Himalayaラジオ「スピリチュアルを仕事にする!」

Webラジオ番組を展開させていただいてます。

ヒマラヤ公式サイト内の番組ページから聴けますのでよかったらどうぞ。

このブログ内で番組の音声を再生できるアーカイブ記事もあります。

上記お好きな方でお楽しみください。

スピリチュアルを仕事にして食べていきたい人への独立開業・開業後の運営ノウハウ。
スポンサーサイト



「(そういうの、)もういいよ」の一言で癒す、呪いを解く

ドラクエなどのRPGゲームなどでよくある設定として、

ある職業をMAX値まで極めると、普段から何もしていない状態でも「◯◯力が50%UP」とか「攻撃を受けない」などのオマケ特典が属性として発揮できるようになります。

最近、現実世界でも、そういうのほんとにあるなァと思うようになりました。
あと、なにもMAX値まで極めなくても、徐々にやり込んでいくだけで、じわじわといろんな能力を苦もなく発揮できる。

例えば、筋トレをそこそこ習慣づけていると、何もしていないときでも基礎代謝がUPして疲れにくいとか、食べすぎても太らない、寒いところでも平気とか。

外国語を学ぶと、習熟するほどにその言語への精神的ハードルが下がっていき、全然わからない人ならその外国語で書かれた看板や本を見ただけで面食らってショックを受けるところを平気だったり。

(だから?、私自身もそうですが、私とお付き合いあるスピリチュアルヒーリング実践者たち、それこそマルチプルアバンダンス界隈なんて言われるらへんの人たちは、直接ヒーリングとは関係ない、コンピュータプログラミングや外国語、楽器演奏、ヨガ、筋トレ、(わりと難解なものも含めた)読書、資格試験の勉強、余力があれば小中高で習う科目の復習etcといった様々なことを、それぞれの興味関心や霊的成長への必要性、単に浮世を渡る術としてでもガシガシやりこむのですが、それは真面目系クズでやみくもに勤勉であること至上主義だからというのでは全然なく、『やって、できるようになればなるほど強く賢く美しくなって、日常生活を送るのがラクになる(少なくとも、いちいち摩耗しない)』のを経験で知っていき、そりゃあやるに決まっているでしょうと消去法で『美味しい』ことを学習しているからです)

ヒーラーとしてもそういったオマケはいろいろあるなぁと思っており。

例えば今の私、基本的にもう、サイキックアタックとか全く喰らわないです。
淀んだ気が充満している、心霊スポットとか、そこまでじゃなくても街全体やその一角が過去にいろいろあって土地の磁場としてどうにも呪わしい感じになってるとかでも全然。
蜘蛛の子を散らすように、という表現がありますが、そういう感じで、邪気の方が逃げていく。
人混みでいろんな人の残留思念などが飛び交うところでも平気。

この世で起こること、体験することは学びのための課題なので、裏を返せば
「もう、この手の課題からはあなたは学ぶものが何もないから、苦しまなくていいよ」
というところまで到達すれば、ダメージ0になるものなんですねぃ。

で。
記事タイトルの能力?について。

これも、ヒーラーとしての能力値、人間としての美徳それぞれの体得度合いが一定の基準?を満たしたら、できるようになる感じなのかな。

ヒーリングセッションとか、わざわざ魔法発動みたいな形式ばったコマンドとかいらない。

「もういいよ」

の一言だけですべてが癒える。

これ、要件というか、それが成立する条件各種があるので、常にいつでも誰にでもどんなことでも、とはいかないですが(その要件が何か、満たしているかを見極められるかの能力もだんだん備わってくるものっぽいですが)。

学び終えているのに終止符を打てずに問題行動、歪みあるこじらせ思考を続行しちゃってる人いるんですよね。

その人がそうしているのを、何を学ぶためにそうしているのかの構図を見通して、実は学びが終わっているということも観て、その人のハイヤーセルフなど全人格、全霊体にアナウンスするように、言う。

言うときも、自分個人の意見としてではなく、創造主も含めたすべての宇宙的摂理に基づいて観測した結果を告げるという客観性。
(お告げの一種なんですかね)

それで(相手が納得して気づいて受け入れたら)全部、癒える。呪いが解ける。

癒すのはヒーラーではなく、癒えることを選択する相手なので、人間として相手から得ている信頼、そこにある関係性みたいなものも絡んでくるでしょうね。
まず顕在意識で「コイツの言うことなら」と相手から信頼されているか。
そして潜在意識やハイヤーセルフなど霊的な領域で、しかるべく要件を満たした有様でその働きかけが成されているか。

単にサイキック能力だけ、ちょこざいに凄くても成立しない。

人間として、霊的な面も含めて、全部を、ある(並外れた)水準以上にまで伸ばし、引き上げて在れるか。
そこまでの高みから、救いを求める衆生と接することを選べるか。
そのうえで(波動帯域の違いから衆生から恐れられた結果としての防衛反応としての攻撃や否定をされることなく)理解され、信頼され、コミュニケーションが成立する関係性を築き、あらゆるイシューが癒えて呪いが解けるほどの深い言葉のやりとりを双方が了承する場が成立するか。
(2人以上の人間が絡むので、自分だけが準備万端で完璧でもNG。相手が了承し、かつ、『(そういうコミュニケーションが成立する場を)共同創造する能力があり、発揮できる』かも絡みます)

そういうヒーリング。

そこまで行ければもう、いちいち、ヒーリングセッションの予約だの、お金がどうのこうのは必要ない。

自分が生きて、(自分のことを受け入れてくれる)人と接するだけで。

上っ面だけでなく、人間というエネルギー体のすべての波動帯域それぞれでの交わりが生じる関わりを築けるかどうか。
(いっとくけど肉体的なセックス有りって意味じゃないよ)

自分が真摯に生きて、人と触れ合う中で、施しや押し付けでなく相手側の自発的な了承によって、癒える。
癒しが連鎖して広がっていく。

そういう人間で在れば。

大山のぶ代「いるだけヒ〜ラ〜」

もはやヒーラーという肩書きすら必要なくなる。

そのために今は、ヒーラーという肩書きで本業として時間を全投入してます、私。
10年経ってようやく、片鱗程度かもしれないけど、徐々に肩書きとしてのヒーラーを手放して、いるだけヒーラー化してきてるのを感じます。
満足です。
この選択(会社を辞めてヒーラーとして独立し、本業としてひたすら10年超、打ち込んで学んで修練を積んできた)でよかった。

「(自堕)ラクになりたい→なれるよ!」式スピリチュアルの終焉

そもそも私の場合、スピリチュアルな領域に足を踏み入れた動機はラクになりたいとは無縁だったんですが。

業界、に入ってみて驚いたのは、大多数が「ラクになりたい」と言っていたこと。

で、そのニュアンスとしては

「世の中めんどくさい。生きていくのは大変。かといって、正攻法で努力してちゃんとやるのは面倒。そんなの嫌、無理。でもスピリチュアルなら、摩訶不思議な力で、苦労せずパピューンと魔法みたいに、めんどくさいことが全部消えて、苦しみから解放され、モテモテのお金持ち権力者になって世の中を有利に生きていける(らしい)から来ました!ヒャッハー!!」

という路線。

一言でいって、見下げた根性だなと思って軽蔑しました。そういうこと言う人間。
できれば一生に1人も、1秒たりとも関わりたくない人種です。

ところがそれが、スピリチュアル業界では問答無用の多数派のようで。

単純に「そういうズルをしようと思うな!」といった意識の高さでいって「?」だったというのもありますが、それ以上に個人的に不思議だったのは

「何がそんなにつらいの?苦しいの?冷暖房完備で、飲める水やお風呂に入れたり料理に使えるお湯も出る環境で暮らして、食べ物でもなんでもあって、諸外国と比べても安価に手に入る物価で。道を歩いていても日常的に殺人やレイプが起きて死体があちこちに転がってるわけでもない治安で、税金で義務教育も受けることができて文字の読み書きと四則演算をタダで教えてもらって」

ということでした。

まぁそのへんは、個々人の感受性の問題でもあるのであんまり触れませんが。

ラクになりたい、の意味合いにしても、まだ「生きていくのが難しいほど苦しくてつらいから、助けが要る」というのならわからなくもないけど、大半の人は

「なんにも苦労しないでぇ〜、毎日のんびり家で好きなことやってのびのびと過ごしてぇ〜、それでもお金がジャンジャン入ってきて、人から好かれて、幸せ〜、って感じのラクになりたい」

みたいだったんですよね。

(当時はただただ呆れて軽蔑していましたが、今にして思うと、その人個人がどうこうという以前に、ある一定数以上の人々が、生きていて、そう感じるようになるような社会の仕組みなり文化的な働きかけ(のなさ)など大きな原因があるんだな、と。そういう状況のある意味では被害者でもあるのでしょう。かといってそういうアレさ満載の社会で答えのないまま生きていくしかないのは誰でも同じ条件なわけで、まんまと『ラクになりたい』病に呑まれたからと庇う気はないですが)

自分が自堕落という意味での「ラク」になるために、神の力を「利用」する

ということを、ヘラヘラと笑いながら言ってる(ということ自体にも本人は無自覚だったり、自覚はしていても『神さま、お願い♪』と正当な権利であるかのようになんとも思っちゃいない)パスみがすげえなと思ってました。


ある意味、私は「スピリチュアルってそういうことなのかなぁ?」と訝しく思い、他人は置いておくとして自分がスピリチュアルな分野に来た動機を大切に、(やむなく)独自に動いていきました。

その途中の

「ハァ? あんた修行系? 苦しむことが神に近づくとイマドキ信じちゃってるワケェ? だっさ。それ思い込みだよ?w」

だのなんだのと、同業者ということになってる連中からさんざんチャチャ入れられ。

私が脇目もふらずに自分なりの道を突き進むと

「あっそう!勝手にしな!せっかくこっちが親切に、アンタの間違いを正してやってんのに。知らないよ?」

と、BK庶民あるあるな余計なお世話セリフあれこれ。(←すべてガン無視です。当然)

つーか、「知らないよ?」って何?
どんだけ自分が他人に恩恵だかを与えることができると思い込んでんの?
(そういう自意識の錯誤からして無理で)


で。


ようやっとですわ。


端的にいうならルドルフ・シュタイナーの


※どれも同じ本です。訳者が違うだけです

にあるような、人が修練を積み、真摯に自らを高めていくこと。

しかもそれが、ただの趣味や物好きでたまたまハマってるゲームではなく、人がこの世に生まれてくる根本的な理由(あえていえば真実)に即したものであること。

だから、やること。学ぶこと。実践すること。


これ!!!

(上記のシュタイナーの本だけが正しいというわけじゃなく、いわゆる求道的な宗教書、スピリチュアル本など各種でも、ラクになりたいという堕落する方向でのスピリチュアルじゃない、いい感じの方向性を示してくれるものはたくさんあります)

スピリチュアルって、こういうことでしょ?

だからこそ、人生をかけて取り組むに値するものなんじゃないの?と。


で、今は、この路線を「だよね、ですよね」と賛同して、ワークする他の人たちとも知り合えるようになってきました。
(それはほぼ100%、ヒーラー活動を通して、私がお客様やセミナー受講生として知り合ったルートです。つまり、自分が真っ先に、たった一人ででも、手を上げて、数年間も、こういうブログなどの発信やセミナー開催などの活動を通じて、それが世間からすれば『怪しいなんちゃら』扱い、さらにはスピリチュアル同業者からも『その方向性はどうなの』と勝手に眉をひそめて間違い扱いされる孤軍奮闘ぽい状況の中でも絶対にあきらめずに続けていったからこそ)

でもって、奇しくも、スピリチュアル関係なく、世の中全般が自分の言ってるような方向性になってきた感があります。
(もし一個人の勝手な思い過ごしだとしても、そう感じています)

たとえば「一生遊んで暮らせる金」があればそれこそ一生安泰で幸せで何の不満もないかといわれたら、良くも悪くも、それだけじゃ満たされない。
(むしろ、昨今の金余りと、億り人の量産化で、一生遊んで暮らせる金を持ってる人は、大幅に増えました。が、それらの人々が次に直面するのは、『単にそれだけでは何も幸せじゃない』こと。家畜のように家で毎日のんびり暮らして、どれだけ金を散財して欲しいものを買っても豪遊しても、それすら、せいぜい半年〜2年もすれば、虚しさが勝る。『じゃあどうしよう』からの、日々の充実。お金に踊らされない幸せなり生き甲斐なりを探し始めるんですよね。そしてそれがなかなか見つからない。なんたって、『儲かるよ!』が一切、魅力的に見えない聞こえないのは、存外に空虚です。だって、お金ならあるから。もっと心から楽しめること、ああ生きててよかったなと思えるもの……となっていくんですよね。それでたいてい、(高度に洗練されたスピリチュアルまではいきなり入れない・分からないから)アートにハマるw ←結局みんな本質的にはスピリチュアルなんですよね。この世って、人間って)

美貌にしたって美ボディにしたって、学力と同じで、500点満点中の480点以上ともなれば、なかなか上がっていかない。
そして、500点満点中の480点以上は、そのへんの無名な一般庶民でもザラにとれてる人がいっぱいいます。
肥満なり痩せぎすなり、体型に不満を抱えているうちは「鍛えれば幸せになれるはず!」と信じられますが、いざ実現したとき「思ったほどじゃなかった」と、お金について思っていたことと同じ図式の肩透かしを食らうことになります。

仕事でもなんでもそう。
到達してみて初めて、「ただそれだけじゃ、これまでと何も変わらなかった」ことに気づくのです。
そりゃ、いろんな不幸や欠乏でボロボロのドン底だったときと比べたら思いっきりマシになったとは感じるでしょうし、そのこと自体は良かったなと感じはするでしょう。でも「それはそれとして」、もう過ぎ去った不幸をいつまでも比較対象にして「あの頃よりはマシ」と言い続ける自分に「いつまで言ってんの。それに、比べるにしたって、あんなドン底と比べてマシだなんて基準いつまで続けてんの?_」とセルフツッコミする気持ちが芽生えてきたりして。

何かがどうなれば必ずこうよくなる、って方程式はないんでしょうね。。。


その意味では、人はほんとに平等なんだなァと思います。

さぁ、これからがスピリチュアル本番な時代かもね。

ラクになりたい、の「ほんとうの真逆」行きません?

あ、念のため言っとくけどその方向は「無駄に苦労する」じゃないですからね。

どうしても低スペック底辺クズとしか縁が生まれない私が選んだ生存戦略

[ここは前置きです。読み飛ばしOK]
繰り返し何度もこのブログで、「さすがに身内とはいえ他人なんだし、随分と勝手な言い分じゃないか」と感じられなくもない、家族や知人との残念というか悲惨な出来事、そこから感じた想いを綴ってきてますが。

なぜかスタメン界隈に入れない自分

について、子供の頃から悩んでました。

ここでいうスタメン(スターメンバー)とは、ある学校のスクールカーストの中でのキラキラ陽キャ人気者グループ、、、といった小さな枠ではなく、都合よく自分の中で変化する意味合いで使っています&捉えていました。

例えば子供の頃は、

東京じゃなくて栃木県に生まれた

ということ自体が、日本全体というかで見たらスタメン外だと感じましたし、栃木県内に限って言っても

県庁所在地である宇都宮市ではなく日光市

なのをがっかりしました。

こんな調子で、ある意味では都合のいい被害者意識といったらそれまでなのですが、

「なんでハズレくじばっかりひかされる人生なんだろう」

といった想いを抱えていました。

これは、例えば学校のクラスで友達ができないとか、どの友達グループにも入れずに浮いてしまうというような、ある意味では具体的で、むしろそっちの方がリアルな人生と向き合っていて悩み甲斐や克服のし甲斐があるともいえそうな悩みではないんですよね。

もっと悪い意味で抽象的なのかもしれない。


でもそれは大人になっていく中でどんどん、「あながち妄想ではないのかも」といった現実味を帯びていきました。

例えば生まれた年度。
私の学年というか生まれた年は、就職氷河期、ロスジェネ世代とされる数年間の中でも最低の年にあたります。
国が発行する白書でいう収入の世代別グラフ(出典の詳細は割愛)で、その前後(上下)ぶっちぎりで低いんですよ。
戦後ほぼ100年近くなりつつある統計データで最低の結果が、現実に出てしまっている。

大学時代はアナウンサーを目指す面々が集まる、わりとガチめのサークルにいたのですが、フタを開けてみると自分がいた学年は不作で、その前後(上下)の学年からは人数の面でも知名度の面でも、プロを輩出したり、その中でもスターアナウンサー的に有名になる人がバンバン出ていて。

同じく大学時代、とあるドイツ語の権威ある教授から直々に習いたくて履修したのですが、自分のいたクラスには正直、出来のいい学生が集まりませんでした。先生も(学生の出来が悪いからか)冷淡で。
こんなもんなんだ?と思っていたら、ほぼ同時期に開講されていた別のクラスがあり、そこでは先生はノリノリで、そのクラス一同とドイツ視察旅行まで行って楽しげに集合写真とか撮ってるのを後でその写真が学内報に載ってるのを見て知るという始末。
なんで、アタリとハズレでいうハズレ側に自分は収まってしまうの?と。

さらに大学時代、レクリエーション的な意味合いがある短期集中の体育講座があり、ようするに1週間の山登り・山籠りをする授業に参加したのですが、そこでも参加した学生がA班とB班に分けられ、自分はB班に分類されて、イケてる陽キャ=A班、残りカス=B班みたいなメンツだったので愕然としました。
(1週間が経つ中で、『A班と比べてB班は残念w』という認識が広まり、B班の引率役として(生徒というよりは授業の運営アシスタント的な役割で)参加していた山岳部の学生が『今日もまた〜〜〜なこと(←いわゆる残念エピソード)があったよ……。B班、ほんと最高だぜ……』と自虐で言うのをみんなで苦笑い、みたいな)

で、そういう「残念メンツ」の中では自分は、これまた浮いちゃう感じでわりとデキる。
全国模試1位なのに月野うさぎと同じ高校に進学する水野亜美みたいな。。。?
だからその「縁ある人々」の中に溶け込もうとしても、けっこう自分を下に合わせる労力というかがすごいんです。
上には上がいるのがわかりきっているのに、なんで下に合わせなあかんねん!!という憤りや愕然とした気持ちもすごくて。。。

それは就職した先でも同じことで、SE時代は「仕事ができるからって良い気になるなよ」と、基本情報処理技術者試験に10年近く落ち続けている先輩から言われたり。
雑誌編集者時代も、業界あるある的に徹夜しか能がない人の方が定時で仕事を終えて帰る自分より評価されて昇進して、そのアレな人のアレな指示に翻弄されるハメになるとか、まぁいろいろ。
[前書き終わり]


27,28,29歳……と年が上がり、30歳までに独立すると決めていた自分は何をどうすれば?と模索と試行錯誤に追われていました。

で、叶わない理想を追い求めて、ずっと努力が報われないことに苦しんで恵まれずに生きててもいいことないよな、と。

なので、独立するに際して、

意識の高さより、意識の低さ

を重視することにしました。

ブレイブブレイドよりチキンナイフ最強説ですわ。


で、自分のこれまでを棚卸しして考えてみたとき。

自分には、自分よりも出来が悪い、自分の足を引っ張るような、世間全般でいっても低スペック底辺クズばかりに囲まれる宿命みたいのがあるなァ

という分析結果(ってほどじゃないかもしれないが、それなりにいろいろ考えた結果)に至り。

それをどうにかして変える(例:スーパーエリートに囲まれ、自分もスーパーエリートとして輝く)というよりは

低スペック底辺クズに囲まれる状況をうまく利用してやれ

という方に舵取りを切ることにしました。


でもってスピリチュアルヒーラーとして独立した次第です。

もう、一般常識では考えられないような、「この人、ほんとによくこんなんで世の中、生きてこられたね?」と感心するような人がわんさか寄ってきて。

そして、良かれと思って真面目に上を目指そうとすると、変な意地悪としか思えないような低い評価をされてダメ人間扱いされたり、怒涛の嫌われ方で出世が阻まれるみたいな苦境に立たされる一方で、

寄ってくる低スペック底辺クズの相手を丁寧にしてあげると(自分は全然嬉しくないんだけど、相手はとにかく独りよがりに)喜んでくれて。

で、商売としてヒーラーですよと謳っているので、ホイホイとお金を支払ってくれるという図式。

正直、なんだかなァとは思います。

でも、どんなに努力してもこれまで一度も叶ったことがないこと(自分が都合よく設定した条件を満たす『素晴らしい人』に囲まれて素敵な日々を生きる)だけに固執してどんどん貧しく乏しくすり減っていくよりは、得られるものは弁当に入ってる魚型のしょうゆ挿しでも貰っておかないと、生きていけないじゃない!!!!!

そんなこんなで、自分の宿命的な境遇を受け入れつつ、そこを上手に利用して、最低限、食っていけるだけの生活の基盤はゲットしつつ、余力でどうにか、まだ一度も叶ったためしがない理想の実現への挑戦をあきらめない、というバランスで生きてます。

水耕栽培は、もはや義務。

農業というか工業としても、野菜は水耕栽培で工場(屋内)で、がどんどん進出してきてますよね。

昨年のなんとか禍以降、そして地震もまた、、、という中で、
「自給自足できるものはしておくに限る」
という考えに至った人は少なくないようです。

そこで?、水耕栽培は、お試しででも、夏休みの自由研究のつもりでも、やってみるといいかも。

私は(今は入手困難のようですが)

やさい物語

を購入し、想像以上にうまくいきました。

室内の、ちょっとしたスペースに設置しておくだけで、勝手に数週間で葉物野菜が種から収穫までできます。

こんな感じ(サニーレタスを育てました)。
 ↓
IMG_5063.jpg

水耕栽培については、ノウハウがだいぶ、まとまってきているようですが、その魂というか、思想の根幹と初期の試行錯誤を描いている



を読むと胸熱かも。

以前は「水耕栽培=ハイポニカ(という値段が高い肥料が必須)」というイメージがありましたが、べつにハイポニカを使わなくても、という実例が多く出てきています。
ハイポニカより割安で、ちゃんと効果を感じたという定評ある水耕栽培用の肥料もいろいろ出てきていますし。

いちばん、手軽に水耕栽培のノウハウを手に入れるなら、伊藤 龍三氏による書籍が便利かと。
100円ショップで買えるグッズを使った、費用を極限に抑えつつ最大効率の栽培が目指せます。


※1冊だけ読むなら、2017年に発表された「かんたん水耕栽培 決定版!」が総括的でいいかも

水耕栽培は「葉物=かんたん」but 「実がなる物=難しい」という大きな差がある

と感じます。

トマトやきゅうりなど、実がなるタイプのものは、(なぜか最初からうまくできる人もいるようなのですが)私には難関でした。
たとえばトマトの場合、実が大きくなる時期は一つの苗だけで「1日に何リットルもの水を吸う」んです。
だから、農家ばりに手厚く様子をみないといけない。
日照など、室内でLEDライトで代用しきれない(か、するとしたら工業用ばりの大掛かりな照明器具が必要になる)点も懸念されますし、だから野外で、となると今度は害虫の問題が出たり、雨風で茎が折れたり実が割れたりして。
マジ農家。
片手間では実ものは難しいです。
(注:農業未経験レベルの水耕栽培初心者かつ不器用で植物栽培自体に慣れていない私だからの感想と実体験かもしれないので腕に覚えのある方はぜひ挑戦を)

私の現時点での結論としては、

無理せず、葉物野菜だけ、水耕栽培する

方向性が無難かなー。

葉物野菜はわりと簡単にほんとによく育つんですよ、ほとんどまったく手間をかけなくても。

なので今年は春先から、こういう、省スペースながら100本以上の苗を育てられる設備で、葉物野菜はほぼほぼ買わずに済む生活の実現を目指しています。
 ↓

これならアパートのベランダにも置ける♪
(電源コードだけどうにかして室内から?とってこないといけないけど)

--

実際に完全な自給自足を実現するには至らなくても、

ほんとに種と、ささやかな設備がありさえすれば、野菜は自分で作れるんだ

と知る体験が宝だと思います。

今の人って、お金で買うことに慣れすぎていて、「自分で作る」可能性について発想が及ばない(のがヤバい)んですよね。

「味噌って、自分の家で作れる物なんですか?」

と驚く若い人を先日、みました。

あら、「手前味噌」って、どこから来た言葉だと思ってるの?みたいな。

昔はね、結婚して揉めるのが、味噌汁の味の違いなのよ。
お嫁さんはね、お姑さんに厳しく躾けられながら、自分が育った家の味噌と違う、嫁ぎ先の味噌に慣れていくの。
糠床もそう。
手の常在菌やら何やらの違いで、結婚してよそから来たお嫁さんが糠床をいじって漬けた漬物の味を、お姑さんなど夫側の親族が
「あら、糠の味が変わっちゃったわね。やっぱりよそ者に触らせたから、糠が機嫌を損ねたのかしら。ほんとに甘やかされて育ったのねェ、まともな糠床のかき混ぜ方も教わってこなかったの?」
と、ガラスの破片をまぶした真綿で首を絞めるようなイヤミをチクリチクリと言われてそれに耐えたり……。

はっ!
今の誰?
いつの経験?
なにこのリアルな怒りw

ふぅ〜。。(深呼吸)

さ、気を取り直して(笑顔)。

水耕栽培、せっかくだし、今年はデビューしてみませんか?(急に〆)