して考えを変えさせたり。
あるいは、相手の考え自体は尊重しつつも、表現の方法として今のような干渉をこちらにしてくるのはいかがなものか、やめていただきたいと穏便に納得してもらうなどもアリ。
(えてして、穏便な方法になればなるほど、高度な手練手管が必要とされる印象。不器用なバカはひたすら暴力に訴えて怒鳴って殴って。普遍的真理ですわね)

上手に世渡り、していきまっしょい。