自動調理器で自炊をラクに。

なにブログなんだって話ですが。

ホットクック
  ↓


を購入して、材料を鍋にぶち込んでおきさえすれば、あとは炊飯器感覚で時間が来ると出来上がり、という道具を導入することで自炊にかかる時間と労力を(さらに)削減しています。

ずっと台所で火加減などをみてなくて済むので楽チンです。


もともとは電気圧力鍋を使っていました。


これ、そこまで馴染みのないメーカー名で値段も1万円程度と割安なため期待していませんでしたが、効果はばつぐんだ!!
旧来の直火用の圧力鍋と異なり、蒸気が出ないし、音もしません。ほんとに無音。
なのにしっかりできる。最高です。

食のパラドックス 6週間で体がよみがえる食事法

では、食べると人間にとって害が大きいと著者が主張する豆類・穀物類も、圧力調理をすると分子構造が変化して無毒化する……という、トンデモ科学だと批判されやすさバッチグーの論旨を展開していたこともあり、炊飯や豆やじゃがいもなどとりあえずなんでも、「おまじない」的に圧力調理しとけばオッケーじゃね?という算段もあり。

(ただ、いっときの気の迷いで知人にあげてしまいました)
スピ系? 健康オタク? 方面の人々の間では圧力鍋といえば

毒出し脂肪燃焼スープ

を作るのに重宝(必須?)ですよね。

私はさらにジャンキーな食べ物(ポテトフライ、鳥の唐揚げをはじめとする揚げ物各種etc)も食べますので、ノンフライヤー

も導入しました。
ウリとしては「揚げ物調理に油が要らない!」というヘルシー路線のようですが、そんなこたぁどうでもいい。
(というか、油を用意しなくていい、通常の揚げ物でキッチンが油くさくなったり火事などの危険がないのがありがたい)

私の推しは、
温度とタイマーを設定できるので、ほったらかし可能
なところ。
冷凍のフライドポテトや唐揚げをざっと調理器に入れて、スイッチ押したら目を離して大丈夫。
時間が来たらアラームで教えてくれます。
スーパーなどで買った、べちゃべちゃの天ぷらなども、数分、これで調理するだけでカリッカリの熱々になるのがありがたかったです。

丸型ナベ
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を市販品でもなんでもいいですが内側の容器として用意すると、スープや煮物、あるいはケーキ焼きなどわりと万能な調理器として機能するので便利でもあります。


ある程度ではありますが、ほったらかし的な自炊をする上では、汎用性の高さでいうと

IH調理器

に分があるでしょう。
工事不要のため、いま直火コンロを使っている方は、そこにかぶせるようにこの台を置いて電源ケーブルだけコンセントに挿せば即、IH調理を始められます。
(女性でもそこまで重いと感じない重量なので、使わないときはヒョイと取り外して直火コンロを使うなど、持ち運びしやすいのも便利です←なんなら廊下にIH調理器を一時的に移動させてそこのコンセントに挿して、臨時にそこで何かを調理、といった使い方もできます)

調理タイマーつき、揚げ物については油の温度指定もできるため、(完全なほったらかしはオススメしませんが)直火コンロで何かをするのと比べるとかなり、火加減や加熱時間をきっちり、手抜きしつつ管理できます。
(さきほど電気圧力鍋を挙げましたが、IH対応の通常の圧力鍋を購入してIH調理器で温度や加熱時間をタイマーセットすると、電気圧力鍋とほぼ同等の機能が実現します)

こうした調理器具を揃えておき、さらに材料もあらかじめ、時間があるときに(というか時間を作って←じゃないと永遠に来ないから)、切って冷蔵庫や冷凍庫に保存しておきます。

包丁を使うのが得意でない人でも素早く、野菜をスライスしたりするにはやはり、

スライサー

が便利。
ストッパーがついてるので、指を切ることもありません。

ベーコンや肉類など、スライサーで切りにくいものは、

(小型まな板つき)ハサミ型の包丁

があると、まるで切り紙工作のように手で食材を持ったまま材料が切れて便利です。
(野菜でも、にんじんやネギ、ピーマンなどのヘタを切る際には断然これです)

こうやってスライスしておいた材料を

保存も手軽、使うときもサッとできるように、

真空保存容器真空パックメーカー

も完備。

もっと安い、手動の(ほぼ)真空パック容器でいうと、
などが千円台からあります。

こうやって、自炊が面倒&大変でない状況を作っておきます。

で、何か作って食べようとなったときは、例えば調理器に水を入れたら好きな材料を手づかみでもなんでも入れてスイッチON、みたいなシステムにしておく。
そうすると手間がかからず、メンタルも削られないで勝手に時間が経てば食べ物が出来上がるようにしています。

※自分は米を食べない食生活にもう慣れてしまいましたが、食べたいときは普通に電気炊飯器で炊きます。



こうして自動調理器のラクチンさを覚えた私は、コーヒーを淹れるのさえ自動がよくなり、



を購入して、豆をあらかじめ入れておけばスイッチひとつで自動で豆を挽き、コーヒーを淹れてくれるマシンまで導入。
フィルタがステンレスのため、紙のフィルターを使うと紙に吸着されて飲めないコーヒー豆のオイル成分もしっかり味わえます。
掃除がラクというか、普段使いなら、マシンを開けてステンレスフィルタを取り出し、逆さにしてゴミ箱に「カン!」と当てるようにするだけで豆のカスがあらかた捨てられて便利。5秒もかかりません。

コーヒー豆は、北海道の珈琲きゃろっとの定期便を利用しています。

ほか、世界的にも珍しい品種の豆を店で焙煎して売ってくれる久我山焙煎所が近所にできたので、そこでもレア豆をふらっと衝動買いしたりもして。



ちなみに片付けですが、

食洗機(工事不要で、購入したら電源ケーブルを挿せば即座に使い始められる)

はマスト。必須です。
食器洗いくらい、たいしたことないと思いがちですし、ほんとにそれが苦もなくサッとできる行動特性がある人は不要かもしれません。
が、いちいち食事のたびにはすぐ洗えず、キッチンのシンクに汚れた食器を置いてそのままにしがちな人は買え(←命令)。
実作業時間や労力の度合いじゃないんです。
「あー、食器も洗わなきゃなー」
という心配で脳のCPUを食う(ことで大事なことを考えたり集中したりすることができなくなる)のを回避するんです。
「食洗機に入れた!スイッチ入れた!これでOK!」
といって、

自分の脳のメモリ領域を解放する

んです。

家事のために、自分の「考える力」を削られないで生きるライフスタイルの構築

は、自分で稼いで家のこともやらなきゃ、的な、独身や単身赴任、なんとなくだらっとこなせる仕事ではなくてクリエイティブなクオリティの高さを要求される類いの仕事でシノギを削る系の生き方をしている人にとって、最重要事項とすらいえるでしょう。

というか、あれもこれもしなきゃ、どれも大変だし時間を食うし、と思ってしぶしぶそれを続けるといった気持ちで生きていると、

生きているのが億劫になり、楽しいと思えなくなる

んですよね。

それが一番よくないと思います。

暮らしが「生きること(の素晴らしさ)を否定する」心を生み出すものであってはいけない

と思っています。



つらつらと、自堕落のススメ的に述べてきましたし、大家族やお子さんがいる家庭、口うるさい夫(や妻)、姑がいて手抜きを怒られる場合はこれよりもう少し、いろいろ工夫が必要になるかもしれません。

が、一人暮らしの自分からすると、ここまでしっかり、手間と労力をかけずに、

ちゃんとしたものを食べるという、生命にとってかかせない営み自体はほとんど手抜きをしていない

暮らしの実現ができました。

これは自分でいうのもなんですが生活の知恵でしたし、もっといえば

毎日数回発生する食事の準備に手間取ることで肝心の仕事に注ぎこめるはずのエネルギーを削られずに済むという死活問題

をクリアできている自負があります。

いつもいつも満点の食生活でなくてもいい。
60〜70点的な、及第点の食生活をコンスタントに実行できていれば。


という、ユルいハードルで。

仕事中心の人生を送っているとどうしても、食事など生活面のことには手を抜きがちですが、

食べるものが雑になる日々が続くことによる、心身の地味な荒廃は地味だけどかなり手痛いダメージ

だと学習しました。

そこそこ以上に頑健で年齢が若いと体はそんなすぐには崩さないかもしれませんが、

栄養のよくないものやジャンクフード漬けだと、体よりも先にメンタルにダメージが来る

んですよ、若くても。

気がつくと、舌打ちの回数が増えていたり、些細なことでイラッとしたり、

「〜〜みたいなこと言ったりしたりする奴、死ねばいいのに」

といった刹那的な考えがすぐ湧いたりするようになります。

これは、
「みんなそんなもんじゃない?」
と、たとえばみんなが食生活ボロボロでギスギスした環境の会社で自分も働いてたりすると、思います。
べつに自分がこんなふうにやさぐれているのは、おかしなことではない、普通だ、と。

ほんとにそれでいいならそう信じていればいいと思いますが。

そうでないなら工夫を。

そして、工夫のために物を買ったりできるだけのお金は心配なくポンと出せるような経済状態の構築もね。


P.S
くれぐれもブレーカー落ちるのには要注意。

これとこれを一緒に使ってはいけない、ということを(何度か失敗を経験して)把握しておくか、全部ガンガン使っても大丈夫なように電力会社に契約内容を変えてもらうか。

やはり、多少のお金をケチるよりは、

健全な気持ちで生きること

で、

人間が持っている、神と等しい現実創造能力を存分に発揮できるようにする

ことで、お金なら困らないようにいくらでも、というふうにしちゃった方が、なんだかんだいって便利ですわ。
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自分のオリジン、ルーツを知るなんて重要? めんどくさいだけじゃね?

前々から、いろんな人、特に作家や俳優、音楽家などクリエイティブな仕事をしている人が、それぞれのルーツやオリジンというんでしょうか。それを知ろうとするのをいろんな形で見聞きしてきました。

直球で、自分のルーツを探し求める作家の文章を読んだこともあります。
テレビなどドキュメンタリー番組で見る場合もあります。

で。

前までの私は、

「なんでルーツなんか知りたいん? べつにどうでもええやん」

と思っていました。

今の自分がいて。
衣食住と、学校とか会社とか友達関係とか家族とか、何かしらの居場所があって。
お金があって、遊んだり暮らしを満喫したりできたら。

べつにルーツなんて知らなくていいじゃん。

……と。

で。

この感覚は、いわゆるフツーにというか、ただ毎日、死んではいませんよという状態で、飯食った、誰と遊んだ、セックスした、ウンコしょんべん出た、寝た……というサイクルでできるだけ楽しい想いができたら幸せ、という価値観で毎日をいきている(おそらく大多数の)人と同じ感じだと思います。
(それって私の侮りすぎでしょうか)

が。

学校や会社といった、他人側から与えられるイベントや人生の節目感といったものから解放されて(見放されて?w)、30代以降の年代を生きた私個人のみみっちい経験則でいえば。

だんだん、なんのために生きているのか、わからなくなってくる

んですよ。

結婚もせず子供もいない、勤め先であらかじめ確立されたキャリアパスもない、○歳には年収いくらくらいが望ましいという全国平均的な目標値ならとっくに超えているetcの状態だと、

とにかく毎日が、宙ぶらりん

なものとして、訪れるんですね。

自分がこういうふうに思うようになるなんて、20代まではまったく想像つかなかったというか、自分はそうならないのではという根拠のない安穏とした油断に甘んじていました。おそらく大多数の人と同じように。

で。

そこへ来て、小説や脚本、音楽、絵、漫画、なんでもいいですが、作り手である自分から湧き出る何かを源泉とした活動(いわゆるクリエイティブな活動というんでしょうか)をするとなったときには尚更、

自分がこれをやる理由はなんだろう
というか、これをする中で、ほかならぬ自分ならではの出せるものって、なんだろう


という問いにぶちあたります。

これね、子供がわけもわからず親などからピアノ習わされて練習してる、その流れで音大目指して、受かってうまいこと卒業できましたでも途中のどこかで挫折しましたでも、「受け身感」でやってる間は、もしかするとゴリゴリとクリエイティブな活動を推し進めてみたところで、考えもしないかもしれません。

でも、自主的にそれをやるとなると。

特に、同年代どころか年下までもがいろんな理由でぽつぽつ死んでいき、明日は我が身ということを否応無く考えさせられるような瞬間がリアルに訪れることもそれなりに経験すると。

いつ死ぬかもわからないのに、よりによって、残された寿命の中で、なんで自分は、これをするんだろう。
それをして、生きていられる時間を費やすことを、良しとできるだろうか。
死ぬ瞬間に、「しまった、あんなことのために時間を費やしてしまったなんて!」と思わずに逝けるだろうか。

そういうことを考えるようになったんです。少なくとも私は。

ましてや。

自分の独りよがりに、趣味の習い事として、楽しいヒマつぶしみたいにやってるなら、いいんですよ。

でも。

仕事にしたり、趣味的な習い事であったとしても師匠というか先生といった人からコメントやフィードバックを受ける立場にある、あるいは、賞のためのコンクールに出場したり作品を応募して講評を得る、審査を受けるといったシノギを削る路線で活動していくなら。

自分のコアな部分からズレた、「言われたから、やりました。それが何か?」みたいなものは、力がないし、自分でやってて作品が良いものだと思えないんです。

自分と全く違う性質のものをいわば「演じる」にしても、「演じている本体である自分」というものが何か、ということが定まらないと、宙ぶらりんな杭にボートを縄で結んで停泊させようとしても杭ごとフワフワ漂ってしまうのと同じような図式になります。

あるいは、とても手練手管が発達したので、自分というもののコアな部分と関係なく、自分が何かを知らなくても、褒められて良いものが創れちゃうようになったとしても。
それはそれで、「それでいいのかな」ということは、おそらくクリエイター気質の人なら思うのでは。
そこで「いいの。これは生業だから」で思考停止して、割り切って、生活のために、そういう案件を相変わらず続けるという人も少なくないでしょうし。

良い悪いの問題ではなくて。結果としてどんな生き方をするにしても個々人の自由なんでしょうけど。

「なんで自分はそれをするの?」

というか、

「自分って、何?」

ということは、よっぽどテキトーに生きてない限り、特に年をとればとるほど、考えるようになっていくものなんじゃないでしょうか。

(これも個人的な勝手な憶測ですが、大多数の日本人(の大人)は、『日本すごい!!』という、とにかく満点!最高!という評価を自分のルーツやオリジンに対して付け焼き刃的に、何も調べず考えたりもせずに決めて、それで一件落着ということにして思考停止を正当化している印象があります)

私の場合は作曲の学校で実際に楽曲を創っていく中で、それを痛感しました。

たしかに「いいな」と思ってはいるけれどそこまでマニアというわけでもない、バッハの作風が自分の曲に現れてきてしまう。

CD出せばどんなのでもある程度は売れた90年代に量産された質の悪いJ-POP的な楽曲あるあるなパターン(コード進行)などが、無意識に出てしまう。
(10代の私は、なんだかんだいって、まだインターネットが登場する前の、テレビでの歌番組などで流れる歌謡曲を、べつに主体的にではなくても耳にしていて、それが無意識なうちに自分の中の『音楽性』みたいなものになってしまってたんです。コンビニやファストフード店で目先のジャンクな美味しさにつられて考えもなしに食べ散らかした末にだらしなく太った、の音楽版みたいな)

自分って、何。

今更ながら、何言ってんだと思いつつ、それを具体的に考えざるをえない体験なんですわ。作曲って。
(特に自分の場合、独りよがりに鼻歌でテキトーに作った曲をひとりで弾き語りしてご満悦、といったものではなく、学校にいって先生の指導を受けるスタンスだったので、自分のそうした甘いところ、あるあるなダサいポイントなどをビシバシ指摘されました)

これね、ちょっと前?に、「自分探し(の旅)」みたいな概念、流行ったじゃないですか。
どちらかというと、「イタい人が陥る病的な、勘違いでハマっちゃった残念な落とし穴」みたいなニュアンスで失笑されるイメージで。

で、「そんなこと考えなくていいんだよw」という冷笑というか、そっちのほうが賢い悟りだよという強がったゴリ押しをもってして、結局自分は何なのかわかってもいないくせにいかにも正しい、みたいな驕り高ぶり全開な人の方が「マトモな多数派」ぽく受け取られたりして。

でもね。

自分が何か。

いくつもの深み、意味合いのレイヤーで、いつまでも考えていかないと、自分が誰なのかわからなくなるからテレビなど「みんな」の言うことをアイデンティティにして染まって、なんとなく時代やみんなの空気についていけてるから自分はイケてるはずと思い込んでおしまい、みたいな軽薄な人間で終わるんじゃねえかなー、なんて。
(しつこいようですが、それで幸せ、という人はほんとにそれでいいと思います。あくまでも、自分とは何かをわからないとにっちもさっちもいかない生き方をする人に必要なだけで)

自分探しって、思ったより技術的。テクニカルなものなんじゃないかなと今は思ってます。

口ではなんとでもいえる。

「自分探しをして、自分は〜〜〜だ!とわかった」

みたいなことは、根拠も何もなく、ただ言うだけなら、誰にでもできる。

でもさっきからとことん言ってますが、それが本当かどうかは、絵でも音楽でも芝居の演技でも、あるいは会社員でもいいからその仕事ぶりというか生き様というかでもなんでも、

何かをおこなったとき、言ってる「自分」と、そのおこないに現れる「自分」が一致しているか

で、他人からは丸見えなんです。
(えてして、本人だけが気づいていません)

で、せわしない現代では(←それも、現代が絶対的にそういうものというよりは、勝手にせわしなく生きるしかない自分らの自業自得でそうなってるだけだと思うんですけど)、

かっちりしっかりみっちり自分を知る、なんて悠長なことは、みんなの間では、推奨されない。
(それぞれが、自分の都合のいいように人を使いたくて『そんなことしてないで、さっさとこれをやれよ!』と支配しようとしてくる)

そう考えると、

自分とは何か、を考えることができるのは、ものすごく豊かな贅沢

ともいえるのかな、なんて。

他の人に価値観を押し付けるつもりは毛頭ありませんが、もし、中高年以降も、(ただメシさえ食えてりゃ満足という、動物みたいな人生で終われる段階の人ではないのに)生きていくなら。

自分は何か。

は、大事なんじゃないの、と。

そのために、ルーツというか、オリジンというか。

頭でいくら考えても埒が明かないことを、歴史的事実というかDNAというかに求めるんじゃないか知ら、なんて。

中年になると歴史の勉強たのしいよねー。(←唐突)

今は自分の頭で自分とは何かを考えて整理する自己分析ツールとして、「メモの魔力」なんかも売れてますよねー。

まぁ、なんにしても。

自分は何かなんて全然考えようとも思わず毎日のんべんだらりとでもチャキチャキにでも楽しいなら、アイデンティティだのルーツだのオリジンだのなんて、一切考えなくても毎日ハッピーハッピー!

ですよねぇ〜!!!!!!!

ここ最近願いが続々と叶い始め、 ビジネスのほうも好調に回り始めています。それを支えてくれているのは……、

マルチプルアバンダンス特級「法則使い」を受講いただいた方からの感想いただきました。
本日の「法則使い」の開催、本当にありがとうございました。

直前まで、私以外に受講者が集まるか少し不安で、
「もし今回のリクエスト開催が叶わないなら
それを阻害してる理由をマルチプルで見に行って解消しよう」
と考えていました。笑

結局この願いはちゃんと現実化され、
頭で想像していた以上の果実(学び)を
得られたので、本当に嬉しいです!

今日の「法則使い」は、最中もお伝えしたとおり
ずっと受講を願っていた講座でした。
内容がとても充実していて満足度が高く、
特にシータヒーラーはぜひ受講したほうが良い講座だと思います。
私自身、今日からどんどん使っていきたいです。

そして「真実の法則」と早く対面できるよう、
サイキックに視力も上げていきます。笑笑

今回の「法則使い」の受講と、
ずっと願っていた物件の引き寄せなど
ここ最近願いが続々と叶い始め、
ビジネスのほうも好調に回り始めています。

それを支えてくれているのは、
・マルチプルアバンダンスのプログラムそのものを使うこと
・マルチプルをきっかけに出会えた人々から刺激をいただいたこと
・マルチプルを学んだことでシータと新たな側面から出会え直せたこと
等々ですが、
もっとも大きいきっかけと感じているのは、やはり
「usamimiさんとお会いできたこと」です。

usamimiさんのことは、ずっと以前より存じ上げておりました。
ブログも過去アーカイブを遡って拝読し、
陳腐な表現ですが「めっちゃすごい人」と尊敬していました。
お人柄も好ましく感じていました。
でも、だからこそ近寄り難さを感じ、
自分を見通されることを恐れる勇気のなさなど
usamimiさんにお会いするまでに
クリアするべきものが色々あったんだと思います。

usamimiさんが時々おっしゃる「こんな人には来てほしくない」
というクライアントや受講生の像に、
かつての自分がガッツリ当てはまってます。笑
その当時いろんなブロックが発動して
自分が会いに行かなかったことは
色んな意味で良かったんだな、と思っています。
いまこのタイミングでお会いできて
本当に良かったです。

まだまだこれから、
usamimiさんから学ばせていただきたいことがたくさんあります。
どうぞ、今後ともよろしくお願いいたします。
本日はありがとうございました!

法則使いは、2018年の夏にモンタナに行き、ちょっとやそっとじゃない変化を経験し、力をつけたことにより作成可能になったので作った講座です。

個人的に、ここ5~6年じわじわと、

「謙虚ぶって、したてに出て、丁寧な態度を心がけることで、悪気なく悪徳まみれの人たちから『ちゃん』付けで呼ばれて侮られたり、弱い下っ端みたいな扱いを受けるのは、違うよなぁ」

と思ってはいたのですが、昨年夏のモンタナでは(これも、『ただの勘違いでしょw』という心無いツッコミを確固たる証拠をつきつけて否定することはできないといえばできないのですが)

自分は地球トップレベルに、ある分野ではすごいところまできちゃっている、超・激レア ハイスペック人材なんだなぁ

ということを、認めざるをえない心地になりました。

これ、あえて書いてますけど、べつに普段から
「あたくし、なんたって地球トップクラスのエリートざんすのよ?オーッホッホ」
とかふんぞりかえってるわけではありませんけどね。

自分が備えるに至った力を、その価値を分からない人間が好き勝手に貶めるのを容認したり放任してはいけないな

と思ったんです。

特に霊能者の分野というのは、オリンピックなど権威ある?公式な競技があるわけでもないし、その職能・職業的な価値が公に認められているわけではありません。

どんなにすごい能力を持っているヒーラーだろうと、
「はぁ? インチキでしょw」
で一笑に付されてしまう側面を持っています。

でも、わかる人にはわかるわけですが、ヒーラーや霊能者、サイキックがどのくらい本物か、実力の差といったものは、明確にあるわけですよね。

で、マウンティングの問題もある。

残念なことに、人格的な高みに到達せずとも、サイキックな力だけは一丁前、という人は、ごまんといます。

掃いて捨てるほど。
ごっそり。
山ほど。

そういう人は、一般の人間が使えないサイキックな能力、霊能力を発揮できたことが、なにか魂として優れていて特別だと思い込みがちで(←それはまさに、霊的成長が未熟で悟れず美徳も備わっておらず悪徳や歪んだ思考、エゴイスティックな集合意識に染まっているetcのダメな要因ゆえなのですが)、

「私は、こんなにすごいのよ!!」

といった意地と見栄の張り合いみたいになります。マダムマダム。

そういうことする奴は全員クソ。うんこ。ゴミ箱に入ったチンカスまみれティッシュについた鼻クソみたいなもんです。
あ、それだとクソ。うんこ。ゴミ箱に入ったチンカスまみれティッシュについた鼻クソに失礼ですね(笑顔)。

そういう、クソ。うんこ。ゴミ箱に入ったチンカスまみれティッシュについた鼻クソを相手にして戦うという意味合いではないのですが、

「お前みたいなクソ。うんこ。ゴミ箱に入ったチンカスまみれティッシュについた鼻クソが好き勝手に妄想で貶していいもんじゃねえからな?勘違いすんなよ?クソ。うんこ。ゴミ箱に入ったチンカスまみれティッシュについた鼻クソ」

くらいの凄みはきかせておくのが、自分の持っている力に対する責任でもあるのかなぁ、なんて思うようになりまして。

まぁそんなこんなで第一希望は叶うもので。

ほんとに、お客様の質が上がった。

上がった、というと、以前のお客様たちに失礼だったりするのかもしれませんけど、ここはひとつ、失礼かどうかじゃなくて、素直に認めろやってことで。

だって以前のごっちゃごっちゃのわけわからんレベル&内容の相談しにくるお客様方よりはるかに人間として素晴らしい状態に到達しておられる方々なんです。少しは見習えよ?

まぁ、上か下かは個人的にはどうでもよくて。

心地いい、と感じる人たちだけでセミナーやセッションができている

んですわ。

(ここで、自分を褒めて持ち上げてくれるファン、信者的な人に囲まれていい気になったらオシマイだぞ?みたいなお説教をしようとしてくるお節介な人でてきたりするんですが、言われんでもわかってるから黙って座ってろ)

やっぱりね。
初心者とか未熟な段階、下手くそな有様の人を小馬鹿にしたり見下したりするわけじゃないけれど。

ここまで来られたからわかる、できること……というのが、どの分野にもある
(スピリチュアルヒーリングの分野にも、もちろんある)

わけですよ。

だから、そこまで来られたからこその研究というか実験というか取り組み各種をして、そうしたからこその結果や成果、進歩といったものを打ち出していかないと、という思いで今はいます。

なので。

ヒーラーではありますが、私はもう、

「私ィ、子供の頃からずっとネガティブでぇ、親との関係も悪くてぇ、学校でもいじめられてぇ、勉強もできなくてぇ、運動も苦手でぇ。お金ないと食べていけないからとりあえず派遣社員やってるんですけどォ、ぶっちゃけ会社行くのつらいんですよねェ。だからこれからはぁ、お金がいくらでも入ってきて、ありあまって困る~!みたいになって、毎日を悠々自適に、ラクして生きていきたいんですよォ。どうすればいいですかァ~?」

みたいな路線の相談をしにくる方のために、時間を割くことはできないな、と感じています。

ひとえにヒーラーといっても、取り組んでる領域や目指すもの、何をどうヒーリングするか云々は人それぞれですよね。

「だって!こんなに!困っている人が!いるのに!あなたは!ヒーラーなら!なぜ!助けてくれないんですか!?」

みたいな、こちらの善良ふうな(その実は単に恐怖に負けているだけのせせこましい)心につけこんで脅迫してくるような人の言いなりになるわけねーだろ、と。

で。

何が言いたいかというと。

この感想をくださった方のようなお客様たちに囲まれてお金いっぱい稼ぎながらヒーラー活動がますますうなぎのぼりに発展していって、俺すっげぇ幸せっすぅ~♪

という自慢です。

そんなわけないでしょう、厭ァねぇ。(笑顔)

「お金は多ければ多いほどいい」という“制限ある”思考

お金についてのイシュー(問題)でいうと。

とかく、

「お金は悪いものだ。お金をたくさん稼ぐのは悪いことだ。お金を稼ぐと他の人がその分だけ貧乏になるからよくないetc」

系の、金持ちになる方を否定する、悪く捉える方向性の思考が話題になることが多いです。

が。

だからといって、

お金は多ければ多いほどいい!!

という方向性に突っ走ることをもってして、

お金にまつわる制限ある思考がとれた!!

と舞い上がるのは、いかがなものか、というご提言。

なんでかというと。

足るを知る

ができてないからです。

料理を想定してみてください。

○人分のカレーを作る、となったとき、必要な材料はおのずと決まってきますよね。

でもそこで、「多ければ多いほど良い!」といって、材料をものすごい量、買って仕入れたり、鍋にドバドバとスパイスをひたすら多く入れたらどうなるでしょうか。それでもまだ、「あるにこしたことないから!」と仕入れ続けたり、溢れても何してもまだ鍋にスパイスを入れ続けてる人を見たら、「ちょっと大丈夫?」と思いませんか。

それと同じなんです。

「お金は、できるだけ多くあるに越したことはない」

というのは、大雑把に世渡りのことを一般論としていうなら妥当ではあるでしょう。

でも、本当に底なしに「もっともっと!たくさんあった方がいいから!」という、いわば

餓鬼

として無限にお金を求め続けてしまうのは、

悪徳にほかならない

んです。

そして、たくさんあればあるにこしたことはない、というところで安堵してあぐらをかいてしまうような状態というのはつまり、

無能の証

でもあります。

お金を無限に求めて、多ければ多いほどいいという思考を持ち続けると、満足や達成がありません。
常に欠乏があります。貧しさを引き寄せます。
(そして第一希望は常に叶い続けます。お金はあればあるほど良い、という考えを持っている人の総資産や収入額を聞くと、ウフフ←キモい)

「これについては、これで充分。それ以上は、かけすぎ」という常識や叡智といった美徳の欠乏でもあります。
そして、お金は多ければ多いほどいい、という思考のまま生きていると、どれだけ時間が経っても、転生しようとも、永遠に、そうした常識(common sense)や叡智(wisdom)といった美徳を獲得できずじまい。

(常識は美徳なのか、という疑問あるかと思いますがここ、理屈で説明するとめんどいので機会があれば←波動で知るのが一番手っ取り早いんですよね←そしてブロックある人は『私はぁ、霊感とかぁ、全然なくてぇ、エネルギーを感じるとかぁ、全然ン、できないんですゥ〜(なぜかドヤ顔)』と王道の無敵の返しをしてきて勝利ぶるあるある←お前がいつまでも美徳を知らないで生きてることなんざ、他の人からしたらどうでもよくて、延々と分からないままの自分が一番、つらいし損だ、ということがわかんないんでしょうかね)

そして。

お金について、足るを知るという思考を持っていたら、その思考が想定する上限の金額まで稼いだら収入がストップしてそれ以上、稼げないかというと!

違うんですねェ〜。

無限に稼げちゃう。

「は?なんで?矛盾してない?」

ってのも、お金にまつわる思考が霊的な意味合いも含めて、充分に理解して制限のないものになってない人の、あるある。

そもそもね。

根本から確認しますが、お金というのは、この宇宙が形成されるときの根本原理として組み込まれ初めからあった普遍的なものではありません。

あくまでも、人間が作り出したものです。

近年の電子マネーを見れば多少はイメージつきやすいのではないでしょうか。

それって人間が規定したものですよね。

だから、この世で、人間が神と等しい、現実の創造(&変化を引き起こす)能力を発揮するうえでの根本的なレールには、お金は乗ってないんです。

人間が意図して、宇宙がそれに照応して、物理現実をもたらす。

実際は何かが欲しいと願った人が労働など行動を起こして賃金をもらい、そのお金で欲しいものを買うといったプロセスになるので、詳細に見ていくと確かに途中にお金は介在する場合があります(言うまでもありませんが願い事の種類によってはお金がまったく介在しないで叶っていく場合もたくさんあります)。

でも、それはどこまで突き詰めても、

お金さえあれば願いが叶う

ということが霊的に普遍的な真実に昇華した証拠、などでは断じてないんです。
(これは私個人の意見・主張ではなくて、客観的に『帰結として、そうなるよね』ということを描写しているにすぎません)

はい、この時点で

「????????????? はぁ? なに言ってんだコイツ??????????」

ってなる人もいるのかな。(いたところでどうでもいいけど)



急に現実に戻りますが。

スピリチュアル抜きにして、リアルに実社会の経済の仕組みとして。

お金は多ければ多いほどいい、といって紙幣を多く発行して、世の中にお金がたくさん出回るようになったら、どうなるでしょうか?

って話なわけですわ。

「そりゃ、みんなが潤って、幸せになるんじゃないですか?」

だといいですね〜(笑顔)。

恩恵としての戦争

ツイッターで書いたことをまとめてみます。


天界目線で言うと。

人類の生きる現実社会は、それぞれが様々な波動をアレンジして表す、創造主がいかに偉大かを示す場として創設されています。
だから人類がたくさん、個々人の創造性を働かせて新たな何か、その人ならではの何かを生み出す、考えて感じることが大事なんです。
乳牛の搾乳量的に。

で、なんとなく楽チンだと、人はサボる。
何もしない。だらける。怠ける。

それだと、搾乳量が増えないんです。

だから、戦争や、誤解に基づくすれ違い、その結果起きる喜怒哀楽といった「刺激」を、社会全体にもたらすことで、人は命を輝かせ、何かを主張したり、戦う中で主義を確立したりします。

つまり、ドライな言い方をすれば、戦争やあらゆる誤解、貧困、病気などによる不幸は

それが、人間に何かを生み出させるのに役立つから

生じているにすぎません。

そして輪廻転生システムがバグなく運行されている以上、ある肉体で生きて悲惨な死に方をしても魂としては来世へ行けるから無問題扱い。

これからも、もしそれが役に立つのであれば、戦争でもなんでもいくらでも起きるでしょう。
わけのわからない政治家がトチ狂った政治を行い民衆が戸惑い苦しめられるとか、ブラック企業が横行するなども。

だってそこで影響を被る人間は、そうなりでもされないと何もしないから。鞭打たれ競走馬向け。

この世に生きる人間みんなが、戦争という刺激のみによって活性化される部分をまったく持たなくなれば、つまり意味がなくなるので、戦争は起きません。
そういうこと。

裏を返せば、その刺激がないと輝けない段階の人間が一定数以上いれば、局所的にでも全世界的にでも、いくらでも戦争は起こります。

短期的に日本を見れば、高度成長期とされる時期や、その後にバブルと呼ばれる狂乱?の時期にせよ、そこで没頭してみんながバリバリやってるときは、つまり乳牛の搾乳が順調だったので、戦争という刺激は必要ありませんでした。
が、21世紀になり、なんとなく発展し尽くし、大人もヒマになり、だらけ。

以前ほど切実に命がけで人々が何かに向かって、あるいは何かに没入して生きることがなくなった。

無理しないでいいよ、ラクになろうよというのが、以前よりも命のエネルギーの発露を低くする意味合いで多くの人の間に広まった。

ここでうまく、心や体を酷使はしないけど魂として輝く方に行けた人はOK

問題は、余裕ができた分、だらけるだけになった人の方。

宇宙の今の仕組みは、完璧なので、何かが余ることを許容しない。

だから、だらけた人が、何か感じたりして命を輝かせるために刺激を用意する。(そしてそれはほかならぬ、だらけた人たちの内なる神としての願い。誰かが罰するわけじゃない)

何も戦争や、そこに向かっていくキナ臭い情勢である必要はない。

例えばほんとにみんながユーチューバーだかなんだかに没頭して一大マーケットを創出し、金でもなんでもそこで回せるでしょとなれば、社会の仕組み自体がおのずとそこに合わせたり助成したりする流れになる。

霊的成長も現世の経済も◯

だけど、そうじゃないと。

あくまでも、誰かから怒られたり、このままじゃやばいという生存の危機を感じたりでもしないと、何も本気ではしないとなると。

「ダメな私を叱ってくれる、恐いものが必要。だらけないように私をビシッと根性叩きなおして!」

とその人の深い部分が思い、黙示録の騎士が。

かくて、戦争、疫病、貧困といった王道の刺激が、堕落しかけた人類に喝を入れに来るわけです。

うまくできてるでしょオー?

そして今。

ディセンションした世界で堕落しかけた幼稚な人類はまた、そんな自分たちを叩きなおしてくれる強い刺激を求め始めている。

みんなの第一希望の願いは必ず叶う。

ふぅ〜ん、って感じね。