「要するに私は異常者で欠陥品なんだ」と思っていました

シータヒーリングのセッションを受けてくださった方から感想いただきました。

先日はすばらしいセッションをありがとうございました。

今までシータヒーリングを含めいくつかのセッションを受けたことがありますが、これほどまでに受けた後で充実感と爽快感があったセッションはありませんでした。

現状の説明と、それの土台となっている契約とその背景、どう解除していくか、どれもとてもしっくりきました。

自分を隠そうとする、自分の中に閉じこもりがちと指摘されることが多いですが、
「それがどうマズいの?」
「それは変更可能?本来の私の質?」
「結局どうすればいい?」
と疑問が湧き、それに対する回答も
「敏感な人だから…」
「本当は人と関わりたい人だから関わりましょう」
と言われても、それがうまくいかないから相談してます^^;とモヤモヤしたままでした。

私が何を考えているかわからない人、つまらない人に見えている、誰の心もつかめていないと言われ、今の私をズバッと指摘していただけてとても嬉しかったです。
納得できました。

沈黙の誓いの契約、ありのままに生きると殺されるという思考パターンも、自分を探ると奥深くに確かに存在していて、今までの人生を振り返ってみて この契約に忠実に則って生きてきた!と気づきました。

契約解除と置き換えをしていただいて4日ほど経ちましたが、細かい変化が出てきています。

私は咳やあくび等人の生理音や笑い声、子供の声がとても苦手でイライラしてしまうのですが、これは沈黙の誓いに抵触するからでは?と思うようになってから前ほど音が気にならなくなりました。

また、私は人嫌いで、それが問題で人と関われないのではと思っていました。
(自分も悩んでいましたし、シータの掘り下げ実践会でよく土台として指摘されました)
でもusamimi様に それはみんな持っていて、それほど問題になるほどではないと言っていただいてこれも理屈なしで腑に落ちました。
みんな不安だし怖いし一緒なんですね。
そう思えるようになってから人が怖い、気後れするという気持ちが少なくなりました。

私は人とちょっと違う感覚で生きているという指摘もよくされるのですが、人の中に飛び込んでも人が言っていることがよくわからない、馴染めないという体験を繰り返して「要するに私は異常者で欠陥品なんだ」と思っていました。
勇気を出して人の中に飛び込む→よくわからなくて浮く→異常者→もういい→やっぱり寂しい→飛び込む
の繰り返しで疲弊していました。

私にも合う人はちゃんといて、その人達に心を開けるようにしていけばいいんだと教えていただけ救われました。
自分がどうしていけばいいか理解できました。
今は理解できたことや合う話題のときにできるだけ感情表現するよう心がけています。
大根役者になっていないことを祈ります(笑)


過去のや意見や過去生を突っ込むと物語を紡ぎ出すと習ったことがありますが、やっぱり人間頭でも納得しないと根本から変化できないと思います。
物語に浸からず、適切に解説していただけ、スムーズに問題を見つめることができました。

セッションを通して納得できないことやモヤモヤすることがほとんどなく、とてもわかっていただけた感がありました。
ぜひ またセッションを受けさせていただきたいと思います。

長文失礼しました。
本当にありがとうございました。

ありがとうございマウス。
こういうの、シータヒーラー冥利よねぇ……。
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アーリマン的ディセンションの時代にスピリチュアルを実践するとは何か、なんのためか

タイトル、でかっ!

10年間に及ぶヒーラーとしての私の感慨を、ひと区切り的にまとめてみたいと思います。

インターネットが普及して以降、高次元エネルギーアチューンメントの遠隔伝授など、Webサイトでヒーラーがエネルギーワークについて告知して電子メールで顧客が依頼して遠隔でワークを行うスタイルが定着しました。

2005~2010年くらいまでが、そうした「遠隔アチューンメント」全盛の時代だったように思います。
私も、この「ブーム」に乗る形で稼げる目処が立ち、会社を辞めてヒーラーとして独立しました。

また、この頃に「ブログ」という体裁が整い、特に有名とかプロの作家とかでない一般人でも、なんなら世界じゅうに自分の想いを綴って公開するのが一般的になっていきました。

スピ本と呼ばれるジャンルの書籍も、この頃から出版数がうなぎのぼり的に増えていきます。

80~90年代にもニューエイジの影響で一時的に占いや霊能の分野が流行った感はありますが、この時点ではまだ、オカルトというか、奇想天外なトンデモ系エンタメとして霊能者によるエッセイ本などが出ていた記憶があります。
(いま読み直すと、たとえば宜保愛子さんのエッセイなどは、(本文を書いたのはゴーストライターだとしても、少なくともそのゴーストライターに向かって本の内容を取材を通じて話す宜保さんの想いというかは)べつにインチキな面白おかしい見世物小屋的なオカルトエンターテイメントを提供しようとしていたわけではない感じがします。ナチュラルサイキック特有の、霊界の仕組みに囚われすぎたある種の思考の制限ゆえに『?』と思える箇所があるにせよ、ひとりの霊能に携わる人間としての誠実でまっすぐな気持ちが綴られている部分も多く、いま読んでも人に感銘を与えるものになっていると感じます。ただ、そうした本が、本屋では『精神世界』というジャンルに置かれ、それを見る人々が好奇の目や偏見を持っている場合があるといった位置付けだったというのが実状ではないでしょうか)

それによって、良くも悪くも、スピリチュアルな概念が広まったと思っています。

一部では、本当に某ちゃんねる掲示板で延々と泥仕合が繰り広げられるなど、スピリチュアルな概念を議論の題材にしたゴシップや、もっといえばカード対戦ゲーム的なディベートごっことしてスピ談義が(そうした匿名性あればこそ自分の意見を内弁慶的にドヤれてマウンティングまたは気の合う仲間だけでハーレム的に言えるオタク気質の人たちの間で)それまでの時代よりも言葉のやりとりだけをとっても多くなされるようになったと思います。

この時点では今思えば、だいぶ素朴に、個々人が思うところをぶちまけていた、熱く本音をぶつけている部分が強かった気がします。

それから2010年以降になると、単なるエネルギーアチューンメントの域を超えた、ヒーリングモダリティ、メソッドといったものが主流になっていきましたよね。

それにより、副業的にでも、ヒーリングをお金をとって行う、ヒーラーの数は桁違いに増えました。

この頃に隆盛を極めたヒーリングモダリティの多くが、ただエネルギーを流して何かよくなればいいねという療法ではなく、対話型、カウンセリングの体裁をとって、人の悩みなどに細かく応えるものになっていたことも、流行った要因として大きいと感じています。

一過性のブームに終わった感のあるヒーリングモダリティもあれば、バブルのように急激に流行った後でバブルが弾けるように下火になり、それでも消えずに続いているもの、まったく話題にならないけど知る人ぞ知るといった位置付けで細々となされているもの……など、いろいろあります。

この時期に、ビジネスの分野で実績をあげた人々がヒーリング業界に進出してきたことが目立ち、彼らが持ち込むというか展開する、マーケティングの手法などが職業ヒーラーたちの間で、もっと稼ぐには、もっと人をセッションやセミナーに呼び込むには、という気持ちに拍車をかけたと私は思っています。

スピリチュアル以外にも、世の中全体で、Webマーケティングというか、ネットを使った宣伝手法がそれまでよりもシステマチックに行われるようになり、SEO対策や分析ツールによる効果検証で有効さの度合いを測って文章やバナー広告などを打ち出す考え方が主流になっていきました。

そこから、怪しげ……といったら失礼なのかもしれませんが、少なくとも「釣り広告」と呼ばれても文句は言えないんじゃないの、と人に感じさせるような

あなたの悩み、解消します。初回無料

みたいな文言のリンク広告、バナー広告などが目立つようになっていきましたよね。
(こうしたバナーを打つ会社の何割が、単に宣伝としてややあざとい釣り方をしているが実は良質なスピリチュアルの探究や人々への癒しをもたらす活動をしているのか、それとも……なのかは、私もウォッチする気にもならないのでわからないのですが)

こうした流れは、スピリチュアルな場というのがそれまでは
「世間では異端とされ、科学では証明されてないインチキで危ないと言われたりもするが、なぜか心惹かれる。怪しい新興宗教とは違った、心を高める何かが、こういう分野にはやはり、あるのではないか」
といった、不器用ながらも素朴に「何かいいもの」を探究する人が人目を忍んででも足を踏み入れるものから、堂々とカジュアルに
「努力なしで良い想いがしたい!成功したい!それはすなわち、お金持ちになってモテてセレブ化すること!」
といった動機の人メインにシフトしていったように思います。

隠すも何も、スピリチュアルとの関わりや、セレブっぷりを堂々とSNSにぶちまけて見せつけているのか、隠しません。

それで。

音楽の分野でも、芸術性に優れたクラシックのコンサートやCDよりも、チャラいけれど誰もが分かるし軽い気持ちで楽しめるポップスのアイドル歌手のコンサートやCDの方が売れる、動員数が多いのと同じように。

物事というのはなんでも、高尚になっていけばいくほど、それがわかる人・良いと思う人が少数になっていくので、世間の商業的な視点からしたら「売れない、人気がない、流行らない」ものになりがち。

それで、スピリチュアルの分野にしても、SNSでセレブっぷりを発揮して「信者」を獲得した人が人気になり、それをアンチが叩き、その様子を第三者的にスピリチュアルに興味ない人たちが見て
「スピリチュアル界隈、やばっ!」
と青ざめたり嘲笑している、といった図が目立つ形になったように思います。

スピと称しておいて俗っぽい分、世間の多くの人に「分かる」んですよ。
その結果、話題にしやすくなり(だって話が通じる相手の数が多いから)、炎上と呼ばれるような急激な話題の注目度上昇に伴うなどして焚きつけられた人が見ても何が起きているか把握しやすいんですね。

ネット弁慶的に誰かを叩くコメントをして好い気になっている人が、正義を振りかざしている体裁で実は単に弱い人を探してボコってイジメて喜んでストレス発散しているだけ、という図式は青い鳥の楽園をはじめ、リアル社会でも(特に学校など)よくある話。

それはスピリチュアル業界について、揚げ足取り的に叩いたり嘆いたり「目を覚ませ!」と善人のつもりで社会問題を提起しつつカルト洗脳されたスピリチュアル信者たちを救う気になっているおめでたい人などにもいえるようで。
それでガチャガチャして見える部分が目立つんだと思います。

でも。

そんなに正義、正義、といってるはずの人も、ガチスピというか、本当に洗練されたスピリチュアルなエネルギーや、そうしたエネルギーをまとった人、そういうエネルギーが生じる磁場を創り出すような暮らしぶりを実践している人を見るや否や、「こいつには太刀打ちできない」と思うのか、ピューと逃げていきます。なぁんだガキのイジメか、的なしらけを私は覚えるんですけどね。

そうして、世間のゴシップネタの1つになりさがった、お粗末な部類のスピリチュアル実践者などの浅ましさや、その浅ましさが自分と類友だからよく見えるだけの俗悪な人の物見遊山とゴシップ吹聴で

スピリチュアルはガチヤバ。頭おかしいインチキ

という見方が俗世間では以前より局所的にせよ拡大されていってる部分もあり。

一方で。

良くも悪くもネットが普及して、一般社会のニュースでも、新聞やテレビといった旧来からのマスコミが報じる内容がすべてではないし、もしかしたら真相をありのままに赤裸々に暴いて伝えてくれているとも限らないかもしれない、という知恵を一般人たちが持つようにもなってきていると感じています。

これはスピリチュアルを探究したい人にとってもそうで、
「なんだか一部では、スピリチュアルに染まる人は頭の弱いダメな人みたいに言われているけれど、スピリチュアルな分野自体がまるっきり中身のない嘘とインチキと金儲け詐欺でできているわけでもないでしょう?古来から連綿と続く、人間をより高める何かが伝えられているものなんじゃないの?」
という真贋の見極めスキルが各々、高まってきていると感じます。

そうした二極化が、いまは社会的に見てどの分野でも起きてきてますが、スピリチュアルな分野にも起きていると私は感じます。

できている側は、以前にもまして、すごくなっていってると思います。

すごい、という曖昧な主観的表現は恐縮ですが、すごいです。

そのすごさというのは、単に霊能力を身につけてスプーン曲げたからスゲー!というすごさというよりは。

しっかり人類の霊的な営みの発展を、半歩でも一歩でも、それまでの時代よりも前進させる形となる概念や在り方を、いま生きている人々が育んでいる、示している

という意味でです。

スピリチュアルな分野は、特に「実践」となると、そもそもそれってどういう境界線で区切ったジャンルなの?と言われそうな分野。
わかりやすく大学の博士たちが研究室で弟子的な院生を従えて……といった研究はなされていません。

が、実質的には、学術的な研究の分野それぞれで、優れた博士が論文を書き、それによって人類全体の「知」を半歩なり一歩なり進める功績を打ち出し、それを後続の研究者たちが継いで、さらに半歩でも一歩でも進めていく……というのと同じことが、スピリチュアルな実践の分野でも行われているものなんです。



さて、前置きが長くなりましたが(いつもながら長~)。

そんなような時代の流れによって、今は、シュタイナーのいうアーリマンがそそのかすような、唯物論で人々を染め、霊的なものを何もかも「嘘だ」と思い込むようになり、物質世界だけをすべてだと捉えてそこに囚われるという堕落に向かっている状態といえます。
(ある意味、これはあらかじめ計画された宇宙の運行のとおりになっています。ただ、前回以前のDo Overと違う点が、いろんなマスターたちの働きかけによって起きており、部分的には計画よりも早まっている感のある局面もありますし、それによって前回以前のDo Overよりも嘆かわしい状況になっている局面もあれば、逆に早くアーリマン化させようとしてうまく育たずコケることによって人々が堕落しない、あるいは弱いアーリマンの力にそそのかされて「風邪をひいたが回復して免疫がついた」形になって人類が霊的成長の方へ前進したというような局面もあります)

でも、ネットでゴシップ的に
「スピリチュアルはヤバいよ~!!」
なんて騒いでるのに踊らされたり、クソ真面目に
「そんなことないのに!ちゃんとしたスピリチュアルもあるよ!!」
と学級委員みたく奮闘しちゃうのも、どっちも結局、マーヤ(幻想)に呑まれて踊らされてDJの言いなりだYO!

[CM:マルチプルアバンダンス特級「まやかしマーヤ」よろしくね!(CV:坂本真綾(希望))]

じゃあ、スピリチュアルってなんのためにやるのか。あるのか。

この本


を読むことをおすすめします。
(注:読めるなら、ね。文字面としては読めるでしょう。平易な記述で、ページ数も少ないですし。でも、目を通したとして、音読もできたとして。はたして、『この本を読んだ』と本当に言えるでしょうか?なぁんてね、フフフ←キモい)

西洋・東洋、どの宗教かを問わず、真理というか霊的摂理とされるものは普遍的・不変的に1つなんですね。
どの人種かを問わず、人がびっくりしたときや笑うときがどんなときか、あるいはそのときどんな動作をするかが同じように。

骨や筋肉のなりたちが同じように。

アーリマンがそそのかす、「現世こそすべて。そこで地位と権力、それにふさわしいステータスを手にして他者よりもできるだけ優越した者が問答無用に人間のヒエラルキーで真実として上位であり、勝ち組である」という考えに大なり小なり染まってしまっている人は、

多様性を認めず、またその多様なそれぞれが等しく、神の偉大さのそれぞれの側面を顕しているかけがえのないものだ……ということにも気づけず(指摘されても腑に落ちないし、絶対に認めようともせず)、貶す要素として捉え、自分が信奉する唯一の正解と感じるものとズレた分だけ「間違い」と認識し、つまり点数が低い、劣っているという評価を(独りよがりに)下し、否定して排除しようとする

(その具体的な方法として、人を人種や家柄、性別、セクシャリティなどあらゆる細かい属性区分で『尊重されるべき勝ち組にふさわしい、正しく優れた在り方』と、『それ以外のどうしようもない、ゴミのように排除されても仕方ないもの。というか、いない方が世の中を良くすることになる、いるだけで世界を悪くする害悪』と決めつけ、法的に規制したり国家権力を発動するなど卑怯で横暴で暴力的なやり方で、自分の小さなこじらせた理想を現実化しようとする)
んです。

でもこれは、未熟な人間たちだからこそ、あえて堕落への誘惑という形式をとって「間違っている」とされることを自分がいったん、染まって取り組んでみることによって、風邪をひいた後に身に着ける免疫のような学び方をしようとしているにすぎません。

アーリマンのささやく言葉に真実はありません。(それが重要なんです)

たまたま、そのゲームに参加してる人数が多いと、声が大きく聞こえて、存在感が出てくるだけ。

自分が(そのゲームに染まって学ぶことがベストでない限り)そのゲームに染まる必要はないし、いくら周りでそのゲームにまざっている人が多いからといって、自分もそうしなければいけないわけではありません。

染まっていない自分が少数派だからという理由で文句をつけてくる誰かがいたとしても、その文句をつけてくる方が誤謬に呑まれているだけなので、そういう状態の人の言葉に耳を傾ける必要はないのです。

話が飛ぶように聞こえるかもしれませんが、つまり、
(世界大戦が起きている真っ最中、のような『大変な時代』『人々の多くが狂ってしまった酷い世相』の真っ最中だろうとそうでない時代だろうと関係なく)
あらゆる誤謬、真実でないものは、まだ真実を完全に悟ることができない未熟な人間に(やがて悟りに至る)気づきをもたらすための課題として、もっともその人間たちそれぞれに合う教材として届けられている

んです。

学級会のように、学生のディベート大会のように、何かのテーマについてわざと「賛成」と「反対」に立場が分かれて議論することで、みんながいろいろ学ぶ。
それの、現実版。

その、ある種のディベート大会ごっこが、多くの人々にとって関心事、当事者としてその大会ごっこに参加している場合、世の中的には

重大なトピックとして扱われる、流行っている、いま世間はその話題でもちきりである

という見え方をするだけにすぎません。

さらに話が飛んで結論を言うと。
世の中がどんな有様だろうと、ある人がスピリチュアルな営みを通じて、解脱(アセンション)とされるような、現世を輪廻転生から抜けて天界に到達しようとする行いは、古今東西、誰しもにも変わらない人間の「生まれて存在する理由(の本質的なうちの1つ)」
なんです。

スピリチュアルは、苦労や努力なく大金持ちになって美人になって若返って異性(同性愛者の場合は同性)からモテモテになるなど、ありとあらゆる頭で考える欲張りエゴイスト的な夢が叶う魔法のツール、ではありません。
そうなりたいと願うズルい怠け者のためにあるわけでもありません。

ていうか~、

スピリチュアルの本質と真髄が、そんな薄っぺらいものなわけないだろ
(そんな薄っぺらいものが本質だとして、嬉しい?そんな世界に生きてると思ったら虚しくないの?)


だいたいさぁ、
「みるからに頭おかしいことほざいて信者をつくって金儲けしてイェ~イ、みたいなことをしているのが、スピリチュアルです。そういう人はおかしいので関わってはいけません。もっと良識的になりましょう」
とか、真面目な顔して言うとして、自分でどう思う?

そして実際、あまりに残念すぎて、ガチでスピリチュアルやってる人たちからは生ぬるく見守られるだけで、言ってもきかないから批判もしない……みたいなスピボケしたヤバい人たちの動きのほうに目が行ってしまう(≒そういう人たちと類友である)あなたの人間性どうなの。

そういう人の有様を批判したり、正しくはこうだ!なんて自説を正義の味方のつもりなんなのか真実を告げる啓蒙者のつもりなのか、(よく考えたらあんたの言う事なんざ、ある程度まっとうな状態の人なら誰でもおもいつくだろ的な安直な考えを)声高に「スピリチュアル反対!怪しいスピリチュアルに騙されるな!」みたいなこと言うとしてさ。
「火をさわると火傷するので気をつけて!」みたいな。

正しいし、時と場合によってはそういう注意喚起がグッドタイミングでほんとに火傷する人を減らしてナイスジョブ!かもだけど、しょっちゅう、のべつまくなしに、ベラベラベラベラ言われたら鬱陶しいだろうが。

スピリチュアルのつもりで、ほんとにカルト教団みたいなヤバい状態になっている人たちは本当にいる(ようだ)し、そういう人はそりゃ、ヤバい(んだろう)から、脱洗脳なり何なりの救済が必要だったりするのかもしれない。
し、新たにそういう集団と関わることでカルト教団に洗脳された的になにか偏った有様になってしまう人を予防するのは大事なことかもしれない

よ?

あー、でもこれ書いてるだけでうんざりするんだけど。

これってまるで、

犬のウンコを踏んだら靴が汚れるし、すごい臭いし、しっかり洗わないといけなくなるので、踏まないようにしましょう

って書いてるみたい。

当たり前すぎてなんだろう、書いてる自分がバカバカしくなってくる。

そう言ったって書いたって、犬のウンコを踏んでみたい人はいずれにせよ踏むよね。

あとさ、さらに言うとね。
「自分たちは正常だ。カルトではない。なにも洗脳されてない」なんて思い込んでる、多数派の一員でいるから間違ってないぜ、ホッ……みたいな人たちの「マトモ」な社会だって、別の見方からしたら十分、カルトなんだぜ。
会社員が終業時刻を過ぎても定時で帰らないのを黙認してるとか、もういろいろ、挙げたらきりがない諸々を
「まぁ、しゃーないんじゃない?世の中そんなもんでしょ?」
で済ませてしまえる思考。その思考を作り上げた、もっといえば作り上げさせられる羽目になった、育った環境。この社会。

どこがカルトじゃないって言えるの?

ある意味、人間の集団なんて、どこもカルトなわけ。

それぞれのカルトが、そのカルト内部の価値観からしたらよろしくないふうに見える別のカルトを「カルト」呼ばわりしてるだけ。

つーか、

まったく問題がない、正しい生き方。それができている人。そういう人たちで構成されているマトモな社会

って、見た事ある?

実在するの?

これまでに、存在したことがあるわけ?

って話でもあって。

究極、何かがおかしいと糾弾するような姿勢は、その姿勢自体がひとつの偏りを示すにすぎないといえるんじゃないでしょうかね。

そろそろ気づく人は気づくと思うけど、こういうことを考えていくと、

ただ人間が妄想的にゴチャゴチャ言ったりやったりしてるだけ

な部分と、

それを拭い去った後に残る本質的な何か

に分かれる感じがしてこない?

人間がえてして「思う」あれこれってのは、基本的にはマーヤ(幻想)なのですわ。
そこじゃないの。人間が生きて掴むべき本質は。

というか。

マーヤまみれの状態にある人間が、いかにマーヤを見破り、克服していくかの修練のツールとして、スピリチュアルとされる分野の教えや実践がある

ってことだったりするんじゃないでしょうか。

知らんけど。

0→1に感性のアンテナ、理解できる言語を作る重要性

長いこと、アタマがいいつもりで、自分なりに語学の参考書を買って読んだり、音楽制作やプログラミングについての本を買って読んでやってみたり、しました。

だけど、悪い意味でいい加減なところを「良かれ」と思って学習してしまった自分は、本に出てくる知らない単語をいちいち調べたりせず、

なんとなく、フィーリングで読み流し、「雰囲気は掴めた」みたいなフワッとしたことを言って、わかったつもりになってた

んですよ。

これが全然ダメだった。

なんにも身についてなかった。

わかったつもり、って何がだよ、と言われて、何も言えなかった。

「じゃあ、やってみて」

と言われても、できない。

たとえ手を動かして、参考書にある練習問題を実際に語学なら発音してみたり、ノートに書いたり、音楽制作やプログラミングならコンピュータに打ち込んでみたりして「できた」となっても。

応用がきかない。

今の構文を使って、別のことを言う、ということができない。別の処理をするプログラミングが書けない。

テキストどおりの例文・練習問題を、テキスト見ながらやって、できたからと、完全に理解できたと思い込む。

この、ダメダメループに陥り、時間を無駄にしたと思うからこそ、「もっと効率的なやり方は」を模索する方に走ってしまった。

それがよくなかった。

結論としては、基本のキを、まるで小学1年生が、ひらがなを50音ぜんぶ、一文字一文字、何回も書いては読み、だんだんスラスラ書けるようになっていくみたいな、ある意味では屈辱的で、時間がもったいないとも感じる、非効率的に思える方法で、

運動を通じて基本を、カラダに刻み込んでいく
スタイルをとるしかありませんでした。

(これがこの記事のタイトルで言ってることです)

音楽理論や制作についても、ほんとに小学校低学年みたいに、手取り足取り、教わることで、テキトーに本だけ読んでできるつもりになっていて実は歯抜けだった知識や概念を、みっちり整備していくことで、ようやく上達というか、進むことができるようになりました。

愕然としました。

時間を無駄にせず、効率よく、なんて良かれと思ってしていたことが、何もかも、裏目に出ていた。

「バッカみたい」

と思わざるをえなかった。

いっそのこと、「世界で一番、才能がなくて向いていない。だから、人一倍、ゆっくり着実に、何回でも基礎的なことを繰り返して、カラダで覚えないとダメだ」と思い込んでた方がマシでした。

実年齢のことを考えると、惨めで惨めで、

「もう、ダメじゃん。遅いじゃん。間に合わないじゃん(←何にだよ)」

と思ってほんとに泣けてきたり。

ちゃんと学び直すために学校などにしっかり通い直しはじめてそう感じたのですが、同級生に、自分の子供、なんなら孫くらいの年齢の人がいる(というか、多い)と、ほんとに授業中に悔しくて涙が出そうになったり。

でも、しゃあない。

そこからやるしかない。

そうやって、無限に遠く思える階段の道のりを、一歩一歩、しかも踏み台昇降運動みたいに繰り返し、アタマで何も考えなくてもパッと知識が浮かんだり、もう間違えようがないくらい無意識に正しく手が動くところまで、やりなおした。

(収監された経験もなくこう言うのも的外れかもしれませんが)まるで囚人になったような心地でした。

そして、6歳児かよ!的な基礎的なことを、もさもさモタモタやっている自分と、同年代や年下20~30代の人が、バリバリと活躍して、実績を挙げて。
傑出した人はニュースで取り上げられたり、急に売れた若い歌手やダンサーが紅白歌合戦に出たり。

ものすごくメンタルを削られました。

ちっぽけな、「そこそこ能力があって、そこそこ年を重ねた目上な俺様」みたいなプライドが、粉々になりました。

特に、みっちり学びなおした初めのうちは、まるで何かの手術後のリハビリみたいに、手や足を動かすとか、立つ・座るみたいな簡単なはずの動作がとても大変でつらく、時間がかかるあの感じで。

どうしてこんな簡単なことを、また間違えるんだろう。できないままなんだろう。
なんでこんなに頭が悪いんだろう。
どうして自分はこんな年齢になってまで、こんな基本的なことを、時間をかけて、できるようになろうとして、延々とできないままなんだろう……。

自宅で誰もいないときは、ほんとにボロボロ泣きながら、学校の宿題をやったりしていました。

ある意味、努力が報われない経験なら何十年と積み重ねてきており、ベテランの達人なので、そうやって号泣しながらでも手を止めずにメンタルも最終的なところは破壊されずに機械人形のように続けることはできました(笑)。

そしたら。

絶望視していたよりは早くだんだん、できるようになるんですよね。
そして、以前はものすごく時間がかかっていた作業などが、最初にかかった時間の何十分の一とかでできる。
しかも、精度というか、上手さも上がって。

集中して、緻密に黙々と、単純作業のような学習を続けると、5〜10分といった時間がとても長く感じます。
それを毎日何時間も、それも何週間、何ヶ月と続けると、もう10年くらい収監されている囚人のような心地になります。

が。

実際は、数週間。

大人が、ちょっと気を緩めて、だら〜っと過ごしたらあっという間の時間しか経っていないんです。

そして、

「もう、こんなトシをとって、自分の孫みたいな年齢の子より出来が悪くて、どんだけやっても全然無理なんじゃん?」

とボロボロ泣きながら、最初歩のところでコケて、わからなくて、焦れて、うあー!!となってたのも遠い過去に。

「あ、もうこんな短期間で、ここまでできるようになるものなの?」

という方の感慨にシフトしました。

そして。

基本を100点満点で、知識のあやふやなところもなく、正確に理解できるようになると、そこでようやく

自習が可能になる

んですね。

これは、特に音楽制作で顕著でした。

ミキシングのコツや、EQ、コンプ、リバーブやディレイの上手い使い方、やってはいけないダメな調整あるあるなどは、学校の授業だけだとそこまで詳しくやらなかったこともあり、世間で売られている参考書をあたることに。

「また、わかるつもりで自分で本を買ったわりに、できないままなのでは」

とヒヤッとしつつ、立ち読みなどで様子を見てみて。

「……わかる!!書いてあることがわかる!!」

と驚きました。

それも、パッと速読した程度で、「わかったつもり」ではなく、ほんとに「できる」ところまで理解できるようになっていました。

基本知識が網羅されているので、本の記述内容がまず単語や概念としてちゃんと正しくイメージしたうえで理解できるし、だから本が提唱する(自分にとっての)新しい知識や概念も、スッとわかることができました。

本ごとの、著者の意向というかまで汲み取れるようになり。
本というのは良くも悪くも、ある分野を網羅しようとすると、分厚くなるし、そうなると売れにくいし、などで、伝えたい情報の方向性をコンセプト的に決めて、取捨選択する必要が出てきます。
その、「やむなく削ったけどほんとはこういうことも言いたかったのでは」みたいな著者の思い、編集の中で軽く触れる程度にとどめた裏事情なども、温度や匂いまで含めて、読解していけるようになりました。
(そして意外と、著者さんと直接、会う機会も、東京で業界の末端でもウロウロしてるとわりとあるのですが、自分が感じたことを話すと『そう!分かる?わかってくれたんだ?』と驚かれ、喜ばれたりします。著者冥利と言う感じなのかな)

それで今度は、先に自分が知りたい内容を中心に据えて、そのために役立つ本はどれかを取捨選択して、(ある本1冊をご丁寧に最初のページから愚直に読んだりせず、目次を見てざっと全体を眺めて、どこらへんに何が書いてあるかまで把握したら)必要な部分だけをピックアップする、という学習の仕方が可能になりました。
ある意味、愚直にまずは基本を網羅した後でないと、こういう、効率的にいいとこ取りみたいな学習はできないものなんだ、ということも痛感しました。

急がば回れ、は本当でした。

ここでいきなりヒーリングの話になるんですが。

いま、私が教授を担当しているヒーリングモダリティを含め、現在提供されている何かしらのエネルギーワークの講座といったものは、わりと前提となる知識というかを「わかるでしょ?」と割愛していることが多いです。

だってまず、テキストがあるという時点で、「文字は読めるでしょ?」という点はクリアした人向けなわけですよね。
これ、ふざけてるわけじゃなくて。実際、文字が読めない、言葉がまったくわからないと、講座に出ても何も学べないですよね?
それを極端な例として述べたまでです。
これが、徐々に高度になっていって、たとえば「口から入った食べ物を胃や腸など消化器官で分解、栄養を吸収して排泄器官から残りカスを出す」ということも、テキストでは説明はせず、前提としていきなり、消化についての記述が出てきたりする。
その、「前提」としてわざわざは解説されていない、ある部分、ある段階の知識や概念が実は抜けているのに、なんとなくフンフンといってわかったつもりでセミナーを受けてると、自分がそこで理解が抜けた部分があるということすら、本人が気づいておらず、それが原因で挫折したり、そのセミナーで学ぶ内容が理解できなくなったりしていく。

これ、すっごいあるんです。

わからない、ならまだ可愛い方で。

問題は、誤解のほう。

「ふんふん、あー、ようするに『〜〜〜』って意味でしょ?前に別の本で読んだことあるわ」

といって、実はそれ違うよ、という理解になる。

そこに本人の意向というか固執、「たとえそれが誤謬であっても、〜〜〜だと信じていたい」という思考が入るともう絶望的。

それが積み重なって、セミナーの修了証コレクターとしては見事なまでにあらゆるセミナーに出ておいて、正しい霊的理解も実技の習得もてんでできてない、困ったちゃん(そのくせ、プライドだけは高い)が誕生するわけです。

基本のキから抜け・漏れ・誤解を探していく作業は、それだけである意味では、骨の折れる、とても無駄な作業のように思えますが。

あー。。。。

無駄かもね。

やめたほうがいいよ。

だってもう○歳じゃん?

時間ないよ?

間違いに気づいたからって、今から引き返してご丁寧に分からないところを学び直すなんて、無理じゃない?
やるだけ無駄だよ。
どうにかこのままで、ゴリ押しした方が賢いって。どうにかなるって!

っつって?(全力で失笑)

自動調理器で自炊をラクに。

なにブログなんだって話ですが。

ホットクック
  ↓


を購入して、材料を鍋にぶち込んでおきさえすれば、あとは炊飯器感覚で時間が来ると出来上がり、という道具を導入することで自炊にかかる時間と労力を(さらに)削減しています。

ずっと台所で火加減などをみてなくて済むので楽チンです。


もともとは電気圧力鍋を使っていました。


これ、そこまで馴染みのないメーカー名で値段も1万円程度と割安なため期待していませんでしたが、効果はばつぐんだ!!
旧来の直火用の圧力鍋と異なり、蒸気が出ないし、音もしません。ほんとに無音。
なのにしっかりできる。最高です。

食のパラドックス 6週間で体がよみがえる食事法

では、食べると人間にとって害が大きいと著者が主張する豆類・穀物類も、圧力調理をすると分子構造が変化して無毒化する……という、トンデモ科学だと批判されやすさバッチグーの論旨を展開していたこともあり、炊飯や豆やじゃがいもなどとりあえずなんでも、「おまじない」的に圧力調理しとけばオッケーじゃね?という算段もあり。

(ただ、いっときの気の迷いで知人にあげてしまいました)
スピ系? 健康オタク? 方面の人々の間では圧力鍋といえば

毒出し脂肪燃焼スープ

を作るのに重宝(必須?)ですよね。

私はさらにジャンキーな食べ物(ポテトフライ、鳥の唐揚げをはじめとする揚げ物各種etc)も食べますので、ノンフライヤー

も導入しました。
ウリとしては「揚げ物調理に油が要らない!」というヘルシー路線のようですが、そんなこたぁどうでもいい。
(というか、油を用意しなくていい、通常の揚げ物でキッチンが油くさくなったり火事などの危険がないのがありがたい)

私の推しは、
温度とタイマーを設定できるので、ほったらかし可能
なところ。
冷凍のフライドポテトや唐揚げをざっと調理器に入れて、スイッチ押したら目を離して大丈夫。
時間が来たらアラームで教えてくれます。
スーパーなどで買った、べちゃべちゃの天ぷらなども、数分、これで調理するだけでカリッカリの熱々になるのがありがたかったです。

丸型ナベ
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を市販品でもなんでもいいですが内側の容器として用意すると、スープや煮物、あるいはケーキ焼きなどわりと万能な調理器として機能するので便利でもあります。


ある程度ではありますが、ほったらかし的な自炊をする上では、汎用性の高さでいうと

IH調理器

に分があるでしょう。
工事不要のため、いま直火コンロを使っている方は、そこにかぶせるようにこの台を置いて電源ケーブルだけコンセントに挿せば即、IH調理を始められます。
(女性でもそこまで重いと感じない重量なので、使わないときはヒョイと取り外して直火コンロを使うなど、持ち運びしやすいのも便利です←なんなら別の場所にIH調理器を一時的に移動させてそこのコンセントに挿して、臨時にそこで何かを調理、といった使い方もできます)

調理タイマーつき、揚げ物については油の温度指定もできるため、(完全なほったらかしはオススメしませんが)直火コンロで何かをするのと比べるとかなり、火加減や加熱時間をきっちり、手抜きしつつ管理できます。
(さきほど電気圧力鍋を挙げましたが、IH対応の通常の圧力鍋を購入してIH調理器で温度や加熱時間をタイマーセットすると、電気圧力鍋とほぼ同等の機能が実現します)

こうした調理器具を揃えておき、さらに材料もあらかじめ、時間があるときに(というか時間を作って←じゃないと永遠に来ないから)、切って冷蔵庫や冷凍庫に保存しておきます。

包丁を使うのが得意でない人でも素早く、野菜をスライスしたりするにはやはり、

スライサー

が便利。
ストッパーがついてるので、指を切ることもありません。

ベーコンや肉類など、スライサーで切りにくいものは、

(小型まな板つき)ハサミ型の包丁

があると、まるで切り紙工作のように手で食材を持ったまま材料が切れて便利です。
(野菜でも、にんじんやネギ、ピーマンなどのヘタを切る際には断然これです)

こうやってスライスしておいた材料を

保存も手軽、使うときもサッとできるように、

真空保存容器真空パックメーカー

も完備。

もっと安い、手動の(ほぼ)真空パック容器でいうと、
などが千円台からあります。

こうやって、自炊が面倒&大変でない状況を作っておきます。

で、何か作って食べようとなったときは、例えば調理器に水を入れたら好きな材料を手づかみでもなんでも入れてスイッチON、みたいなシステムにしておく。
そうすると手間がかからず、メンタルも削られないで勝手に時間が経てば食べ物が出来上がるようにしています。

※自分は米を食べない食生活にもう慣れてしまいましたが、食べたいときは普通に電気炊飯器で炊きます。



こうして自動調理器のラクチンさを覚えた私は、コーヒーを淹れるのさえ自動がよくなり、



を購入して、豆をあらかじめ入れておけばスイッチひとつで自動で豆を挽き、コーヒーを淹れてくれるマシンまで導入。
フィルタがステンレスのため、紙のフィルターを使うと紙に吸着されて飲めないコーヒー豆のオイル成分もしっかり味わえます。
掃除がラクというか、普段使いなら、マシンを開けてステンレスフィルタを取り出し、逆さにしてゴミ箱に「カン!」と当てるようにするだけで豆のカスがあらかた捨てられて便利。5秒もかかりません。

コーヒー豆は、北海道の珈琲きゃろっとの定期便を利用しています。

ほか、世界的にも珍しい品種の豆を店で焙煎して売ってくれる久我山焙煎所が近所にできたので、そこでもレア豆をふらっと衝動買いしたりもして。



ちなみに片付けですが、

食洗機(工事不要で、購入したら電源ケーブルを挿せば即座に使い始められる)

はマスト。必須です。
食器洗いくらい、たいしたことないと思いがちですし、ほんとにそれが苦もなくサッとできる行動特性がある人は不要かもしれません。
が、いちいち食事のたびにはすぐ洗えず、キッチンのシンクに汚れた食器を置いてそのままにしがちな人は買え(←命令)。
実作業時間や労力の度合いじゃないんです。
「あー、食器も洗わなきゃなー」
という心配で脳のCPUを食う(ことで大事なことを考えたり集中したりすることができなくなる)のを回避するんです。
「食洗機に入れた!スイッチ入れた!これでOK!」
といって、

自分の脳のメモリ領域を解放する

んです。

家事のために、自分の「考える力」を削られないで生きるライフスタイルの構築

は、自分で稼いで家のこともやらなきゃ、的な、独身や単身赴任、なんとなくだらっとこなせる仕事ではなくてクリエイティブなクオリティの高さを要求される類いの仕事でシノギを削る系の生き方をしている人にとって、最重要事項とすらいえるでしょう。

というか、あれもこれもしなきゃ、どれも大変だし時間を食うし、と思ってしぶしぶそれを続けるといった気持ちで生きていると、

生きているのが億劫になり、楽しいと思えなくなる

んですよね。

それが一番よくないと思います。

暮らしが「生きること(の素晴らしさ)を否定する」心を生み出すものであってはいけない

と思っています。



つらつらと、自堕落のススメ的に述べてきましたし、大家族やお子さんがいる家庭、口うるさい夫(や妻)、姑がいて手抜きを怒られる場合はこれよりもう少し、いろいろ工夫が必要になるかもしれません。

が、一人暮らしの自分からすると、ここまでしっかり、手間と労力をかけずに、

ちゃんとしたものを食べるという、生命にとってかかせない営み自体はほとんど手抜きをしていない

暮らしの実現ができました。

これは自分でいうのもなんですが生活の知恵でしたし、もっといえば

毎日数回発生する食事の準備に手間取ることで肝心の仕事に注ぎこめるはずのエネルギーを削られずに済むという死活問題

をクリアできている自負があります。

いつもいつも満点の食生活でなくてもいい。
60〜70点的な、及第点の食生活をコンスタントに実行できていれば。


という、ユルいハードルで。

仕事中心の人生を送っているとどうしても、食事など生活面のことには手を抜きがちですが、

食べるものが雑になる日々が続くことによる、心身の地味な荒廃は地味だけどかなり手痛いダメージ

だと学習しました。

そこそこ以上に頑健で年齢が若いと体はそんなすぐには崩さないかもしれませんが、

栄養のよくないものやジャンクフード漬けだと、体よりも先にメンタルにダメージが来る

んですよ、若くても。

気がつくと、舌打ちの回数が増えていたり、些細なことでイラッとしたり、

「〜〜みたいなこと言ったりしたりする奴、死ねばいいのに」

といった刹那的な考えがすぐ湧いたりするようになります。

これは、
「みんなそんなもんじゃない?」
と、たとえばみんなが食生活ボロボロでギスギスした環境の会社で自分も働いてたりすると、思います。
べつに自分がこんなふうにやさぐれているのは、おかしなことではない、普通だ、と。

ほんとにそれでいいならそう信じていればいいと思いますが。

そうでないなら工夫を。

そして、工夫のために物を買ったりできるだけのお金は心配なくポンと出せるような経済状態の構築もね。


P.S
くれぐれもブレーカー落ちるのには要注意。

これとこれを一緒に使ってはいけない、ということを(何度か失敗を経験して)把握しておくか、全部ガンガン使っても大丈夫なように電力会社に契約内容を変えてもらうか。

やはり、多少のお金をケチるよりは、

健全な気持ちで生きること

で、

人間が持っている、神と等しい現実創造能力を存分に発揮できるようにする

ことで、お金なら困らないようにいくらでも、というふうにしちゃった方が、なんだかんだいって便利ですわ。

自分のオリジン、ルーツを知るなんて重要? めんどくさいだけじゃね?

前々から、いろんな人、特に作家や俳優、音楽家などクリエイティブな仕事をしている人が、それぞれのルーツやオリジンというんでしょうか。それを知ろうとするのをいろんな形で見聞きしてきました。

直球で、自分のルーツを探し求める作家の文章を読んだこともあります。
テレビなどドキュメンタリー番組で見る場合もあります。

で。

前までの私は、

「なんでルーツなんか知りたいん? べつにどうでもええやん」

と思っていました。

今の自分がいて。
衣食住と、学校とか会社とか友達関係とか家族とか、何かしらの居場所があって。
お金があって、遊んだり暮らしを満喫したりできたら。

べつにルーツなんて知らなくていいじゃん。

……と。

で。

この感覚は、いわゆるフツーにというか、ただ毎日、死んではいませんよという状態で、飯食った、誰と遊んだ、セックスした、ウンコしょんべん出た、寝た……というサイクルでできるだけ楽しい想いができたら幸せ、という価値観で毎日をいきている(おそらく大多数の)人と同じ感じだと思います。
(それって私の侮りすぎでしょうか)

が。

学校や会社といった、他人側から与えられるイベントや人生の節目感といったものから解放されて(見放されて?w)、30代以降の年代を生きた私個人のみみっちい経験則でいえば。

だんだん、なんのために生きているのか、わからなくなってくる

んですよ。

結婚もせず子供もいない、勤め先であらかじめ確立されたキャリアパスもない、○歳には年収いくらくらいが望ましいという全国平均的な目標値ならとっくに超えているetcの状態だと、

とにかく毎日が、宙ぶらりん

なものとして、訪れるんですね。

自分がこういうふうに思うようになるなんて、20代まではまったく想像つかなかったというか、自分はそうならないのではという根拠のない安穏とした油断に甘んじていました。おそらく大多数の人と同じように。

で。

そこへ来て、小説や脚本、音楽、絵、漫画、なんでもいいですが、作り手である自分から湧き出る何かを源泉とした活動(いわゆるクリエイティブな活動というんでしょうか)をするとなったときには尚更、

自分がこれをやる理由はなんだろう
というか、これをする中で、ほかならぬ自分ならではの出せるものって、なんだろう


という問いにぶちあたります。

これね、子供がわけもわからず親などからピアノ習わされて練習してる、その流れで音大目指して、受かってうまいこと卒業できましたでも途中のどこかで挫折しましたでも、「受け身感」でやってる間は、もしかするとゴリゴリとクリエイティブな活動を推し進めてみたところで、考えもしないかもしれません。

でも、自主的にそれをやるとなると。

特に、同年代どころか年下までもがいろんな理由でぽつぽつ死んでいき、明日は我が身ということを否応無く考えさせられるような瞬間がリアルに訪れることもそれなりに経験すると。

いつ死ぬかもわからないのに、よりによって、残された寿命の中で、なんで自分は、これをするんだろう。
それをして、生きていられる時間を費やすことを、良しとできるだろうか。
死ぬ瞬間に、「しまった、あんなことのために時間を費やしてしまったなんて!」と思わずに逝けるだろうか。

そういうことを考えるようになったんです。少なくとも私は。

ましてや。

自分の独りよがりに、趣味の習い事として、楽しいヒマつぶしみたいにやってるなら、いいんですよ。

でも。

仕事にしたり、趣味的な習い事であったとしても師匠というか先生といった人からコメントやフィードバックを受ける立場にある、あるいは、賞のためのコンクールに出場したり作品を応募して講評を得る、審査を受けるといったシノギを削る路線で活動していくなら。

自分のコアな部分からズレた、「言われたから、やりました。それが何か?」みたいなものは、力がないし、自分でやってて作品が良いものだと思えないんです。

自分と全く違う性質のものをいわば「演じる」にしても、「演じている本体である自分」というものが何か、ということが定まらないと、宙ぶらりんな杭にボートを縄で結んで停泊させようとしても杭ごとフワフワ漂ってしまうのと同じような図式になります。

あるいは、とても手練手管が発達したので、自分というもののコアな部分と関係なく、自分が何かを知らなくても、褒められて良いものが創れちゃうようになったとしても。
それはそれで、「それでいいのかな」ということは、おそらくクリエイター気質の人なら思うのでは。
そこで「いいの。これは生業だから」で思考停止して、割り切って、生活のために、そういう案件を相変わらず続けるという人も少なくないでしょうし。

良い悪いの問題ではなくて。結果としてどんな生き方をするにしても個々人の自由なんでしょうけど。

「なんで自分はそれをするの?」

というか、

「自分って、何?」

ということは、よっぽどテキトーに生きてない限り、特に年をとればとるほど、考えるようになっていくものなんじゃないでしょうか。

(これも個人的な勝手な憶測ですが、大多数の日本人(の大人)は、『日本すごい!!』という、とにかく満点!最高!という評価を自分のルーツやオリジンに対して付け焼き刃的に、何も調べず考えたりもせずに決めて、それで一件落着ということにして思考停止を正当化している印象があります)

私の場合は作曲の学校で実際に楽曲を創っていく中で、それを痛感しました。

たしかに「いいな」と思ってはいるけれどそこまでマニアというわけでもない、バッハの作風が自分の曲に現れてきてしまう。

CD出せばどんなのでもある程度は売れた90年代に量産された質の悪いJ-POP的な楽曲あるあるなパターン(コード進行)などが、無意識に出てしまう。
(10代の私は、なんだかんだいって、まだインターネットが登場する前の、テレビでの歌番組などで流れる歌謡曲を、べつに主体的にではなくても耳にしていて、それが無意識なうちに自分の中の『音楽性』みたいなものになってしまってたんです。コンビニやファストフード店で目先のジャンクな美味しさにつられて考えもなしに食べ散らかした末にだらしなく太った、の音楽版みたいな)

自分って、何。

今更ながら、何言ってんだと思いつつ、それを具体的に考えざるをえない体験なんですわ。作曲って。
(特に自分の場合、独りよがりに鼻歌でテキトーに作った曲をひとりで弾き語りしてご満悦、といったものではなく、学校にいって先生の指導を受けるスタンスだったので、自分のそうした甘いところ、あるあるなダサいポイントなどをビシバシ指摘されました)

これね、ちょっと前?に、「自分探し(の旅)」みたいな概念、流行ったじゃないですか。
どちらかというと、「イタい人が陥る病的な、勘違いでハマっちゃった残念な落とし穴」みたいなニュアンスで失笑されるイメージで。

で、「そんなこと考えなくていいんだよw」という冷笑というか、そっちのほうが賢い悟りだよという強がったゴリ押しをもってして、結局自分は何なのかわかってもいないくせにいかにも正しい、みたいな驕り高ぶり全開な人の方が「マトモな多数派」ぽく受け取られたりして。

でもね。

自分が何か。

いくつもの深み、意味合いのレイヤーで、いつまでも考えていかないと、自分が誰なのかわからなくなるからテレビなど「みんな」の言うことをアイデンティティにして染まって、なんとなく時代やみんなの空気についていけてるから自分はイケてるはずと思い込んでおしまい、みたいな軽薄な人間で終わるんじゃねえかなー、なんて。
(しつこいようですが、それで幸せ、という人はほんとにそれでいいと思います。あくまでも、自分とは何かをわからないとにっちもさっちもいかない生き方をする人に必要なだけで)

自分探しって、思ったより技術的。テクニカルなものなんじゃないかなと今は思ってます。

口ではなんとでもいえる。

「自分探しをして、自分は〜〜〜だ!とわかった」

みたいなことは、根拠も何もなく、ただ言うだけなら、誰にでもできる。

でもさっきからとことん言ってますが、それが本当かどうかは、絵でも音楽でも芝居の演技でも、あるいは会社員でもいいからその仕事ぶりというか生き様というかでもなんでも、

何かをおこなったとき、言ってる「自分」と、そのおこないに現れる「自分」が一致しているか

で、他人からは丸見えなんです。
(えてして、本人だけが気づいていません)

で、せわしない現代では(←それも、現代が絶対的にそういうものというよりは、勝手にせわしなく生きるしかない自分らの自業自得でそうなってるだけだと思うんですけど)、

かっちりしっかりみっちり自分を知る、なんて悠長なことは、みんなの間では、推奨されない。
(それぞれが、自分の都合のいいように人を使いたくて『そんなことしてないで、さっさとこれをやれよ!』と支配しようとしてくる)

そう考えると、

自分とは何か、を考えることができるのは、ものすごく豊かな贅沢

ともいえるのかな、なんて。

他の人に価値観を押し付けるつもりは毛頭ありませんが、もし、中高年以降も、(ただメシさえ食えてりゃ満足という、動物みたいな人生で終われる段階の人ではないのに)生きていくなら。

自分は何か。

は、大事なんじゃないの、と。

そのために、ルーツというか、オリジンというか。

頭でいくら考えても埒が明かないことを、歴史的事実というかDNAというかに求めるんじゃないか知ら、なんて。

中年になると歴史の勉強たのしいよねー。(←唐突)

今は自分の頭で自分とは何かを考えて整理する自己分析ツールとして、「メモの魔力」なんかも売れてますよねー。

まぁ、なんにしても。

自分は何かなんて全然考えようとも思わず毎日のんべんだらりとでもチャキチャキにでも楽しいなら、アイデンティティだのルーツだのオリジンだのなんて、一切考えなくても毎日ハッピーハッピー!

ですよねぇ〜!!!!!!!