そもそも私の場合、スピリチュアルな領域に足を踏み入れた動機はラクになりたいとは無縁だったんですが。
業界、に入ってみて驚いたのは、大多数が「ラクになりたい」と言っていたこと。
で、そのニュアンスとしては
「世の中めんどくさい。生きていくのは大変。かといって、正攻法で努力してちゃんとやるのは面倒。そんなの嫌、無理。でもスピリチュアルなら、摩訶不思議な力で、苦労せずパピューンと魔法みたいに、めんどくさいことが全部消えて、苦しみから解放され、モテモテのお金持ち権力者になって世の中を有利に生きていける(らしい)から来ました!ヒャッハー!!」
という路線。
一言でいって、見下げた根性だなと思って軽蔑しました。そういうこと言う人間。
できれば一生に1人も、1秒たりとも関わりたくない人種です。
ところがそれが、スピリチュアル業界では問答無用の多数派のようで。
単純に「そういうズルをしようと思うな!」といった意識の高さでいって「?」だったというのもありますが、それ以上に個人的に不思議だったのは
「何がそんなにつらいの?苦しいの?冷暖房完備で、飲める水やお風呂に入れたり料理に使えるお湯も出る環境で暮らして、食べ物でもなんでもあって、諸外国と比べても安価に手に入る物価で。道を歩いていても日常的に殺人やレイプが起きて死体があちこちに転がってるわけでもない治安で、税金で義務教育も受けることができて文字の読み書きと四則演算をタダで教えてもらって」
ということでした。
まぁそのへんは、個々人の感受性の問題でもあるのであんまり触れませんが。
ラクになりたい、の意味合いにしても、まだ「生きていくのが難しいほど苦しくてつらいから、助けが要る」というのならわからなくもないけど、大半の人は
「なんにも苦労しないでぇ〜、毎日のんびり家で好きなことやってのびのびと過ごしてぇ〜、それでもお金がジャンジャン入ってきて、人から好かれて、幸せ〜、って感じのラクになりたい」
みたいだったんですよね。
(当時はただただ呆れて軽蔑していましたが、今にして思うと、その人個人がどうこうという以前に、ある一定数以上の人々が、生きていて、そう感じるようになるような社会の仕組みなり文化的な働きかけ(のなさ)など大きな原因があるんだな、と。そういう状況のある意味では被害者でもあるのでしょう。かといってそういうアレさ満載の社会で答えのないまま生きていくしかないのは誰でも同じ条件なわけで、まんまと『ラクになりたい』病に呑まれたからと庇う気はないですが)
自分が自堕落という意味での「ラク」になるために、神の力を「利用」する
ということを、ヘラヘラと笑いながら言ってる(ということ自体にも本人は無自覚だったり、自覚はしていても『神さま、お願い♪』と正当な権利であるかのようになんとも思っちゃいない)パスみがすげえなと思ってました。
ある意味、私は「スピリチュアルってそういうことなのかなぁ?」と訝しく思い、他人は置いておくとして自分がスピリチュアルな分野に来た動機を大切に、(やむなく)独自に動いていきました。
その途中の
「ハァ? あんた修行系? 苦しむことが神に近づくとイマドキ信じちゃってるワケェ? だっさ。それ思い込みだよ?w」
だのなんだのと、同業者ということになってる連中からさんざんチャチャ入れられ。
私が脇目もふらずに自分なりの道を突き進むと
「あっそう!勝手にしな!せっかくこっちが親切に、アンタの間違いを正してやってんのに。知らないよ?」
と、BK庶民あるあるな余計なお世話セリフあれこれ。(←すべてガン無視です。当然)
つーか、「知らないよ?」って何?
どんだけ自分が他人に恩恵だかを与えることができると思い込んでんの?
(そういう自意識の錯誤からして無理で)
で。
ようやっとですわ。
端的にいうならルドルフ・シュタイナーの
※どれも同じ本です。訳者が違うだけです
にあるような、人が修練を積み、真摯に自らを高めていくこと。
しかもそれが、ただの趣味や物好きでたまたまハマってるゲームではなく、人がこの世に生まれてくる根本的な理由(あえていえば真実)に即したものであること。
だから、やること。学ぶこと。実践すること。
これ!!!
(上記のシュタイナーの本だけが正しいというわけじゃなく、いわゆる求道的な宗教書、スピリチュアル本など各種でも、ラクになりたいという堕落する方向でのスピリチュアルじゃない、いい感じの方向性を示してくれるものはたくさんあります)
スピリチュアルって、こういうことでしょ?
だからこそ、人生をかけて取り組むに値するものなんじゃないの?と。
で、今は、この路線を「だよね、ですよね」と賛同して、ワークする他の人たちとも知り合えるようになってきました。
(それはほぼ100%、ヒーラー活動を通して、私がお客様やセミナー受講生として知り合ったルートです。つまり、自分が真っ先に、たった一人ででも、手を上げて、数年間も、こういうブログなどの発信やセミナー開催などの活動を通じて、それが世間からすれば『怪しいなんちゃら』扱い、さらにはスピリチュアル同業者からも『その方向性はどうなの』と勝手に眉をひそめて間違い扱いされる孤軍奮闘ぽい状況の中でも絶対にあきらめずに続けていったからこそ)
でもって、奇しくも、スピリチュアル関係なく、世の中全般が自分の言ってるような方向性になってきた感があります。
(もし一個人の勝手な思い過ごしだとしても、そう感じています)
たとえば「一生遊んで暮らせる金」があればそれこそ一生安泰で幸せで何の不満もないかといわれたら、良くも悪くも、それだけじゃ満たされない。
(むしろ、昨今の金余りと、億り人の量産化で、一生遊んで暮らせる金を持ってる人は、大幅に増えました。が、それらの人々が次に直面するのは、『単にそれだけでは何も幸せじゃない』こと。家畜のように家で毎日のんびり暮らして、どれだけ金を散財して欲しいものを買っても豪遊しても、それすら、せいぜい半年〜2年もすれば、虚しさが勝る。『じゃあどうしよう』からの、日々の充実。お金に踊らされない幸せなり生き甲斐なりを探し始めるんですよね。そしてそれがなかなか見つからない。なんたって、『儲かるよ!』が一切、魅力的に見えない聞こえないのは、存外に空虚です。だって、お金ならあるから。もっと心から楽しめること、ああ生きててよかったなと思えるもの……となっていくんですよね。それでたいてい、(高度に洗練されたスピリチュアルまではいきなり入れない・分からないから)アートにハマるw ←結局みんな本質的にはスピリチュアルなんですよね。この世って、人間って)
美貌にしたって美ボディにしたって、学力と同じで、500点満点中の480点以上ともなれば、なかなか上がっていかない。
そして、500点満点中の480点以上は、そのへんの無名な一般庶民でもザラにとれてる人がいっぱいいます。
肥満なり痩せぎすなり、体型に不満を抱えているうちは「鍛えれば幸せになれるはず!」と信じられますが、いざ実現したとき「思ったほどじゃなかった」と、お金について思っていたことと同じ図式の肩透かしを食らうことになります。
仕事でもなんでもそう。
到達してみて初めて、「ただそれだけじゃ、これまでと何も変わらなかった」ことに気づくのです。
そりゃ、いろんな不幸や欠乏でボロボロのドン底だったときと比べたら思いっきりマシになったとは感じるでしょうし、そのこと自体は良かったなと感じはするでしょう。でも「それはそれとして」、もう過ぎ去った不幸をいつまでも比較対象にして「あの頃よりはマシ」と言い続ける自分に「いつまで言ってんの。それに、比べるにしたって、あんなドン底と比べてマシだなんて基準いつまで続けてんの?_」とセルフツッコミする気持ちが芽生えてきたりして。
何かがどうなれば必ずこうよくなる、って方程式はないんでしょうね。。。
その意味では、人はほんとに平等なんだなァと思います。
さぁ、これからがスピリチュアル本番な時代かもね。
ラクになりたい、の「ほんとうの真逆」行きません?
あ、念のため言っとくけどその方向は「無駄に苦労する」じゃないですからね。